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校長ブログNo125 シリーズ白浜小学校はあのとき①国民学校学童が見た戦争(前編)

甲子園球場100年の歩みと戦争の歴史

昨日8月7日(水)「第106回全国高等学校野球選手権大会」が開幕しました。大会会場となる兵庫県西宮市の阪神甲子園球場は、開場してから100年目の記念すべき年になります。

選手宣誓をした智弁和歌山高等学校野球部主将の言葉「宣誓、僕たちには夢があります。ここ、甲子園で日本一になることです。100年前、この地に甲子園球場が誕生し、それ以来、全国の球児がここでプレーすることを夢見てきました。(中略)あれからちょうど100年経った今、僕たちはここに立っています。僕たちには夢があります。この先の100年も、ここ甲子園が聖地であり続けること。そして、僕たち球児のあこがれの地であり続けることです。(後略)」

大会ができることは奇跡であるそんなことを感じながら、中継放送の冒頭「100年の歩みを振り返る」ドキュメントを見ていました。それは次のような歴史があるからです。第二次世界大戦の影響により1941年(昭和16年)夏の大会~1945年(昭和20年)の5年間中断されます。その後、みなさんのご記憶にも新しい、2020年(令和2年)新型コロナウイルス感染症による大会中止がありました。2022年大会で優勝した仙台育英高校の監督の言葉「(前略)入学どころか、たぶん、おそらく、中学校の卒業式もちゃんとできなくて、高校生活っていうのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とは全く違うんですね。青春って、すごく密なので、でもそういうことは全部『だめだ、だめだ』と言われて、活動していても、どこかでストップがかかって、どこかでいつも止まってしまうような苦しい中で、でも本当に諦めないでやってくれたこと。(後略)」

近年の猛暑により高校野球の在り方も議論され、甲子園球場内野席を覆う「銀傘」がアルプス席まで拡張される計画(完成予定は2028年)ですが、戦前の甲子園球場は開業当初から「大鉄傘」と呼ばれた鉄製の大屋根を内野席に備えていました。1931年(昭和6年)にアルプス席に広げ、1943年(昭和18年)戦時中の金属供出で取り外された悲劇の歴史があります。そのため、終戦翌年の1946年(昭和21年)夏の大会から再開された映像には「大鉄傘」が確かにありませんでした。その後、1951年(昭和26年)に復活し、2009年(平成19年)に現在の姿に架け替え、内野席両端まで広げられた歴史があります。

シリーズ白浜小学校はあのとき が始まります。

白浜小学校の沿革を見ると、小学校の名前が4回変わっていることに気づきます。

「白濱尋常小学校」(1889年(明治22年)~1895年(明治28年))、「白濱尋常高等小学校」(1896年(明治29年)~1940年(昭和15年))、「白浜国民学校」(1941年(昭和16年)~1946年(昭和21年))「白浜小学校」(1947年(昭和22年)~現在)です。

(※それぞれの教育制度の用語の意味については記事最後の欄を参照)

1945年(昭和20年)8月15日の終戦から79年が経ちます。今回からシリーズ「白浜小学校はあのとき」と題して、合計8回にわたり当時の学校の様子が分かる手記や、校長が調べてわかったことなどお伝えしていきます。お読みになられる方はこの機会にぜひ、戦争と平和について感じていただけたら幸いです。

第1回は国民学校に通った学童(小学生)の回想です。(前編・後編に分けて掲載します。)

「私たちが国民学校へ入学したのは昭和16年でした。尋常小学校から国民学校と名前が変わり、軍国主義増々色濃くなりつつ第1回目の入学です。その年の12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾攻撃を決行、世界大戦になったのであります。そして日本軍は破竹の勢いで戦果を挙げ、南太平洋の島々を日本のモノにしていったのです。そして、シンガポール陥落のニュースに躍り、生徒全員による旗行列で喜んだのです。しかし戦争は3年生後半から変わり始め、男の先生方も兵隊へ行き、授業も思うようにできなくなり、白浜村からも戦死者が続出してきました。

▼1941年(昭和16年)国民学校当時の教職員(男性・女性の割合は半々だが、やがて男性は徴兵された)

村長さんはじめ数多くの人たちと生徒全員による村葬も数多くなり、都会からの生徒も多く、教室へ入りきれないほどでした。親たちは農作業に追われ休む暇もなく働き、子供たちは弟や妹を学校に連れて行き、子守をしながら勉強していた人もありました。 校庭は全部芋畑に変わり、水田もかなりの面積を作って食糧生産に励んだのです。その頃から教科書も少なくなり、上級生からもらったり、先生が黒板に書いたものをザラ半紙に書き取りながらの勉強でした。

▼記念誌には昭和7年(1932年)受持児童と開墾作業とある。この年、中国東北部に満州国が建国された。文中にある「都会からの生徒も多く」とは、都市部から地方への「縁故疎開」と考えられる。

戦争はますます不利な展開となり、南太平洋の島々は玉砕のニュースに変わり、ついには沖縄まで米軍は上陸してきたのです。お弁当は梅干し1個の日の丸弁当、サツマイモ等弁当検査があり、良いおかずを持っていくと注意されました。そして、ついに米軍による本土爆撃という事態になり、生徒は防空頭巾をかぶって通学、学校では防空壕への避難訓練、国防婦人会は竹やり訓練の日々です。学校にも家庭にも、軍隊が駐留、時おり戦車が砂煙をあげて走っていました。「警戒警報発令、敵B29編隊は相模湾上空を北に向け飛行中」ラジオから流れます。それは現在の天気予報みたいなものでした。警戒警報が空襲警報に変わり半鐘が鳴り渡っていました。昭和20年3月東京大空襲。東京方面を爆撃したB29の爆撃機は、悠々と我々の上空を飛び去って行きました。ある朝早くから高射砲の演習だなあと思い、学校へ行こうと家を出た途端、上空には日本軍と米軍の飛行機数十機が空中戦、見ていると日本の飛行機は胴体と翼がバラバラになり、胴体は尾垂下根地先に墜落、翼は尾垂浜に落下。私は、その飛行機の車輪をずいぶん探し、28年ぶりに見つけました。昭和20年8月15日戦争は終わったのです。(後編へつづく) 

【用語について】 

鉛筆尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関の名称。明治の学制発布当初は4年間の義務教育だったが、1907年(明治40年)から6年間になった。

鉛筆尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)国民学校令(1941年/昭和16年)が施行される前の学校のうち、尋常小学校の課程と高等小学校の課程を一つの学校に併置した小学校のことである。国民学校令の施行とともに、国民学校の初等科・高等科に改組された。

鉛筆国民学校(こくみんがっこう)日中戦争勃発後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校。尋常小学校を国民学校初等科(修業年限6年)、初等科を終了した者が進学できる高等小学校を国民学校高等科(修業年限2年間)とする。

鉛筆小学校(しょうがっこう)1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに新しい学校制度ができ、それまでの国民学校は、現行の小学校に移行した。