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校長ブログNo129  シリーズ白浜小学校はあのとき④「欲しがりません勝つまでは」

白浜小学校はあのとき④ 国民学校の女性教師による手記

タイトルの「欲しがりません勝つまでは」は戦意高揚のための国策標語。

「昭和17年に白浜国民学校へ赴任した。次第に、大東亜戦争も激しくなり、校庭は野菜畑と化し、白浜じゅうの出征家族の家へ毎日のように勤労奉仕にでかけました。機銃掃射を受けて、田の土手に姿をかくしたり、近くの家の防空壕にかけこんだり、毎日が命がけでした。腰まで田の水につかって稲架(はさ)に稲をかけ、星を戴いて泣き泣き帰ってきたことも幾度か。主人も海軍に応召して南方の海に出征するし、夜中に空襲警報が鳴ると、もう一人の先生と防空頭巾に身をかため、暗い夜道を学校警備におもむいたこともありました。あの時代の児童は、まことにみじめな学校生活を送っていたものでした。」

「後日、成人した教え子から受けた言葉を二、三拾ってみましょう。『修学旅行ができなかったから、これから修学旅行に連れて行ってください。』『勤労奉仕ばかりで、ろくろく勉強しなかったので、中学生の息子から数学を教えてくれと言われても、今困ってしまう。』

『さつまいもがお弁当の時代で、クラスに二人持ってこれない児童がいて、先生が一個ずつ分けてくれた。その一人はぼくで、それがうれしくてたまらなかった。現在は妻や子供に恵まれ幸せに暮らしているが、僕はあの時のことを教訓として、愛情と質素を胸に頑張っています』

校長ブログNo128 シリーズ「先生からの夏だより」④(残暑お見舞い)

シリーズ先生からの夏だより(残暑お見舞い)

さあ、夏休みも、どまんなかに近づいてきました。立秋が過ぎ、先生からの夏だよりも今回から「残暑お見舞い」になります。

最初はE先生からのおたよりです。

こんにちは! お久しぶりです。元気に過ごしていますか?

終業式の日、「明日からも学校に行きたいな~」と言われました。

今はどんな気持ちでしょうか?)^o^(

夏休みはいつもより自由な時間が多いと思います。ふだん、なかなかできないことにチャレンジしてみてくださいね。

先生は、お菓子づくりをしてみようと思っています。うまくできるかな・・・。

9月になったらぜひお話を聞かせてくださいね。みんなに会えるのを楽しみにしています。

(ひらがな文)

こんにちは! おひさしぶりです。げんきに すごしていますか?

しゅうぎょうしきのひ、「あしたからもがっこうにいきたいな~」と言われました。

いまは どんな きもちでしょうか? )^o^(

なつやすみは いつもより じゆうな じかんが おおいと おもいます。ふだん、なかなか できないことに チャレンジ してみて くださいね。

せんせいは、おかしづくりを してみようと おもっています。うまく できるかな・・・。

9がつに なったら ぜひ お話を 聞かせて くださいね。みんなに 会えるのを 楽しみに しています。

次にF先生からの残暑お見舞いです。

残暑お見舞い申し上げます

夏休みも残り半分となりました。パリオリンピックも後半戦。たくさんのメダリストが誕生し、私たちに感動と喜びを与えてくれました。

また、高校野球選手権大会(甲子園)が始まりました。選手の皆さんはそれぞれの目標(夢)に向かってたくさんの努力を重ねてきていると思います。

みなさんの夢は何ですか?

私が中学生のときに2つの夢をもちました。

1つ目は吹奏楽部の甲子園「杉並普門館」に行くこと。2つ目は「小学校の先生になること」小学生の頃の音楽の成績は全てCと1。

でも、夢は叶うんです。毎日、毎日、少しずつ努力を重ねていきましょう。

9月2日、皆さんの成長した姿を楽しみにしています。

(ひらがな文)

さんしょおみまいもうしあげます。

なつやすみも のこりはんぶんと なりました。パリオリンピックも こうはんせん。たくさんの メダリストが たんじょうし、わたしたちに かんどうと よろこびを あたえてくれました。

また、こうこうやきゅう せんしゅけんたいかい(こうしえん)がはじまりました。せんしゅの みなさんの それぞれの もくひょう(ゆめ)にむかって たくさんの どりょくを かさねてきていると おもいます。

みなさんの ゆめは なんですか?

わたしが ちゅうがくせいのときに 2つのゆめを もちました。

1つめは、すいそうがくぶの こうしえん「すぎなみふもんかん」にいくこと。2つめは「しょうがっこうの せんせいになること」しょうがくせいのころの おんがくのせいせきは すべてCと1。でも、ゆめは かなうんです。まいにち、まいにち、すこしずつ どりょくを かさねていきましょう。

9がつ2にち、みなさんの せいちょうしたすがたを たのしみにしています。

「ふだんなかなかできないこと」がいつもよりもできることはうれしいですね。E先生はどんなお菓子を作るのかな?家で作るお菓子は家族みんなが笑顔になるとってもステキな楽しみの1つです。甘いものが好きな校長先生もいろいろと想像してしまいます。楽しみですね。E先生、がんばってください!!

みんなはどんなものが好きですか?真夏に「あつい~あつい~」と言って食べたくなるのはやっぱり冷たいアレ!アレって?!みんなも大好きなかき氷、アイス、ソフトクリームでしょう?買ったらすぐに食べないと、アッというまに溶けてしまうので気を付けてくださいね。この間TVのCMで「ずるいすいか」と「やばいパイン」とおもしろいコピーを見ました。どんな味なのか興味をそそります。あっ、大事なこと!「ほけんだより夏休み号」や「給食だより」にも書いてありましたよ。冷たいものを食べすぎたり飲みすぎたりするとかえって夏バテの原因になりますから...。「〇〇しすぎない。」ということに気をつけましょう。

みなさんにおススメなのは、横芝光町ならではの新鮮な果物や夏野菜です。メロン、スイカ、トウモロコシなどおいしい農産物に恵まれていますよね。近くの道の駅や海の駅でも新鮮な産地直送の食べ物がたくさん並んでいますよ。

楽しい夏休み、おいしいものを食べて、楽しいひとときを過ごしてくださいね興奮・ヤッター!

そして、F先生からの残暑お見舞い。今年の夏は特別です。オリンピックや高校野球甲子園大会などみんなも応援しているのではないのかな?夢や目標をもって努力する姿に感動した人も多いはず。子供の頃にできなくたって夢を追い続けることの大切さや努力することの大切さを教えてくれるF先生からの夏だよりです。きっとF先生から音楽の授業を教わったことのあるあなたも、F先生の夢を今回初めて知ってすごいなぁと感じたはず!!「努力は今、夢はきっとかなう」2学期の授業を楽しみにしていてくださいね。

校長ブログNo127 シリーズ白浜小学校はあのとき③「増産だ 意気で耕せ 汗でとれ」

白浜小学校はあのとき③ 国民学校の男性教師による手記

タイトルの「増産だ 意気で耕せ 汗でとれ」は当時、戦意高揚のための国策標語です。

1945年(昭和20年)は戦争が激化したため、国は高等科の授業を無期限で停止とした。

「1944年(昭和19年)4月、太平洋戦争が激しくなった頃私は、再びこの白浜国民学校に勤務することになった。(中略)この年の秋ごろから昭和20年に入ると戦争はますます苛烈になり、九十九里浜からB29や艦載機が何十機という編隊で来襲し、我々の頭上で戦闘が展開され、火だるまになって墜落してくるというありさまで学校も機銃掃射されて隣家の人が死んだことがあった。こうなってくると学校も授業どころではなくなり「高等科は、授業全面停止して、食糧増産に邁進(まいしん)せよ」との県の通達に従って生徒も先生がたも朝早くから夕方遅くまで増産のため田畑に汗と泥にまみれて働いたのである。

授業どころではなく、毎日が勤労生産という厳しい労働の毎日だった。

(中略)当時、出征したための不耕作地を学校が引き受けて耕作した面積は広大で、今のような耕うん機がない時代であったので、その全部をわずか50名あまりの高等科男子の手で一鍬一鍬起こし、それを女子が助けて耕作したのであるから、その労苦たるや推して知るべきである。こうした涙ぐましい努力によって秋には、学校の広い運動場も稲で埋まり、また、甘藷の山が築かれた。

▼食糧増産に励む生徒たち(1944年(昭和19年))

視察に来た県教育委員会にこの増産教育は匝瑳郡内、県下でも屈指であると激励された。(中略)この年、甘藷は八千貫(1貫は3.75㌔)米も百俵以上、小麦四十俵も収穫し、これを供出し、残りは敬老会や学校給食に利用したのである。食糧不足で学校に弁当を持ってこられなくなった時、学校で甘藷やおにぎりで給食したので父兄からも大変喜ばれた。(中略)毎日クタクタになるまで働いて、おいもをごちそうになり、大きな月を眺めながら子供たちと一緒に帰ることが度々あった。こんな苦労の中にもみんなお国のため、という心が通じ合っていたか、誰も不平ひとつ言わずいつも明るく元気で頑張った。それにもかかわらず日本は敗戦となった。そして戦後混乱の中から、今日の日本の繁栄を築いたのは、この子供たちこの世代の人々であると思うとき、感無量なものがある。」

 

校長ブログNo126  シリーズ白浜小学校はあのとき②国民学校学童が見た戦争(後編)

ブログNo125(前編:2024年8月8日掲載)のつづきから

「国民学校へ6年間通ったのは私たちだけです。そして現在の6・3制義務教育になるかどうかわらない頃なので、課外勉強をしていました。秋、夕方五時頃だったと思います。前日からの雨で校庭はかなり水たまりがあり、それを避けるように歩き出しました。その時です。大音響とともに教室の窓が爆風で飛び、そばにいた生徒2人が大声で泣きだしました。これは一大事と友人と2人で教室へ飛び込みました。そこで見たものはまさに地獄絵です。生徒2人が倒れていました。それを先生は一生懸命抱き起そうとしていました。「あっ、先生手がない」私は叫びました。先生の右手は爆発でないのです。肉や血は天井に突き刺さっていました。爆発の音を聞き、他の先生がかけてきました。応急手当をし、リヤカーで近くの医院に行ったのです。それから大きな病院に入院。そのとき生徒4人が重軽傷を負い、先生は右手首を失ったのです。戦争が終わり、弾薬を海に捨てたものが海岸に打ち上げられ、直径1mくらいの機雷も数個ありました。そういう中にこの爆発物もあったのです。戦争中は、爆発や大砲の音も耳に慣れましたが、この爆発音はいまだに記憶にあります。それから28年経って、昭和48年、ベトナム、サイゴンへ行く機会があり、ホテルに宿泊中に遠くで撃つ大砲の音を聞いたとき、今日本は平和な国だとしみじみ思い、これからも永遠に、この平和が続くことを願わずにはいられません。

▼1941年(昭和16年)この年の12月8日、日本は太平洋戦争へと突入する。

▼1941年(昭和16年)当時の白浜小学校運動会

こちらも参考に視聴してみよう

NHK fo rSchool  10minボックス 「戦争と国民生活 日中戦争・太平洋戦争」

https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005120318_00000

校長ブログNo125 シリーズ白浜小学校はあのとき①国民学校学童が見た戦争(前編)

甲子園球場100年の歩みと戦争の歴史

昨日8月7日(水)「第106回全国高等学校野球選手権大会」が開幕しました。大会会場となる兵庫県西宮市の阪神甲子園球場は、開場してから100年目の記念すべき年になります。

選手宣誓をした智弁和歌山高等学校野球部主将の言葉「宣誓、僕たちには夢があります。ここ、甲子園で日本一になることです。100年前、この地に甲子園球場が誕生し、それ以来、全国の球児がここでプレーすることを夢見てきました。(中略)あれからちょうど100年経った今、僕たちはここに立っています。僕たちには夢があります。この先の100年も、ここ甲子園が聖地であり続けること。そして、僕たち球児のあこがれの地であり続けることです。(後略)」

大会ができることは奇跡であるそんなことを感じながら、中継放送の冒頭「100年の歩みを振り返る」ドキュメントを見ていました。それは次のような歴史があるからです。第二次世界大戦の影響により1941年(昭和16年)夏の大会~1945年(昭和20年)の5年間中断されます。その後、みなさんのご記憶にも新しい、2020年(令和2年)新型コロナウイルス感染症による大会中止がありました。2022年大会で優勝した仙台育英高校の監督の言葉「(前略)入学どころか、たぶん、おそらく、中学校の卒業式もちゃんとできなくて、高校生活っていうのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とは全く違うんですね。青春って、すごく密なので、でもそういうことは全部『だめだ、だめだ』と言われて、活動していても、どこかでストップがかかって、どこかでいつも止まってしまうような苦しい中で、でも本当に諦めないでやってくれたこと。(後略)」

近年の猛暑により高校野球の在り方も議論され、甲子園球場内野席を覆う「銀傘」がアルプス席まで拡張される計画(完成予定は2028年)ですが、戦前の甲子園球場は開業当初から「大鉄傘」と呼ばれた鉄製の大屋根を内野席に備えていました。1931年(昭和6年)にアルプス席に広げ、1943年(昭和18年)戦時中の金属供出で取り外された悲劇の歴史があります。そのため、終戦翌年の1946年(昭和21年)夏の大会から再開された映像には「大鉄傘」が確かにありませんでした。その後、1951年(昭和26年)に復活し、2009年(平成19年)に現在の姿に架け替え、内野席両端まで広げられた歴史があります。

シリーズ白浜小学校はあのとき が始まります。

白浜小学校の沿革を見ると、小学校の名前が4回変わっていることに気づきます。

「白濱尋常小学校」(1889年(明治22年)~1895年(明治28年))、「白濱尋常高等小学校」(1896年(明治29年)~1940年(昭和15年))、「白浜国民学校」(1941年(昭和16年)~1946年(昭和21年))「白浜小学校」(1947年(昭和22年)~現在)です。

(※それぞれの教育制度の用語の意味については記事最後の欄を参照)

1945年(昭和20年)8月15日の終戦から79年が経ちます。今回からシリーズ「白浜小学校はあのとき」と題して、合計8回にわたり当時の学校の様子が分かる手記や、校長が調べてわかったことなどお伝えしていきます。お読みになられる方はこの機会にぜひ、戦争と平和について感じていただけたら幸いです。

第1回は国民学校に通った学童(小学生)の回想です。(前編・後編に分けて掲載します。)

「私たちが国民学校へ入学したのは昭和16年でした。尋常小学校から国民学校と名前が変わり、軍国主義増々色濃くなりつつ第1回目の入学です。その年の12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾攻撃を決行、世界大戦になったのであります。そして日本軍は破竹の勢いで戦果を挙げ、南太平洋の島々を日本のモノにしていったのです。そして、シンガポール陥落のニュースに躍り、生徒全員による旗行列で喜んだのです。しかし戦争は3年生後半から変わり始め、男の先生方も兵隊へ行き、授業も思うようにできなくなり、白浜村からも戦死者が続出してきました。

▼1941年(昭和16年)国民学校当時の教職員(男性・女性の割合は半々だが、やがて男性は徴兵された)

村長さんはじめ数多くの人たちと生徒全員による村葬も数多くなり、都会からの生徒も多く、教室へ入りきれないほどでした。親たちは農作業に追われ休む暇もなく働き、子供たちは弟や妹を学校に連れて行き、子守をしながら勉強していた人もありました。 校庭は全部芋畑に変わり、水田もかなりの面積を作って食糧生産に励んだのです。その頃から教科書も少なくなり、上級生からもらったり、先生が黒板に書いたものをザラ半紙に書き取りながらの勉強でした。

▼記念誌には昭和7年(1932年)受持児童と開墾作業とある。この年、中国東北部に満州国が建国された。文中にある「都会からの生徒も多く」とは、都市部から地方への「縁故疎開」と考えられる。

戦争はますます不利な展開となり、南太平洋の島々は玉砕のニュースに変わり、ついには沖縄まで米軍は上陸してきたのです。お弁当は梅干し1個の日の丸弁当、サツマイモ等弁当検査があり、良いおかずを持っていくと注意されました。そして、ついに米軍による本土爆撃という事態になり、生徒は防空頭巾をかぶって通学、学校では防空壕への避難訓練、国防婦人会は竹やり訓練の日々です。学校にも家庭にも、軍隊が駐留、時おり戦車が砂煙をあげて走っていました。「警戒警報発令、敵B29編隊は相模湾上空を北に向け飛行中」ラジオから流れます。それは現在の天気予報みたいなものでした。警戒警報が空襲警報に変わり半鐘が鳴り渡っていました。昭和20年3月東京大空襲。東京方面を爆撃したB29の爆撃機は、悠々と我々の上空を飛び去って行きました。ある朝早くから高射砲の演習だなあと思い、学校へ行こうと家を出た途端、上空には日本軍と米軍の飛行機数十機が空中戦、見ていると日本の飛行機は胴体と翼がバラバラになり、胴体は尾垂下根地先に墜落、翼は尾垂浜に落下。私は、その飛行機の車輪をずいぶん探し、28年ぶりに見つけました。昭和20年8月15日戦争は終わったのです。(後編へつづく) 

【用語について】 

鉛筆尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関の名称。明治の学制発布当初は4年間の義務教育だったが、1907年(明治40年)から6年間になった。

鉛筆尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)国民学校令(1941年/昭和16年)が施行される前の学校のうち、尋常小学校の課程と高等小学校の課程を一つの学校に併置した小学校のことである。国民学校令の施行とともに、国民学校の初等科・高等科に改組された。

鉛筆国民学校(こくみんがっこう)日中戦争勃発後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校。尋常小学校を国民学校初等科(修業年限6年)、初等科を終了した者が進学できる高等小学校を国民学校高等科(修業年限2年間)とする。

鉛筆小学校(しょうがっこう)1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに新しい学校制度ができ、それまでの国民学校は、現行の小学校に移行した。