ほごログ(文化財課ブログ)

タグ:今日は何の日

【 #4月1日 】 #今日は何の日? in春日部

今から30年前、平成6年(1994)4月1日は #かすかびあん 宣言の日です。 #かすかべプラスワン

「かすかびあん」とは、「自然を愛し、文化を愛し、人を愛し、未来を愛し、そしてなによりも春日部を愛する人のこと。春日部をもっと好きになりたい、もっと愛したいと願望し他の人にも春日部を好きになって欲しいと願っている人」のこと。

定義はさておき「かすかびあん」といえば、このマーク。市内のどこかで見覚えがないでしょうか。

 画像:かすかびあん

マークには意味があることご存じでしょうか。「胴体から発信される3本のラインは、緑で春日部の誇る藤と文化を、赤で太陽と春日部の未来を、そして体全体で、躍動するエネルギーと情念を表しています」

「胴体」「体全体」ということは、動物をモチーフにしている模様です。

平成6年(1994)に市制施行40周年を迎えた旧春日部市が、「より暮らしやすい春日部をつくりたい、より魅力ある春日部にしていきたい」を目標として、CI(コミュニティ・アイデンティティ)手法によるイメージアップ推進事業に着手し、4月1日、「かすかびあん宣言」が宣言されました。宣言は以下の通り。

わたしたちは、あたたかいまち、

誇りと感動のあるまち春日部を愛し、

もっと多くの人たちにも、

この気持ちを持ってもらうために行動することを約束します。

そして、この宣言に基づいた「かすかびあんキャンペーン」事業がはじまります。

イメージ戦略なので、具体的に何をしたのかということは、今となっては追跡しづらいのですが、「かすかびあんマーク」を市の刊行物や案内サインなどに多用し、まちづくりに活かす取り組みを進めました。たとえばTシャツ。

写真:かすかびあんTシャツ

いくつかバージョンがあるようですが、手元の資料によると少なくとも94年度から98年度まで毎年度製作されていたようで、98年度(写真右)は「「祭りだ!ワッショイ!!」をテーマに祭りのあとのセンチメンタルを感じさせるデザイン」にしたとか。

かつて「ほごログ」でも紹介した藤のまち春日部を意識した事業も「かすかびあん」関連の事業として取り組まれ、『藤なんでも百貨』の出版や国特別天然記念物の牛島のフジから接ぎ木した苗木を配布したりする「春日部オンリーワン行動計画」が実施されました。「かすかびあんPress’96」(資料番号001-148)には「藤のかすかびあん大募集」の記事がみえます。

市役所のみならず、町の皆さんにもご協力いただき、たとえば、次の画像は、駅東口にあったショッピングセンターの懸垂幕の写真です。

写真:東口のニチイの懸垂幕

今でも 「もっと春日部、かすかびあん!」というキャッチフレーズとともに、90年代後半ごろに造られた構造物に、マークがあしらわれているものが残っています。

その後、「かすかびあん」という言葉・マークは、平成17年の庄和町との合併ともあいまって、あまり使われなくなってています。

さて、現在、春日部市では、シティセールス戦略プランを策定し、市のイメージ戦略、イメージアップを進めています。シティセールスとは、「選んでもらえるように、まちの売込みをしていくこと」とのこと。

「かすかびあんキャンペーン」でも掲げていたように、まちの誇りや愛着を感じてもらうとともに、人口減少社会の現代において「今後もここに住んでいたいと思ってもらうこと」を重視するものへと変化し、「かすかびあん」という言葉・マークは使われなくなっても、「+1のあるまちkasukabe」のなかに、その理念は現在にも継承されているのでしょう。

郷土資料館では、次期に旧市庁舎と市政のあゆみをテーマにした企画展示を計画中です。「かすかびあん」も旧市庁舎時代に生まれた市政を代表するマークなので、関連資料も展示する予定です。「かすかびあん」の方は必見です。詳しくは後日お知らせします。

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版6月2日版6月3日版6月10日版7月31日版9月1日版9月16日版11月25日版

過去の今日は何の日?in春日部シリーズは、上のリンクからお読みいただけます。

【 #11月25日 】 #今日は何の日? in春日部

今から92年前、大正4年(1915)11月25日は #内牧村 から 皇室に #梅田ごぼう が献上された日です。 #かすかべプラスワン

梅田ごぼうは、知る人ぞ知る、春日部固有の在来野菜。栽培が盛んだった市内の梅田地区の地名を冠したゴボウです。市内の梅田女體神社に御買上の記念碑があり、それもあってか地元では、大正天皇が即位されたときに皇室に献上されたことで知られています。梅田ごぼうについては、以前も少し紹介したことがあります(以前の記事のリンク)

梅田ごぼうが皇室に献上されたのは、大正4年11月に行われた大正天皇の即位礼(大正大礼)に際してのことでした。地方から皇室への献上は、「伝献」(でんけん)と呼ばれる間接的な献上の方法で行われることになっており、実際の献上にあたっては、村役場から、郡庁、県庁を介して、宮内省と調整して進められました。その過程を、埼玉県や宮内省の行政文書から追ってみましょう。

大正4年8月27日、内牧村では臨時村会が行われ、大正大礼の奉祝のため、村の特産物である梅田牛蒡1箱(15本入)宮内省に献上することが決議されました。これを受けて、9月27日、内牧村の村長高橋喜右衛門は、南埼玉郡役所、埼玉県を介して、宮内大臣に献上願を発出します。10月9日、埼玉県は伝献願として、南埼玉郡の糯白米、内牧村の梅田牛蒡、北足立郡七里村の長芋を、大正大礼の奉祝ために伝献したいと出願をします。これを受け、宮内省では、10月21日に伝献の採納通知を埼玉県に発出しました。この文書では、当時の内牧村村長の高橋喜右衛門は赤坂離宮に持参し、現地にいる埼玉県職員に献上品を引き渡すようにと指示されています。

 埼玉県から同時に伝献願が出された南埼玉郡の糯白米、内牧村の梅田牛蒡、北足立郡七里村の長芋は、11月4日に赤坂離宮で引き渡しされることになりましたが、梅田牛蒡は収穫時期が尚早であったため、梅田牛蒡に限り、伝献期日が変更されることになります(11月2日)。残された文書によれば、南埼玉郡長が電話で、牛蒡の株取りは11月20日ごろが最も好時期であると申し伝えたようで、直前に延期とされたようです。

おそらく11月20日前後に収穫されたことでしょう。

そして、11月25日、梅田牛蒡は埼玉県内の他の特産物とともに献上(伝献)されました。

梅田牛蒡の皇室への献上は、上にみたように、行政のなかで事務的に進められ、実現することになりました。きわめて淡々と進められていく過程のなかで、収穫はまだ早いと判断され、期日が延期されることになったことは注目されます。詳しいことはわかりませんが、92年前の生産者や地元のこだわりが感じられます。

大正大礼の伝献について、少し詳しく述べましたが、実は、梅田牛蒡、この前後にも皇室に御買上げされていたようです。下の書簡は、大正4年2月9日、南埼玉郡長の鎌倉恒松から、梅田牛蒡の生産者にあてられた宮内省の御買上げの礼状です。

画像:梅田ごぼう御買上の礼状

書面からみると、すでに2月の時点で内牧村産の梅田牛蒡が御買上となっており、大正大礼以前に梅田牛蒡が宮内省に買い上げられていたことになります。宮内省の御買上は、産業の奨励のために実施されたもので、厳密にいえば献上・伝献ではありませんが、梅田女體神社の石碑に「大嘗祭御用梅田牛蒡御買上記念」と刻まれるように、地元にとっては、皇室に献上したように認識されたことでしょう。それだけ、梅田牛蒡は、地元の誇るべき特産品であったといえるのです。

しかし、梅田牛蒡は残念ながら、種が途絶えてしまいました。現在は同じ太牛蒡の一種の大浦ごぼうの種が市内で作付けされ、いままさに収穫、店頭に並んでいるところです。当方も先日道の駅で購入し、食べましたが、普通のゴボウよりも香りが強く、柔らかくて美味しかったです。11月末から正月にかけて、太牛蒡は旬です。皆さんも、ぜひご賞味ください。

 

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版6月2日版6月3日版6月10日版7月31日版9月1日版9月16日版

過去の今日は何の日?in春日部シリーズは、のリンクからお読みいただけます。

【 #9月1日 】 #今日は何の日? in春日部

今から100年前、大正12年(1923)9月1日は #関東大震災 が発生した日です。春日部市域にも甚大な被害をもたらしました。 #かすかべプラスワン

#関東大震災100年 を迎えた今、郷土資料館ではミニ展示「1923.9.1関東大震災と春日部」展を開催しています。また、埼玉三大被災地とされた川口市・幸手市の郷土資料館と連携し、「埼玉の関東大震災100年を巡る」スタンプラリーを開催しています。

今回は、ミニ展示でも展示紹介する粕壁小の震災文集について、少し紹介してみましょう。

画像:表紙

粕壁小学校に遺された震災文集は、正式には「大震災記念児童文集」といいます。

粕壁尋常小学校に通う子どもたちが記した作文がつづられています。

現存するものは、第3学年、第4学年、第5学年、高等科(1・2年)の計4冊です。

1・2年生の作成(編纂)されたかどうかも定かでありません。第6学年のものはおそらくあったと思われますが、現在、その所在は不明となっています。

4冊に綴られているのは、総計402名の児童の作文です。作文は、9月1日の震災の後、10月~11月にかけて執筆されているようです。小学生が記したもので、誤字や文意が通らない部分も多く、事実関係が確定できないことも多いのですが、震災前後の粕壁町の様子を伝える、きわめて貴重な資料です。あわせて、行政文書・記録等には記述されにくい子どもたちの暮らしや心情が読み取れる史料でもあります。文集から読み取れる詳しい内容は、ミニ展示に譲りたいと思います。

さて、埼玉県や春日部市域も、震災の被害を被りました。県内の被害の中心は、県の南東部にあたり、特に川口町・幸手町・粕壁町が甚大な被害をうけ、三大被災地とされています。被害の数字は、資料により異なるようですが、当時人口5813名・1180世帯の粕壁町では、全壊305戸、半壊341戸、死傷者29名の被害がありました。建物全体のおおよそ34%が倒壊したとされています。その様子は、「粕壁町震災写真帖」に所収される写真からうかがえます。写真は「かすかべデジタル写真館」でも紹介しています。

画像:上町の家屋倒壊状況

写真から、その凄まじさがわかります。将棋倒しになった建物もあったそうです。

住まいだけでなく、家族を失い、電気や食料の供給も不十分で、東京方面の空が真っ赤に燃え、焼け出された避難民が町の中を通過し、町は混乱・・・被害の数字は東京や横浜と比較すれば些細ですが、市域も、まさに非常事態だったといえるでしょう。

先に紹介した「文集」のうち、ある男の子の作文の文末には、ひときわ大きな字で、次のメッセージが記されています。

画像:5年生の作文

「わすれるな。九月一日」

この子は、地震発生当時、東武座にいて、「しぬかくご」で逃げ、「おうらい」(現春日部大通り)の建物は「たいていつぶれ」、夜には地震や様々な「さわぎ」で眠れなかったと記しています。子どもながら、辛く苦しい経験・記憶を思い出しながら、作文を書き、最後に自分に言い聞かすようにこの言葉を記したのではないでしょうか。100年後の私たちはこの子どものメッセージをどのように受け止めればよいのか。

9月1日は防災の日です。各地で防災訓練などが行われ、春日部市郷土資料館でも「シェイクアウト埼玉」という防災訓練が実施されます。そうした訓練から、防災意識・感覚を体に染みつかせ、防災意識を高めることは大変重要なことでしょう。

春日部市は「プラスワンのあるまち」ですから、この防災訓練にプラスワン!

身近な地元の災害の歴史、もとい「わすれるな。九月一日」というメッセージから、災害・防災について、他人事ではなく、自分事として考え、そして、地域の記憶を後世に伝えていく。関東大震災100年の今日が、そのような一日になれば、100年前の先人たちも喜ぶのではないでしょうか。

ミニ展示は10月8日まで開催しています。先人たちの声にぜひ耳を傾けに来てください。

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版、4月28日版6月2日版6月3日版6月10日版7月31日版9月16日版

過去の今日は何の日?in春日部シリーズは、のリンクからお読みいただけます。

【 #6月2日 】 #今日は何の日?in春日部

今から378年前の正保2年(1645)6月2日(旧暦)は、江戸川が完成し通水をした日です。 #かすかべプラスワン

埼玉県と千葉県境を流れる江戸川は、江戸幕府による関東地方の河川改修の一環で開削された人工の河川です。

江戸川がいつ成立したのか。これは古くから学術的な見解がわかれる問題です。成立の年代の諸説として、寛永12年(1635)説(吉田東伍)、寛永17年(1640)説(根岸門蔵)、寛永18年(1641)説(清宮秀堅)、寛永12年起工・18年竣工説(栗原亮輔)が唱えられてきました。江戸時代前期の寛永時代の基本的な文献が少なく、参照する史料の性格の相違や、江戸川の上流と下流でも時期がずれることも説が分かれる理由の一つです。

ところで、市域の江戸川流域、かつて庄内領と呼ばれた地域には、開削当時の伝承を伝える江戸時代の記録が伝わっています。著名なものでは市指定有形文化財でもある「小流寺縁起」もその一つです。「小流寺縁起」は明暦3年(1657)に小流寺の開基・開山の由来について記した寺の縁起で、そのなかに寛永17年(1640)2月に幕府代官伊奈忠治の家来が利根川(江戸川)の改修工事のため川を見分したことが記されています。開削された時代のわずか十数年後に具体的な工事についての記述がされているため、歴史研究の世界ではよく知られた史料として扱われてきました。

また、同じく市指定有形文化財でもある元禄12年(1699)閏9月「西金野井香取神社領替地につき覚書」にも、寛永17年(1640)に「新利根川」(江戸川)の堀り替え工事が行われたことが記されています。

江戸時代の後期、地域の有力者(村役人)などに共有された手控え「庄内領三拾五ケ村高反別控帳」(郷土資料館所蔵)には、次のような記述がみえます。

庄内新田古来之事
右庄内新田之儀 寛永寅年より伊奈半重郎様御家来小嶌庄右衛門様御取立
寛永十七辰年より江戸川関宿より今上村堀迄、親野台辰より午迄三ヶ年、夫より正保二酉年六月二日新川村成就  水流し申候、正保元申年庄内領何村 名除いたし、草訳相成、戌亥慶安元子丑五ヶ年之間無年貢、其節之御役人左之通り(後略)

これによれば、庄内領の新田は、寛永15年(1638)に代官伊奈半十郎の家来小島庄右衛門によ
り取立られ、同17年(1640)から関宿から今上村(現野田市)まで江戸川が開削、「親野台」(現市内西親野井、野田市東親野井か)では開削に3か年を要した。

正保2年(1645)6月2日に江戸川が通水。同元年(1644)には「名除」(名附の誤写か)し、同3年(1646)から慶安2年(1649)の5年間(ママ)の年貢免除を経て、新田村が成立した、という。

本史料は文化年間(1804-1818)ごろに書写されたもので、記述に疑問が残る部分もありますが、他史料にも同様の記事もみえることから、19世紀の庄内領における開削・開発の記憶・伝承を記した記録といえます。江戸川の開削は、庄内領の人々にとって、自分たちが住む村の成り立ちとも関わる関心事でした。地元の人たちは、寛永17年(1640)に関宿から今上の開削が終わり、正保2年(1645)6月2日に通水をしたと考えていたようです。ほかの史料とも共通するのは寛永17年。おそらく、春日部近辺では、寛永17年ごろに江戸川が開削されたのでしょう。

そして興味深いのが、正保2年(1645)6月2日の通水。なぜこの年のこの日付なのか、十分な説明はできませんが、寛永17年の開削と同様、通水した出来事・日付を地元で脈々と伝えてきたのではないかと考えられます。別の史料では正保3年(1646)に舟渡しが命ぜられたとあるので、正保時代に江戸川は整えられたことになりましょう。

江戸川は、流通を支えた川として、自動車の物流が盛んになる戦後まで、人々の暮らしを支えてきました。

写真:昭和11~13年頃江戸川西金野井辺りポンポン船

写真は、昭和11~13年ごろの西金野井の河川敷で撮影されたもの。ポンポン船がはしっています。

郷土資料館では、現在、江戸川の開削を伝える資料を展示しています。ぜひご覧いただければと思います。

 

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版6月3日版6月10日版7月31日版9月16日版

【 #7月31日 】 #今日は何の日? in春日部

今から142年前の明治14年(1881)7月31日は、再び、明治天皇が粕壁で昼食をとられた日です。 #かすかべプラスワン

「再び」というのは、以前にも紹介した通り、明治天皇は、明治9年6月3日に東北巡幸のため粕壁の竹内家でご昼食ととられているから。

明治天皇は、明治14年にも山形・秋田・北海道巡幸のため、陸羽街道をたどり、明治14年7月31日に再び粕壁の高砂屋(竹内家)でご昼食をとられました。

現在開催中の「明治天皇と春日部」展では、明治14年に明治天皇がご昼食をとられた高砂屋(竹内家)の屋敷図面を展示しています。前にも紹介したように、粕壁においては、高砂屋(竹内家)の痕跡や記憶はほとんど伝わっておらず、高砂屋に関する資料も断片的でわからないことが多かったのですが、展示の準備調査で見出した竹内家の屋敷図面は、屋敷の部屋割りや構造はもちろん、明治天皇がご入室される行程や宮内省関係者の配置が克明にわかる資料です。常設展示に展示してもいい粕壁の歴史を物語る重要な資料です。レプリカを作りたいぐらいですし、屋敷の部屋割りなどを立体的に復元することができるかもしれません。

画像:高砂屋の図面

資料の写真は、高精細ではありませんが、宮内庁のホームページでも公開されています。こちらからご覧いただけます。8月21日(日)の展示解説講座「明治天皇と粕壁宿」では、高砂屋の図面を詳しく検討したいと思っています。今回の展示の目玉資料でもあり、今後の活用も期待される春日部にとって重要な資料といえますので、この機会に展示を見にいらしてください。

さて、明治9年には、岩倉具視、木戸孝允、土方久元が供奉しましたが、明治14年にはどんな方が来たのか。著名な方では、有栖川宮熾仁親王、北白川宮能久親王、大隈重信、大木喬任らが供奉しています。明治14年の巡幸では、宿割の記録が残されており、大隈重信をはじめ、供奉した方々が滞在・昼食をとられた商家(場所)もわかります。こちらについても展示で紹介しています。必見です。

1 展示会名 明治天皇と春日部~巡幸・御猟場・梅田ごぼう~

2 主  催 宮内庁・春日部市・春日部市教育委員会

3 会  期 令和4年7月20日(水)~9月4日(日)(休館日:月曜日、祝日)

4 開館時間 午前9時~午後4時45分

5 入  館 料 無料

6 会  場 春日部市郷土資料館(住所:〒344-0062 春日部市粕壁東 3-2-15(春日部市教育センター内))

 

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版6月3日版6月10日版9月16日版

【 #6月10日 】 #今日は何の日? in春日部

今から144年前の今日。明治11年(1878)6月10日は、イギリス人女性イザベラ・バードが粕壁に宿泊した日です。

イザベラ・バードは、イギリスの女性旅行家・冒険家・探検家などと称され、明治初めの日本各地を遊歴した人物として知られています。バードは旅行の状況を文章として残しており、当時の日本各地の様子が克明にわかる『日本奥地紀行』は、東洋文庫や平凡社ライブラリーなどにも収録され、著名な紀行文の一つとして知られています。『日本奥地紀行』は「ふしぎの国のバード」という漫画にもなっているほどです。

さて、バードは、明治11年(1878)6月から9月にかけ、通訳の伊藤鶴吉を供に、東京から日光、新潟、日本海側から北海道へと旅をしています。東京を人力車で経った初日の同年6月10日、バードは粕壁の旅館に宿泊しました。バードが宿泊したのは、粕壁の高砂屋旅館。この旅館、前回の今日は何の日?in春日部をご覧いただいた方はご存じでしょう。明治9年6月3日、明治14年7月31日に明治天皇の御昼食所となった旅館です。

バードの『日本奥地紀行』によれば、高砂屋は「一階にも二階にも部屋があり、客がいっぱいで、実にさまざまないやな臭いが立ちこめていた」といいます。バードは二階の部屋に泊まることになりましたが、夜はカビ臭い蚊帳、蚤と蚊、そして襖がしょっちゅう開けられ、わずかな隙間から他の客が覗くなど、プライバシーと蚤・蚊に悩まされたと綴っています。

「粕壁の旅館は劣悪だった?」とか「バードの前後に明治天皇が御昼食をとられている!?」とか、様々な疑問が生じます。ただ、バードは日本に入国してから、横浜・東京で宿泊をしており、都市を離れて初めての一泊が粕壁の高砂屋でした。おそらく、西洋の婦人が異国の庶民の旅館に寝泊りすれば、どんな人でも上のような感想をつづるのではないでしょうか。西洋の女性がつづった明治初頭の日本の庶民の暮らしという視点で史料を読む必要があるでしょう。

高砂屋があった場所は、現在、春日部大通りに設置される歩いてみよう道しるべの標柱では脇本陣として紹介されている地点になります。

写真:現在の高砂屋旅館付近

明治天皇、そしてイザベラ・バードが通った日光道中(陸羽街道)、そして高砂屋旅館。『日本奥地紀行』は図書館等で比較的手に入れやすい図書です。バードの文章を読んで、町並みを散策してみてはいかがでしょうか。

 

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版6月3日版9月16日版

【6月3日】 #今日は何の日? in春日部

今から147年前の明治9年(1876)6月3日は、明治天皇が粕壁で昼食をとられた日です。

明治天皇は、明治9年6月2日、奥羽巡幸のため、東京を発し、陸羽街道(旧日光道中)を北上され、同日は草加の大川家を行在所とされました。同3日、草加を立ち、蒲生(現越谷市)で馬車を停められ、田植えをご覧になりました。その後、大沢町で御小休し、粕壁に到着されたのは、午前10時40分ごろ。粕壁の三枚橋地区の竹内彦右衛門宅で御昼食をとられました。竹内家は、幕末期に本陣をつとめた旅籠高砂屋旅館。春日部大通りに設置される歩いてみよう道しるべの標柱では脇本陣として紹介されている地点になります。ご昼食を済まされた後、午後1時15分ころ粕壁を出発され、杉戸で御小休、幸手の知久家を行在所とされました。

ただ、高砂屋(竹内家)については、埼玉県による聖跡の調査報告書『埼玉県史蹟天然紀念物調査報告書』(大正12年刊)には、明治20年頃に家屋を売却し、当時の現状をとどめていないと報告されています。大正時代でもそうだったのですから、当然、現在は見る影もありません。

わずかに地元に残る資料として知られるのが、粕壁いろはカルタという昭和初期と推定される粕壁町の名所・名物などを紹介するカルタです。このなかの「ほ」の札が、「ほまれも高き高砂屋 君のみゆきを松のはな」となっています。絵札はこちら(『春日部市史近現代資料編1口絵より)。

画像:粕壁いろはかるた

当方も原物をまだみたことがありませんが、昭和初期の当時にはすでに無かったと思われる門が描かれる絵札です。当時の粕壁の人たちのなかには、かつてあった高砂屋が明治天皇の御昼休所(聖跡)であったという記憶が残っていたのかもしれません。

これまで、明治天皇が御昼食をとられたことは、話題になることも少なくありませんでしたが、実は、巡幸に供奉した面々も豪華なのは意外と知られていないようなので、少し蘊蓄を。当時の供奉していた人物として、岩倉具視、木戸孝允、土方久元などがいます。ことに木戸は日記を遺しており、粕壁では区務所で昼食したといいます。また、巡幸の先発隊に大久保利通がいます。ただし、大久保は粕壁で昼食はとりませんでした。

さすが、明治天皇、名立たる明治維新の功績者を連れ従えて巡幸されるのですから、いろいろなエピソードが残っていてもよさそうですね。小生も学芸員として資料調査に勤みたいものです。

147年前の今日6月3日、市域の人たちはどのように巡幸の行列をみたのでしょうか。また、明治天皇や供奉した人たちは春日部をどのようにみていたのでしょうか。そんなことを思い巡らせながら、かつての宿場町粕壁を散策されてみてはいかがでしょうか。

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版9月16日版

【3月14日】 #今日は何の日? in春日部

3月14日はホワイトデー。いやいや、春日部市郷土資料館的には硬派に「多田新十郎の日」としましょう。 #かすかべプラスワン

今から453年前の3月14日(旧暦)は、北条氏政が多田新十郎に感状を発給した日です。時は戦国時代。永禄11年(1568)12月、武田信玄は相甲駿の三国同盟を破り、駿河国の今川氏を攻めました。今川氏真の義兄にあたる北条氏政は、氏真救出のため駿河に出陣し、現在の静岡県静岡市の薩た山(たは土篇に垂、以下同じ)付近で武田軍と衝突しました。この合戦を薩た峠の戦いといいます。

多田新十郎は、はじめは甲斐の武田氏に仕えていましたが、主君に諫言して退身し、岩付城主太田資正に従ったという土豪武士です。のちに小田原北条氏に仕え、この時に戦功をあげ、北条氏政から感状を与えられました。

その感状はこちらです。釈文などは、こちらをご覧ください。

「多田新十郎は、春日部と関係ないじゃん」と思った方は鋭いですね。その通り、新十郎と春日部は直接関係はないようです。すでに江戸時代には、新十郎が亡くなった年月や墓所すらも不明とされていますから、春日部に住んでいたのかも、春日部で亡くなったのかもわかっていません。

ただ、新十郎の子どもたち三兄弟がそれぞれ粕壁に住み、江戸時代の初めに宿場町が整備された時に、開発の主導的な役割を果たしました(草分け百姓)。その後、三兄弟の家は、江戸時代には関根姓、明治以降には多田姓を名乗り、近世・近代の粕壁宿・町の名主や町長などを歴任してきました。上の感状は、三兄弟の系譜をひく多田家に伝来したものです。

そういうわけで、多田新十郎のご子孫は粕壁、春日部の歴史に深いかかわりがあるのです。歴史に「たら」「れば」はありませんが、多田新十郎が活躍しなかったら、感状を拝領していなかったら、今日の春日部はなかったかもしれません。

もうひとつ。春日部ゆかりの中世の古文書はほとんどありません。その意味でも大変貴重な地域の資料なのです。 

春日部ゆかりの中世文書は限られていますので、また中世文書シリーズで「今日は何の日」をお知らせしたいと思います。

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月27日版4月28日版9月16日版

【9月16日】 #今日は何の日? in春日部

今から74年前の9月16日は、カスリン台風による水害が発生した日です。 #かすかべプラスワン

昭和22年(1947)9月14日朝から降り出した雨は、15日には強くなりました。いわゆるカスリン台風(カスリーン・キャサリンとも)による豪雨です。台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつありましたが、台風の接近に先立って秋雨前線が活発化し、豪雨がもたらされました。この間の雨量は秩父で県内最高611ミリメートルを記録しました。

16日0時20分ごろには利根川流域の栗橋(久喜市)で水位が9メートル以上に達し、その10分後、埼玉県東村(現加須市)の新川通地先で、堤防が350メートルにわたり決壊、洪水は古利根川筋を南下しながら、埼玉県東部(中川低地)を飲み込み、東京都江東区まで進行しました。

当時の状況は『昭和22年9月埼玉県水害誌』(以下、『水害誌』)に詳しくまとめられています。

これによれば、春日部市内に利根川の洪水が実際に達したのは、9月16日の午後から夕方ごろのようです。東村の堤防決壊から半日あまり時間が経過していました。とはいえ、幸松村では、洪水が達する以前、午後2時頃から新倉松落や旧倉松落などの水路が相次いで決壊するなど、大雨による河川の逆流などもあり、被害が出ていたようです。

16日の夕刻を過ぎると、南桜井村・幸松村で浸水がはじまり、午後11時には春日部町境の隼人堀が氾濫し、内牧・梅田でも浸水が始まります。17日午前0時には宝珠花村の水田が濁流で浸水、午前5時には春日部町の川久保地先で古利根川が決壊し、町域の南部・町並の一部が浸水しました。午前10時には古利根川の春日橋が流失、午前11時には豊野村に幸松村方面から押し寄せた濁流により、全村浸水。同刻には武里村の字備後で古利根川が越水(午後1時決壊)。正午には川辺村の字水角・赤崎・飯沼・米崎、米島・中野(現東中野)の一部が濁流に覆われました。

利根川の洪水(濁流)の進行の経過は、『水害誌』所収の図に図示されています。古利根川や庄内古川を画して、濁流の進行状況が異なったことがうかがえます。赤い実線は16日、赤い破線は17日の洪水進行状況を示しています。読み取りづらい部分もありますが、市域では古利根川以東の地域の濁流進行が早く、豊春村・武里村では徐々に浸水が進行していったようです。また、台地や発達した自然堤防などの高台は浸水を免れたこともわかります。

 画像:浸水図

『水害誌』の付録である『附録写真帳』には当時の貴重な写真が掲載されています。下の写真は武里村で撮影されたものです。武里村の水防団が警戒する様子がみえます。このほかの市内の写真は「かすかべデジタル写真館」で紹介しています。

写真:武里村の状況

浸水位(深さ)は幸松村で「床上六尺以上」(床から約180cm)と報告されています。市内では6日以上湛水(水がひかない)地域もあり、高台や水塚(土盛りした建物)の上で生活する方も多く、1か月もの間避難する方もいました。農作物や橋の被害、家屋の浸水、流失・半壊する家も多くあり、大変な被害をもたらす災害となりました。また、水が引いた後の掃除も大変だったとの聞き取り記録もあります。

カスリン台風の発生から70数年が経過し、災害を経験した方も少なくなってきています。カスリン台風時には、明治43年(1910)の水害を経験した方がまだご存命で、その経験で助かった命も少なくないと聞いています。先人の経験をきちんと知り、伝え、それを学ぶことで、私たちやみなさんの暮らしの「備え」にきっとなるのではないかと思います。

春日部市では、最近「災害ハザードマップ」をリニューアルしました。こちらもぜひお目通しください。

 

参考文献 『昭和22年9月埼玉県水害誌』(埼玉県、1950年)、『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会、2013年)、カスリーン台風70年特集サイト(カスリーン台風70年実行委員会)

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月26日版4月28日版

【4月28日】 #今日は何の日? in春日部

今から109年前の4月28日は、春日部に #渋沢栄一 が訪れた日です。 #かすかべプラスワン

明治45年(1912)4月28日、天気は晴れ。渋沢栄一は、粕壁中学校(現県立春日部高校)の父兄会より講演の依頼をうけ、粕壁に向かいました。その様子は、渋沢栄一伝記資料に詳しく記述されています。

これによると、栄一は朝6時に起床し、王子停車場から汽車に乗り、午前10時に粕壁駅に到着しました。「多数ノ人士来リ迎フ」と記録されており、大勢の人々に駅前で出迎えられました。その足で人力車に乗り牛島へ。

牛島には何をしにいったのかというと、藤を見に行きました。そう、かの有名な牛島のフジです。藤樹をみて渋沢は「頗ル大木ナリ、開花ハ未タ充分ナラサルモ、棚ノ広サ凡ソ二百坪アルヘク、真ニ稀ニ見ル所ナリ」と称賛しています。

東武鉄道の開通以後、牛島のフジは「粕壁の藤」と呼ばれ、関東地方で最も著名な藤の名所地として知られていました。渋沢も見たかったのか、それとも地元の人たちに請われ、見に行ったのか、わかりませんが、いずれにしても牛島のフジは、「渋沢栄一もみた春日部の藤」なのです。藤について詳しくは「渋沢栄一もみた春日部の藤」展をご覧ください。

さて、渋沢は「小亭ニ休憩シテ」とあり、園内の建物で休息をとり、その後、粕壁税務署で「地方人士」たちと昼食、懇談しました。当時の税務署の庁舎は完成して間もなかったようです。「地方人士」とは、おそらく粕壁の町中の有志たちでしょう。この点について少し補足しておきましょう。

さかのぼること10数年前、渋沢は男爵を授爵した明治33年(1900)に帝国ホテルで埼玉県の有志者90余名を集めて祝賀会を開いています。当日招待された名前をみると、市域からは粕壁の田村新蔵、練木市左衛門、山田半六、清水寿太郎といった粕壁の大店層の面々や、のちに「成金」として知られる鈴木久五郎、その一族で鈴木銀行役員の鈴木善五郎が招かれています。ですから、明治45年に粕壁税務署で会食した「地方人士」たちは、こうした渋沢と親交のあった人たちだったと考えられます。

さて、渋沢は午後2時に粕壁中学校に向かい、本来の目的である講演をします。「国家経済ト教育」に関する演題で話をし、聴講者は600~700名あり、盛会だったといいます。

午後5時40分、粕壁駅発の汽車に乗り、午後8時に王子停車場に到着しました。

以上の行程について、郷土資料館では「図説渋沢栄一の一日inかすかべ」というリーフレットを作りました。このときの渋沢の足跡が一目でわかるものです。このリーフレットは、観光ガイドさんにもご協力いただき、藤花園内でも配布していただき、牛島のフジに訪れたお客様から大変好評を得たと聞いています。ミニ展示のネタバレにもなってしまい、手前みそですがなかなかの出来栄えなので、「ほごログ」にもあげておきたいと思います。

画像:渋沢の足跡渋沢の足跡.pdf(1.1MB)

ところで、なんと渋沢はもう一度粕壁にやってきています。そのことについては、5月2日までのミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展でちょこっとだけ紹介しています。気になる方は、展示を見に来てくださいね。