校長ブログ
校長ブログNo135‐2 台風一過 初めて見た富士山
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台風一過 本校屋上から太平洋方向を望む
非常に強い台風7号(アンピル)接近に伴い、昨日は、大雨(浸水害)・暴風警報・波浪警報が発令されました。何よりも安全を優先し、被害を最小限におさえるため、公共交通の計画運休、店舗の臨時休業や営業時間の繰り上げなどが行われました。横芝光町も、突然風雨が強まるなどたいへんだったことと思います。大丈夫でしたでしょうか。
当初の進路予想よりも東方向へと進路が変更になったため、暴風圏内に巻き込まれずに済んだようです。しかし、学校のある沿岸部へ向かうにつれ、雲の量は増え、倒木や樹木が散乱しているところもあり、風雨が強かったことを物語っています。台風が過ぎ去った後は特に危険だと言われています。河川の増水、道路や交通状況などいつもと違いますので、どうか安全に気をつけてお過ごしください。
今朝の時点では横芝駅を通るJR総武本線も佐倉~銚子間は運休でしたが午前10時過ぎに運転再開になったとのことです。
台風襲来の前日(8月15日)、教務主任と風に飛ばされそうなものを格納しました。台風一過の8月17日朝8時頃、教頭と共に学校施設安全確認しましたが、被害もなくホッとしました。
▼特別教室棟の屋上に雨水がたまってしまったため、教頭先生が排水しました。
▼屋上からの眺め。はるか遠くに富士山が!(白浜小からは直線距離で約200㎞離れている)
普通の写真(上段)ではわかりにくいので加工(下段)してあります。
▼まだいたの~?!台風前日にいた百葉箱の中のカエルも無事でした。
上段:8月15日(台風襲来前日)酷暑で少し弱っているように見えてかわいそうでした..
下段:8月17日(台風一過)日かげを好んでいるのでしょうか。今日も残暑が厳しいよ
校長ブログNo135‐1 海に生きる
校長室に一隻の船の模型があります。
ガラスケースに入った船の模型は「地曵舟」(岩井・作)と書いてあります。初めて見たとき、精巧で緻密な模型に驚きました。また、海に生きるこの白浜にふさわしくすてきだなと思いました。7月28日に行われたしらはま祭りの船神輿にも形が似ています。木札の裏には原寸の20分の1と書いてあります。どのような方なのか気になっていたのですが、本校の職員で知る者はいませんでした。ところが、7月末に研修会場で訪れた国民宿舎「オーシャンビュー サンライズ九十九里」にある会議室に向かうとき、本校にあったものと似たような船の模型があり、よく見たら同じ「岩井・作」とありました。それが次の写真です。
解説には次のように書かれています。
巻網船(あぐり船)
大正中頃から昭和30年ごろまでの間、外房地方から遠く仙台方面に至る太平洋岸で使用された。焼玉機関の普及により樅木の和船も次第に大型となりその姿も変わってきた。巨大な船首、船楼は独特な風格さえあった。昭和の初め、鰯(イワシ)漁獲高日本一を誇った木船も30年に入り資源の枯渇と水夫の不足、港湾施設の不備等によりその数も減り今は全くその影もない。当時建造に従事した一人としてその姿を保存すべく実船を10分の1に再現した。巻網船は二隻の網船で操業されるが、本船は真網(まあみ)と呼ばれるそのうちの1隻である。ちなみにこの船は九十九里地方における最後のものである。 岩井 平成8年7月
サンライズ九十九里は1996年(平成8年)に九十九里町にオープンしました。この模型は開業当初からここにあるのでしょう。まさかここで本校にある船の模型の作者と同じ方が制作された模型と出会うとは思ってもいなかったのでたいへん驚きました。今回、岩井さんが木船の船大工であることがわかり、それだけでもうれしかったです。
また、「サンライズ九十九里」の宿泊棟には、地曵網漁の写真や浜から海で船を出し入れする「おっぺし」(千葉県の方言で「おす」という意)とよばれる様子が写真で飾られています。
九十九里周辺の市町に残されている写真は以下のリンクでも紹介されていますのでご覧ください。
「大網白里市デジタル博物館HP」より
https://adeac.jp/oamishirasato-city/top/topg/iwashi.html
本校の運動会では高学年児童が「ソーラン節」を踊ることが伝統となっています。
また、現在、千葉県立中央博物館において企画展が開かれているのでご紹介します。
詳細は、千葉県立中央博物館「令和6年度特別展 万祝博覧会-海をまとう-」のリンクへ
https://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/exhibition/events/maiwai_2024/
校長ブログNo134 シリーズ白浜小学校はあのとき⑧(最終回)「九十九里浜」幻の本土決戦
昨日までシリーズでお届けした「白浜小学校はあのとき」今回は最終回です。長きにわたりお付き合いくださりありがとうございました。
▼九十九里浜(木戸浜にて)今では穏やかな白砂青松と謳われる九十九里浜。九十九里浜は本校からも歩いて15分ばかりの距離です。この九十九里浜、今から30年以上も昔、テレビドラマ「ナースステーション」(1991年(平成2年))の主題歌として歌われたMi-Ke(ミケ)の『想い出の九十九里浜』で一躍注目されました。また、2022年(令和4年)には、「ご当地ソングの女王」ともよばれる演歌歌手の水森かおりさんが『九十九里浜』をリリースし、ヒットしました。九十九里浜といえば、千葉県を代表する観光地。この夏も、各地からの観光客でおおいににぎわっています。
平和な時代に想像できないことですが、約80年前、この九十九里浜が戦時中、日本にとって国の存亡をかけた最重要な防衛地帯であったといいます。1944年(昭和19年)南方の絶対防衛圏であった南太平洋上にあるマリアナ諸島のサイパン島が陥落したことを契機に、アメリカ軍がマリアナ諸島を日本本土の攻撃基地とし、爆撃機B29による空襲が激化しました。翌年1945年には、唯一の地上戦となった沖縄で、組織的な日本軍の抵抗が終わり(1945年6月23日)、沖縄本島とその周辺は連合軍により占領されました。しかし、依然として日本軍の抵抗は続き、ポツダム宣言受諾を黙殺した日本政府は、陸軍による「本土決戦」に向けて徹底抗戦をする構えでした。そのため、アメリカ軍は、1946年(昭和21年)春「九十九里浜」と「相模湾」の2方面から首都東京に攻め込む計画だったそうです。日本軍も同様に本土決戦のシナリオをもとに、1944年(昭和19年)から本格的に九十九里浜周辺の防衛を進めていました。最終的に、1945年(昭和20年)8月10日の御前会議で千葉県ゆかりの当時の総理大臣鈴木貫太郎が奏上し、「ポツダム宣言受諾」が決定し、8月15日正午、終戦を迎えることになりました。両軍とも最悪の状況が回避されました。これまでご紹介した回顧録からも、米軍の艦隊が房総半島沖合に出没し、艦載機による機銃掃射や上空で日本軍が交戦していました。当時の白浜村民をはじめ、白浜国民学校の学童たちは恐怖だったことでしょう。仮に本土決戦が起きていたら、新たにおびただしい数の犠牲者を出し、学校そのものもどうなったか想像を絶します。
参照:8月13日付 読売オンラインに関連記事が掲載されていました。https://www.yomiuri.co.jp/national/20240813-OYT1T50056/
こちらも参照
「NHKアーカイブスより」
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001100588_00000
<クレジット>
番組名 [証言記録 兵士たちの戦争]昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~
収録年月日 2010年1月30日
千葉県民だより8月号5面「日本を終戦に導いた千葉県ゆかりの内閣総理大臣 鈴木貫太郎」
https://www.pref.chiba.lg.jp/kouhou/kenmindayori/r6/r6-8/tayori-5.html#a5
いつまでも続いてほしいわたしたちのふるさと九十九里
本校学区周辺は、千葉県立九十九里公園に位置します。夏季休業に入り、近隣の大型レジャー施設、道の駅、海の駅、空の駅をはじめ、クラブチームの合宿等、学校の周辺でも他の地域からの観光客や合宿客を目にすることが多くなりました。連日の暑さでどこに行っても多く混んでいます。
<九十九里浜とは>
九十九里浜は、「旭市(旧飯岡町)刑部岬(あさひし(きゅういいおかまち)ぎょうぶみさき)」から「いすみ市(旧岬町)太東岬(たいとうみさき)」のあいだ66キロメートルの海岸(かいがん)をいいます。
▼刑部岬を望む(飯岡海岸にて)
<地名の由来>(山武市HPより引用)
源頼朝(みなもとのよりとも)が太東岬(たいとうみさき)から刑部岬(ぎょうぶみさき)の間(あいだ)を6町(ちょう)を1里(り)とし、1里ごとに矢を立てたところ99本にたっしたことから九十九里(くじゅうくり)とよぶようになりました。
九十九は「きゅうじゅうきゅう」「くじゅうく」のほかに「つくも」とも読みます。
その語源は...
百は「もも」とも読みます。つまり百に次ぐ(つぐ)「ツグモ」が訛り(なまり)「ツクモ」と呼ぶようになりました。
他にも
九十九折り(つづらおり)・九十九湾(つくもわん)・九十九島(くじゅうくしま)のように「多く」「たくさん」をさす言葉です。
詳細は「山武市HP」から子供向けのホームページ「さんむしキッズHP」がわかりやすいのでこちらを参考に
https://www.city.sammu.lg.jp/page/page002161.html
【千葉県立九十九里公園の概要】(参考 千葉県HP 千葉県の自然公園)
開園 1935年(昭和10年8月9日)の県立自然公園
県立九十九里自然公園
(1)区域:北の旭市刑部岬から南のいすみ市太東岬までの弓状に湾曲した九十九里浜、雄蛇ヶ池、洞庭湖
(旭市・匝瑳市・山武市・東金市・大網白里市・千葉市緑区・山武郡横芝光町・九十九里町・長生郡白子町・一宮町・長生村 にわたる面積 32.53平方キロメートル)
(2)特色:弓状に湾曲した約60キロの砂浜がおりなす海岸景観。海水浴場や、サーフィンとしての利用。
(3)主な見どころ:九十九里海岸、海鳥(シロチドリ、コアジサシなど)、海浜植生(ハマヒルガオなど)、雄蛇ヶ池(東金市)、軍荼利山(ぐんだりやま:一宮町)など
校長ブログNo133‐2 無事過ごせますように!台風7号接近中!!
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台風7号(アンピル)が、あすにも関東に最接近。最大限の警戒が必要です。8月に台風が連続して4つも発生。(5号マリア、6号ソンティン、7号アンピル、8号ウーコン)
どれも同じようなコースをたどっており、一昨日までは予報を見てもどれを見たらいいんだ?と混乱してしまいました。海上で次々に生まれてすぐに来襲。勢力が強く、非常に危険なパターンです。今回は少し東側のコースをたどるとはいえ、2019年(令和元年)9月の房総半島台風と似た進路だそうです。当時の大被害(建物や道路の損壊、浸水、高波、高潮、長期にわたる臨時休校、避難所、断水、停電、食糧や水などの物資の不足など)でたいへんな思いをしたことは記憶に新しいことと思います。例年ですと西から来る台風が東の海上に発生。「ラニーニャ現象」により、高気圧の勢力が強いため関東や東北寄りに台風が上陸する傾向が高くなるとのことです。
ラニーニャ現象(参照:気象庁ホームーページ)
西太平洋熱帯域の海面水温が上昇し、西太平洋熱帯域で積乱雲の活動が活発となる。 このため日本付近では、夏季は太平洋高気圧が北に張り出しやすくなり、気温が高くなる傾向がある。
台風の名前のつけ方(参照:気象庁ホームーページ)
一番下の欄「台風のアジア名と意味」の表中、No13~16が台風5号~台風8号に該当します。
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-5.html
台風だけじゃない。地震、水難事故...落ち着かない夏
台風に限らず、8月8日夕刻、日向灘を震源とする地震は、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発表され、緊迫しました。この情報を聞いたとき、 今年の元日を思い出しました。1月1日の能登半島地震。翌2日は羽田空港で起きた航空機地上衝突事故。緊迫し不安を抱いた年明けとなったことです。
夏休み中も毎日のように朝からテレビのアナウンサーが「災害級の暑さです!!」「水分補給をしっかりと!」「記録的猛暑」「熱中症警戒アラート厳重警戒!危険!!」などと伝えていますが、最近では聞き慣れてしまった感もあります。しかし、改めて言葉を見てみるとやっぱり異常ですよね。
21世紀以降目立つ 気象に関する流行語・新語
この他にも流行語や新語にノミネートされた気象用語がありました。21世紀(2000年~)以降特に増えているとのことです。
「気象観測史上(はじめての...)(1990年)」
「猛暑日(2007年)」
「ゲリラ豪雨(2008年)」
「爆弾低気圧(2012年)」
「PM2.5(2013年)」
「線状降水帯(2017年)」
「災害級の暑さ(2018年)」
「命を守る行動を(2019年)」
「記録的猛暑(2023年)」
さてさて...2024年 今年はどんな言葉がトレンド入りするか。いずれにしても8月から10月までは災害が多くなる月です。まずは、今回の台風7号接近。緊迫した週末になります(祈るような気持ちです!)が無事過ごせますように。十分気をつけていきましょう。
校長ブログNo133‐1 シリーズ白浜小学校はあのとき⑦ 終戦の日に
おはようございます。今日はまずこちらの写真から。木戸の「護国神社」です。同じ敷地内に「忠魂碑」もあります。(「護国神社」はフードショップいちはら様、木戸郵便局の隣に位置します。)
前回の、校章を発案した伊藤貫校長についての回顧録の続きに次のような文章があります。「奉安殿を寄贈されたのは椎名弘氏(消防団長、PTA会長、保育園長として多方面に活躍された)である。奉安殿は戦後学校に置くことができず移転させられた。現在は護国神社として辻(注:実際の「つじ」は、しんにょうは点が1つ)部落に安置されてある。
奉安殿(ほうあんでん)
戦前の日本において、天皇皇后の写真(御真影ごしんえい)と教育勅語を納めていた建物である。御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令により奉安殿は廃止が決定。全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が出た。
▼戦時中の「奉安殿」と思われる建物(椎名弘氏による寄贈)
No130に掲載した「日曜日の日直も宿直も、二人ずつの勤務に強化され、警戒警報が発令されると、夜中でも職員は出勤し、御真影奉安所の警護と、重要書類の持ち出し、校舎の警備にあたったものです。」といった記述にあるように、当時の教職員にとっては命がけだったことが分かります。
私がこれまで勤務した学校で、学校の隣の敷地に「忠魂碑」が建立されていた学校がいくつかありました。実際に石碑に「忠魂碑」と大きく刻まれていることからもそのことがわかります。ただし、石碑に記載されている内容についてはあまりに細かく、また歳月が経っていることもあり不鮮明なこともあり、読んだことがありません。今回も、この「護国神社」について、ネットで取り急ぎ調べてみましたが、残念ながらわかりませんでした。写真を撮影しに行ったときは、入口に柵があり、立入禁止の状態でした。いつどのような形でここに建立されのか、かつて学校敷地内にあった「奉安殿」が移転されたことなどは「創立100年誌」の手記がてがかりとなっています。戦後79年が過ぎてもなお、このように戦争遺産を目にし、当時の時代を想像するにつけ、今の平和な時代のありがたさを改めて感じます。
これまでシリーズで、白浜小学校に関わる教員や児童の戦時中の回想を取り上げてきました。私の世代であれば、激動の昭和を生きた祖父母の実体験を生で聴くことができました。初めて聞いたのは小学4年生のときです。きっかけは、担任の先生から与えられた夏休みの課題研究のテーマが「戦争について調べる」だったからです。卒業まで同じ担任だったため、その後も同じテーマで続けて取り組みました。最初は「戦争って何?」と何も分からなかったですが、千葉県出身で戦前から東京で生活していた祖母の話は、戦争中の暮らしに始まり、空襲や疎開についていつでも話を聞くことができたのは貴重なことで大変ありがたいことでした。さらに、担任の先生が授業中、実体験に基づいた歴史の話をしてくれたことなどに加え、新聞、テレビ、漫画や本、映画など調べていくうちに知らなかったことを知る楽しさとなり、興味をもつようになりました。今回、「創立100年誌」を読むことにより、これまで知らなかった地域の戦争時代のことを知る貴重な機会になり、たいへんありがたく思っています。