ブログ

ほごログ

【今年もよろしくお願いいたします】今日は何の日

あけましておめでとうございます。本年もかわりなく「ほごログ」、そして春日部市の文化財行政と郷土資料館のお引き立てのほどよろしくお願いいたします。新年一発目の一月一日の今日は、春日部でどんな出来事があったのか、紹介してみたいと思います。

今からちょうど50年前の昭和46年(1971)1月1日は、旧春日部市の市民憲章が制定されました。当時の市民憲章と、市役所から春日部駅西口の風景を撮影したなつかしい写真がありましたので、掲出してみます。

写真:昭和46年春日部駅西口

市民憲章は、よりよいまちづくりへの関心を高めるために、昭和30年代頃から各市町村で制定されていきました。各自治体の市民自らが知恵を結集させ、自分たちのまちを自分たちによって住みよいすばらしいまちにしていくため、まちづくりへの願いやまちへの理想像、それに向けた行動目標、努力目標、決まり事などを掲げる目的があります(「春日部市市民憲章市民会議News Letter」1)。改めて、旧市民憲章を読むと、「公害」「清潔」「交通道徳」など、現在ではあまり使われないキーワードが掲げられ、当時の行政や住民のモラルに何が求められていたがうかがえます。背景となる写真は、実は以前も紹介したものですが、のちに春日部市の「中央」として開発されていく、のどかな「字馬草場」の風景をカラー写真で記録している貴重な資料でもあります。

ちなみに、旧庄和町では、昭和56年(1981)3月19日に町民憲章が制定されています(以下の通り)。

朝日にまちなみが光輝くとき————それは、幸多い1日のはじまりです。
庄和をふるさととする私たちは、人の心を信じ、だれもが夢と希望に満ちた朝を迎えられるよう、明日の町づくりの願いを込めて、この憲章を定めます。
1 私たちは、互いに心をふれあい、助けあい、そして励ましあい、共に生きる連帯感を育てます。
1 私たちは、澄んだ青空、さわやかな緑、そしてきれいな水を愛し、自然と環境を守ります。
1 私たちは、教育、スポーツ、そして香り高い文化を尊重し、豊かな教養を身につけ健康に心がけます。
1 私たちは、お年寄り、子供たち、そしてからだの不自由な方々をいたわり、思いやりの心を大切にします。
1 私たちは、実りある労働、やすらぎのある生活、そしてすべての人々の平和を願い明るい未来を築きます。

同日、町の花「ショウブ」、町の木「モクセイ」も制定されました。旧庄和町の町民憲章で特記すべきことは、昭和61年(1986)12月に町民憲章の歌が制作されたことです。町民憲章を歌にしたことは当時、全国で初めてのことだったそうです(広報しょうわ№280)。春日部のご当地ソングについてはこちら。

ところで、本日も市民憲章にゆかりのある日です。令和3年1月1日は、新たな春日部市民憲章の制定日です。春日部市制15周年を迎えた今年度、新市となった春日部市においても、市民の連帯感やまちに対する愛着、誇りを深め、「住んで良かった」と思えるまちを実現するため、市民共通の道しるべとして新たに制定されました。前の旧春日部市の市民憲章が制定されてからちょど50年となります。過去の市民(町民)憲章、新たな市民憲章を比べると、時代背景やキーワードは違えども、わがまちを愛し、よりよくしていこうという、意気込み・主旨は変わりません。年新たに、新たな市民憲章のもと、皆さまも地元春日部でステイ・ホームタウン、身近な家族とステイ・ホームでお過ごしください。

画像:30周年記念バッチ

年末より繰り返しお知らせしておりますが、当館、新型コロナウイルスの影響により、新年1月17日(火)まで臨時休館となっております。皆様にはご不便をおかけしますが、本年も変わらず、文化財行政・郷土資料館のお引き立ての程よろしくお願いもうしあげます。

【臨時休館】令和3年1月5日(火)から1月17日(日)休館します

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火)から1月17日(日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。なお、1月4日(月)、1月18日(月)は通常の休館日です。

休館中は、展示室にご入館いただけません。今後の新型コロナウイルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を延長する場合があります。

ご迷惑をお掛けいたしますが、ご理解、ご協力をお願いします。

【延期】12月26日考古学講座を延期します

12月26日(土)に予定しておりました考古学講座「権現山遺跡を探る」ですが、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため延期することといたしましたので、以下の通り、お知らせします。

 

考古学講座「権現山遺跡を探る」

日程 12月26日(土)→【延期】3月28日(日)

時間 午前10時から12時

本日までにすでにお申し込みの方につきましは、3月28日もお申込みいただいているものとして取り扱います。

考古学講座のご案内(日程は3月28日です。ご注意ください)

武里のオリジナルソング(広報補足・その8・最終回)

いよいよ、広報かすかべ10月特集号の補足も最終回です。今回は、 #武里 の #オリジナルソング #たけさと音頭 について。 #かすかべプラスワン

今年はコロナウィルスの影響で軒並み中止になってしまいましたが、近年、春日部市では「かすかべ音楽祭」や「ブラスジャンボリー」など、音楽のイベントが定着しつつあり、「音楽のまち春日部」とも称されています。しかし、そうした「歌や音楽で盛り上がろう!地域で一つになろう!」という取り組みは、実は最近の始まったものではありません。

「春日部のご当地ソング」ともいえる歌は、世に知られているだけでも19曲もあります(『春日部の歌と歩み』による)。以下、曲名・発表年を時代順に列挙します。

粕壁小唄 昭和7年(1932)以前/和楽音頭 昭和13年(1938)以前/春日部音頭 昭和25年(1950)/幸松音頭 昭和29年(1954)/新春日部音頭 昭和31年(1956)/古利根しぐれ 昭和31年(1956)/大凧音頭 昭和36年(1961)/たけさと音頭 昭和50年(1975)/小渕音頭 昭和52年(1977)/小渕小唄 昭和52年(1977)/庄和音頭 昭和55年(1980)/春日部藤音頭 昭和57年(1982)/春日部踊り 昭和60年(1985)/庄和町・町民憲章の歌 昭和61年(1986)/新大凧音頭 昭和61年(1986)/春日部サンバ 平成元年(1998)/庄和大凧ばやし 平成2年(1990)/心の空 平成27年(2015)

以前紹介した「春日部藤音頭」、大凧あげ祭りで流れる「新大凧音頭」、チェリッシュでおなじみの「春日部サンバ」、夏祭りで披露される「新春日部音頭」「古利根しぐれ」、夕刻のチャイムで流れる「心の空」など、おなじみの歌も多い一方、今では音源を入手できない歌もあります。それぞれの歌や制作の経緯や背景については、ふれあい大学34期生桐組6班の皆さんが執筆・編集された『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)に詳しく述べられています。

さて、このなかで、ひと際異彩を放つのが「たけさと音頭」です。「たけさと音頭」は、昭和50年(1975)武里団地入居10周年を記念して「団地の子どもたちに、ふるさと感覚を」としてつくられました(※広報では昭和52年としましたが、正しくは昭和50年のようです)。歌詞の作詞は、団地の住民に募りました。十数篇の応募があり、入選したのは文筆家の高木圀夫氏。氏は著書『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)のなかで次のように述懐しています。

「私の地元が子供たちにふるさと感覚を持たせる一つのアイデアとして祭り用の音頭を募集していたのであった。(略)なにげなしに原稿用紙の端に言葉を並べてみた。それが入選したのだ。考えられなかった。」

高木氏によれば、詞は決まったものの、作曲が問題となり、高木氏が高木東六の甥であることから、地元の人たちに取り次ぎを懇願され、高木東六が作曲をすることになったそうです。高木東六は、高名なピアニスト・作曲家で、TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてもおなじみでした。「たけさと音頭」は、オペラの作曲家がつくった唯一の民謡として生まれたのです。お披露目となったのは昭和50年(1975)8月1日、大場小学校体育館でたけさと音頭発表会が開催されました。当時の県知事も招待されたそうです。貴重な写真が武里団地の自治会報「たけさと」111号に掲載されています。

 写真:たけさと音頭発表会

異彩を放つのは、高木東六作曲だからではありません。上にあげた春日部のご当地ソングには、古利根川・江戸川・藤の花・大凧揚げなど、春日部を象徴する風景などが歌詞に織り込まれています。しかし、「たけさと音頭」には「郷土」を感じられるワードはわずかに「藤の花びら」だけです。『春日部の歌と歩み』では「「春日部」や「武里」といった地名が一切出てこず、「ふるさと音頭」とうたっているのが地域の歌としてはとてもユニークです」と的確に評しています。

曲ができた当時、春日部市はベッドタウンして人口が激増していた時代でした。武里団地は市のベッドタウン化の先駆けともなった地区です。そうした武里団地発の「たけさと音頭」の歌詞は、子どもたちになじみやすい言葉でつづられ、よく言えば「ユニーク」ですが、土臭さ、泥臭ささのような「郷土」的な個性がないように感じます。その理由はおそらく、それぞれ異なる「郷土」をもつ住民(親世代)たちが、新たな「ふるさと」を想像し、制作されたからではないでしょうか。「武里団地夏祭り」、そしてその場で流されてきた「たけさと音頭」(盆踊り)は、ベッドタウン化した春日部らしいイベント・ご当地ソングといえるのかもしれません。 

昭和49年武里団地夏祭り

ただ、残念なことに、郷土資料館では「たけさと音頭」のレコードを入手できておりません。春日部の現代史資料として極めて貴重だと思います。お持ちの方はご一報いただけると幸いです。

 

以上、市制15周年を機に、8回にわたり市内八地区の身近な歴史ネタを紹介させていただきました。それぞれの歴史はそれぞれ人の思いやさまざまな経緯が折り重なり、紡がれてきたものです。そうしたことをもう一度顧みることで、新たな「春日部らしさ」=まちの良さに気付き、そして春日部が歩む未来がみえてくるのではないでしょうか。

参考文献 ふれあい大学34期生桐組6班『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)、高木圀夫『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)

軍需工場・時計工場のまち南桜井(広報補足その7)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #南桜井駅 北側にあった #軍需工場 について。 #かすかべプラスワン

庄和地域の玄関口、南桜井駅。現在は市街地化され、駅前はにぎわっています。実は、南桜井駅周辺の市街地化のきっかけは、昭和戦中の軍需工場の疎開に求められます。
昭和18年夏ごろ、精工舎は東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう、伝達を受け、同19年3月より東京太平町の工場の一部の疎開を開始します。精工舎とは、東洋の時計王ともよばれた服部金太郎が創業した服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の製造・開発部門です。
昭和18年12月までに、南桜井村大字金野井、大字大衾、川辺村大字米島、大字新宿新田に、約6万坪の工場、約9万坪の厚生施設の敷地が強制買収されました。
当時の南桜井駅近辺はうっそうとした森で、松林などが生い茂り、「大衾山」、あるいは「オバケの森」とよばれていたそうです。こうした森林を敷地にするため、南桜井や周辺の青年団や粕壁中学校(現県立春日部高校)の生徒などが勤労奉仕として木の根堀りや建材の運搬作業に動員されました。なかには、大きな木は素人になかなか切れないので、シャリキとよばれる職人が大勢雇われ、木を切ったそうです。

この軍需工場は、服部時計店南桜井工場と命名され、昭和18年11月6日に資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅に貨物専用の米島仮停車場が設置され、その北側隣接地に工場・男子寄宿舎、南側に女子寄宿舎、武州川辺駅の南側に社宅が建設されました。当時、南桜井村の人口は3625人、川辺村は2424人(いずれも昭和15年国勢調査)でしたが、南桜井工場の疎開によって、3000人以上ともいわれる人が移住してきましたので、敷地内には医務室(診療所・病棟)や学校(私立服部南桜井青年学校)両村は景観も住民構成も大きくかわることになりました。

南桜井工場で製造されたのは、高射砲の弾丸の頭につけ爆発を誘発する部品で、45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管でした。高スピード、高回転のなかで正確に動かなければならないので時計製作よりも高い技術が必要だったといわれています。工場がフルに操業を開始したのは昭和19年10月で、最初の製品が完成したのは昭和20年1月のことといわれています。

また、昭和20年5月には、同年3月・4月の東京大空襲で被害を受けた東京第一陸軍造兵廠の第三製造所が、南桜井工場の北部の未利用地に疎開しました。精工舎の南桜井工場と混同を防ぐため江戸川工場と名付けられました。江戸川工場は軍直属の官営工場で、風船爆弾の信管を製造しました。

終戦となり、軍需工場は操業をとりやめ、閉鎖されます。南桜井工場はおよそ1年弱、江戸川工場は3か月半で幕を閉じることになりました。その後、工場の建物25万坪、機械2000台は大蔵省の管理下におかれましたが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと全国農業会の支援を後ろ盾に施設設備は転用され、昭和21年3月28日に株式会社農村時計製作所が発足します。農村時計では、目覚まし時計などを製造していましたが、品質はあまり良くなかったといわれます。経営難のためからバリカンや地震計の製造もしたこともありました。しかし、戦後の経済政策もあり、農村時計は昭和25年10月に事業を停止します。
農村時計の末期、順調な売れ行きをみせていた「リズム」という商標の時計がありました。昭和25年11月3日、この商標を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足し、農村時計の事業は継承されることになります。南桜井駅周辺は、平成9年(1997)年9月に工場が東京都墨田区に移転するまで、リズム時計の南桜井工場とともに戦後を歩んでいくことになりました。
リズム時計の工場はご記憶がある方も多いのではないでしょうか。写真も残っています。

写真:昭和49年南桜井駅と北側のリズム時計工場

昭和49年(1974)南桜井駅と北側のリズム時計工場

写真:昭和49年南桜井駅南側

昭和49年(1974)リズム時計工場からみた南桜井駅の南側

南桜井駅周辺は、その後ショッピングモールや住宅地として再開発され、軍需工場や時計工場の面影はほとんど残っていません。しかし、青年学校の跡地には葛飾中学校(のち移転。現桜川小学校)、医務室の跡地には子供の町として利用されるなど、道路・住宅の区画などは軍需工場以来の名残りがあります。また、ショッピングモールの敷地内に、リズム時計の創業地の記念時計塔が立てられています(シティーセールス広報課撮影)。

写真:南桜井の時計塔

昭和時代の南桜井駅周辺は軍需工場・時計工場とともに歩んできたといっても過言ではありません。ですが、終戦のときに関係資料が廃棄されてしまったため、戦中の軍需工場・時計工場については資料が少なく、詳しくわからない部分が多いのです。今回、気の利いた図版がないのもそのためです。

平成のはじめ、県立庄和高校地理歴史研究部は、資料が少ないなかで、地域住民の方々、関係者の方々に聞き取りをするなど丹念に調査をし、上述したことを明らかにしています。その成果は『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』という私家版にまとめられています。今から30年前だから聞けた話がふんだんに詰め込まれ、南桜井の歴史を知るうえで必読の書です。

長文になってしまいましたが、庄和高校のみなさんが明らかにされたことは、上のことにとどまりません。入手困難な図書なのですが、『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』も合わせてご覧いただけると幸いです。

次回は最終回です。クライマックスは、武里地区の「たけさと音頭」について。

参考文献 庄和高等学校地理歴史研究部『むかし庄和町に軍需工場があった』(1991年)、同『賀川豊彦と農村時計』(1991年)、同『南桜井村戦後史』(1989年)、『春日部市史 庄和地域 近代・現代』(春日部市、2013年)
     

郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました

令和2年12月13日(日)に、郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました。

毎年12月に開催しているしめ縄作り、本年はマスクの着用をお願いしたうえで、多く方にご参加いただきました!

体験講座しめ縄作り

 

まず半紙を使って紙垂(しで)を作り、その後しめ縄を作成しました。

しめ縄編み込み作業風景

しめ縄作りは意外と力のいる作業です。

「汗が出てきた!」とおっしゃる方もいたほど!

ですが、皆さん協力しながら頑張って作ってくださいました。

 

しめ縄仕上げ風景

丹精込めて編み上げ、立派なしめ縄ができました!

 

お帰りの際には「来てよかった」「また来年も来たい」というお言葉もいただきました。

楽しんでいただけたようで何よりです!

 

郷土資料館では、今後も感染防止策を徹底しながら講座などの企画を行っていく予定です。

広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!

 

12/26(土)「考古学講座ー権現山遺跡を探る」

12月号の広報かすかべでお知らせしました「考古学講座ー権現山遺跡を探る」につきましては、多くの方にご応募いただき、本日で当初定員の24名に達してしまいましたので、会場を変更し、定員を増やします。日程等については下記のとおりです。

日時:令和2年12月26日(土)10時から12時

場所:春日部市教育センター(粕壁東3-2-15)2階視聴覚ホール

内容:東中野の古墳時代の遺跡「権現山遺跡」について埋蔵文化財発掘調査報告書などを使って学ぶ

定員:54名(申込順)

申込:春日部市郷土資料館に直接、またはお電話(048-763-2455)でお申し込みください。

*12月10日から申込を受け付け、11日午前11:00現在、26名の方にお申し込みいただいております。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器

権現山遺跡出土底部穿孔壺形土器

(埼玉県指定文化財、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で常設展示中)

 

権現山遺跡については、こちらの記事もご参照ください。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器『新編図録春日部の歴史』からーその8

 

暮れの押し迫った時期の開催ですが、大掃除の合間などにぜひご来館いただければ幸いです。

 

【12/8~12/12武里地区公民館出張展示】一ノ割から武里の流路跡と自然堤防

12月8日(火)~12日(土)、武里地区公民館の会場をお借りして「武里のむかし・春日部のむかし」と題し、出張展示を行います。

概要は以下の通りです。

郷土資料館出張展示「武里のむかし・春日部のむかし」

日時:令和2年12月8日(火)~12日(土)9時~17時

*最終日の12日(土)は14時まで

会場:武里地区公民館3階研修室2

*12月10日(木)、10時と15時から、資料館学芸員が展示解説を行います。(先着15名様)

◎期間中、武里地区公民館は「たけさとBunkaウィーク」が開催され、各種行事が行われます。

武里地区公民館ブログ から、パンフレットなどをご確認ください。

 

さて、出張展示の会場となる武里地区公民館の北西側の道は、一ノ割駅南側から武里駅北側まで続く自然堤防に沿って走っています。

武里地区公民館北西の道路

武里地区公民館北西の道路 

国土地理院発行の治水地形分類図をみると、この道の西~南側には、古利根川がかつて大きくカーブしながら流れた流路跡の存在がわかります。

 治水地形分類図

国土地理院発行の治水地形分類図(更新版)に加筆

青の斜線部分が流路跡、黄色の部分が自然堤防

(*治水地形分類図は、「地理院地図(https://maps.gsi.go.jp)」からインターネット上で確認できます。)

一ノ割から武里に続く流路跡や自然堤防は、実際にその地形の現地を歩いてみると、道路がわずかな坂道となっていたりすることでわかります。今回の武里地区公民館の展示では、この流路跡と自然堤防についてのパネルも用意して、皆様にご紹介します。

どうぞ、ご来場ください。

 

武里地区公民館西側の道路

武里地区公民館西側の道路(写真中央が流路で武里地区公民館方面へ向かってわずかな坂になっている)

 

豊野・藤塚橋は歴史ある橋(広報補足その6)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #古利根川 に架かる #藤塚橋 について。 #かすかべプラスワン

藤塚橋の架橋が計画されたのは、昭和6年(1931)11月のこと。大正15年(1926・昭和元年)10月に一ノ割駅が開業し、駅と豊野村を結ぶ架橋の要望が高まったことが直接の背景でした。昭和8年(1933)5月8日に架設されます。

藤塚橋は、木造の橋で、幅は3.63mしかなく、当然大型の車両は通行できませんでした。当時の貴重な写真が伝わっています(藤塚小郷土資料室所蔵)。

 写真:昭和17~18年藤塚橋

昭和17~18年藤塚橋

写真:昭和25年ごろ藤塚橋

昭和25年ごろ藤塚橋

 

藤塚橋は当時、賃取橋(ちんとりばし)といって、有料の橋でした。現代的な感覚では、橋を渡るのに、なぜお金がかかるのか、と思いますが、当時は橋は地元の人たちが私費を投じて架橋した公共物でないものが多く、橋の維持管理費を賄うため、通行料を徴収する必要がありました。

その後、藤塚橋は、昭和29年(1954)の市制施行のときに春日部市に買収され、公共物となり、無料で渡れる橋となり、昭和40年(1965)にコンクリート製の橋に架け替えられ、現在に至ります。昭和40年の渡り初めの時の写真がこちらです。ちなみに、藤塚橋のたもとには、昭和40年の架け替えを記念し、橋の由来を刻んだ石碑が建てられています。

写真:藤塚橋開通

橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。

市内を見渡すと、江戸川・庄内古川・古利根川・古隅田川のいずれにも、もともとは渡船場で、その後継として橋が架けられる例が散見されます。以前紹介した、江戸川の宝橋(西宝珠花ー東宝珠花・宝珠花の渡し)のほか、古隅田川の十文橋(粕壁ー梅田・十文渡し)、古利根川の八幡橋(粕壁ー八丁目)、古利根川橋(赤沼ー平方・戸崎の渡し)、庄内古川の永沼橋(藤塚ー永沼・永沼の渡し)、倉田橋(赤沼ー赤崎・倉田の渡し)などです。このほか、古くからの橋も元々渡河点だった可能性があります。

車優先社会の現代にあっては、交通渋滞を緩和させるため、幹線道路が整備され、いとも簡単に新たな橋が架けられ、私たちは橋に対してありがたみをあまり感じることが少なくなっています。藤塚橋を含め、現在も残る歴史ある橋は、河川で地理的に隔てられた両岸の人々の交流の結節点=渡船場の後継として架橋されたものといえるでしょう。地元の方々が架橋や維持に苦心され、両岸の人々をつないできた歴史ある橋であることを知れば、少々渋滞してもイライラしないかもしれません。

次回は、南桜井の時計工場について紹介します。

参考文献 『歴史の道調査報告書 利根川の水運』(埼玉県教育委員会、1989年)

【常設展示変更】神明貝塚組合せ土器ほかの展示を変更しました。

郷土資料館の神明貝塚展示コーナーでは、神明貝塚から出土した「ヒスイ製丸玉」、「貝輪」、「土偶」と市指定文化財の「堀之内式組合せ土器」を展示しております。

このたび、これらの展示品が、行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館で12月12日(土)から行われる「最新出土品展ー地中からのメッセージ」にて展示されることになりました。展示の概要は下記の通りです。ぜひお出かけください。

<令和2年度最新出土品展ー地中からのメッセージ>

日時:令和2年12月12日(土)~令和3年2月7日(日)

会場:さきたま史跡の博物館(行田市埼玉4834、048-559-1111)

開館時間:午前9時~午後4時30分(入館は4時まで)

休館日:月曜日(祝日、振替休日を除く)、12月29日~1月3日

埼玉県立さきたま史跡の博物館サイト

 

さて、貸出しに伴い、神明貝塚の展示ケースの展示品の一部を入れかえ、お馴染みの縄文時代、江戸時代の人骨とともに、写真の神明貝塚出土の鉢形土器を展示しました。

この鉢形土器は、昭和36年(1961年)、埼玉県立浦和第一女子高校の郷土研究部の調査で出土したものです。

口径(口の直径)が約24㎝、高さが17㎝、口の部分に突起がつき、胴の部分は、縄文の上に棒のような道具でレンズ状の文様を描いています。組合せ土器と同様、神明貝塚で多く出土する堀之内式に分類されます。

郷土資料館ご来館の際は、ぜひご覧ください。

神明貝塚鉢形土器

粕壁・大池のひみつ(広報補足その5)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #釣り堀 だった #粕壁 地区の #大池 について。 #かすかべプラスワン

広報誌では次のように紹介しました。

大池に観光客が殺到!?

昭和34年、東武鉄道株式会社に粕壁の大池(現大池親水公園)を貸し出し、つりの家が新築されました。つりの家は、その名の通り、東武鉄道が運営する釣り堀で、池には桟橋が架けられ、釣り客でにぎわいました。

 

大池は、記録の上では、少なくとも江戸時代から存在していた池です。大池の東側を南北に通る「大池通り」は、江戸時代には「蝦夷堤」(「江曽堤」・えそつつみ・えぞつつみ)と呼ばれた堤防と認識され、古来の古利根川の堤防と考えられています。大池の起源は、洪水時にこの堤防が切れ、できた水たまり(押堀・オッポリ)であると考えられ、古利根川が現在の河道になる以前(近世以前)に成立したと考えられます。次の江戸時代中期、安永3年(1774)の絵図写は、大池を描いた最古の資料です。

画像:大池 安永絵図

粕壁(宿)には、大池のほかに、赤堀池(現コミュニティーセンター敷地内)、二ツ池(浜川戸の鹿島池・金池、現存しない)と呼ばれた池がありました。大池は、これらの池のなかでもひときわ大きな池だったので「大池」と名付けられたのでしょう。天明6年(1786)の大洪水のときには、岸の柳に大蛇がいた、という逸話もあり、池のほとりには水神様が祀られています。

大池は、昭和8年(1932)「粕壁町地図」などにも、池沼として描かれています。池の周囲に水路があり、排水や遊水地として利用されていたものとみられます。

写真:昭和8年大池

 

戦後の空中写真(昭和24年。空中写真は国土地理院提供、以下同じ)でも、なんの変哲もない池であることがみてとれます。

写真:昭和24年空中写真

しかし、大池史上、大きな転機となったのが、冒頭に触れた、東武鉄道による大池つりの家建設。池のほとりに「つりの家」を建設し、大池は釣り堀施設として利用されることになりました。昭和41年(1966)のつりの家の写真がこちらです。

写真:昭和41年つりの家 写真:昭和50年空中写真

池のなかに桟橋をかけ、釣り客が釣りを楽しめるようにしていたようです(昭和50年空中写真)。

昭和40年ごろ製作されたと考えられる春日部市のパンフレットにも「観光」スポットとして大池つりの家が紹介されています。

画像:パンフ表紙写真:春日部市パンフレット

このパンフレットをみると、古利根川の花火大会、市内の神社仏閣に並んで大池つりの家が紹介されています。パンフレットの表紙も、藤、桐箪笥、麦わら帽子にならんで、釣りのイメージが描かれています。東武鉄道は、鉄道利用者を増やすために沿線に観光スポットを造り、大池を釣り堀として整備したのでしょう。当時、釣りは春日部市を代表する観光の目玉として押し上げられていったと考えられます。

画像:パンフレット拡大

写真:大池つりの家

その後、春日部市では宅地化がすすみ、人口が増えていきました。昭和50年ごろから、釣り堀以前は大池に落とされていた排水が、線路沿いや大池のまわりに溜まり、悪臭をはなっていると問題視されるようになっていきました。また、昭和50年代後半には、つりの家の管理者が不在になり、荒廃していると報告され、東武鉄道から早期に返還して、市民憩いの場にとの声が高まっていきました。

昭和63年の空中写真をみると、

写真:昭和63年空中写真

昭和末年には桟橋が取り外され、現状復帰されていったものとみられます。

そして、平成2年(1990)4月、大池憩いの家がオープンします。現在は、珍しい野鳥も訪れる市民憩いの場として利用されています。池での釣りは禁止されています。 

詳しい資料がなく、釣りの家の時代・市に返還されるまでの過程がよくわかりませんが、釣り客でにぎわったのは、昭和30~40年代にかけての短い期間だったと考えられます。おそらく、春日部のベッドタウン化・宅地開発の波にのみこまれていったのではないでしょうか。

次回は、豊野・藤塚橋の話題です。

緑小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

 

令和2年11月20日(金)に緑小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

 

学芸員から昔の暮らしや道具について説明を受けていると、児童が「これに載ってた!」と言って開いたものが「たんけんシート」。

これは郷土資料館から市内の小学校3年生あてに配布したもので、事前によく見てきてくれたようです。

 緑小学校館内見学写真

見たことはあっても、名前を知らない昔の道具たち。今日は名前も覚えていきましょう!

 

緑小学校竪穴式住居見学写真

自由見学の時間に竪穴式住居の前にいた児童からは

「よく見るとイノシシの皮だ!」と、人物の下に敷いてある物が何の動物かまで気が付きました。

見るだけでなく、“観察する目”が育ってきていますね♪

 

緑小学校体験コーナー写真

昔のおもちゃコーナーでは、紙鉄砲でいい音を鳴らす児童からは

「ストレス解消になった!」という言葉も(笑)

 

とっても元気で、反応が豊かな緑小学校3年生でした!

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。

感染拡大防止策を徹底しながらお待ちしておりますので、皆様もストレス解消にぜひご来館ください。

 

 

郷土資料館体験ワークショップを開催しました

令和2年11月14日(土)に、郷土資料館体験ワークショップ「パタパタをつくろう」を開催しました。

 

まずは蓄音機でレコード鑑賞をしました。基本的にワークショップの時限定で使用しているこの蓄音機。今年度初お披露目です♪

体験ワークショップ蓄音機写真

回転の速さによって高くなったり、低くなったりする音を聴いてとても楽しそうでした。

 

昔のおもちゃづくりでは「パタパタ」を作りました。

作り方が少し難しいおもちゃですが、職員の話をよく聞いて、みんな上手に作れていました。

体験ワークショップおもちゃ制作写真

1週間前から今日を楽しみにしていたとのことで、職員一同感激です♪

 

最後は記念の缶バッジづくり。

体験ワークショップ缶バッジ制作写真

今日のために用意したオリジナル缶バッジ作り体験も大変好評でした!

 

郷土資料館では、今後も感染防止策を徹底しながら講座などの企画を行っていく予定です。

次回の体験ワークショップは令和3年1月24日(日)に開催予定です。広報誌等でお知らせもいたしますので、ぜひご確認ください。

おもちゃは紙鉄砲とぴょんぴょんカエルを作るのでお楽しみに!

 

【常設展】須釜遺跡出土土器を展示替えしました

郷土資料館常設展示の弥生時代のコーナーでは、須釜遺跡の再葬墓から出土した弥生時代中期(約2,000年前)の土器を展示しています。

須釜遺跡の概要についてはこちら→須釜遺跡再葬墓出土遺物一括-指定文化財でめぐる春日部

これまでは、遺跡発見のきっかけとなった1号再葬墓の土器を展示していましたが、このたび4号再葬墓から出土した土器に展示替えしました。

4号再葬墓は、須釜遺跡でも変わった再葬墓で、ほかの再葬墓では複数の土器が1つの穴から出土したのに対し、4号再葬墓では、今回展示する土器、1つだけが出土しました。

出土した土器は壺形で、やや高い位置に最大径をもつプロポーションがとても整った土器です。胴の部分には、縄文をつけた上に、棒の先のようなもので、花のように、円から四方向に楕円形がのびるモチーフが4つみられます。

底には穴があけられ(底部穿孔:ていぶせんこう)、墓に使う土器として、日常の土器とは区別されました。さらに、割れた部分を再度つなげるために使う穴(補修孔:ほしゅうこう)もみられます。

土器の表面には籾(もみ)がはりついていたあと(籾圧痕:もみあっこん)があります。(展示では籾圧痕の部分にシールを貼っています。)

制作途中の弥生土器の表面に籾がつき、土器を焼いた後にそれが圧痕として残ることは、考古学では古くから知られていました。近年、圧痕と思われる穴にシリコンを入れ型どりしたレプリカを作成し、それを電子顕微鏡で観察することにより、何によってできた穴かを調べる「レプリカ法」が考古学でも積極的に使われています。レプリカ法により籾だけでなく、植物の種、茎など、さまざまなものが土器に圧痕として形を残していることがわかってきています。

須釜遺跡では、4号再葬墓の土器のほかにも籾や玄米の圧痕が残された土器が6個体出土しており、弥生時代の春日部には、確実に米が存在していたことを示しています。

ぜひご来館いただき、実物をお確かめください。

4号再葬墓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4号再葬墓出土状況

4号再葬墓出土土器底

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器の底の穴(底部穿孔)

4号再葬墓出土土器籾圧痕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器表面の籾のあと(籾圧痕)

4号再葬墓出土土器

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器

 

 

緑小学校で出張授業を行いました

11月7日(土)に緑小学校の6年生を対象に縄文体験教室の出張授業を行いました。約3か月ぶりの出張授業は、土曜授業の日となりました。

子どもたちによると、社会科の授業は江戸時代の徳川家光の頃まで進んでいるとのことで、縄文時代がどんな時代だったかと聞いてみるも、苦笑いで答えに詰まる様子もあり、授業での印象も遠のいていたようにも感じられました。

授業の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲春日部市内にも縄文時代の遺跡があることを知り、真剣に授業を受けてくれました

石器体験の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

▲石器のコーナーでは切れ味の体験だけでなく、石器の原料となる石材がどこからやってきたのか学びます。遠いところとの交易によってもたらされたものと知り、驚く様子もみられました。

 

子どもたちも授業が終わるころには、だんだんと縄文時代について学んだことを思い出した様子で、問いかけにも応じてくれました。本日のように平日だけでなく土曜授業の場合でも出張授業に対応しますので、ご依頼お待ちしています。

花積って思いのほか有名な地名です(広報補足その4)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #考古学 をかじった人は必ず知っている「花積」の #縄文土器 について。 #かすかべプラスワン

 

広報の記事では、次のように紹介しました。

花積って有名な地名

花積は、考古学をかじった人は必ずしっている地名です。なぜなら花積下層式土器という「花積」の地名がつけられた今から約7千年前の土器の型式になっているからです。

花積には貝塚があり、周辺に比べて小高いため、東京湾が春日部まで広がっていた時代に陸地だったことが実感できます。

 

花積には、花積貝塚という、県内では数少なく、学術上欠くことのできない縄文時代の貝塚が所在します。なぜ学術上欠くことができないのか。それは、花積下層式土器(はなづみかそうしきどき)の標式遺跡だからです。標式とは、聞きなれない言葉ですが、考古学で一つの型式を的確に示すことのできる典型的な遺跡・遺物を指すものです。考古学上、花積下層式土器という土器の型式を決定づけた遺跡ということです。

花積貝塚は、明治時代中頃には既に貝塚として知られていましたが、広く知られるようになったのは、昭和3年の大山史前学研究所による発掘以後になります。大山史前学研究所は、軍人であり考古学者でもある公爵・大山柏が邸宅内に設置した遺跡の調査研究機関です。

大山史前学研究所の発掘調査により、花積貝塚の貝層は中間に土層を隔てて二層あり、上部貝層から勝坂式土器が多く出土したのに対し、下部貝層からは蓮田式土器が出土しました。のち、後者の蓮田式土器は細分類され、花積貝塚の下層からはじめて発見された土器型式は甲野勇により「花積下層式土器」と命名され、縄文時代前期初頭の土器型式と定められます。

 

花積下層式土器は、胎土中に繊維を多量に含み、羽状縄文(右撚りと左撚り縄をつなげて文様をつけたもの)や、撚糸(よりいと)が「の」の字形に押し付けられた文様が施されている特徴があります。 

大山史前学研究所が発掘した花積下層式土器はこちら。

写真:花積下層式土器(春日部市史考古資料編)

花積貝塚では戦前の調査でも、その後の調査でも花積下層式土器は破片のみの出土であり、完全な形の花積下層式土器は発見されていません。素人考えだと、完形の土器が出土していないのに、なぜ花積下層式土器はかくも有名なのだろうか、と思うところですが、戦前、大山史前学研究所を中心とする考古学者たちが、小さな土器片であっても、資料に基づき実証的に土器研究を積み重ねてきたため、現在も花積下層式土器という土器型式名称が学術用語として使われ、広く知られているのです。

残念ながら、大山史前学研究所は昭和20年5月の空襲に遭い、収蔵していた貴重な資料は焼失・散逸してしまいました。花積下層式土器の命名の基になった写真の土器は、失われてしまいました。

花積下層式土器は、縄文時代早期と前期を結ぶ学術上重要な土器型式であり、今後の研究も期待されているようです。と同時に、考古学と春日部を結ぶ重要な土器でもあります。

郷土資料館でも、縄文土器について詳しいお客様から、花積貝塚・花積下層式土器についての展示が貧弱だと、たまにお叱りをいただきます。花積貝塚・市内の遺跡から展示に耐え得る花積下層式土器の出土例が乏しい事情をお話して、陳謝することもありますが、「花積」の名が付いた土器から、春日部に興味をもってくださる方もいらっしゃるのです。

次回は、粕壁の大池についてです。

 

参考文献 『春日部市史 考古資料編』、阿部芳郎『失われた史前学 公爵大山柏と日本考古学』(岩波書店、2004年)

懐かしい暮らしで元気に

11月8日(日)市内の高齢者施設の方々が #春日部市郷土資料館 を見学されました。 #かすかべプラスワン

みなさん、高度経済成長前後の生活道具をご覧になって、「若いころちゃぶ台を使っていた」とか「炭を使って、アイロンを使った」など、昔のことを懐かしんでお楽しみいただけたようです。

写真:高齢者施設の方々

郷土資料館はデイサービスなど、高齢者施設の方々の見学も歓迎しています。

なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。団体でご見学を希望される場合は、事前にご相談いただければ幸いです。

郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました

令和2年11月7日(土)に、郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました。

江戸打ち紐を使い、10㎝程度の小さなぞうりを編み込んでいくもので、毎年参加者の方にはご好評いただいている企画です♪

 

体験講座紙芝居朗読写真

ミニぞうり作成前には、郷土の歴史に親しんでいただくため、職員が春日部市域にまつわる伝説の紙芝居を朗読しました。

 

体験講座ミニぞうり制作写真

職員の説明を聞きながら、皆さん丁寧に編み込んで綺麗なミニぞうりを完成させていました。

講座終了後のアンケートには、難しかったけど楽しかったというご意見をたくさんいただき、充実した時間を過ごしていただけたようで私共もうれしい限りです。

 

ミニぞうり写真

こちらはミニぞうりの見本です。飾りにぴったりミニサイズ♪

 

郷土資料館では、今後も新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底しながら、講座などの企画を行っていく予定です。

広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!

 

 

【体験ワークショップ】埼玉県民の日(11月14日)パタパタをつくろう

11月14日(土)の埼玉県民の日、体験ワークショップをおこないます。

体験ワークショップでは、手作りのおもちゃを作ったり、蓄音機(ちくおんき)でレコードの音楽をきいたりします。

今回作るおもちゃは「パタパタ」です。板返しとも言って、上から下へ板がパタパタと音を立てて裏返っていく、ちょっと不思議なおもちゃです。

申し込みはいりません。午前10時30分と午後2時からそれぞれおこないます。

県民の日は、郷土資料館でおもちゃを作って、たのしく遊びましょう。

 

体験ワークショップ「パタパタをつくろう」

日時:令和2年11月14日(土)午前10時30分~・午後2時~

場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)

作るおもちゃ:パタパタ(板返し)

蓄音機の上演もあります。

費用:無料

申し込み:不要。予定の時間に郷土資料館におこしください。

*参加者多数の場合、人数制限をさせて頂く場合がございます。当日、会場で検温させていただきますが、体調の悪い方は参加をお控えください。またマスクの着用をお願いします。

 

ワークショップパタパタ

 

放送大学の方が、郷土資料館を見学しました

令和2年11月1日(日)に放送大学の学生の方が、面接授業「埼玉の街道」の一環として郷土資料館を見学

されました。

 

放送大学館内見学写真

皆さん歴史に興味のある方なので、学芸員の解説に深く頷きながら聴いている方や、メモを取られる方、常設展示のパンフレットを手に取る方も多くいらっしゃいました。

 

放送大学宿場模型見学写真

 資料館を見学した後は、粕壁宿の現在の街並みを見学に行かれました。

 

今回は20名の幅広い年齢層の方にお越しいただきました。

郷土資料館が皆さんの学びの一端となれば幸いです。

 

郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡の上、ぜひご来館ください。

「1960年代の春日部」の写真を掲示しています

 

夏季展示でご好評いただいた「1960年代の春日部」展で使用した写真を、資料館入口横の掲示板に展示しています。

しばらくの間、定期的に入れ替えながら展示します。

教育センターにお越しの際は、ぜひご覧ください。

また展示する写真を掲載した展示図録は、下記のリンクからPDFをご覧になれます。

(PDF)1960年代の春日部(春日部市郷土資料館)(2.4MB)

 

 

1960年代の春日部展示コーナー

船も車も通れる橋(広報補足 その3)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は庄和北部の西宝珠花の、江戸川に架けられていた橋「宝橋」について。川舟を並べ、その上に板を渡して橋にした船橋でした。 #かすかべプラスワン

写真:宝橋

人工の河川である江戸川は、その開削以来、舟運が大変盛んな河川であり、西宝珠花は河岸場の町として賑わった集落でした。宝珠花は、中世以来の郷村であり、江戸川が開削されたため、西宝珠花と東宝珠花(千葉県野田市)に「分断」された地域でもありました。そのため、江戸川に隔てられていても、東西の交流は盛んで、渡船場もあったようです。

しかし、明治時代以降の河川改修により、江戸川の川幅が広がり、堤防もかさ上げされ、さらには、東武鉄道の粕壁駅や杉戸駅に連絡する自動車の交通量が増加してきてことにより、架橋への要望が高まっていきます。

大正13年(1924)、西宝珠花の有志が宝橋組合を結成し、県内でも珍しい船橋を架橋しました。永久橋でなく、船橋とした理由は、未だ舟運業が盛んであり、蒸気船や和船の航行を妨げないためでした。郷土資料館では、宝橋組合の資料を保存していますが、そのなかに、次のような宝橋の設計図面があります。

写真:宝橋の青焼き図面

図面から読み取れるように、合計11艘の舟が板橋を支え、中央部の舟が旋回することで、幅11.2mの舟が通過できる航路をつくりました。

宝橋の架橋によって、舟運業を妨げず、自転車・自動車・リヤカー・人力車など、渡船では向こう岸に渡りづらかった車両も通行することが可能となりました。橋の維持管理のため、通行料が必要な有料の橋でした。通行の回数券や定期券も発行されていたようです。

写真:宝橋回数券

戦後、自動車輸送が普及し、江戸川の舟運が衰退していくと、県道の整備にあわせて、宝橋を永久橋に架け替えすることが計画され、昭和33年(1958)3月、鉄筋コンクリート製の宝珠花橋が架橋されました。橋開きの当日には、西宝珠花・東宝珠花の両岸の住民が押し寄せ、混雑した様子がうかがえる古写真もあります。

写真:昭和33年の橋開き

「船も車も通れた」というのが、舟運と陸運が共存していた当時の市域の交通事情を象徴しているようです。わたしたちが、普段は何気なく渡っている橋にも、そこに橋が架けられた経緯があると思いを巡らせると、ワクワクするのは私だけ!?

次回は、豊春地区の花積、花積下層式土器の話です。

武里中学校が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月29日(木)に武里中学校特別支援学級の生徒が、郷土資料館を見学に訪れました。

 

武里中学校竪穴式住居見学写真

館内の竪穴式住居や宿場の模型を見学しながら学芸員の説明を受けました。

学芸員が説明をしながら質問やクイズをだしたところ、“勘がいいな~”と感じたり、“よく知っているな~”とこちらが感心してしまうような回答を聞く場面もありました。

 

武里中学校航空写真見学写真

今と昔の春日部市の航空写真を見比べて、武里中学校の場所が変わっていることに気付くと、

「ホントだ!」「えっ、知らなかった」という声が聞こえてきました。通っている学校の歴史を学ぶよい機会になったようです。

 

郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。

なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡、ご相談のうえ、ぜひご来館ください。

 

【常設展】 #博物館実習生 による展示【 #展示替 】

春日部市郷土資料館の常設展示の1コーナーを展示替しました。この展示は、8月にお手伝いいただいた博物館実習生の皆さんによるプロデュース展示です。 #かすかべプラスワン

写真:資料陳列風景

展示のテーマは「道具を受け継ぐ」。粕壁地区の大工さんの道具について寄贈者ご本人から聞き取り調査し、調書を作成、キャプションもつくってもらいました。みなさん、真剣に、そして懸命に資料を一つ一つ丁寧に調査し、どうしたらご覧いただくみなさんに伝えたい事が伝えられるのか、苦心しながらキャプションをつくってくれました。そのときの記事はこちら。資料の陳列まで実習でできれば、良き実習だったのですが、時間切れ。少し時間が経ってしまいましたが、このたびその成果をお披露目することになりました。

今年の12月末まで展示予定です。ぜひ、ご覧ください。

松栄学園高等学校が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月22日(木)に松栄学園高等学校が、課外授業の一環として郷土資料館を見学に訪れ、竪穴式住居や粕壁宿の模型を見学しながら、学芸員の説明を受けました。

 

松栄学園高等学校宿場説明写真

粕壁宿の模型を見ながら、宿場の特徴を答えてもらったところ、「畑が多い」「建物が整っている」など、計画的に整えられた町場の雰囲気を感じ取ってくれたようです。

 

松栄学園高等学校見学風景写真 

千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験後の自由時間には、生徒さんが各展示コーナーに散らばり、幅広く見回ってくれたことが印象的でした。

 

郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。

なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡、ご相談のうえ、ぜひご来館ください。

 

 

春日部にあった競馬場(広報補足 その2)

前回に引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足説明です。今回は、春日部市幸松地区小渕にあった競馬場のこと。 #かすかべプラスワン

戦前の競馬は、富国強兵のため軍馬資源の確保・産馬の奨励といった国策のために行われたものが主でした。春日部市内の競馬場は、「春日部競馬」と呼ばれ、昭和15年(1940)9月から昭和22年(1947)まで、小渕の地で開催されました。

当時の競馬は、軍馬資源保護法による「鍛錬競馬」であり、軍用保護馬と指定された馬のみ出走が許されたものでした。埼玉県では、羽田競馬・川崎競馬と並んで三大競馬と称された大宮競馬場が隆盛していましたが、昭和13年(1938)の軍需工業動員法により飛行場の用地とされ廃止され、新たに春日部の小渕の地が、当時県内唯一の競馬場として選定されました。

施設は、大宮競馬場の古材で建て、投票券の印刷、出馬表の印刷などは、毎朝浦和からオート三輪で運び、番組編成員は八丁目の仲蔵院でガリ版切りなどをやったと伝えられています。

ただ、売り上げは不振で出走頭数、入場人員も最低。昭和18年(1933)末には軍需工場に貸与され、競馬は一時中断されるに至りました。

戦後、鍛錬競馬の元になった軍馬資源保護法が廃止されると、俗にいう「ヤミ競馬」が始まります。春日部では2回延べ8日間、開催されました。

昭和21年(1946)11月に地方競馬法が制定されると、県内唯一の春日部競馬で地方競馬が1回延べ6日間開催されました。しかし、売り上げが悪く、また浦和の熱心な競馬場誘致もあって、昭和23年(1948)に浦和競馬に移転され、春日部競馬場の歴史は幕を下ろします。

残念ながら、当時のことを示す資料は、昭和23年(1948)の埼玉県庁の火災により、焼失したといわれ、詳しいことはよくわかりません。地元小渕の方によれば、お父さんが農閑の合間に馬券販売の手伝いをしたと話す方もいますが、競馬場があったという記憶は薄れつつあります。ちなみに、春日部競馬ではなく、「粕壁競馬」と書く文献もありますが、当時の一次史料が見出されていないため不明です。今回は、『埼玉県競馬史』にならい、「春日部競馬」としました。

広報かすかべにも掲載しましたが、春日部競馬場を物語る資料の一つに、航空写真があります。

戦後(昭和22年)に米軍が撮影したもののほか、昭和20年代の写真には、古利根川沿いの小渕一帯に、楕円形の馬場の跡が認められます。下の写真参照(国土地理院空中写真より)。この場所は、小渕の河畔砂丘が分布するところで、砂地を利用したダート馬場であったことが想像されます。競馬場が選定された当時、食糧を生産する農地をつぶすことは困難だったため、砂丘と桃畑の果樹園を走路として1000mの馬場がつくられたそうです。

昭和35年(1960)競馬場跡地にはアンデスハムの工場が建設され、現在も国道16号沿いの工場として利用されています。

写真:昭和22年航空写真

現在、競馬場の跡はありませんが、古利根川沿いの小渕周辺には、河畔砂丘と呼ばれる内陸型の砂丘の痕跡があり、高齢者施設の幸楽荘の敷地や、近隣の寺社の境内などは砂地になっています。砂丘の地に足を運んでいただき、かつて競馬場であったことに思いをはせてみてはいかがでしょうか。

次回は、西宝珠花の船橋・宝橋について紹介する予定です。

参考文献 田辺一夫編『埼玉県競馬史』(埼玉県競馬主催者協議会、1965年)

【歴史文化講演会】震災後の粕壁町【 #藤羊羹 #桐箪笥 】

令和2年10月17日(土)、昨年度に引き続き、大川明弘先生をお迎えして、古地図から #関東大震災 前後の #粕壁町 の歴史について読み解く講演会を開催しました。

写真:会場の様子

今回は、ちょうど100年前の大正9年(1920)から、昭和10年(1935)ごろまでを対象に、粕壁町の震災被害状況や産業の移り変わりを、諸資料に基づきながらお話しいただきました。

ご講演では、県内三大被災地とされた粕壁町の被害状況はもとより、桐箪笥生産額が大正14年(1925)以降、町の工業生産額の第一位になり、町内の桐箪笥産業が震災後に隆盛すること、牛島のフジの国天然記念物指定の後に町内の飲食業などサービス業に変化がみられることを明らかにされました。昭和初期には町内の菓子店で「藤羊羹」なる名物(現在はない)を販売していたそうです。近現代の春日部を象徴する藤や桐箪笥産業の礎、また小学校校舎の建設など教育の礎が関東大震災の復興期に形成されていくと見通されるお話でした。

これまで、市内の近現代史は、地元の方の記憶・伝承に基づいて叙述されることが多かったように思えます。しかし、粕壁のご出身の大川先生は地元の記憶や伝承に加えて、これまで検討されたことのなかった「粕壁町勢要覧」(粕壁町の統計資料・当館所蔵)や「粕壁小学校震災文集」(当館寄託)などの諸資料に基づいて事実関係を実証されました。その点で、非常に有意義なお話であったと思います。

写真:大川明弘先生

会場からは、桐箪笥産業は江戸時代まで遡ると聞いているがどうなのか、など鋭い質問が投げかけられました。大川先生のお話の趣旨は、震災後に卸問屋業が増え、箪笥生産量が増加していくというものでした。先生も応答されたように、実は、江戸時代・明治時代の市内の桐箪笥産業のあり方について、よくわからない部分が多いのです。ご講演により、今後の課題が明らかになったのだと思います。

受講者の方からは、「市内のなかで粕壁は魅力ある地域だと思った」や「ますます春日部が好きになった」など、うれしい声もありました。地元の先生が郷土の歴史を紐解くことで、郷土愛・地元愛が育まれる。大変有意義な講演会でした。

藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月20日(火)に藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

藤塚小学校見学写真

市内の小学校3年生あてに配布した「たんけんシート」をもってきて、昔の暮らしや道具について、学芸員から説明を受けました。

 

藤塚小学校脱穀体験写真

千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験、「力がいる」「たいへん」といった感想のほかにも、「楽しかった」「気持ちよかった」などの声もあり、昔の苦労と知ると同時に新鮮な体験を楽しんでくれたようです。体験後はコロナ対策のためアルコール消毒もしっかりしました。

 

藤塚小学校スタンプ体験写真

「オリジナルスタンプには行列が!」

みんなマスクを着用して、順番をよく守っていましたね♪ 

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。

 

【更新】収蔵資料の紹介【祝・50点達成】

春日部市郷土資料館のホームページでは、展示しきれない、まちの歴史を物語る重要な資料を多くの方に知っていただくため、ほそぼそと収蔵資料の紹介をしています。この夏、博物館実習生の大学生のみなさんに協力いただき、今回5件の資料を紹介することができました。

実習生には、調書作成から、写真撮影、解説文の作成に至るまで取り組んでもらいました。その時の実習生による報告はこちらです。今回紹介するものは、いずれも春日部の歴史を語る上では重要な資料です。

亀田鵬斎書の看板は、粕壁の老舗の薬種問屋金子家に伝来した看板です。亀田は、江戸時代の有名な書家で、金子家に滞在したお礼に書をしたためたと伝えられています。宿場町粕壁における文化的交流を知るうえで貴重な資料といえます。

世界一藤のかすかべは、昭和5年に刊行された粕壁町や牛島のフジの観光案内書です。当該期の歴史的公文書など、まとまった資料が少ないなかで、国指定天然記念物指定直後の牛島のフジや、粕壁町・幸松村の状況を知るうえで基礎資料です。

木崎六之助商店の取引先名簿は、粕壁町の桐箪製造の商店に伝来した商店の名簿です。春日部の桐箪笥は特産品とされていますが、歴史的な経緯については、具体的にわかっていません。市域の産業の歴史を再考する上で重要な資料といえます。

備後石井家伝来の俳額は、江戸時代の市域を代表する俳人・石井文龍を輩出した備後石井家に伝来したものです。神社などに奉納されたものと考えられますが、詳しい経緯はわかりません。ただ、武里地区を中心とする葛飾蕉門の流れをくむ人々による投句がみられ、江戸時代後期に地域俳諧が盛んだったことがうかがえる資料です。

陣屋稲荷狐像は、粕壁の陣屋地区で祀られていた稲荷社の奉納されていた狐像です。陣屋稲荷は、平成30年8月に解体・遷座してしまいました。近代の粕壁町内の稲荷信仰の一端を物語る資料です。

この5件を更新して、収蔵資料の紹介の点数が、漸く50件に到達しました。

豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月16日(金)に豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

 

写真:豊野小学校見学風景

今から約60年前の生活の様子について学芸員から説明を聞いたり、千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験をしました。

 

写真:豊野小学校航空写真観察風景

航空写真に乗っかって、約60年前という自分が生まれる前の春日部の様子を食い入るように見る場面もありました。

 

帰り際には、「もっと見たい!」「また来ます!」といったうれしい声も♪

マスクの着用や体験後の手指の消毒など、コロナ対策をばっちり行って、楽しい見学会となりました。

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。

 

【広報かすかべ】まちのことを知ってみよう!補足(その1)

令和2年10月1日、春日部市は市制施行15周年を迎えました。10月1日は春日部市民の日です。 #かすかべプラスワン

市の広報誌「広報かすかべ」10月号では、市制15周年の記念して、特集記事「まちのこと知って、まちのことを発信してみよう!」が組まれました。

郷土資料館では、2面・3面の記事の内容を監修(?)しました。記事の内容は、市内8地区の意外に知らない、身近な歴史ネタを紹介したものです。郷土の歴史は「春日部らしさ」。なので、市制15周年を機に、身近にある「春日部らしさ」を再発見してもらいたいと願い、記事を書きました。

紙面に限りもありましたので、言葉足らずだった部分もありますので、この場を借りて補足説明をさせていただきます。今回はその第一弾「内牧編」です。

記事は次の通りです。

 春日部唯一!?古代人の顔

 内牧の塚内古墳群(市指定史跡)は、6世紀~7世紀につくられた約20基の古墳からなる古墳群です。このうち塚内4号墳からは、市内でも数少ない、人の形をした埴輪(はにわ)が発見されています。※古墳は全て私有地に所在し、一般公開はされていません。

 埴輪の性別は男性です。郷土資料館で展示中。

写真:塚内4号墳出土人物埴輪 

郷土資料館ではおなじみの人物埴輪を紹介しました。顔を側面に、美豆良(みずら)とよばれる男性の髪型を模った造形の痕跡がありますので、男性の埴輪とされています。

市内では、内牧の塚内古墳群のほか、庄和南部の東中野地区の向之内塚山古墳の二地区に古墳が認められます。塚内古墳群は20数基確認され、向之内塚山古墳と合わせて、多くの埴輪片が出土しています。しかし、人や馬などを模った形象埴輪はわずかで、さらに人の形の埴輪は、紹介した人物埴輪が「唯一!?」です。実は、この「!?」がミソです。

人物埴輪の出土例は、塚内古墳群で数点確認されます。その一部が下の写真です。

写真:人物埴輪部分

首から肩・胸にかけての、人物埴輪の部分です。丸いものは首飾りを模っているのでしょうか。

残念ながら、顔面は失われており、どんな顔だちなのか不明です。このほかにも、人の形の埴輪の部位と考えられる欠片がいくつか発見されていますが、肝心のお顔は見つかっていません。

ですから、塚内4号墳は、顔だちがわかる埴輪としては市内唯一ですが、人の形の埴輪として「唯一」ではないのです。今後、新たに発見されるかもしれません。そうした期待も込めて、「唯一」ではなく「唯一!?」とした次第です。

長くなりましたが、補足説明でした。次回は、幸松編・競馬場の話を予定します。

【台風】古文書講座(初級編・中級編)中止します

令和2年10月10日(土)に開催予定の古文書講座(初級編・中級編)について、台風14号の接近が予想されていますので、受講者の皆さんの安全のため、中止といたします。

初回は、11月14日(土)となりますので、ご承知おきください。

皆さまのご理解のほど、よろしくお願いいたします。

イラスト:おじぎするうめわかくん

【はじまりました】「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具」展

令和2年10月6日(火)より、小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」がはじまりました。

この展示では、今から約60年前の、道具やくらしの変化、そしてまちのうつりかわりを紹介するものです。小学校第3学年の社会科地域学習単元に対応した内容になっていますので、お子様でも楽しく学べる内容になっています。ご家族でぜひご利用ください。大人の方は、昔を懐かしんでいただける内容として、お楽しみいただけます。

画像:展示のポスター

この展示会は、毎年恒例なのですが、コロナ禍にあってハンズオン展示が難しいということもあり、今回は大幅に展示物や陳列方法を見直してみました。

担当者のおすすめは、新設した「切手と収蔵品でたどる20世紀」のコーナーです。

写真:展示資料

平成11年・12年に発売された20世紀デザイン切手を軸に、切手の図柄に描かれるゆかりの収蔵品を合わせて並べてみました。しかし、数万点はくだらない当館の収蔵品でも、昭和40・50年代の資料は乏しく、頭を悩ませました。

そこで、粕壁のレコード店に駆け込み、当時流行したレコードを捜し、陳列することにしました。ピンク・レディー「UFO」、ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」、山口百恵「秋桜」などがそれです。担当者は同時代を知りませんが、レコードジャケットの風合いが懐かしさを醸し出していると思います。そのほかにも、時代を象徴する出来事にゆかりの資料を展示していますので、ぜひご覧ください。

 

展示名:小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」 

会期:令和2年10月6日(火)~令和3年3月21日(日)

休館日:月曜日・祝日・年末年始

入館料:無料

「1960年代の春日部」パンフレットPDF版

第62回企画展示「1960春日部」は7月7日に、無事終了いたしました。
ご来館いただいた皆様、誠にありがとうございました。
会場で配布しておりました「1960年代の春日部」パンフレットをPDFにて掲載いたします。どうぞご利用ください。

 

*インターネット掲載にあたり、8ページ(3.1967年埼玉国体)の記述を一部修正しました。

誤:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。

正:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)と軟式野球(牛島球場)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。

 

*12月1日(火)修正:1ページ、谷原中の開校年を下記のとおり修正しました。

誤:(1976・昭和51年)→正:(1975・昭和50年)

 

*12月16日(水」)修正:2ページ「武里団地起工式」の年を下記の通り修正しました。

誤:武里団地起工式(1964年)→正:武里団地起工式(1965年)

 

1960年代の春日部パンフレット表紙 1960年代の春日部(春日部市郷土資料館).pdf

東洋一のマンモス団地

9月13日(日)まで企画展「1960年代の春日部」を開催しています。

「東洋一のマンモス団地」とは、どこの団地を指しているのでしょうか?という質問をいただきました。

草加市の草加松原団地は、1962年入居開始、竣工時戸数は5,926戸を誇ります。
草加市歴史民俗資料館では、10月4日まで、「草加×東洋一のマンモス団地展(草加市歴史民俗資料館サイトにリンク)」が開催されています。

わが春日部市の武里団地は、1966年入居開始で、竣工時の戸数が賃貸、特別分譲を合わせて6,119戸です。武里団地と草加松原団地は、埼玉県内のみならず全国的にも、規模が大きい団地です。

最大規模の団地は、UR都市機構のサイト(該当サイトにリンク)によると、東京都板橋区の高島平団地(1972年入居開始)で、総戸数10,170戸と、UR都市機構(旧日本住宅公団)が手がけた最大の団地とのことです。


国立国会図書館サーチ(該当サイトにリンク)で「東洋一 マンモス団地」という言葉で検索してみると、1962年7月1日号の週刊現代の記事がヒットします。この記事では、「夢の東洋一マンモス団地の誕生」と題し、大阪府の「千里丘陵ニュータウン」を採りあげています。千里ニュータウンは、大阪府営住宅、大阪府住宅供給公社、UR都市機構の住宅で構成され、3万戸の住宅にピーク時には約13万人が居住しました。

作家の藤井青銅氏は、2005年に『東洋一の本』を著し、日本中の「東洋一」を集め、考察されています。「東洋一」という言葉は、戦前から戦中の1926~1940年ごろと1951~1965年ごろの2度、新聞記事の見出しに多く使われたようです。武里団地や草加松原団地が完成した1960年代は、2回目の「東洋一」が多く使われる時期にあたります。また「東洋」という言葉は、確定的な範囲を示すものではなく、「西洋」に対して誕生した言葉であるようです。

藤井氏は、「東洋一」という言葉は、『エジプト旅行記』(ドミニク・ビバン・ドゥノン著、1802年)や福沢諭吉の『世界国尽』(1869年)が初出ではないかと推察されています。そして仮説として「西洋>東洋」という図式を意識した明治期の日本人が、「東洋一」であれば、西洋に認められると考え、多用し始めたのではないかとしています。

また高度経済成長期は、奇跡的に経済復興を果たした日本が、「東洋一」を名乗りやすくなり、規模の大きさなどを示す「東洋一」が数多く生まれたとしています。
ちなみに『東洋一の本』に掲載されている「日本全国『東洋一』物件リスト」には、大阪府の香里団地が「東洋一の団地」と呼ばれたことがあるとして掲載されています。

「東洋」の範囲を確定できない以上、真の「東洋一のマンモス団地」は残念ながらわかりませんが、1960年代の人々が「東洋一」と胸を張って誇った団地の歩みを、後世にも受け継いでいきたいものです。

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

 

参考文献

日本住宅公団20年史刊行委員会 1975 『日本住宅公団20年史』 日本住宅公団

千里ニュータウン情報館サイト https://senri-nt.com/

藤井青銅2005『東洋一の本』株式会社小学館

 

武里地区公民館で神明貝塚の巡回展を開催しています

昨日、9月1日(火)より武里地区公民館で神明貝塚の巡回展を開催しています。

 新型コロナウィルスの影響により、長らく豊春地区公民館にお邪魔していましたが、久しぶりに新たな場所での開催となります。

今回の巡回展では、ララガーデン春日部にて開催した「ほるたま展」で使用したパネルや貝などを新たに展示しています。内容の大きな変更はありませんが、若干のリニューアルとなっておりますので、他の施設で巡回展をご覧になった方でも、新たな発見があるかもしれません。

また、巡回展のリーフレットと『埋文さいたま』(埼玉県埋蔵文化財調査事業団発行)をお配りしていますので、ご自由にお持ちください。

 巡回展の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場 所:武里地区公民館2階(音楽室前)

会 期:令和2年9月1日(火)~令和3年1月31日(日)

休館日:月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日

9月19日(土)から9月23日(水)は燻蒸作業のため休館します

9月19日(土)~23日(水)は燻蒸作業のため、郷土資料館は休館します。

19日(土)~22日(火)は、教育センター全館立ち入り禁止になりますのでご注意ください。

23日(水)は、郷土資料館は休館となりますが、教育委員会事務局は業務を行っております。 

江戸川小中学校で出張授業を行いました

 8月27日(木)に江戸川小中学校の6年生を対象に、縄文体験教室の出張授業を行いました。本年度の実施はこれで6校目となりました。

 江戸川小中学校は宝珠花小学校、富多小学校、江戸川中学校の学校再編により、昨年度誕生した小中一貫の義務教育学校です。国の史跡に指定された西親野井の「神明貝塚」のお膝元でもあり、学区内には貝の内遺跡や陣屋遺跡など、遺跡が身近に存在する地域です。

 授業の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲少人数での授業風景は江戸川小中学校ならではの様子です。

  貝殻を分類する様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲地元「神明貝塚」から発掘された貝を分類します。

 

 神明貝塚は自分たちの地元ということもあり、黒曜石を使って段ボールを切る体験や、発掘された土器や貝がらを触る体験を興味津々で取り組んでいました。

 国の史跡となった神明貝塚は今後、保存や活用、整備について様々な取り組みが必要となってきますが、地域の協力が必要不可欠となります。今日、授業を受けた子どもたちの中からも、協力者が多数誕生することを切に期待しています。

博物館実習最終日

令和2年度の博物館実習も、いよいよ最終日をむかえました。

当館の博物館実習は、例年、体験講座の指導補助等、教育普及活動に重点を置いたものとなっていますが、今年度はコロナ禍のため、資料の調査・展示を重点とした実習となりました。とはいえ、昨日まで実習生が本ブログに記述してくれたように、収蔵資料のWeb紹介の準備資料の取り扱い地元の方を招いての聞き取り調査、資料の整理・調書作成展示のキャプションづくり近隣地域博物館の見学と盛りだくさんな内容でした。

最終日の今日は、実習生個々で準備・制作した収蔵資料のWeb紹介のコンテンツの発表を行いました。

写真:資料紹介文を検討する実習生

みなさん、短期間にも関わらずよく調べており、資料の解説は充実した内容となりましたが、資料自体の説明が不足していたり、課題も残りました。実習生の制作した収蔵資料の紹介は、みなさんの意見を踏まえブラッシュアップさせて、近日公開する予定です。

最後に、実習のまとめとして、各々に印象に残ったことを話してもらい、博物館・学芸員の役割について議論しました。資料を収蔵・保存する意義、調査し、展示を一からつくる大変さ、市民・地域とのコミュニケーション能力の大切さ、学芸員の専門性など、実習を経験して地域博物館や学芸員が抱える様々な問題に気づくことができたようでした。

実習生の皆さんにはこの経験を糧にして、未来に羽ばたいていただければ、郷土資料館の職員一同、大変うれしく思います。

実習六日目

 こんにちは!実習六日目の本日は、午前中には、まず、宮代町郷土資料館を訪れて、国史跡神明貝塚を見学して、午後には、幸手市郷土資料館を訪れました。
 宮代町郷土資料館は野外展示と常設展示で構成されていました。常設展示では、古墳時代の鍛冶工房の再現や江戸時代の新田開発の模型を置いて分かり易く解説していて、展示に工夫を凝らしていました。また、展示する上で問題も抱えながらも上手く対処していて資料の保存にも気を付けているようでした。

写真:宮代町郷土資料館で説明をうける
 企画展では太平洋戦争のことを取り上げていて、町や地域に根差した歴史を伝えるため寄贈を受けた資料をもとに分かったことを解説しているようでした。
 野外展示では旧加藤家住宅や旧斎藤家住宅を展示していました。土間には煙出しの高窓があって、定期的に竈を使っているようでした。古民家にはあまり入ったことがなかったため珍しいものが多く貴重な体験でした。

写真:宮代町郷土資料館の加藤家住宅

 宮代町から幸手市に移動する途中、国史跡神明貝塚を見学しました。神明貝塚では、縄文時代のシジミの貝殻などを観察することが出来ました。


 幸手市郷土資料館は、以前、准看護学校として使われていた建物と吉田中学校という昔の校舎を博物館として使っているそうです。ストライプウォールなどを使って展示方法に工夫を凝らしているようでした。旧吉田中学校の民具資料室は昭和・平成初期のものが多く米作りや養蚕に使われるものもあって親しみやすかったです。ここでは藍のたたき染体験も出来て、昔から伝わる手仕事も体験を通して伝えていました。

写真:藍のたたき染め体験

 明日の実習はいよいよ最終日で、展示コンテンツの発表・討論を行うので今まで学んできたことを活かして実習生一同全力で取り組みたいと思います。
(令和二年 博物館実習生)

実習五日目

実習五日目の本日は、午前中に、昨日実習生が個人で作成した調査カードを共有し、それぞれ良かった点、悪かった点などを話し合いました。実習生はそれぞれ至らなかった点に気づき、調査カードを書き直す姿が見受けられました。
写真:資料調書について話し合う実習生
次に、昨日、調査・整理した大工道具を展示するにあたり、テーマやキャプションをどうするかなどを実習生で議論しました。結果、実習生全員で展示のキャプションを完成させることができました。
写真:展示資料

写真:資料キャプションについて議論する実習生
私たちが博物館で目にする展示のキャプションは、このようにして一語一句、緻密に考えられてできているものだと実感しました。

明日の実習では博物館見学をするので今日体験した展示の企画を踏まえて、キャプションや、展示物の配置など細かいところに留意をしながら見学したいと思います。
(令和二年 博物館実習生)

実習四日目

実習四日目の本日は、聞き取り調査と収蔵資料の整理を行いました。

写真:寄贈された資料

市内にお住いの方が以前使用していた大工道具を寄贈してくださったため、その資料についてお話を伺いました。道具の呼称や使用方法などを教えていただくのと同時に、当時の粕壁についても理解を深めることができました。また、実習生は初の聞き取り調査ということもあり緊張した様子でしたが、一人一つずつは質問することができました。

写真:聞き取り調査の様子

写真:資料の使い方を説明される旧蔵者の方

一緒に聞き取り調査を行っていた学芸員さんは積極的に質問をされていて、分からないことはどんどん明確に、さらに話を詰めていました。学芸員という仕事においてコミュニケーション能力がいかに重要であるかを肌身で感じることができた実りある時間でした。

写真:資料調査の様子

午後は、寄贈していただいた資料の整理を行いました。資料一つにつき収蔵番号を記した調査カードを一枚括り付けていきました。加えて、午前中に寄贈者の方から伺ったお話をもとに文献と照らし合わせながら正確な情報を民具調査カードに記入しました。スケッチがとても難しかったので、慣れるためにも練習を重ねていきたいと思います。明日以降も実習生みんなで協力して展示を作り上げたいです。

(令和二年 博物館実習生)

実習三日目

実習三日目の今日は、午前中に昨日の続きである収蔵資料の調査・研究を、午後に軸装や土器の取扱いについての体験実習を行いました。資料調査では、実習生全員がWeb展示に向けて調査した内容をどのようにして文章に落とし込むかを真剣に考えながら黙々と作業を続ける様子が見受けられました。
写真:黙々と調べものをする実習生

写真:資料写真の撮影
午後からの体験実習では、資料を取り扱う際の基本的な心構えや資料毎の取扱い手順を教えていただいた後、実際に資料に触れさせてもらいました。細かい部分にも配慮しながら、資料を傷つけぬよう危機管理を徹底する考え方を改めて学ばせてもらいました。

写真:資料取り扱いの心構え

写真:資料の取り扱い
説明を受けて、頭の中でイメージができても実物を目の前にすると緊張してしまい、動きがぎこちなくなってしまいました。手順をしっかり復習して、次に扱う機会があったときには、冷静に作業を進められるようにしたいです。
また、土器の梱包にも挑戦しました。全員で協力しながら無事に梱包作業を終えることができました。

写真:綿布団づくり

 

写真:土器の梱包
コロナ禍でこのような実習を大学の授業で受けることができなくなってしまったので、とても有難かったです。
残りの実習も、有意義な時間を過ごせるように精一杯取り組みたいと思います!
(令和二年 博物館実習生)

 

博物館実習二日目

実習二日目の今日は、収蔵資料の紹介ということで資料の調査・研究を行いました。まず、収蔵庫から作業する部屋まで資料を移動させましたが、大きく重いものなど一人では持てないものもあり、実習生同士が協力して移動させることができました。
 私は、春日部市内で現在も営業されているカネコ薬局さんから寄贈していただいた看板について紹介することになりました。
写真:カネコ薬局寄贈の資料

写真:参考資料や撮影機材

主にこれらを使用して調査していきます
看板のさまざまな部分から情報を集めたほか、図録や市史以外のいろいろな媒体を使い、別の視点から調査していきましたが、資料調査はとても難しく、改めて大変さを学びました。博物館に展示されているものやデータベースに公開されている情報が大変な労力と時間をかけてつくられているものであると痛感しました。
写真:黙々と資料調査をする実習生
最終日に無事に発表できるようしっかり調査し、明日以降も充実した実習期間を過ごせるように頑張りたいと思います。
(令和二年 博物館実習生)

博物館実習が始まりました

令和2年8月16日(日)より、春日部市郷土資料館で博物館実習が始まりました。今年度は5名の学生が参加しています。

本日は初日ということもあり、館内・展示室・バックヤードや収蔵庫の案内をしました。

写真:展示室の案内

午後は、実習生どうしで、博物館や学芸員についてディスカッションをしました。様々な意見が出て、当館の運営にとって有意義な議論ができました。

火曜日からはいよいよ本格的な館務実習となります。実習生の諸君が、各日でブログを記述することになっていますので、お楽しみに。

渋谷区役所と春日部市役所と志木市役所

9月13日(日)まで、「1960年代の春日部」が開催中です。

現在の春日部市役所庁舎は、1970(昭和45)年1月19日から12月21日に建設工事が行われ、翌1971年1月8日に落成式が行われました。地下1階、地上5階、塔屋3階、建築面積3152.651平米、延床面積9007.428平米、総工費は5億9800万円でした。

正面ガラス張りの優美な曲線からなる建物は、当時の人々の目を引いたようで、『広報かすかべ新市庁舎完成記念特集号』では、「ユニークな建物」と表現されています。また、市役所の建物のイラストをあしらった落成記念手ぬぐいも作られ、落成式の記念品として配布されました。

なお、現在開催中の企画展「1960年代の春日部」にあわせ、郷土資料館では、市庁舎イラストの記念スタンプをご用意しました。

広報かすかべ新市庁舎完成記念号

広報かすかべ新市庁舎完成記念特集号

市庁舎落成記念てぬぐい

春日部市庁舎落成記念手ぬぐい(1971年)

 

 さて、1970年の春日部市役所建設工事の設計管理は、建築家、高橋武士氏が率いる株式会社建築モード研究所が行いました。株式会社建築モード研究所は、東京オリンピック開催の1964(昭和39)年に完成した渋谷区役所、また1972(昭和47)年完成の志木市役所の設計も行い、これらの庁舎は「三兄弟」ともいわれるような非常に似た外観で、曲線が生み出すモダンさなど建築業界でも注目を集めました。

高橋武士氏は、1957(昭和32)年に東京都立日比谷図書館(現千代田区立日比谷図書文化館)、その後、株式会社建築モード研究所を設立し、渋谷公会堂(渋谷区)や、有明コロシアム(江東区)、深川江戸資料館(江東区)などの設計も手がけました。

残念ながら、渋谷区役所は2015(平成27)年に、志木市役所は、まさに現在、解体工事が進行中で、われらが春日部市役所も、市立病院跡地に建設される新庁舎完成後に解体されます。

 建築中の春日部市役所

建設中の春日部市役所(「建築モード研究所」の看板が写る・1970年)

建設中の春日部市役所(1970年)

 建設中の春日部市役所(1970年)

 

参考文献

『広報かすかべ新市庁舎完成記念特集号』1971年

「渋谷、春日部と三兄弟?同じ事務所が手掛けた志木市役所解体へ 19日、市庁舎さよならイベント」

埼玉新聞2020年1月18日

千葉大学の博物館実習を受け入れました。

8月8日(土)博物館実習の授業の一環で、千葉大学の学生たち5名が春日部市郷土資料館に来ました。

午前は、館の概要・特徴、館内を案内しました。現在開催中の「1960年代の春日部」展のほか、バックヤード、収蔵庫の現況を見ていただきました。

午後は、館蔵の資料整理にご協力いただきました。未整理の文書箱を開梱して、資料の概要調査の調書を作成してもらいました。

写真:常設展示の見学

写真:常設展示の見学

 

千葉大の皆さん(先輩)には、昨年度も同様の作業をしていただきましたが、整理した資料は、市内の商家からいただいた明治時代から平成初頭までの史料群です。これは新発見!こんな便利な資料があったのか!と、われわれ職員がコーフンする資料がザクザク出てきました。春日部の近現代史は、まだまだ深められそうです。みなさんも各自の関心で興味深く資料を拝見されていたので、何よりでした。なかには、虫損(ちゅうそん。紙を食べる虫による破損)の古文書をはじめて手にとって、感動した、話してくれた学生もいました。やっぱり、資料の原物をみるっていいですね。

引率された先生をはじめ、学生のみなさん、お疲れさまでした。

写真:資料調査の風景

写真:資料整理の状況

 

企画展示「1960年代の春日部」を開催します

8月4日(火)から「1960年代の春日部」展を開催します。

今から60年ほど前の1960年代には、東京オリンピックや埼玉国体が開催されました。市内では高度経済成長の波に乗って、武里団地の建設や春日部駅西口の開発が進められるなど、春日部の礎となる大きな事業や各種施設の建設が進められました。

今回の展示では、皆様からご寄贈、ご寄託をいただいた郷土資料館所蔵の1960年代の資料や写真を中心に、まちのうつりかわりを紹介します。

皆様お誘いあわせの上、ぜひご来館ください。

 

展示名:市施行15周年記念 郷土資料館開館30周年記念

 夏季展示(第62回) かすかべの宝もの17(収蔵品展17) 

 1960年代の春日部 ~1963武里団地 1964東京オリンピック 1967埼玉国体

日時:令和2年8月4日(火)~9月13日(日)9時から16時45分

*休館日:月曜日、祝日、祝日の翌日(期間中の休館日:8月10日、11日、17日、24日、31日、9月7日)

>1969年8月15日撮影の春日部駅西口

1969年8月15日撮影の春日部駅西口

ほるたま展inララガーデン春日部 開催しています!

7月22日(水)から、埼玉県埋蔵文化財調査事業団との共催で市内遺跡から発掘された土器などの展示をララガーデン春日部の1階フロアーをお借りして開催しています。

 昨日の水曜日は630名、本日も800名を超える多くの皆様が買い物に楽しむ中、国史跡「神明貝塚」、そして市内でも貝塚文化の代表である「花積貝塚」、さらには春日部高校地内の「八木崎遺跡」の土器に眼をとめていただきました。

展示全体

 展示は新型コロナウイルスのまん延防止のため小規模。

もちろん職員による展示解説も控えさせていただいております・・・。関連資料としてパンフレットは配布しています。

神明貝塚

神明貝塚の展示では土器に加え、縄文人が食した貝殻、狩猟具や漁労具、さらには土器についた種実と、食をテーマに取り

上げています。

花積貝塚

 

 

 

 

 

 

 

普段は県で管理保存されている昭和43年に発掘された花積貝塚の縄文土器は、久しぶりの里帰りです。

この展示は土曜日25日まで開催しております。ショッピングの合間にぜひ、お立ち寄りください!

 

 

武里小学校で出張授業を行いました

 7月20日(月)に武里小学校にて、縄文体験教室の出張授業を行いました。本年度の実施は5校目となりました。この出張授業では春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が児童の身近にもあることや実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。

▲授業導入では神明貝塚の紹介動画を見たり、春日部市の歴史や昔の生活についての説明を聞いたりします。市の歴史に焦点をあてた学習をする機会はなかなかないため、児童たちは興味津々です。春日部市の土地深くに12万年前にさかのぼる貝の化石が見つかっていること、外郭放水路龍Q館の工事では2度にわたる海の時代を知る手がかりがあることの解説では感嘆の声もあがりました。

 

 体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。

  

▲貝殻を種類別に分けたり、石器を実際に触ったり、楽しく発見の多い時間です。児童みずから意見交換や質問をしたり、積極的な姿勢をみせてくれました。

 

本物の縄文土器や貝や骨、石器を触っての体験は教科書では味わえないもので、子どもたちにとっても貴重な体験になったと先生方からのお声もいただいています。

この出張授業は学校の依頼に応じて2学期初めまで取り組みます!

桜川小学校で出張授業を行いました

7月17日(金)に桜川小学校にて、縄文体験教室の出張授業を行いました。本年度の実施は4校目となりました。

桜川小学校の周辺には大衾(おおぶすま)、西金野井(にしかなのい)、米島(こめじま)といった地名(大字)があり、市内でも遺跡が多く所在する地区です。子どもたちは自分たちの身近な地域に遺跡があることを知り、驚いた様子をしていました。

授業風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲春日部市に海が広がっていたこと、また小学校の付近まで海がきていたことを知り、さらに驚いた様子をしていました。

動物の骨を触る様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲さて、この動物なんでしょう?毎回、男子からは歓声が、女子からは悲鳴?が聞こえてきます。

 

本物の縄文土器や貝や骨、石器を触っての体験は教科書では味わえないもので、子どもたちにとっても貴重な体験になったと先生方からのお声もいただいています。

 

この出張授業は学校の依頼に応じて2学期初めまで取り組みます!

 

開館30周年記念 #缶バッチ はいかがでしょうか

春日部市郷土資料館は7月20日で開館30周年を迎えます。これを記念して、7月18日より随時、オリジナルの #缶バッチ を差し上げています。新型コロナウイルスの感染状況もあって、大々的に宣伝をせず、当「ほごログ」限定で情報を発信しています。今回、用意した図柄は7種類。

画像:缶バッチ見本

18日に来館されたお客様には、好きな図柄を選んでいただき、ご自身でバッチをつくっていただきました。

写真:バッチづくりのようす

県外からお越しの方もあり、缶バッチの製作が印象に残ったという方もおりました。

神明貝塚のキャラクター「ぐうすけ」の図柄を選ばれた女性は、最近、県外から春日部に引っ越された方で「春日部」、「ぐうすけ」が何のキャラクターなのか、興味をもっていただけました。バッチを通じて、神明貝塚をはじめ春日部の歴史や文化にも、関心を広げていただければ幸いです。

 

缶バッチづくりは、大人でも、子どもでも、来館された方はどなたでも体験いただけます。先着100名様まで。材料がなくなり次第終了します。

【ミニイベントやります】オリジナル缶バッチ製作体験【開館30周年】

令和2年7月20日をもって、春日部市郷土資料館は開館30周年を迎えます。30年前についてはこちら。

本来であれば大々的に30年を祝いところですが、「ステイ・ホーム」が勧奨されるこのご時世。本望ではありませんが、皆さんの安全・健康を考えて細々としたイベントを開催することになりました。30年のご愛顧を記念し、7月18日(土)より随時、郷土資料館のオリジナル缶バッチ製作体験イベントを開催します。

郷土資料館のオリジナル缶バッチとは、春日部の郷土資料館や文化財ゆかりの資料やイラストをモチーフにしたものです。職員が練りに練ったウィットに富んだ(?)、地味で渋い(?)図柄です。図案の一部を紹介するとこんな感じです。

画像:バッチ図柄見本

あくまでも見本です。当日変更があるかもしれませんが、ここでしか手に入りません。

イベントについて詳しくは下記のとおりです。この機会にぜひご来館ください。

 

                  記

 

日時:令和2年7月18日(土)9:00~(随時) 材料がなくなり次第終了

場所:郷土資料館 常設展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)

対象:どなたでも(大人の方も歓迎します)

費用:無料

定員:限定100個(材料がなくなり次第終了)

その他:コロナウイルス感染拡大防止のため、マスク着用等をお願いしております。

【予告】「ほるたま展inララガーデン春日部」を開催します

埼玉県埋蔵文化財調査事業団と共催で「ほるたま展inララガーデン春日部」を開催します。

 

春日部市からは、今年3月にめでたく国の史跡に指定されました神明貝塚の展示を行います。この度初公開となる資料も展示する予定です。

埼玉県埋蔵文化財調査事業団からは、春日部市の遺跡から発掘されたものということで、豊春地区の花積貝塚、粕壁地区の八木崎遺跡(春日部高校)の発掘調査でみつかった土器などを久しぶりに展示する予定です。

 

新型コロナウイルスの感染拡大が懸念されるところではありますが、お買い物でお立ち寄りの際には、「密」を避けご覧になっていただければと思います。

 

【日時】令和2年7月22日(水)~25日(土)(全日とも10時から、水~金は16時30分、土は16時まで)

【場所】ララガーデン春日部1階 催事スペース(リブロ前)

 手をふるキャラクター

【1960年代の春日部】1967年埼玉国体の審判員ブレザー

1967年(昭和42年)10月22日から27日にかけて、埼玉県で第22回国体秋季大会(国民体育大会)が開催されました。春日部市(旧)では、大沼運動公園グラウンドで、女子ソフトボールが行われました。

今回ご紹介する国体審判員のブレザーは、上尾運動公園陸上競技場で開催された陸上競技で、東中野ご出身の鈴木文一さんが身につけられていたものです。ブレザーには、N.R.R(当時の日本陸上競技連盟の略称)のワッペンや徽章、埼玉国体のワッペンなどが付けられています。

鈴木さんは、ともにご寄贈いただいた審判員証によると、1967年の5月に審判員の資格を取得し、国体の予選会や国体後は、11月に埼玉で行われた第3回全国身体障害者スポーツ大会でも審判員をつとめられました。 

1967埼玉国体の審判員ブレザー

宮川小学校で出張授業を行いました

  7月14日(火)に宮川小学校の6年生を対象に縄文時代の生活や食に関する出張授業を行いました。今学期は八木崎小、備後小に続いて3校目となりました。 教科書では国特別史跡である千葉県の加曾利貝塚や青森県の三内丸山遺跡が取り上げられていますが、春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が身近にあること、また実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。

 

▲授業導入では神明貝塚の紹介動画と学校近くの遺跡を紹介。宮川小学校付近では花積地区や内牧地区で旧石器時代からムラがつくられていました。住んでいる場所が昔どんな様子だったか知ることで、歴史をより身近に感じられます。動画を見たり説明を聞きながら、気づき感じたことをメモする児童たちの姿も見られ、一生懸命の授業風景です。

 

 体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。

 

 ▲実物の土器や貝殻を観察し、触れることで、それぞれの特徴や違いを直に感じとってくれました。

 

児童からの率直な感想や質問が飛び交い、各コーナーとも楽しく学ぶことができました。

この出張授業は学校の依頼に応じて2学期初めまで取り組みます!

備後小学校で出張授業を行いました

7月10日(金)に備後小学校の6年生を対象に縄文時代の生活や食に関する出張授業を行いました。

 教科書では国特別史跡である千葉県の加曾利貝塚や青森県の三内丸山遺跡が取り上げられていますが、春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が身近にあること、また実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲授業導入では神明貝塚の紹介動画と学校近くの遺跡を紹介。現代と縄文時代の暮らしの違いについては児童が気づき感じたことをメモする姿がみられました。一生懸命の授業風景です。 

体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲実物の土器や貝殻を観察し、触れることで、それぞれの特徴や違いを直に感じとってくれました。

 

この出張授業は学校の依頼に応じて2学期初めまで取り組みます!

【おうちで夏祭り】市民夏祭りの歴史

春日部の夏の風物詩・市民夏祭りの季節となりましたが、今年はコロナ禍の影響により中止となってしまいました。今回は、 #おうちで夏祭り と題して、春日部の市民夏祭りの歴史について紹介しようと思います。

第一回の市民夏祭りは、昭和48年(1973)7月14日・15日に開催されました。当時の市の広報誌には次のように紹介されています。

市制20周年記念“夏祭り”は7月14日、15日に市街地通りで盛大に行なわれました。初の「歩行者天国」を実施し、町並み通りは夏祭り一色になり、チビッ子御輿(みこし)がねり歩く姿が見られました。夜になると、婦人会や一般市民の春日部音頭の踊りがひときわ祭りを盛り上げたり、各町内の大型御輿12台が勢揃いし、町並通りコースをかけ声も威勢よく、沿道を埋めた7万人の観客をかき分けながらねり歩き、夏祭りは最高潮に達して、夏の日夜を市民こぞって楽しく過ごしました。(原文ママ 昭和48年8月広報誌№199より)

写真:昭和48年夏祭り

市民夏祭りは、市観光協会、地区長会、商工会が主催者となり、春日部市制20周年を記念して始まったイベントでした。現在は、参加する町会が増え、最大25基もの御輿(神輿)が「御輿パレード」と称して、春日部駅東口界隈をねり歩き、子どもから、若者、お年寄りまで、老若男女が集まり、大変なにぎわいをみせています。

 

昭和48年~現在に至るまでの市民夏祭りにはさらなる起源があります。
その起源とは、春日部が「粕壁宿」と呼ばれていた時代、江戸時代まで遡ることができます。
粕壁宿の宿入口には市神とよばれる牛頭天王社(現在の八坂神社)が所在します。牛頭天王社では、毎年夏と秋に祭礼が行われていました。
文政8年(1825)6月には、9日に御輿の仮宮を造り、12日~14日は「夜宮」と称して、毎夜家並に懸け行灯をして、町内ごとに神酒所をつくり、子どもたちが集まり太鼓を敲き、15日の御輿渡御には、若者たちが町内毎に蛇や宝船などの造作物や舞台をあつらえ子供や、太神楽舞の芸人が躍りました。中宿では、関宿町の天王祭礼に呼ばれた浄瑠璃語りの駒太夫を招き、浄瑠璃を演じさせたといいます(『春日部市史 近世史料編Ⅲノ1』p355-357。文政13年(1830)にも、粕壁宿の人たちが町内ごとに揃いの単物を着て、囃子台を組み、笛・太鼓を奏でながら宿内を牽き歩いています(『春日部市史 近世史料編Ⅱ』p770).

このように、粕壁宿では、工夫を凝らして、神事祭礼に彩りを添えましたが、当時の幕府から祭礼が華美であるとして罰金刑を処されました。問題とみなされたがために、祭礼の様子が記録に遺されることになったのです。

明治時代、牛頭天王社は八坂神社と改称されます。その後の祭礼については記録が見出されていませんが、大正時代と推定される写真絵葉書には、粕壁の町内を各町の山車や御輿がねり歩く様子が伝えられています。江戸時代の雰囲気を伝える貴重な写真です。山車を牽く人たちが新町橋を渡っています。

写真絵葉書 八坂神社の祭礼


八坂神社の祭礼は、戦後一時中断されましたが、その後再開されることになります。市の広報誌の旧蔵写真には昭和37年(1962)の八坂神社祭礼の様子が記録されています。

写真:昭和37年夏まつり

 

写真:昭和37年夏まつり
写真を見る限り、後の市民夏祭りほどにぎわっている感はないようです。意外ですが、「八坂神社の祭礼では、出店などが多く出ていたわけではなく、どちらかといえば町内の祭礼行事のようだった。出店などで賑わったのは、神明神社の酉の市だった」と、地元の方に教えていただいたことがあります。

そうして、八坂神社の祭礼は、市制20周年記念として市民夏祭りとして改組されるにいたるのです。日光道中粕壁宿の町並みにあたる春日部大通りで行われるのも、毎年7月に行われるもの、実は、粕壁宿(町)の牛頭天王(八坂神社)の神事祭礼に求められるわけです。

伝統と創造を兼ね備えた市民夏祭り、来年は無事に開催されることを祈るばかりです。今年は、御輿パレードはみれませんが、粕壁宿の市神八坂神社にはいつでもご覧いただけますので、是非のぞいてみてはいかがでしょうか。八坂神社境内には、牛頭天王社の神主で、寺子屋の師匠でもあった柳内匠の筆小塚があります。ちなみに、牛頭天王は疫病の神様だったりもします。

#顔ハメ はじめました

春日部市郷土資料館、オリジナルの #顔ハメ ( #顔はめ )、はじめました。春日部の特産品「 #押絵羽子板 」の弁慶や藤娘になって、記念撮影をしてみませんか?

導入にさきがけて、たまたま展示室に居合わせた幸松地区の子どもたちにモデルになってもらいました。大変好評でした。

写真:顔はめ

また、昨年度の企画展の「成金鈴木久五郎」のポスターも喜んで持ち帰ってくれました。鈴木久五郎は、幸松の偉人なのを知っているかい?と聞きたいところでしたが、野暮なので尋ねるのはやめておきました。

なお、コロナウイルス感染拡大防止のため、常設はしていませんので、使ってみたい方は受付までお申し出ください。

【1960年代の春日部】1960年代と現在の東武鉄道の運賃の比較

春季展示で予定しておりました「1960年代の春日部」展は中止になりましたが、現在、これに変わる1960年代の春日部に焦点を当てた展示を準備しております。開催時期等、確定いたしましたらまたご案内いたします。

 

さて今回は、春日部から北千住までの東武鉄道の運賃について、1962(昭和37)年と現在を比較します。

初乗り運賃は、10円から150円と実に15倍になりましたが、春日部から北千住間の運賃では、90円から420円と約4.6倍です。

春日部から北千住間の通勤定期の運賃は、1カ月では、830円から15,290円と約18倍になっています。普通運賃と比べ、定期の値上げ幅が大きいのは、普通運賃に対する割引率の縮小が原因と考えらえます。

物価の比較として、経団連等の調査による1962(昭和37)年当時の会社員の初任給は、約18,000円(大卒・事務職)、2019(令和元)年では、約217,000円(前同)と約12倍になっています。

ところで通勤手当は、1960~1970年代の高度経済成長期に導入する企業が増えました。企業の労働力確保のために、郊外から労働者を集めるための手当です。通勤手当に法律上の義務等は無く、あくまで企業などの規則で定められる任意のものですが、現在の日本では8割以上の企業が導入しています。世界の多くの国では通勤費は自己負担で、通勤手当の習慣がある国は少数派だそうです。

一方で通勤手当は、遠くから通勤しても電車賃は会社負担であるため、遠距離通勤や満員電車の通勤地獄などサラリーマンのストレスを助長する原因であったとも考えられています。

 

  東武鉄道の初乗り運賃(円) 春日部~北千住の普通運賃(円)
1962(昭和37)年 10 90
2020(令和2)年 150 420

 

春日部~北千住の通勤定期運賃 1カ月(円) 3カ月(円) 6カ月(円)
1962(昭和37)年 830 2,370 4,480
2020(令和2)年 15,290 43,580 82,570

 

協力 東武博物館 

 参考文献

東武鉄道年史編さん事務局編集 1964『東武鉄道65年史』東武鉄道株式会社

森永卓郎監修 2008 『物価の文化史事典』展望社

(一社)日本経済団体連合会(一社)東京経営者協会 2019年10月29日「2019年3月卒「新規学卒者決定初任給調査結果」の概要」https://www.keidanren.or.jp/policy/2019/088.pdf(インターネット閲覧)

 

八木崎小学校で出張授業を行いました

6月29日(月)に八木崎小学校の6年生を対象に縄文時代に関する出張授業を行いました。学習指導要領の改定や新型コロナウィルスの影響もあり、この時期までずれ込んでしまいましたが、今年度最初の出張授業となりました。

 

教科書では国特別史跡である千葉県の加曾利貝塚や青森県の三内丸山遺跡が取り上げられていますが、春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が身近にあること、実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。

神明貝塚の動画を見る様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲授業導入では神明貝塚の紹介動画と学校近くの遺跡を紹介。集中してみたり、メモしたり、一生懸命の授業風景です。

体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。

石器を使用して段ボールを切る体験

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲切れ味抜群の黒曜石の剥片。段ボールが難なく切れ込める、この切れ体験では毎年、歓声があがります。

1学期末まで各学校の依頼に応じて、この出張授業に取り組みます!

 

【 #常設展 】#春日部を踏みしめよう! 【 #土足歓迎 】

#春日部市郷土資料館 の常設展示は日々替わっています。今回は「空から春日部をみてみた」を追加しました。

空から春日部をみてみた

説明不要だと思いますが、要するに、春日部市域の航空写真を床に貼ってみました。手作りです。

写真は平成26年4月頃のものです。製作にあたっては、国土地理院の地理院地図を活用しました。

 

でも、ただ見るだけじゃ、つまらない。「見るんじゃない、感じるのだ」

ということで、郷土春日部を踏みしめましょう。「土足禁止」ならぬ、「土足歓迎」です。

ご自分のご自宅や学校・会社、市の施設がどこにあるか、目と足で感じ、探してみてくださいね~

春日部市の「へそ」をさぐる

春日部市の「へそ」はどこでしょうか。「へそ」とは、人の腹部にあるくぼみ(おへそ)のことですが、転じて、物の中央にあたる部分、物事の重要な部分の意でも使われます。春日部市の「へそ」を探る方法を思案すると、市域の中心地点(これを幾何的重心というそうです)が思い浮かびます。それを求めるのは複雑な数式を解かなければならないので、それは後考に期すとして、人文学的には次の二つのアプローチが思い浮かびます。

①仮説上の「へそ」 

最近の国勢調査では、全国の市町村別の人口重心が公開されています。

人口重心とは、人口の1人1人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が全体として平衡を保つことができる点をいいます。

平成27年の国勢調査によれば、春日部市の人口重心は、東経139度45分55.14秒 北緯35度58分16.1秒ということがわかりました。地図におとすと、ゆりのき通と東武線が交差するアンダーパスの南側の付近(緑町1丁目14番地)に相当します。ちなみ、平成22年の国勢調査による人口重心は、東経139度45分55.10秒 北緯35度58分15.67秒となり、この5年間で約5m北西に移動したことがわかります。

 

②市政における「へそ」 

春日部市には「中央」という住居表示があります。

春日部市の「中央」は、元は大字粕壁の一部、春日部駅西口に展開する商業地区および住宅地区にあたります。昭和43年(1968)9月の市議会で、大字粕壁字内出(うちで)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)を、中央一丁目、二丁目と定めることになり、昭和44年(1969)7月26日に誕生しました。

当時の春日部市は武里団地の造成をはじめとして、人口が急速に増加する傾向にありました。とりわけ現在の「中央」一帯は、昭和42年(1967)の国民体育大会に伴う整備以降、商業地区・官公庁が集約される地区として急速に発展を遂げていきました。昭和44年(1969)1月には市立病院が完成、同45年(1970)12月には市役所(現庁舎)が完成、同46年(1971)12月には駅西口改札が開設され、市の「中央」としての機能を備えいきました。

「中央」の住居表示を得た、春日部駅西口の付近の貴重な写真を紹介しましょう。いずれも当時としてはまだ珍しいカラー写真で市の刊行物に掲載されたものです。一枚目は昭和45年(1970)頃の春日部駅西口付近を空撮したものです(当時は西口改札はまだありませんでした)。

昭和45年頃の春日部駅西口付近空撮

低地に広がる田圃が、直線・直角の街路で整然と区画されいったことがわかります。

 次は、昭和46年(1971)ごろの市庁舎より春日部駅方面を眺めた写真。

昭和46年頃市庁舎より春日部駅方面

駅のホームまで見通せます。東口には今はなきスーパーマーケット(尾張屋・ニチイ)が建っています。

 

ところで、春日部市のみならず、昭和40年代から50年代にかけて県内各市町で「中央」の住居表示が創られていきました。県内の「中央」を列記すると以下の通りです(『角川日本地名大辞典』11埼玉県、昭和55年)。

・草加市 昭和41年(1966)4月に草加駅付近を「中央」

・蕨市 昭和41年(1966)10月に市の中央部・蕨駅付近を「中央」

・加須市 昭和42年(1967)5月に加須駅付近を「中央」

・本庄市 昭和45年(1970)9月に市の中央部・官公庁が集約される地区を「中央」

・上福岡市 昭和47年(1972)4月に市の中央部・上福岡駅近くを「中央」(現ふじみ野市上福岡中央)

・北本市 昭和48年(1973)6月に北本駅付近を「中央」

・久喜市 昭和48年(1973)11月に市の中央部・久喜駅付近を「中央」

・行田市 昭和51年(1976)2月に市の中央部・行田市駅南口付近を「中央」

昭和55年以降、栗橋町にも「中央」(現久喜市栗橋中央)、鷲宮町にも「中央」(現久喜市鷲宮中央)が創られていったようです。最近の例では、お隣のさいたま市では、平成15年(2003)4月の政令指定都市施行に伴い、旧与野市域が「中央区」と命名されています。

高度経済成長期の行政は、官公庁や市街地の中心となる駅周辺部を町の中心として「中央」と名付けたがる傾向があるようです。町が「中央」を基点にして発展することは歓迎すべきことではありますが、「中央」と名付けられることによって、「馬草場」や「与野」といった先人たちがつけた地名が失われていく側面も見逃せません。

いずれにしても、昭和40~50年代、あるいは1960~70年代にかけて、春日部市をはじめ埼玉県下の市は、高度経済成長の波にのみこまれて、都市化を遂げ、現在の町に至っているといっても過言ではありません。

春日部市に「中央」という「へそ」がが生まれたのは1960年代。春日部の町がどのように変わっていったのか、詳しく知りたいなぁ~、と思う今日この頃です。

・・・今後の郷土資料館の活動にご期待ください。

 

資料を寄贈いただきました♪

令和2年6月23日(火)には、市民の方から歴史資料の寄贈をいただきました。

ありがとうございます。

内容は、『上柳区・川端支部(川端組)の青年会』の昭和25年(1950年)から令和元年(2019年)までの青年会の総会についての財務収支表です。

 

●資料名:春秋青年会当番賄控帳 川端組

●年代:昭和25年9月~令和2年3月

●大きさ:縦 33㎝ 横 12㎝ 厚さ  2.5㎝

 

 戦後から令和にいたる、時代ごとの物価・品物・社会状況などを垣間見ることができる大変貴重な資料であり、「飲み物、食べ物の値段は70年でこんなに変わるものなのか」と改めて実感する事ができました。

上柳地区川端支部の皆さま、代々引き継がれる資料を寄贈いただき、ありがとうございました。

 

【常設展示】ビデオコーナーと体験コーナーを復帰しました

コロナウィルス感染防止のため一時中止しておりました、ビデオコーナーと体験コーナーにつきまして、安全対策が十分に行えるものに限り、復帰しました。 

ビデオコーナーは、5名様まで、間隔を開けた状態で30分までに限り、ビデオ、DVDをご視聴いただけます。

ビデオコーナー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

体験コーナーには、次のものを復帰しました。つかいおわったおもちゃは元に戻さず、「つかったものを入れる箱」を用意しましたので、その中に入れてください。1日あけて、消毒した上で、もとに戻します。  体験コーナー

・赤電話、黒電話(あかでんわ、くろでんわ)

・けんだま

・まんげきょう

・ぴょんぴょんカード

・パタパタ

・かみとんぼ

・かみてっぽう

・おてだま

・めんこ

・ぶんぶんごま

・かざぐるま

・レインスティック

 

郷土資料館ではコロナ感染症拡大防止のため、いくつかのお願いをしております。皆さまにはご迷惑をおかけしますが、ご協力いただきますようお願いいたします。

また郷土資料館にお越しの際は、ご無理のないようお気を付けください。

【配布してます】広報写真にみる1960年代の春日部

<ご注意ください。郷土資料館は6月13日(土)は臨時休館です。>

資料館では、6月2日より「KASUKABE1960s-1960年代の春日部」を実施する予定でしたが、コロナウイルス感染拡大防止のため、中止といたしました。楽しみにされていた皆様には、お詫び申し上げます。

かわりにではございませんが、資料館では現在、「広報写真からみる1960年代の春日部」と題した小冊子を配布しております。PDFを掲載いたしますので、ご覧いただければ幸いです。

広報写真にみる1960年代の春日部.pdf(1269KB)

冊子に掲載している写真は大部分が、郷土資料館サイト内の「かすかべデジタル写真館」に掲載しているものです。デジタル写真館では、1960年代に限らず、昔なつかしい写真を多数、掲載しておりますので、あわせてご覧ください。

郷土資料館ではコロナ感染症拡大防止のため、ご来館の皆さまにいくつかのお願いをしております。皆様にはご迷惑をおかけしますが、ご協力いただきますようお願いいたします。

また郷土資料館にお越しの際は、ご無理のないようお気を付けください。

【常設展】常設展示に米島貝塚出土黒浜式土器を2個体展示しています

常設展示で、これまで1個体を展示していた米島貝塚(こめじまかいづか)出土の黒浜(くろはま)式土器を2個体に増やしました。昨年の春の展示「指定文化財でめぐる春日部」で企画展示室に展示したもう1点の指定文化財の土器です。

米島貝塚出土黒浜式土器は、昭和36年(1961)に、住宅地造成に先立って行われた発掘調査で発見されたもので、平成20年に、優品2点が春日部市有形文化財に指定されました。

「黒浜式」は、蓮田市の黒浜貝塚群の出土土器をもとに設定された縄文時代前期の土器型式で、比較的粗い縄文が施されることが特徴です。また粘土に植物繊維を混入している痕跡が見られることから「繊維土器(せんいどき)」とも呼ばれます。「繊維土器」の手法は、黒浜式以前から確認されますが、黒浜式の次の「諸磯(もろいそ)a式」には見られなくなります。

米島貝塚では、黒浜式の中でも古段階の土器が出土する10号住居跡と黒浜式の繊維土器でありながら「諸磯a式」に近い文様をもつ土器が出土する2号住居跡が発見され、黒浜式土器の変遷を検討するきっかけになりました。

常設展示で、向かって左側に展示しているものが10号住居跡出土のもの、右側が2号住居跡出土のものです。10号住居跡出土土器は、米島貝塚の報告書では「g類」とされ、「器面全体が縄文(じょうもん)のみで覆われ」ています。一方、2号住居跡出土土器は「f類」とされ、「口縁部(こうえんぶ)に半截竹管具(はんさいちっかんぐ・半割りの竹)を用いて(中略)極めて幅の狭い文様帯(もんようたい)をもつもの」で、展示の土器にも、竹管具によるコンパス文と呼ばれる文様が描かれています。

現在の黒浜式土器の研究では、およそ古、中、新の3段階の変遷をたどるとされており、10号住居跡は古段階、2号住居跡出土土器は中段階に属すと考えられています。

米島貝塚出土黒浜式土器展示状況

しろのTシャツの少年、#クレヨンしんちゃん の記念スタンプをおす

6月5日夕方、「しろのTシャツを着た小学生が来ています」と、受付から連絡がありました。「しろのTシャツ」とは、白いTシャツではなく、クレヨンしんちゃんの愛犬「シロ」の図柄のTシャツのこと。色は青でしたから、シロの青いTシャツです。

先だっての再開後、 #春日部市郷土資料館 では、クレヨンしんちゃんの常設展示コーナーを開設していましたから、「これは再開後の一大ニュースだ!」ということで、しんちゃんの常設展示コーナーで記念に写真を撮らせてもらいました。話を聞くと、男の子は、市内在住のしんちゃんが大好きな小学3年生。好きなキャラクターは、しんちゃん、だそうです。

写真:展示をみる少年

特製のスタンプも、何度もおしてくれました。当館では、スタンプは2種類用意していますが、しんちゃんとシロの絵柄のスタンプがお気に入りとのことで、とても喜んでくれました。

しんちゃんは、漫画やアニメだけでなく、春日部の郷土資料館でも子どもたちを笑顔にしてくれています。

写真:スタンプをおす少年

ポツンと子どもの人形 新型コロナウイルスの終息と疫病除けを願って

常設展示室内

郷土資料館展示室の片隅に、ポツンとおかれた子供の人形。

座敷童子(ざしきわらし)ではありません。

皆さま、当館に来館されたら、どこにいるか、探してみてください。

この子が羽織(はお)っているのは、80年くらい前に、市内の小学校に通っていた児童が、実際に着ていたものです。マスクをしているのは、もちろん今の新型コロナウイルスに感染しないよう、皆さまに注意を促すためです。

ポツンと子供の人形

さて、この子は、何やら呪文のようなものが書かれた紙を、手に持っています。

よく見ると、この紙には「疱瘡神五人誤り證文事」と、タイトルが書いてあります。「ほうそうしん(がみ)ごにんあやまりしょうもんのこと」と読みます。

疱瘡(ほうそう)とは天然痘(てんねんとう)のこと。すでに40年前、地球上から根絶されたウイルスですが、強い感染力を持ち、致死率が高く、かつては恐ろしい流行病でした。科学的な知識が普及する前は、病は疫病神(やくびょうがみ)によってもたらされると人々に考えられていました。

江戸時代には、疱瘡神は、症状ごとに5柱に分かれており、この紙が貼ってある家には入りません、疱瘡神は取りつきませんと、疱瘡神たちが約束したものです。「疱瘡神の詫び証文(ほうそうしん(がみ)のわびしょうもん)」として、歴史学や民俗学の専門家の間では、よく知られている古文書です。

 疱瘡神に対してこのような誓約書を書かせたとすることで、疱瘡を予防しよう、発病しても軽症にとどめてもらおうと、江戸時代の人々は考えたのです。この誓約書は、市内に伝わったもので、実際に使われたものなのでしょう。このような疱瘡神の詫び証文は各地に伝わっており、特に、子供のいる部屋の中に貼り付け、使われていた例が、これまでにわかっています。

新型コロナウイルスは、天然痘ではありませんが、同じ疫病であることから、疫病退散の意味を込めて、この子に持ってもらいました。

 なお余談ですが、この誓約書の本文の最後に、「依而如件」と書かれています。「よってくだんのごとし」と読み、以上のとおりです、という意味の決まり文句ですが、この「件」という文字に由来する、半人半牛の姿の「件(くだん)」という妖怪がいました。「件」は疫病の流行や豊作などの人々にとっての吉凶を予言し、「件」の絵は疫除けとなると考えられていたそうです。

*疱瘡神の詫び証文については、時枝務氏の研究成果「呪符・守札と偽文書」(『偽文書学入門』2004年 柏書房)などに、妖怪「件」については、関口博巨氏「近世人の表現をめぐる試論―妖怪・昔話・芝居・偽文書など―」(『偽文書・由緒書の世界』2013年 岩田書院)によりました。

 

 

 

 

#アフターコロナ 郷土資料館再開 #クレヨンしんちゃん 登場など展示替

本日、令和2年6月2日(火)より #春日部市郷土資料館 が再開しました。十分な感染症対策を行った上での開館となり、ご利用の皆様に諸々のお願いをしております。今日は、再開後の資料館の様子をお伝えします。

館内に入ると、まず受付にビニールカーテンがつるされています。少し前でしたら異様でしたが、巷ではもうおなじみのビニールカーテン。飛沫感染を予防するためです。

写真:受付

入館される方には、皆様の安全を確保するため、お名前とご連絡先の記名やマスクの着用をお願いしています。

当館ではおなじみの、昔のおもちゃなどで遊べる体験展示コーナーですが、こちらも感染症予防のため大幅に展示物を撤去し、体験をご遠慮いただいております。

 写真:石臼の体験

縮小につぐ縮小でご不便をおかけしておりますが、再開後の良いニュースもあります。

本来ならば、4月7日にお披露目する予定だった展示替「クレヨンしんちゃんと春日部」の展示が、ようやくお披露目することができました。ほんとに小さなスペースですが、春日部市で制作したクレヨンしんちゃんの関係資料や、春日部ゆかりののある作品などを展示しています。なかでもイチオシなのが、「郷土資料館オリジナルのしんちゃんスタンプ」です。世界で唯一のスタンプを、ぜひご利用ください。スタンプはこまめに消毒しておりますので、ご安心を。

写真:クレヨンしんちゃん展示

また、地味ですが、①常設展示「江戸時代の村々」コーナーの古文書、②「水とのたたかい」コーナーの明治43年(1910)の水害記録「幸松村水害誌」を展示替えしました。①は、ちょうど300年前の水角村の古文書(年貢割付状)をくずし字が読めなくてもわかるように展示しました。②は、水害後の幸松村の産業についての報告記事を紹介しています。あわせてご覧ください。

写真:常設展の展示替

今後、コロナウイルスの感染の収束状況により、展示替や各種イベントを再企画していく予定です。

庄和総合支所で展示替えを行いました

庄和総合支所1階ロビーで開催している「春日部市発掘調査速報展示」の展示替えを行いました。

 

今回の展示は、平成29年度の権現山(ごんげんやま)遺跡3次地点、令和元年度の鷲前(わしまえ)遺跡1次地点の発掘調査成果のお披露目となります。どちらも庄和地区の東中野(ひがしなかの)に所在する遺跡で、昨年度、整理作業が終了し全ての発掘調査を終えました。

 

権現山遺跡の調査では古墳時代が始まる頃の住居跡がみつかり、そこで発掘された土師器(はじき)という土器を展示しています。土師器は弥生土器と同じように素焼きで作られた土器で、古墳時代からみられるようになります。その一つには穴が開けられた土器もあり、展示ケース越しに確認してみてください。

 

鷲前遺跡の調査では約6000年前の縄文時代の住居跡がみつかり、そこで発掘された縄文土器と貝がらを展示しています。特に注目してほしいのはハマグリやアサリ、マテガイといった、海に生息するたくさんの種類の貝がらです。

この貝塚を伴う住居跡からは、現在は海なし県の埼玉県ですが、縄文時代は気温が高く、海水面が上昇していたことから、春日部市内にも海が広がっていたことがわかります。つまり、鷲前遺跡でみつかった貝がらは、遺跡の周辺で採れたものです。不思議な感覚ですが、「春日部産」のハマグリやアサリと言っても過言ではないでしょう。また展示した3個体の土器には細かな縄目(なわめ)がつけられ、まさに縄の芸術をみることができます。

 

 

 

新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言は解除されましたが、「密」にならず、お譲り合ってご覧いただければと思います。

 

庄和総合支所での展示の様子

 

 

 

 

 

 

令和2年6月2日から郷土資料館を再開します

新型コロナウイルス感染拡大防止のため令和2年4月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和2年6月2日(火曜日)から開館します。
なお、体験コーナーは利用できません。

<来館時のお願い>
・大人数での来館は控えてください。館内の状況により、入場制限を行う場合があります
・発熱などの風邪症状のある人は入館できません
・皆さんの安全確保のために、入館時に氏名・緊急連絡先の記入をお願いします
・入館時の手指の消毒にご協力をお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・滞在時間は、30分を目安にしてください
・会話を控えるとともに、他の来館者との十分な距離(おおむね2メートルを目安)をとってください

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(最終回)

前回まで5回にわたってお送りしてきた、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)の #おうちミュージアム 。今回は最終回。牛島のフジに訪れた歴史上の人物について紹介します。

観光案内のパンフレットなどで、牛島のフジに訪れた著名人として、もっぱら語られるのは、詩人の三好達治。「何をうし島千歳ふじ はんなりはんなり」と詠んだ「牛島古藤花」は牛島のフジを象徴する詩として紹介されています。三好達治は著名な詩人ですし、彼が牛島のフジを題材にして詩を遺したことは春日部の誇るべき文化遺産だと思います。しかし、前々回の記事で紹介したように、牛島のフジが「国指定」天然記念物とされて以降、指定以前の由来や歴史が捨象されていく傾向がみられます。三好達治が牛島に訪れたのは昭和36年(1961)の春。古いようで、実は50年前の出来事、しかし新しいわけでもない。詩の世界に疎い展示担当者は、「牛島古藤花を詠んだ三好達治」と初めて聞いたとき、「三好達治って??」と正直思ってしまいました。

ミニ企画展「藤のまち春日部」では、三好達治に劣らない歴史上の著名人が牛島のフジに訪れたことをパネルで紹介しました。

写真:展示風景

さて、どんな人物が訪れたのか(ハードルあがっちゃいました)。

古くは、江戸時代の大名諸侯、慶応年間には日光山輪王寺門跡(のちの北白川宮能久)が訪れました。これについては初回の記事で紹介したところです。大名諸侯とありますので、近世史料を丹念に調査すれば、〇〇藩の御殿様が牛島のフジに来ていた!なんてこともわかるかもしれません。ちなみに北白川宮能久は、日清戦争の時に台湾に近衛師団長として出征し、現地でマラリアに罹り急死する人です。皇居外苑の北の丸公園内に馬上の姿の銅像があることでも知られます。

明治以降では、現在判明する限りでは、明治19年(1886)5月に跡見花蹊(跡見学園創始者)、同33年(1900)5月に幸田露伴(小説家)、松原二十三階堂(小説家)同35年(1902)5月に徳川昭武(徳川慶喜実弟)、同45年4月に渋沢栄一(実業家)が訪れています。また、訪れた年代は未詳ですが、清浦奎吾(総理大臣)、大和田建樹(詩人)、徳富蘇峰(思想家)、田山花袋(小説家)、大町桂月(詩人)、中野三允(俳人)なども訪れています。

大和田建樹についてはその2の記事で、田山花袋・大町桂月・清浦圭吾についてはその3の記事で紹介しました。

今回は、新紙幣1万円札の肖像になる渋沢栄一について少し紹介しましょう。渋沢が牛島のフジに訪れたのは明治45年(1912)4月28日のこと。旧制粕壁中学校(現・県立春日部高等学校)の講演会に招かれ、粕壁駅から人力車に乗り、牛島のフジを見学しています。ちなみに、渋沢は大正7年(1918)5月11日にも、町内の某家の敷地内にある碑文の除幕式に出席するため、粕壁に訪れています。

上述の著名人のほかにも、数多の政治家・文化人が牛島のフジに訪れたはずです。訪問したかどうかはわかりませんが、昭和の小説家太宰治の作品「斜陽」にも牛島のフジが登場しますし、平塚らいてうは牛島のフジに訪れようとしていたことが手記に記されています。「天国に一番近い島」で知られる森村桂さんの父で、旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)卒業の純文学作家豊田三郎は、晩年夫人と牛島のフジを見に行こうと約束していていましたが、残念ながら果たせなかったそうです。余談ですが、昭和43年放送のNHK朝の連続テレビ小説「あしたこそ」は、森村桂さんの家族がモデルです。昭和以前の文化人にとって、牛島のフジは間違いなく藤の名所だったことがうかがえます。今後も調査をすすめていけば、牛島のフジを彩る歴史上の人物たちが見いだされることになるに違いありません。

 計6回にわたりお送りしてきた#エア博物館「藤のまち春日部」展は、今回が最終回になります。コロナのおかげで誰も観ることなく、バラされた展示会も無事「成仏」することができました。展示担当者としては、資料の原物をご覧いただき、皆さまからご意見・ご感想・お叱りをいただきたかったのですが、こうした形でWEB上に爪痕を遺すのも悪くないかなとも思っています。

最後に、「藤のまち春日部」のリバイバル展示ができること、そして皆様が牛島のフジをはじめとする春日部の藤により一層の親しみ・愛着を抱いていただくことを願い、擱筆させていただきます。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

#エア博物館 春日部市内の遺跡

 

#おうちで博物館

考古学講座にむけて、今回は市内の遺跡をおおまかにみていきます。

春日部市域の地形をみると、西側には岩槻区方面から続く大宮台地、東側には野田市方面から続く下総台地があります。内牧や花積が大宮台地上、西親野井、塚崎、西宝珠花、西金野井、米島、東中野などが下総台地上に位置します。台地の間は、中川低地と呼ばれ、自然堤防という微高地が、河川の流れに沿って立地します。また埼玉県東部地域には、特徴的な地形である河畔砂丘(かはんさきゅう)が存在し、市内でも小渕、浜川戸、藤塚で確認することができます。市内の遺跡は、縄文時代までは台地上で展開しますが、弥生時代以降、低地にも遺跡がみられます。低地の発掘調査はまだ少なく、今後、低地においても縄文時代以前の遺跡が発見される可能性があります。

慈恩寺原北遺跡の石器

春日部市域で最も古い人間の痕跡は、約3万年前の旧石器時代のものです。慈恩寺原北(じおんじばらきた)遺跡(花積)、坊荒句(ぼうあらく)遺跡(内牧)、風早(かざはや)遺跡(西金野井)で、約3万年前の石器が発見されています。

 

 

 

 

米島貝塚出土黒浜式土器縄文時代は、今から約6,000年前をピークとする縄文海進(じょうもんかいしん)により、春日部市域の中心部が海となり、その沿岸となる大宮台地、下総台地に、貝塚が多く残されます。海が最も入ってきた時期にあたる縄文時代前期の代表的な遺跡は、花積貝塚(花積)や町道(まちみち)遺跡(西宝珠花)、米島貝塚(米島)などが挙げられ、アサリやハマグリなど、海の貝で貝塚が形成されています。

今から約3,800年前、縄文時代後期には、神明貝塚(しんめいかいづか、西親野井)が営まれます。神明貝塚は、直径約150mの範囲にドーナツ状に貝が広がる貝塚で、貝の種類は、汽水に生息するヤマトシジミが実に99%を占めます。この時代には海が南へ下がり、春日部市域周辺には、淡水と海水がまじりあう汽水域が広がっていたことがヤマトシジミの出土量からわかります。貝塚では、貝からカルシウム成分が土壌に供給されることにより、本来であればなくなってしまう、人骨や獣骨、魚骨などが残されています。神明貝塚でも現在までに5体の人骨が発見されています。また、新潟県で採れるヒスイを素材にした装飾品など貴重な遺物も発見されています。2020年3月に国指定史跡になりました。

 

須釜遺跡出土土器弥生時代は、埼玉県東部地域では遺跡数が非常に少なくなります。しかしながら、2001年に倉常の自然堤防上に立地する須釜(すがま)遺跡で、約2,000年前の再葬墓(さいそうぼ)と呼ばれる墓の跡が発見され、弥生時代の本格的な遺跡として認知されるとともに、低地においてさらなる弥生時代の遺跡発見の可能性が高まっています。再葬墓の「再葬」とは、人の遺体を土中などに一定期間埋葬したのちにとり出し、骨だけの状態に整えて土器に入れ、再度、埋葬することです。須釜遺跡では、2回目の埋葬の跡である11基の再葬墓と約30個体の完全な形に近い土器が発見されました。また、土器の表面に稲籾の痕跡が確認され、当時の春日部市域の人々はすでに米を知っていたと考えられます。

 

古墳時代になると、台地上では、風早(かざはや)遺跡、尾ヶ崎(おがさき)遺跡(西金野井)や香取廻遺跡(大衾)、権現山遺跡(東中野)で前期の集落が確認されています。権現山遺跡では、底部穿孔壺形土器(ていぶせんこうつぼがたどき)が出土し、県指定文化財になっています。低地では、沼廻(ぬままわり)遺跡(銚子口)、須釜遺跡(倉常)、浜川戸遺跡(浜川戸)で前期の遺物が出土しています。

塚内4号墳出土の刀

古墳時代後期、6世紀前半から営まれる内牧の塚内(つかない)古墳群は、約20基の古墳から形成される市内の古墳時代を代表する遺跡です。塚内4号墳からは、直刀や鉄鏃(てつぞく)、ガラス小玉、人物埴輪などとともに、下総系と武蔵系の2種類の円筒埴輪が出土しています。一つの古墳から武蔵、下総2地域の円筒埴輪が出土している唯一の例であり、春日部の地が武蔵と下総の境界の地であったことがわかります。

古墳時代後期の集落は、台地上では、塚崎遺跡(塚崎)、貝の内遺跡、陣屋遺跡(西宝珠花)、宮前遺跡(東中野)、低地の自然堤防上では、小渕山下遺跡、小渕山下北遺跡(小渕)などで確認されています。

 

貝の内遺跡出土の下総国分寺瓦8~10世紀の奈良、平安時代となると、台地上では、貝の内(かいのうち)遺跡(西宝珠花)や塚崎遺跡(塚崎)、低地では、小渕山下遺跡(小渕)や浜川戸遺跡(浜川戸)、八木崎遺跡(八木崎)などで大規模な集落が営まれます。貝の内遺跡では、現在の千葉県市川市に所在した下総国分寺(しもうさこくぶんじ)で使われた軒平瓦(のきひらがわら)が出土し、当時、貝の内遺跡を含む春日部市の東部が、下総国の範囲であったことのみならず、下総国分寺と何らかのつながりがあったことを示します。小渕山下遺跡や浜川戸遺跡などは、低地の自然堤防上に営まれた集落で、多くの住居跡が集中的に立地しています。奈良、平安時代の遺跡から出土する道具には、土師器(はじき)や須恵器(すえき)といった土器のほかに、刀子(とうす)や鎌などの鉄製品があります。またこの時期には、日常的に広範囲の地域と流通があり、例えば須恵器は、埼玉県西部の比企地域や茨城県の新治地域の産地から運ばれたものが出土しています。土器や道具に書かれた文字資料も増加します。塚崎遺跡では、「春ア□□」(□は不明の字)と墨書された須恵器が出土しています。「ア」の字は「部」と解読でき、「春部」と読めることから「春日部」につながる文字である可能性があります。八木崎遺跡では、春日部高校の新校舎建設に先立つ発掘調査で、「奉念隋□道足」と刻まれた糸をつむぐための石製の紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土しています。

 

浜川戸遺跡の板碑中世では、浜川戸遺跡の発掘調査で、堀や建物の跡、また板碑などが発見されています。春日部八幡神社には、周辺に館を構えた武士の春日部氏が鎌倉の鶴岡八幡宮から八幡神社を勧請(かんじょう)した由緒が伝わっており、発見された堀や建物の跡は春日部氏の館であった可能性が濃厚です。

遺跡は、その地に生きた名もない人々の生活を、飾ることなく伝えてくれます。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その5)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、戦後そして現代に至る、春日部市のまちづくりとフジの関係について紹介します。

昭和30年(1955)8月22日、牛島のフジは、国の特別天然記念物に指定されます。今もなお、「特別」天然記念物のフジは唯一であり、牛島のフジは春日部を象徴するものとなります。春日部市では、現在にいたるまで牛島のフジを由来として、藤を活用したまちづくりを進めています。昭和48年(1973)10月、春日部市制20周年を記念して、フジを市の花と制定されました。

昭和54年(1979)には市の花フジ147本を植樹した街路「ふじ通り」が整備され、同57年5月以来、「ふじ通り」では「春日部藤まつり」が開催されました。記念すべき第一回藤まつりの写真が遺っています。

写真:第一回藤まつり

横断旗をもつ高校生の服装が時代を物語りますね。

また、第一回藤まつりの開催を記念して「藤音頭」が制作・制定され、レコードが頒布されました。「藤音頭」の作詞は国語学者金田一春彦、作曲は山本直純、歌い手は原田直之でした。藤音頭発表会の貴重な写真も遺っています。

写真:藤音頭発表会

金田一先生にもお越しいただきました(右から5番目の椅子に座ってらっしゃいます)。

平成4年(1992)には、全国の藤にゆかりのある市の代表者が集まり、都市づくりの会議「藤の都市サミット」が開催されました。平成4年の第1回サミットは、静岡県藤枝市において開催され、フジを市の花に定めている全国の市の代表者が集まり、都市づくりについて話し合うものでした。これも貴重な写真が遺っています。

写真:藤サミット第1回

前列左が三枝前市長です。平成6年(1994)には春日部市を会場として第二回藤の都市サミットが開催され、ふじ通り沿いで、谷原二丁目交差点付近にある公園「ふじ広場」に、参加した藤の都市の首長らによって、フジが植樹されました。藤の都市サミットは、残念ながらその後立ち消えとなってしまったようです。
平成17年(2005)、旧春日部市・旧庄和町合併後、同19年2月21日にはフジが新市の花として指定されます。ちなみに旧庄和町の花は「ショウブ」でした。新市においても、旧庄和町のシンボル「大凧あげ」と融合した大凧マラソンのイメージキャラクター「ふじだこくん」や「藤テラス」といった新たなイベントなども生まれています。春日部の特産品「押絵羽子板」でも「藤娘」が好まれて製作されています。

今年はコロナ禍により、藤まつり、藤テラス、牛島の藤の公開と藤に関するイベントが軒並み中止となってしまいました。しかし、藤の花の季節は過ぎましたが、季節を問わず、市の花フジを楽しませてくれるものがあります。その代表例といえるのがこれ。

写真:春日部市のマンホール

マンホールです。粕壁地区の学校通りで撮影しました。これは彩色されていますが、色のないバージョンや少し小ぶりなものもあるようです。春日部市では、まちづくりのなかで市の花フジをモチーフにした制作物がとり入れられてきました。普段は見過ごしがちな日常の風景のなかにも、まだまだフジが隠れているかもしれませんよ。個人的にも、展示のためのマンホール捜し、結構楽しかったです。

余談ですが、先日、とあるテレビで、春日部親善大使のあるタレントさんが、巷で人気の漫画・アニメ「鬼滅の刃」の藤は春日部の藤(牛島の藤)だと話し、春日部をPRされていました。「鬼滅の刃」は架空の話でしょうし、根拠がないので「聖地」ではないようですが、春日部の代名詞である藤の花に再びスポットがあたるといいですね。

次回はいよいよ「藤のまち春日部」展の最終回。牛島の藤に訪れた著名人について紹介したいと思います。

#エア博物館 遺跡と遺構と遺物

#おうちで博物館

郷土資料館の今年度の計画では、12月ごろに学芸員による「考古学講座」を予定しています。広報やほごログでご案内いたしますので、ご興味のある方はぜひご参加いただければと思います。新型コロナ感染症の状況も心配ですが、実施に向けて準備を進めています。

今回は講座でお話する内容の中から、考古学でよく使われる「遺跡」と「遺構(いこう)」と「遺物(いぶつ)」という用語についてご紹介します。

まず遺物は、土器や石器のような遺跡からとりはずして動かせるもののことを言います。人工遺物の他に、動物の骨や植物の種子など自然遺物と呼ばれるものも含まれます。

遺構は、住居の跡や墓の跡など、容易に遺跡からとりはずして持ち運べないもののことを言います。そしてこの遺構、遺物から構成されるものが遺跡です。

視点を変えてみますと、資料館に展示している土器や石器などはすべて遺物です。遺構は図面や写真、資料館の竪穴式住居模型のような復元模型の方法で紹介されます。

遺構は、遺構の剥ぎ取りなど例外的な方法を除いては、実物を持ち帰ったり、展示することができません。したがって、発掘調査を行う場合は、遺跡でしっかりと遺構の記録をとることが重要になります。

さらに、過去の人類の活動を研究する上では、遺跡内の遺構と遺物の位置関係が重要になります。例えば、一つの土器が、竪穴式住居の床面から発見されたのか、埋まっている土の中から発見されたのか、ここに着目することによって、その土器が竪穴式住居に住んだ人たちの土器なのか、それとも住居が使われなくなってからの土器なのかを推定することができます。

遺構と遺物を区別して考えることで、遺跡への理解が深まります。

 

遺構:竪穴住居跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺構:竪穴住居跡(貝の内遺跡(西宝珠花))

遺物:土器

 

 

 

 

 

 

遺物:土器 (塚崎遺跡(塚崎)の土師器(はじき))

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その4)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、昭和初めに国の天然記念物に指定され、ますます有名になっていく「牛島のフジ」(国特別天然記念物)について蘊蓄(うんちく)を語ります。

昭和3年(1928)1月18日、「牛島のフジ」はに国指定天然紀念物に指定されました。当時、埼玉県の天然紀念物としては5つ目でした。国会図書館デジタルコレクションで当時の『官報』を御覧いただけます(2コマ目左下段)が、『官報』上の表記は「牛島ノ藤」だったのですね。

ところで、国指定の文化財といえば、先日、市内の西親野井地区の神明貝塚が国の史跡に指定されました。市内では「牛島のフジ」に次いで2例目の国指定となりました。神明貝塚の例のように、国の文化財の指定にあたっては綿密な調査・研究が積み重ねられ、学術的な評価・価値づけがされた上で指定となります。同様に「牛島のフジ」も、当時の国の調査団による調査が行われ、価値付けがなされています。

調査は指定を遡る数年前の大正末年、植物学の大家で、日本に天然記念物の概念を広めた三好学(理学博士)の指導のもと、内務省の名勝天然紀念物保存調査会により調査されました。当時の調査報告『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第35号(大正13年刊・98~99コマ目)によれば、「世ニ紫藤ノ大ナルモノナキニ非ザレドモ未本樹ノ如ク著シキモノアルヲ聞カズ、天然紀念物トシテ指定セラルベキモノト信ズ」と評価されています。つまり、藤の大木は無くはないが、「牛島のフジ」ほどものは未だに聞いたことがないので、天然紀念物に指定すべきだと評しています。同時に保存要件としては、根・幹・枝の損傷を防いで、適切な施肥をすることも指摘されています。

前にも触れた通り、明治時代には、花房を取ったり、和傘でさして藤花の下を(おそらく傘で花を痛めつけながら)くぐる観覧客がいました。天然紀念物に指定されることによって、「牛島のフジ」は国内有数の保存されるべき樹木として位置づけられることになったのです。

一方で、「牛島のフジ」の国指定は、結果として観光資源としての価値を高めていくことにも繋がりました。大正末の新聞紙上では内務省の調査団が訪れ、国指定に向けて期待する声が報じられていましたし、国天然紀念物の指定直後の5月には、関係諸氏を招き開催された祝賀会が開催されています(下の写真・かすかべデジタル写真館より)。

(クリックすると大きな画像が御覧いただけます)

さらに、昭和5年(1930)には『世界一藤のかすかべ』と題された、「牛島のフジ」を中心とした粕壁町・幸松村の観光ガイドブックが発行されています(館蔵)。明治時代には「関東一」だった「牛島のフジ」は「世界一」へと成長を遂げていったのです。国天然紀念物指定以降、「牛島のフジ」は国に認められた古木として、ますます多くの人々に知られるようになり、のちに春日部のシンボルにもなっていきます。

しかし、国の天然紀念物指定の本旨は、観光資源化でなく、その保存です(そういえば昨年は「史蹟名勝天然紀念物保存法100周年」でした)。表向きには華やかに「国の天然紀念物」と騒ぎ立てることは結構なのですが、その裏側の保存・保全にも光をあてるべき、と文化財行政に携わる職員として思います。こんなことを書くと、「観光マインドがない」と揶揄されてしまいそうですね。

「牛島のフジ」に関していえば、国指定以降、適切に保存・保全され、さらに戦後に施行された文化財保護法のなかで、昭和30年(1955)8月22日に国の特別天然記念物に指定され、今日まで保存・保全されてきています。昭和3年の国指定が今日までの「牛島のフジ」の保存・保全の起源となったといえ、こうした保存・保全の経緯があってはじめて「牛島のフジ」は存在しえているのです。

また、指定後のブランディングにも問題があるようです。「国指定」の冠を前面に押し出した刊行物等をみると、指定以前の由来や歴史が捨象される傾向が読み取れます。「国指定」のブランド力が強いため、中身が伴わず、空虚な価値付けに終始するものが多いようです。牛島のフジに関する伝説は昭和5年(1930)刊『世界一藤のかすかべ』が初見だったりします。

ですから、この#エア博物館「藤のまち春日部」展では、「国指定」以前の、「国指定」に留まらない牛島のフジの魅力を歴史のなかに見いだそうとしてきました。

藤の花は、もうすっかり散ってしまいましたが、あと2回ほど「牛島のフジ」に関する#エア博物館#おうちミュージアムにお付き合いください。

休館延長のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年5月31日(日)までの期間、郷土資料館の臨時休館を延長します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。

 

また、6月に予定しておりました下記のイベントは中止します。企画展示や講座につきましては、改めて企画し、皆さまに告知いたします。

・6月2日(火)~7月12日(日)企画展示「かすかべの宝もの17 KASUKABE1960s-1960年代の春日部」

・6月7日(日)大川明弘先生による歴史文化講演会・ウォーキング「古地図で読み解く昭和の粕壁」

・6月27日(土)展示解説講座・上演会

 

なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。

・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ

#エア博物館 #これはなんでしょう

#春日部市郷土資料館 では #休館中 収蔵資料の整理を進めています。今日は収蔵庫内に眠るお宝を #おうちミュージアム として紹介。

これなんでしょう?なにする道具?

 

 

 

 

 

 

正解は、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名称は「ミゾキリ」

春日部では古くから桐細工が盛んで、とくに桐箪笥・桐小箱が特産品となっています。「ミゾキリ」は木材を削るカンナの一種(溝切りカンナとも呼ばれるようです)です。この「ミゾキリ」は大正時代~昭和戦前まで、桐小箱を作っていた市内の職人が使っていた道具で、箱の本体と蓋を合わせるための溝などをほる時に使われたようです。

道具を横からみると、

 

矢印のところに突起(木・刃)があって、ここを木材の上で滑らすと、溝がほれるようになるのです。右手のナットを緩めて、溝をつけたい間隔を調整することもできます。

溝切りカンナは現在でも市販されているようですが、桐小箱づくりは高度経済成長期に機械化が進展したため、こうした道具は現在ではあまり使われていません。現在、春日部では桐箪笥職人の方たちが伝統工芸士として認定され、伝統的な桐箪笥製造の技術を伝承していますが、古くは桐小箱づくりの職人も「ハコサシ」などと呼ばれ、高度な指物技術を有していたものと考えられます。「ミゾキリ」は春日部の桐細工産業の技術を伝える資料として、とても貴重なものです。

エア博物館 おうちでぬりえをしませんか

#エア博物館 #おうちで博物館 #ぬりえ

いつもきょうどしりょうかんでくばっている、ぬりえをしょうかいします。

おうちでぬりえをたのしんでください。

 

クリックするとPDF(ぴーでぃーえふ)ファイルをダウンロードします。いんさつしてつかってください。

1.銚子口の獅子舞1.銚子口の獅子舞(ちょうしぐちのししまい)

2.備後須賀稲荷の初午祭(びんごすかいなりのはつうまさい)

3.やったり踊り3.やったり踊(おど)り

4.竪穴式住居4.竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)

5.牛島のフジ5.牛島(うしじま)のフジ

6.桐だんす・桐小箱6.桐(きり)タンス・桐小箱(きりこばこ)

7.押絵羽子板7.押絵羽子板(おしえはごいた)

8.秋葉神社の天狗8.秋葉神社の天狗(あきはじんじゃのてんぐ)

9.在原業平の伝説9.在原業平の伝説(ありわらのなりひらのでんせつ)

10.梅若丸の伝説10.梅若丸の伝説(うめわかまるのでんせつ)

11.千住馬車鉄道11.千住馬車鉄道(せんじゅばしゃてつどう)

12.春日部に最初に住んだ人たち12.かすかべに最初(さいしょ)に住(す)んだ人(ひと)たち

13.花積貝塚13.花積貝塚(はなづみかいづか)

14.内牧・塚内古墳群14.内牧・塚内古墳群(うちまき・つかないこふんぐん)

15.春日部氏の歴史15.春日部氏の歴史(かすかべうじのれきし)

16.日光道中粕壁宿16.日光道中粕壁宿(にっこうどうちゅうかすかべじゅく)

17.麦わら帽子17.麦わら帽子(むぎわらぼうし)

18.不動院野の神楽18.不動院野の神楽(ふどういんののかぐら)

19.赤沼の獅子舞19.赤沼の獅子舞(あかぬまのししまい)

#エア博物館 「藤のまち春日部」展の紹介(その3)

前回に引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、明治32年(1899)の東武鉄道開通以後の「牛島のフジ」(国特別天然記念物)についての蘊蓄(うんちく)。

前回ご紹介したように、千住馬車鉄道の開通もあり、「牛島のフジ」は東京の人々にも徐々に知られていきましたが、どうやら、東京近郊の名所として多くの人々に知られるのは東武鉄道開通後のようです。どうしてそのように考えられるのか。理由の一つとして、「牛島のフジ」に関する文献・資料は、明治32年以前のものは極端に少なく、鉄道開通以降、増えるということが挙げられます。新聞や著名人の紀行文だけでなく、地元粕壁でも、明治33年(1900)5月に『粕壁藤の紫折(しおり)』(当館所蔵)という観光パンフレットが発行されています。こうした刊行物・新聞や前回紹介したような絵葉書などによって、「牛島のフジ」はより多くの人々に知られるようになり、汽車を利用して、気軽に日帰りで訪れる東京近郊の名所地として確立されていきました。

また、5月には東武鉄道沿線では、牛島のフジとならんで、館林のツツジも花盛りを迎えます。東武鉄道では、フジの花盛りの季節に粕壁までの鉄道運賃を割引とし、東京の観光客を取り込もうとし、沿線に花の名所を位置づけていくことで、鉄道利用者を増やそうとしていったようです。例えば、田山花袋と牛島のフジを観覧した大町桂月は、東京から東武鉄道を利用して館林のツツジを観覧した後、田山と牛島のフジに訪れています(『東京遊行記』)。藤の花が満開を迎えるころには、一日の乗客が3000人に及んだといいます(『東武鉄道線路案内記』)。当時、最寄りの停車場である粕壁駅前には汽車や人力車の待合茶屋が設けられいた(『埼玉県営業便覧』)ことも考えると、藤のシーズンには粕壁は観光客で大変賑わったことでしょう。

さて、今回紹介する資料は、東武鉄道開通以後の明治40年(1907)の紫雲館の領収書です。 

写真:紫雲館領収書

紫雲館とは、牛島のフジの所在する庭園「藤花園」内にあった料亭です。紫雲館については、『東武鉄道線路案内記』(明治37年刊行)に「曽(かつ)て清浦法相観覧の砌(みぎり)、当園を紫雲館と命名せられり、今其遍(ママ)額を掲けあり、園内には紫雲館と称する賃席料理店あり、閑雅にして客室清浄川魚の名物なり」(32コマ)とあります。

清浦法相とは、当時司法大臣で、のちに総理大臣となる清浦奎吾(1850~1942)のこと。清浦奎吾は、若い頃に埼玉県の官吏でもあり、埼玉県東部地域とゆかりが深い人物です。紫雲館という名は、この清浦が命名したといい、能筆家でもあった清浦の扁額もあったと記されています。園内の紫雲館は静かで趣が深く清潔な賃席料理店であり、川魚料理が名物だったといいます。

 さて。この紫雲館の領収書は、明治40年5月13日のもの。粕壁町の篤志家であった山口万蔵が利用したときのものです。料理代・席料として2円95銭が計上され、そのほか「大和弐ツ」の代金として14銭を領収しています。「大和」とは酒か何か品物の銘柄なのでしょうか、詳細は不明です。あるいは「大和」と読んでいいものか微妙な字なのですが。いずれにしても、『東武鉄道線路案内記』が紹介しているように料理を出す施設であったことがうかがえます。

そして、学芸員一押しなのが、この領収書のハンコです。展示会ではココを皆さんにご覧いただきたかった!

ハンコの部分を少し拡大して撮影した写真が下のものです。

写真:領収書のハンコ

薄くてよくみえないのかもしれませんが、原物も薄いのでご了承ください。

ハンコには「藤花園章」と刻まれています。一押しは紫の朱肉です。藤ですから、藤色と言うべきでしょうか。なんとも洒落ているではありませんか!

この藤色の朱肉から、「閑雅」な紫雲館の情景が読み取れる(のではないかと個人的には思う)とてもいい資料だと思います。収蔵庫から(偶然)見いだした時、結構感動したんですよ。

なお、今年は、牛島のフジの公開は中止となりました。4月30日、花盛はちょうど最高の状態だそうです。残念ですが、藤の花も、フジをみながら語る蘊蓄も、来年まで楽しみにしておきましょう。

次回も#おうちミュージアム 牛島のフジの蘊蓄にご期待ください。

エア博物館 春日部市の埋蔵文化財発掘調査報告書

#エア博物館 #おうちで博物館

今回は、春日部市域の遺跡に関わる発掘調査報告書を紹介します。

日本では、年間8,000件近い遺跡の発掘調査が行われており、発掘調査を行うと調査報告書を刊行することが義務付けられています。発掘調査報告書は、国立奈良文化財研究所による「全国遺跡報告総覧」などでインターネット上に公開されているものもあります。

全国遺跡報告総覧(国立奈良文化財研究所サイト)

春日部市域の遺跡に関わる発掘調査報告書は、下記のようにこれまでに80冊以上が刊行されています。現在のところ、2018年に刊行した『埼玉県春日部市神明貝塚総括報告書』を、全国遺跡報告総覧でPDFファイルで公開しています。この他のものは、文化財保護課や市立図書館で閲覧できるほか、文化財保護課で販売しているものもあります。

発掘調査報告書に掲載することはおおよそ決められており、調査の経過や遺跡の立地、遺構・遺物の説明、また自然科学分析を実施した場合はその結果、さらに調査者の考察などが掲載されます。

発掘調査報告書は発掘調査された遺跡の第1次資料であり、「記録保存」 のための重要な刊行物です。決して読みやすい本ではありませんが、お時間があるときに、まずは神明貝塚の総括報告書からご覧いただければ幸いです。

 

●春日部市域に関わる発掘調査報告書(このリストは今後、随時更新します。)

<埼玉県遺跡調査会報告書>

1970      『花積貝塚発掘調査報告書』埼玉県遺跡調査会報告第15集

 

<埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書>

2002      『八木崎遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第281集

2014      『南台遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第414集

2016      『浅間下遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団第418集

 

<各遺跡調査会報告書>

1979      『風早遺跡』庄和町風早遺跡調査会

1984      『尾ヶ崎遺跡』庄和町尾ヶ崎遺跡調査会

1986      『陣屋遺跡-昭和57年度調査の記録-』庄和町陣屋遺跡調査会

1988      『浅間下遺跡第1地点・第2地点』庄和町浅間下遺跡調査会

1989      『貝の内遺跡』庄和町貝の内遺跡第2地点遺跡調査会

 

<(旧)春日部市埋蔵文化財調査報告書>

1987     『花積台耕地遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第1集

1988     『花積33・34・38号遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第2集

1989     『春日部市NO.31・39・44号遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第3集

1994     『花積台耕地遺跡3次、浜川戸遺跡12・13次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第4集

1995     『浜川戸遺跡14・16次、花積内谷耕地遺跡3次、慈恩寺原西遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第5集

1997     『浜川戸遺跡18次、小渕山下遺跡、花積内谷耕地遺跡4次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第6集

1998     『市内遺跡調査Ⅰ』春日部市埋蔵文化財調査報告書第7集

1999     『小渕山下北遺跡、八木崎遺跡2次、花積内谷耕地遺跡5次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第8集

2000     『立山遺跡2次、浜川戸遺跡15、22、23次、小渕山下北遺跡3次、塚内15号墳』春日部市埋蔵文化財調査報告書第9集

2001     『花積内谷耕地遺跡6次、花積台耕地遺跡5次、谷向遺跡、塚内16号墳、塚内17号墳、小渕山下北遺跡4、5次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第10集

2003     『浜川戸遺跡5、6、7、24、25、26次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第11集

2003     『浜川戸遺跡8、10次、花積台耕地遺跡6次、慈恩寺原南遺跡、塚内18号墳』春日部市埋蔵文化財調査報告書第12集

2004     『八木崎遺跡3次、浜川戸遺跡27、28次、小渕山下北遺跡6次、慈恩寺原南遺跡2次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第13集

2005     『浜川戸遺跡1、2、3、4次調査地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第14集

  

<庄和町文化財調査報告>

1965   『米島貝塚』庄和町文化財調査報告第1集

1970   『神明貝塚』庄和町文化財調査報告第2集

1978   『神明遺跡-範囲確認調査-』庄和町文化財調査報告第3集

1996   『香取廻遺跡-第1次・第3次・第4次の発掘調査の記録-』庄和町文化財調査報告第4集、(庄和町遺跡調査会報告書第4集)

2001   『宮前遺跡』庄和町文化財調査報告第6集

2002   『陣屋遺跡-第1・3・4・5・6・7次調査の記録-』庄和町文化財調査報告第7集、庄和町遺跡調査会報告書第10集 

2003   『須釜遺跡』庄和町文化財調査報告第9集

2004   『塚崎遺跡ー第1・2・3・4・5・6次調査の記録』庄和町文化財調査報告第11集

2004   『町道遺跡・町通中遺跡』庄和町文化財調査報告第13集

2005   『浅間下遺跡第3次・香取廻遺跡2.5次・愛宕遺跡第2次・原遺跡第2次・馬場遺跡』庄和町文化財調査報告第14集

2005   『権現山遺跡第1次調査』庄和町文化財調査報告第15集

 

<春日部市遺跡調査会報告書>

1989     『春日部市33号遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第1集

1994     『新寺遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第2集

1995     『新寺遺跡2次』春日部市遺跡調査会報告書第3集

1995     『坊荒句北(1,2次)、坊荒句、立山遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第4集

1998     『小渕山下北遺跡2次』春日部市遺跡調査会報告書第5集

1998     『竹之下遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第6集

1999     『浜川戸遺跡21次』春日部市遺跡調査会報告書第7集

1999     『花積台耕地遺跡2次』春日部市遺跡調査会報告書第8集

1999     『大道東遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第9集

1999     『花積台耕地遺跡4次』春日部市遺跡調査会報告書第10集

1999     『浜川戸遺跡11次』春日部市遺跡調査会報告書第11集

2001     『浜川戸遺跡17、19、20次』春日部市遺跡調査会報告書第12集

2004     『坊荒句遺跡2次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第13集

2004     『八木崎遺跡4次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第14集

2004     『小渕山下北遺跡7次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第15集

2005     『慈恩寺原南遺跡3次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第16集

2006     『慈恩寺原北遺跡2次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第17集

2006     『小渕山下遺跡2次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第18集

2006     『小渕山下遺跡3次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第19集

2010     『貝の内遺跡4次地点』春日部市遺跡調査会報告書第20集

2010     『貝の内遺跡12次地点』春日部市遺跡調査会報告書第21集

2011     『権現山遺跡2次地点』春日部市遺跡調査会報告書第22集

2011     『貝の内遺跡9次地点』春日部市遺跡調査会報告書第23集

 

<庄和町遺跡調査会報告書>

1989   『馬場遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第1集

1993  『寺屋敷・須釜遺跡発掘調査報告書』庄和町遺跡調査会報告書第2集

1994  『西の宮遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第3集

1997   『愛宕遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第5集

1998   『新宿新田不動塚遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第6集

1999   『吉岡遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第7集

2000   『原遺跡第1次・風早遺跡第2次・馬場遺跡第3次』庄和町遺跡調査会報告書第8集

2002   『作之内馬場遺跡・作之内遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第9集

2005   『風早遺跡第3次調査・馬場遺跡第4次調査』庄和町遺跡調査会報告書第11集

2005   『吉岡遺跡第2~5次』庄和町遺跡調査会報告書第12集

 

<(新)春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書>

2006     『花積台耕地遺跡7次地点、慈恩原南遺跡4.5次地点、貝の内遺跡11・19次地点、小渕山下北遺跡8次地点、浜川戸遺跡29次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第1集

2007     『塚内14号墳』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第2集

2007     『貝の内遺跡2.20.21.22.23.24次地点、小渕山下遺跡4次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第3集

2008     『神明貝塚4次地点、塚崎遺跡7.8次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第4集

2008     『小渕山下遺跡6次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第5集

2008     『犬塚遺跡6次地点、中野吉岡遺跡1.2次地点、小渕山下遺跡5次地点、小渕山下北遺跡9,10次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第6集

2008     『小渕山下北遺跡14次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第7集

2009     『犬塚遺跡4次地点、貝の内遺跡1.7.14.16次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第8集

2009     『貝の内遺跡26次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第9集

2010     『貝の内遺跡8.13.18次地点、陣屋遺跡8次地点、中屋舗遺跡1次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第10集

2011     『小渕山下北遺跡11、12、13次地点、浜川戸遺跡30次地点、貝の内遺跡25次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第11集

2011     『中屋舗遺跡2次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第12集

2012     『花積貝塚3次地点、米島西宮遺跡1次地点、米島塚山遺跡1次地点、馬場遺跡5次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第13集

2013     『小渕山下遺跡7.8次地点、小渕山下北遺跡15.16.17.18.19次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第14集

2014     『八木崎遺跡5次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第15集

2014     『貝の内遺跡17.27次地点、浜川戸遺跡31.32.33次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第16集

2015     『作之内遺跡3次地点、西ノ宮東遺跡1次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第17集

2015     『浜川戸遺跡34次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第18集

2016     『陣屋遺跡9次地点、八木崎遺跡6次地点、貝の内遺跡15次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第19集

2018     『埼玉県春日部市神明貝塚総括報告書』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第20集

2019     『貝の内遺跡28次地点、馬場遺跡6次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第21集

2019  『権現山遺跡3次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第22集

2020 『鷲前遺跡1次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第23集 

文化財公開の中止のお知らせ

例年、春の風物詩にもなっている文化財の公開が、新型コロナウイルスのまん延防止の措置により、残念ながら中止となりますこと、お知らせいたします。

 ●国内唯一のフジ種目の国特別天然記念物であります『牛島のフジ』では、毎年、可憐で壮大な薄紫色のカーテンを楽しませていただいております。昨今の開花状況は例年とおり、順調な生育状況がみられます。今年は日々更新されています、藤花園のホームページで、是非、ご自宅で楽しんでください。 http://www.ushijimanofuji.co.jp/index.html

牛島のフジ 全景

 

 

 

 

 

 

また、4/14に当プログ上にアップしました、エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その2)でも藤の歴史を取り上げていますので、ぜひ、のぞいてみてはいかがでしょうか。

●5月の連休、全国各地からの円空仏ファンで連日にぎわう、県指定有形文化財『小渕観音院円空仏群』の公開におきましても中止となりました。7躯が本堂に勢ぞろいする年1回の機会ではございますが、拝観される方々の感染防止のため、お許しください。こちらも小淵山観音院のホームページで芸術的な画像を楽しむことができます。 https://www.kannonin.com/  

円空仏祭

  今年は皆さんに公開できず、所有者の皆さまも落胆されております。穏やか・健やかな日常が回復されましたら、また来年の春の頃、公開をご案内いたします。

【教えます】休館中は何をしているんですか?

#春日部市郷土資料館 は4月4日から臨時休館ですが、休館中も開館を期して準備を進めています。今回は #休館中 の資料館の #裏側 をご紹介します。

広報誌などでお知らせしていたように、新年度4月から、「クレヨンしんちゃん」や市の花「藤」の展示などを予定していたところですが、コロナウイルスの感染拡大を防止するため休館となり、中止・延期となってしまいました。

例年、今の時期には春季・夏季の企画展示に向けた調査に専念しているところですが、現在コロナウイルスの感染の終息に見通しが立たないことから、対面での資料調査・聞き取り調査等も自粛せざるをえず、企画展示の準備もままならない状況にあります。

郷土資料館の展示室はそんなに広くないので、展示物もほどほどといったところですが、実は地下にある資料収蔵庫には、普段は展示しきれないほどの資料が眠っています。教育委員会の職員も意外と知りません。今年度、郷土資料館に異動してきた職員もその数の膨大さに驚いていました!

写真:収蔵庫の様子 

収蔵庫を覗くと、こんな感じです。資料の劣化を防ぐための中性紙の箱で保管している古文書や歴史資料のほか、昔の生活道具・用具など多種多様な資料が棚に並んでいます。上の写真は収まりのよい部分を撮影したものですが、収蔵庫内は溢れんばかりの資料で、もう大変なことになっています。

以上のような状況にありますので、現在郷土資料館では将来への準備として、普段はなかなか落ち着いてできない収蔵資料の整理を進めています。休館中、何をしているのか。その答えは、資料の整理です。

写真:資料整理の風景

資料の整理とは、資料の点検をはじめ、未整理資料の確認・整理、写真の撮影などなど。職員総出で日々格闘しています。

恥ずかしい話ですが、「こんなのあったのか!」とか「久しぶりにみた」とか、なかには「(他所からわざわざ借りてきたけど)ウチ(=当館)にもあったのか!」など、地味ですが、発見に次ぐ発見の毎日です。この発見をすぐにでも、皆さんに実物を通じてお伝えしたいところですが、来るべき時まで温めておきたいと思います。一部はこのブログで「エア博物館」として紹介していきます。

エア博物館 春日部の歴史と火山灰

(2021年7月14日、専門研究者の方からご指摘をいただき、2003年刊行の『新編 火山灰アトラスー日本列島とその周辺』に基いた年代等に修正し、修正箇所はアンダーラインで示しました。)

 

#エア博物館 #おうちでミュージアム ということで、今回は火山灰について考えます。 

関東近県の火山の中では、現在も草津白根山で警戒情報が出されています。

草津白根山(白根山(湯釜付近))の活動状況

草津白根山の平成30年1月の噴火では、春日部市に被害はありませんでしたが、噴火の規模や風向きによっては春日部市にも火山灰が降る可能性があります。

噴火が観測された時は火山灰に注意してください(春日部市公式サイト)

コロナウィルスの影響で外出する機会も少ないかと存じますが、噴火の情報を見聞きしたときは、まず建物内に移動してください。

さて、関東地方の歴史と火山をみてみると、古くは鹿児島県の姶良カルデラの26000~29000年前に噴出した姶良丹沢火山灰(姶良Tn:AT)から、伊豆、箱根方面の火山では西暦1707年の富士宝永火山灰(F-Ho)、群馬・栃木方面の火山では、西暦1783年の浅間A(天明)火山灰(As-A)と多くの火山灰の存在が確認されています。

下に、2003年に刊行された『新編 火山灰アトラス 日本列島とその周辺』という本から、関東地方の火山灰を引用しました。これらの火山灰はすべて春日部市域に降灰しているわけではありません。しかしながら、特に群馬・栃木方面の火山の噴火は、土砂が多く利根川に流れ、春日部市の古利根川や江戸川も河床があがるなどの被害がありました。

また、火山灰は、火口に近い地域の場合、土壌中に土層になって現れることもありますが、春日部市域では、土壌に含まれる火山ガラスなどの特徴と検出層位から、どの火山灰かを特定しています。市域では、姶良丹沢火山灰(AT)や立川ローム上部ガラス質(UG)と推定される火山ガラスが確認されています。 

  以下、火山灰名、火山灰の記号、年代の順に引用しました。年代が不明なものは空欄となっています。

<富士・箱根・北関東:F-HoからAT>
富士宝永 F-Ho 西暦1707年(宝永4年)
富士新期上部(群)F-HoとF-Zoの間には8-9層のsfa(スコリア降下火山灰)があり、富士東麓から横浜・川崎まで分布。泥炭地遺跡で古墳平安時代の指標になる。
富士砂沢 F-Zn 2500~2800年前
富士大室 F-Om 2500~2800年前
富士大沢 F-Os 2500~2800年前
天城カワゴ平 Kg 3126~3145年前
伊豆大室山 Om 5000年前
富士新期下部(群) Kgと富士黒土層の間には仙石sfaなど4層以上のsfaがある。縄文後期から前期末までの遺物包含層と関係
箱根中央火口丘新規(群) 完新世のテフラ(小型火砕流)はK-Ahの下位に1層(神山起源Hk-Km5、約7.5-8Ka)、上位に2層(二子山起源Hk-Ft、約5.5Kaと冠ヶ岳起源Hk-Kn、約3Ka、Kg直上)がある。Hk-Km5、Knはカルデラの外側にも分布(上記年代は暦年較正値)。
鬼界アカホヤ K-Ah 7300年前
立川ローム上部ガラス質 UG(年代不記載)
安房 AG 13000~14000?年前
富士相模野第1 F-SS1 24000~26000年前
箱根中央火口丘中期(群) 含雲母グリース状Gr以後10ka以前の主に神山起源のテフラ(小型火砕流)は6層ある。そのうちAT直上のHk-Km3(約25ka)、Gr直上のHk-Km1(<50Ka)が顕著。
姶良Tn AT 26000~29000年前


<浅間・榛名・赤城・日光・北関東:As-AからAT>
浅間A(天明)As-A 1783(天明3)
浅間B(天仁) As-B 1108(天仁1)
榛名二ッ岳伊香保 Hr-FP 6世紀中葉 古墳時代
榛名二ッ岳渋川 Hr-FA 6世紀初頭 古墳時代
浅間C As-C 4世紀中葉 弥生時代
浅間D As-D 4500~5500年前 縄文中期
鬼界アカホヤ K-Ah 7300年前
浅間小諸2 As-Km2 11000~14000年前
男体七本桜 Nt-S 14000~15000年前
男体今市 Nt-I 14000~15000年前
浅間小諸1 As-Km-1 15000~16000年前
浅間草津 As-K 15000~16500年前
浅間板鼻黄色 As-YP 15000~16500年前
浅間大窪沢2 As-Ok2
浅間大窪沢1 As-OK1
浅間白糸 As-Sr 15000~20000年前
浅間雲場 As-Kb
男体片岡・小川(群) Nt-Kt/Og
浅間板鼻褐色(群) As-BP 20000~25000年前
那須黒森(群)Nas-Kr AT以上に2層、AT~DKP(大山倉吉)に2層、DKP直下に1層。どれも小規模なsfa、afa(降下火山灰)、pfi(小型火砕流堆積物)を伴う場合あり。
姶良Tn  AT  26000~29000年前

参考文献:町田洋・新井房夫 2003『新編 火山灰アトラス-日本列島とその周辺』財団法人東京大学出版会

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その2)

中止となった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展について、前回に引き続き #エア博物館 #おうちでミュージアム として紹介します。牛島のフジ(国特別天然記念物)は、明治時代半ば以降、東京近郊の名所として急速に認知されるようになっていきました。

 

今回紹介する資料は、「牛島のフジ」の手描き彩色写真絵葉書です。

 画像:彩色写真絵葉書

絵葉書には「粕壁の藤花」「M44」と記されています。「M44」は明治44年(1911)と考えられます。明治時代後期の文献では、「牛島の藤」と現地の「牛島」を冠して紹介されるものは少なく、「粕壁の藤」と紹介されるものが多くみられます。ですから、絵葉書の「粕壁の藤花」とは牛島のフジを撮影したものと考えられます。

 

明治初めの記録には「都下ニ遠キヲ以テ知ルモノ稀ナリ」、つまり、東京から遠いため牛島のフジを知る者はあまりいない、と評されています(「大日本国誌」)。牛島のフジが「粕壁の藤」として広く知られるようになるのは、春日部に鉄道が開設されて以降のことのようで、その嚆矢は、明治26年(1893)に千住と粕壁を結ぶ千住馬車鉄道の開通に求められます。

 

明治28年(1895)5月10日には、幸堂得知が、友人の俳人稲見悟友とともに千住茶釜橋より鉄道馬車に乗り、「粕壁の藤花」を観覧した紀行文を新聞紙上に掲載しています(朝日新聞・明治28年5月16・19・22日号)。幸堂の紀行文は、千住馬車鉄道の利用実態を具体的に記したものとしても貴重で、越ケ谷から乗車してきた旅籠屋の女性2名も藤を見に行くといい、「大門」(東八幡神社の参道の入口付近)で下車して、古利根川の橋(八幡橋か)では橋銭を徴収されたことなどが記録されています。同行した稲見悟友は、牛島の園内で「乗出して馬車の早さに引かへて めつそう長き牛じまの藤」と短歌を詠みました。この歌は早い(短い)馬車と花房の長い牛島の藤を対比した歌であり、馬車鉄道は、千住―粕壁間を片道3時間半で運行しましたが、当時の人たちにとって、東京郊外に早くアクセスできる手段だったことがわかります。

 

幸堂らと同様に馬車鉄道を利用して牛島のフジを訪れた著名人に大和田建樹(1857~1910)がいます。大和田は詩人で、「♪汽笛一声新橋を~」の鉄道唱歌の作詞家として知られています。大和田が牛島のフジを訪れた日時は明らかでありませんが、彼の著書『雪月花』(明治30年刊)のなかで、「粕壁の藤」に馬車で訪れ、藤花を「氷柱の如き滝波の如く」と描写しています。また、「客は花を二房三房づゝ請ひ取りて。傘を挿しなどしつゝゆく。さながら藤娘のさまよなど笑ふもあり。」と記しています。現在は国の特別天然記念物に指定され、保存すべき樹木とされていますので、何人たりとも花房を痛めることは許されませんが、当時、訪れた客は、花房を取り、あるいは和傘をさし、藤花の下をくぐりながら観藤する情景がうかがえます。なお、大和田の『雪月花』は国立国会図書館のデジタルコレクションでご覧になれます(粕壁の藤は76コマ~)。

 

明治44年の彩色写真絵葉書にも、池の向こう岸に和傘をさす和装の女性が写っており、大和田の描写を借りれば「さながら藤娘」のようです。

ちなみに、この絵葉書は職員がインターネットオークションで購入したものです。インターネットオークションで「粕壁」と検索すると、牛島のフジの絵葉書がたくさんヒットします。こうした絵葉書が土産物として広まり、さらに多くの人々に「粕壁の藤」は知られるようになっていったのでしょう。展示会では、いくつかの絵葉書を陳列していました。皆さんにご覧いただけず、無念です。

 写真:資料陳列状況

千住馬車鉄道の廃止後、明治32年(1899)東武鉄道が開通すると、「粕壁の藤」はさらに多くの人々に知られるようになっていきますが、その話は、次回の#エア博物館で。

 

なお、今年度の牛島のフジの観覧は、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、休園となりました。歴史ある牛島のフジは来年度までお預けとなってしまいましたが、藤花の様子は牛島のフジを管理されている藤花園さんのホームページで紹介されるようです。

エア博物館 郷土資料館収蔵の指定文化財を紹介しました

4月4日から臨時休館中の「エア博物館」第二弾として、春日部市郷土資料館で収蔵する指定文化財を紹介しました。収蔵資料の紹介ページを充実させましたので、#エア博物館#おうちでミュージアムとしてご活用ください。

担当者のおすすめは、「西金野井香取神社領朱印状」(寄託資料)です。歴代の徳川将軍が発給した歴代の朱印状がそろっており、市域の神社では唯一です。実物の料紙は大髙檀紙(おおたかだんし)という厚手のしわしわな和紙で、当時の将軍の権威を体現しているかのような立派な文書です。リンク先の写真は享保3年(1718)に発給された徳川吉宗朱印状です。8代将軍吉宗は、テレビでは暴れん坊将軍としておなじみですね。

常設展示で常時ご覧いただけるもののほか、普段は収蔵庫で大切に保管されている資料もありますので、おうちでしかご覧いただけないものもありますので、お見逃しなく。指定文化財だけでなく、ほかの収蔵資料もおすすめです!

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その1)

令和2年4月7日(火)から開催予定だった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展は、4月4日からの臨時休館により残念ながら中止となってしまいました。

資料の陳列は大方済んでおり、皆さまに紹介したいことも盛りだくさんで、資料も皆さんにお会いすることを楽しみにしていた(と思いますが)、仕方ありません。今回の展示は、春日部の歴史・文化に深くかかわってきた藤(フジ)について紹介することを趣旨としていました。

写真:展示風景

しかし、もうすぐ、藤の開花の季節。「ほごログ」の場を借りて、皆さんに「藤のまち春日部」展で展示する予定だった資料を紹介し、春日部が誇る藤にまつわる歴史・文化を紹介したいと思います。

市内には、樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えともいわれる「牛島のフジ」(国特別天然記念物)がありますが、実はその起源については大きな謎に包まれています。管見の限り、牛島のフジが記録・文献に登場するのは、明治時代以降のことになります。

今回新たに、明治政府による皇国地誌編さんに関わって調査された牛島村の地誌の原稿である明治10年(1877)1月「牛島村村誌詳細取調書」(当館所蔵)を見出し展示しました。

写真:牛島村村誌詳細取調書

本資料には、牛島村の「名勝」の項目に次のような記述があります。

当村藤岡伊与太郎邸中一藤繁茂セルアリ、★(木偏に幹という字)根周囲壱丈五尺余枝葉瀰蔓スルコト三十間、其幅イン七八間ニ亙リ、蕤茎垂ルヽコト四尺余、其声誉俠近傍故焉(カ)、旧幕ノ頃侯伯屡来テ賞賛ス、加之慶応年干(間)沗クモ東叡山輪王寺ノ宮様遊纜ノ御幸アリ

 

すなわち、当時、藤岡氏の邸宅内に藤があり、近隣で著名だったこと、江戸時代に時折「侯伯」が訪れ賞賛されたこと、慶応年間に輪王寺宮が訪れたことが記述されています。

牛島のフジは、かつて蓮花院の境内にだったともいわれており、史料にみえる藤岡氏とは、牛島女体神社の神職を勤めた人物のようで、元は蓮花院の住職であったともいわれています。蓮華院は明治初年に廃寺となっているので、詳しいことはわかりませんが、明治初頭には藤岡氏の邸内にあったことが明らかになります。

また、江戸時代には「侯伯」、おそらく大名が訪れていたことや、輪王寺門跡が訪れたことが記述されています。おそらく日光道中を通行した大名や、幕末(慶応年間)には輪王寺宮が牛島のフジに訪れ、観覧したものと考えられます。近世の一次資料は現在は見出されていませんので、江戸時代における牛島のフジのあり方を示す資料として非常に重要な資料といえます。

ちなみ、慶応年間の輪王寺宮は、公現法親王で、明治3年(1870)に宮家の北白川家を継いだ、北白川宮能久です。明治33年(1900)刊の『藤の紫折』にも北白川宮能久が訪れたことが触れられています。

以上から、本資料は、牛島のフジに関する最古級、かつ貴重な記述のある重要な資料であるといえます。

今後も「藤のまち春日部」展の資料を紹介していきたいと思います。お楽しみに。

臨時休館のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年4月4日(土)から5月15日(金)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。

臨時休館に伴い、常設展示、および令和2年4月7日(火)から5月2日(土)まで開催予定だったミニ企画展示「藤のまち春日部」展は中止します。また、4月7日(火)から展示予定の常設展示「クレヨンしんちゃんと春日部」も延期します。

なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。

・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ

 

藤の開花の季節にあわせて開催する予定だった、ミニ企画展示「藤のまち春日部」については、本ブログでも展示の内容や資料を紹介する予定です。さながら、今流行の「#エア博物館」「#おうちでミュージアム」として、お楽しみいただければ幸いです。

【1960年代の春日部】北春日部駅の開業

北春日部駅は、西口の土地区画整理事業が予定されており、今後の発展が期待されている駅です。現在は、1日に約1万人の利用客があります。

北春日部駅周辺地区 土地区画整理事業(春日部市役所サイト

東武鉄道では昭和41年(1966)9月1日に、春日部駅、姫宮駅間の春日部市梅田に新電車区を建設し、北春日部駅を開設しました。北春日部駅は、橋上駅で、総工費1億2千万円、ホーム幅9m、ホーム長さ125mで、1日当たりの乗降客数2,800人を見込みました。

また、同日のダイヤ改正で、新造車50両を導入、それまで北越谷駅までだった地下鉄日比谷線の乗り入れを北春日部駅まで延長し、武里団地入居者の輸送力増強が図られました。武里団地入居者への対応については、昭和42年(1967)にせんげん台駅の開業、昭和44年(1969)の武里駅の橋上化など、この後も急ピッチで進められました。

 

一方、新たに設置された春日部電車区は、総面積約10万平方メートル、収容能力220両と当時の私鉄では随一の規模でした。春日部電車区は、大正13年(1924)に西新井駅に設置された西新井電車庫がその起源です。これはその後、昭和27年(1952)に竹ノ塚駅に移転して西新井電車区となりますが、周辺地域の開発が進み、施設の拡充が困難になったことから、西新井電車区を営団地下鉄(現・東京地下鉄)に譲渡し、春日部電車区を新設、移転しました。旧の西新井電車区は、現在、竹ノ塚電車区と呼ばれています。

 

北春日部駅が開業した2か月前の昭和41年(1966)6月30日、東武鉄道では全線電化が完成、佐野線を走っていた蒸気機関車の運用が廃止され、東武鉄道から蒸気機関車が完全に引退しました。

建設中の北春日部駅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建設中の北春日部駅

この写真は、郷土資料館ホームページのかすかべデジタル写真館で紹介しています。

参考文献

『東武鉄道百年史』1998年 東武鉄道株式会社

『春日部市史 第4巻 近現代資料編II』1992年

『春日部市史 第6巻 通史編II』1995年

 

 

【春日部版】古記録にみる感染症への対応の歴史

昨今、新型肺炎の対応・対策をめぐり、日本だけでなく、世界中の人たちが動揺しています。皆さんの日常生活でもさまざまな影響がでているのではないでしょうか。

職業柄、こうした出来事があると「はて、昔の人たちはどうだったのかな?」と気になってしまいます。

今回は、春日部市域に伝わる感染症の流行をめぐる古記録から、先人たちがどのように「病」と対峙していたのかを紹介してみたいと思います。

その古記録とは、市指定有形文化財にも指定されている「長久記」です。「長久記」は、江戸川の河岸場として栄えた西宝珠花の薬種問屋「堺屋」(さかいや)の家の記録で、西宝珠花で起こった諸事件や日常生活について記述されています。

「長久記」には、「麻疹流行記」と題される幕末の文久2年(1862)の記事があります。内容は次の通りです。

文久2年4~5月、江戸で麻疹(はしか)が流行し、西宝珠花では7月上旬からはやり始め、流行当初よりこれまでの麻疹とは異なり、症状が極めて強いものだった。

堺屋では、7月17日に家人が患い、はじめは寒気を感じ、次いで発熱、嘔吐、下痢の症状がつづき、食事は3~4日間、まったくとれなかった。

久喜町に遣いに出していた家人も麻疹に罹ったため、当主の堺屋安右衛門は夫婦で看病に訪れ、薬を与え、便の世話もした。また、快方を願って、「御嶽講」(みたけこう)を信心し、久喜町の講中にも頼み、水行(すいぎょう)をした。

世間では、麻疹のあと皮膚病になったり、吹き出物ができることが多かったが、家人たちは翌年の春には徐々に回復した。

麻疹が流行していた期間には、薬種問屋であった堺屋では薬は品切れになるものもあり、江戸から薬をたびたび取り寄せました。薬が不足したため町の若衆たちは麻疹で臥せてしまった。

9月下旬になると、ようやく麻疹は鎮まったが、閏8月には「コロリン」(コレラ)が流行し、18~23歳くらいの男女が多く亡くなった。特に妊婦が多く亡くなり、江戸川対岸の木間ケ瀬村(現野田市)辺りでは、夥しい人たちが亡くなった。西宝珠花では、町で牛頭天王を出し、氏子一同で信心し、厄を払った。

 

以上が「長久記」の記述です。薬種問屋による記述であるため、症状等が細かく記されるとともに、西宝珠花で治療薬が不足したこと、疫病の鎮静を願って、地域の神仏を信仰したことなどが記録されています。

春日部市域では、町場として人口が密集していた粕壁宿、西宝珠花に疫病の神である牛頭天王が祭られていました。また、疫病退散のために舞ったともされる獅子舞が各地に伝わっています。身を清め、神仏を信心することが、前近代の人々の疫病を防ぐ一つの対策だったのかもしれません。 

先人たちの感染症への対策をみると、正体不明の病が流行し、様々な噂や情報が飛び交うなかでも、病人の看病に努めたり、薬を取り寄せたり、神仏にお願いをしたりと、当時の生活習俗のなかで「やるべきことはやる」強かな姿勢が貫かれていたことがわかります。

ひるがえって、こんにちにおいても、生活者を不安に陥らせるようなデマや流言飛語が飛び交い、先行きが見通せない日々が続いています。先人に学び、私たちも、病やデマに対して毅然とした態度をとり、集団感染を防ぐ日常の予防に努めたり、咳エチケットを守ったり、不要不急の外出は避けたりと、「やるべきことはやる」を徹底すべきではないでしょうか。そうした日々の積み重ねが、流行病の終息につながるのかもしれません。

【速報】神明貝塚が国史跡に指定されました!!+巡回展示のお知らせ

令和2年3月10日付の官報において、神明貝塚を国史跡として指定されたことが告示されました。つまり神明貝塚は正式に国史跡となりました!!もちろん春日部市としては初の国史跡指定となります。

 

多くの皆様のご理解とご協力があってこそ、国史跡への指定が実現したものだと思います。改めて感謝申し上げます。

 

また今後は神明貝塚の特徴や価値を全国に向け発信できるよう、展示や講演、環境整備を行っていきますので、更なるご理解とご協力をお願いします。

 

また先日まで埼玉県立歴史と民俗の博物館に貸し出をしていた、”貝塚のジオラマ”や土器などが返却され、郷土資料館では市指定文化財の「堀之内式組合せ土器」などがご覧いただけます。

 

さらに、お休みをしておりました神明貝塚の巡回展示が現在、豊春地区公民館で開催されています!巡回展示記念の講演会も予定されております。コロナウィルスの影響もありますので、無理のない範囲で、ご覧いただければと思います。

巡回展示の様子

 

 

ほごろぐのデザイン更新

ほごログは、春日部市視聴覚センターのシステムを利用して、皆様にお届けしています。

このたび、機器等の入れ替えにより、ほごログのデザインも一新されました。

ご覧いただくにあたり、今までと違うページが表示されたりするなど、ご不便をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。

なお、以前からご要望の多い「文字の大きさ」については、画面右上のボタンから「大・中・小」が選択できますので、お好みのものをご利用ください。

「背景色」、「行間」も調整可能です。

【お知らせ】文化財公開の中止

 広報かすかべ3月号「かすかべ今昔絵巻」で紹介いたしました、仏教美術の優品であります一ノ割『圓福寺』所蔵の市指定文化財を公開する「圓福寺まつり」は、新型コロナウイルスの感染防止のため、4月5日(日)の開催が中止となりました。
 年1度の機会を楽しみにされていた方や関係者の皆さまには広報紙で広くご案内したにもかかわらず、申し訳ありませんでした。
 来年、同時期での開催となりますので、ぜひ、満開な桜の季節に足をはこんでみてはいかがでしょうか。


▲厨子入木彫釈迦涅槃図は代表的な文化財。
一般的な涅槃図は絵画だが、一点ずつ細部に
まで彩色が施された彫刻による仏教美術です。

♪今日は楽しい雛祭り~春日部と雛人形

春日部界隈で雛人形というと、人形の生産地の岩槻や越谷に話題が集まりがちですが、実は古くから春日部も雛人形に浅からぬ縁があるのです。

3月3日は桃の節句、雛祭り。女子の成長と幸せを願って、雛人形などを飾ります。戦前の調査記録『郷土の研究』(粕壁尋常高等学校編)には、旧暦の桃の節句にあたる4月3日に広く雛祭り行事が行われていたことが記録されています。『郷土の研究』によれば、昭和7年ころの雛祭りは次のような内容でした。
・3月28日頃から雛段を設け、分相応に雛を飾り、桃の花等を供える。
・供え物は、草餅、紅白の菱餅、アラレ、白酒など。ほかに、赤飯、五目飯、けんちんうどん等も馳走する。
・初節句には、親類近所の子供たちを呼び、馳走し、親元からは親王様・内裏様などの雛、親戚にも簡単な雛をお祝いとしてもらい、返礼として草餅・赤飯を贈る。
・初節句のほかは、家内だけで雛祭りのお祝いをする。
・4月5日に雛段をばらし、雛の箱には虫除けに草餅を入れてしまう。

以上は、昭和7年ごろの粕壁の町場の雛祭りで、農村や現在とは多少様子が違うのかもしれません。郷土資料館でも、季節展示で様々な手作りお雛様を飾っています。
写真:季節展示ひなまつり

ところで、伝統的な雛人形って、何でできているか知っていますか?
その答えが今回の本題の「雛人形と春日部の浅からぬ縁」と関係します。

ものにもよりますが、雛人形の頭や手足は、桐塑(とうそ)と呼ばれる練り物でできているものが多いそうです。この桐塑は、桐のおが屑と正麩糊(しょうふのり)を練ってつくります。弾性と粘着性があり、可塑性に優れ、乾燥すると木材同様に彫刻ができることから、細かい造形表現を可能にする素材として使われました。桐塑でできた人形は、整形したあと、胡粉(ごふん)が塗られ、和紙や布が貼られるものあるため、桐塑の生地面がみえなくなっています。

実はこの桐塑の原料の「桐のおが屑」こそ、春日部の地場産業の桐箪笥・桐小箱の製造過程で生じたもので、雛人形制作が盛んな岩槻や越谷の人形職人は、桐箪笥・桐小箱職人が出したおが屑を活用し、桐塑に加工して人形を生産しているのです。現代風にいえば、産業廃棄物を再利用する究極のリサイクルといったところでしょうか。
郷土資料館にも「桐のおが屑」がありましたので、参考まで少々ピンボケの写真を載せておきます。
写真:桐のおがくず
また、桐小箱は、雛人形を収納する箱としても用いられました。
もちろん、岩槻や越谷でも桐工芸産業は盛んでしたが、近隣の様々な地場産業が絡み合いながら、伝統的な地場産業が今も息づいていることがわかります。春日部近隣の雛人形は、もしかすると、人形の頭や手足、収納の箱などは春日部由来かもしれません。

国土地理院の地図の利用

歴史のことを調べる際に、地理情報はとても重要です。
最近では、インターネット上の地図も非常に使いやすくなっており、日本のみならず、世界中の詳細な地図を簡単に見ることができます。

ところで、昨年12月に、国土地理院の地図の利用手続きが改正されました。
国土地理院の地図の利用手続(国土地理院サイト)

主な改正点は「申請不要となる範囲の拡大」、「承認基準の見直し」です。特に申請不要となる範囲の拡大により、書籍やパンフレット、ウェブサイトへの地図の挿入が、出典を明示することのみで可能になりました。

国土地理院の地図は、インターネット上では地理院地図から利用できます。また、地理空間情報ライブラリーには、様々な地理空間情報がまとめられています。
地図を見ながら、さまざまな歴史上のできごとに思いをはせてみませんか。

【お知らせ】3月のイベントは中止します

春日部市郷土資料館では、新型コロナウイルスの感染防止のため、3月に予定されていた、以下の各種イベントを中止することになりました。

・3月1日(日) 古文書勉強会 中止(今後の予定については参加者の方に書面で通知します)
・3月14日(土)・28日(土) 古文書講座(初級・中級) 延期(今後の予定については参加者の方に書面で通知します)
・3月21日(土) ミュージアムトーク 中止
・3月22日(日) 体験ワークショップ 中止

楽しみにされていた方や関係者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

南桜井小学校「伝統芸能クラブ」発表会

2月18日(火)、南桜井小学校ではクラブ活動の成果を発表する”クラブ発表会”が行われました。
4月から伝統芸能クラブでは、県指定無形民俗文化財『西金野井の獅子舞』を伝承する西金野井獅子舞保存会の皆さまの指導により、夏季の地元神社の祭礼や地域のお祭り、そして市主催の民俗芸能公開事業など、様々な機会で地域の宝である獅子舞に一生懸命、取り組んでいただきました。
 4年生4名、5年生7名、そして6年生6名の総勢17名で獅子舞の舞手、巫女役、そしてお囃子の笛役と、3つの役割をこなしていただきました。

▲三匹獅子による力強い「芝舞」。西金野井の獅子舞で最も基本的な舞。
5年生を中心に堂々とした獅子舞が披露されました。

▲太夫獅子が模造刀を携え、地域の家内安全・五穀豊穣を祈願する「辻きり」。
舞の所作と共に由縁を理解した上で舞ってくれました。
 お囃子の笛役も子供たちだけで2曲をとおして吹くことができるようになり、保存会会長さんも目を細めて見守ってくれました。
当日は来年度にクラブ活動に新たに加わる3年生が中心に見学され、真剣な表情で先輩たちの舞に見入ってくれました。引き続き、多くの児童が参加されること、期待しております。
保存会の皆さま、そして校長先生、教頭先生、顧問の先生、地域の舞の後継者養成に取り組んでいただき、ありがとうございます!

 

【くらしのうつりかわり展】手回し洗濯機

現在開催中の「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」に展示している「手回し洗濯機」は、昭和32年(1957)ごろ、群馬県の林製作所から発売された「カモメホーム洗濯機」です。
使い方は、球体の洗濯槽部分に、乾いたままの衣類などをつめ、洗剤を溶かした熱湯を注ぎ、ゴムパッキンがついているふたを閉めます。ふたにより洗濯槽内部は密閉され、ハンドルを回転させると、内部に残った空気の気圧が高まって、圧力で衣類の汚れを落とします。すすぎは、お湯を入れ替えて回転させたそうです。
この仕組みは、群馬県の高月照雄さんという方が発明したものです。

ふたを開けるときにポンと音がするので「ポン洗濯機」とか、ソ連の人工衛星「スプートニク1号」に似ていたので「スプートニク型」と呼ばれていました。

林製作所の「カモメホーム洗濯機」は、同じ時期に発売が開始された電気洗濯機に押され、残念ながら昭和38年(1963)には生産を中止しました。しかし、同様の仕組みを利用した手回し洗濯機は、現在でも販売されており、電気を使わずきれいに汚れが落ちるエコな洗濯機として注目されています。

さて資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しております。昔の懐かしい道具や写真を展示し、小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。
ぜひ遊びにいらしてください。

(参考)
(PDF) 板橋春夫「いせさきフロンティア27【 高月照雄 】~魔法のような球体洗濯機の発明者~」『伊勢崎佐波地区景気動向調査NO.33』伊勢崎商工会議所・アイオー信用金庫
豊富郷土資料館のブログ(山梨県中央市)「球形手回し洗濯機について」

手回し洗濯機
手回し洗濯機「カモメホーム洗濯機」

カモメホームウォッシャーのロゴ
「KAMOME HOME WASHER」のロゴ

洗濯槽内部
洗濯機の内部

底面の刻印
底の刻印

郷土資料館体験ワークショップを開催しました♪

令和2年2月15日(土)、郷土資料館展示室で「体験ワークショップ からくり屏風を作ろう!」が開催されました。

春日部の伝説をもとにした紙芝居や、蓄音機によるレコード鑑賞を楽しんだあと、昔のおもちゃ「からくり屏風」を作りました。

裏と表の2面しかないように見えるのに、4種類の絵柄が出てくる不思議な屏風に、参加した子供たちは大変喜んでいました。

ワークショップは、小学生までを対象とした、昔の遊びを気軽に体験できるイベントです。事前申込み不要、当日の飛び込みも大歓迎です。
 次回ワークショップは、令和2年3月22日(日)に「ぴょんぴょんカエル」や「紙てっぽう」を作ります。ご参加をお待ちしています。