ほごログ(文化財課ブログ)

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企画展示「花の彩り*春日部」展のチラシができました

次期、企画展示「*花の彩り*春日部*」展のチラシができました。 #かすかべプラスワン

画像:チラシ

次の企画展示では、春日部ゆかりの「花」をテーマにしました。春には、牛島のフジをはじめ、市の花フジが町を彩ります。展示では、そうした牛島のフジに関わる歴史や、かつては桃の花、牡丹の花の名所でもあった春日部の歴史を紹介します。フジ・モモ・ボタンについては、数年にわたり春先の展示で紹介してきましたが、今回は「花」をもう少し広げてとらえてみたいと思っています。

市内には「花積」や「宝珠花」といった「花」のつく地名があります。「花」の地名は、直接フラワー(花)を意味するものではないようですが、なぜ「花」が地名に付されたのか、両地区にゆかりのある資料を展示し、迫ってみたいと思います。

チラシも、スマートなデザインで上手く仕上がりました。こうご期待。

展示名:春日部「春の花」企画展「*花の彩り*春日部*」展

会 期:令和6年3月16日(土)~5月2日(木)(月曜・祝日休館)

会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室

市民の皆さんと古文書を読みました

1月14日、毎月定期的に市民の皆さんと館蔵の古文書を読む「古文書勉強会」を開催しました。 #かすかべプラスワン

写真:勉強会の様子

引き続き、粕壁の旧家に伝わる「宝暦度より酒造用留」を講読しています。史料も終盤に入ってきて、皆さん、だいぶ読み慣れてきました。また、事前に有志の方々で読み合わせをする機会も設けているそうで、文字の分量が多くても、円滑に読み進めることができました。

今回は、慶応3年(1867)3月に粕壁宿寄場組合から関東取締出役内山左一郎に提出された酒火入れの願書、内山から寄場組合あての御用状などを読みました。取締出役が願書を受理するまでの組合と出役とのやり取りがわかる史料で、貴重な記録だと思いました。

次回以降の予定は、2月25日(日)、3月17日(日)。いずれも14時から、教育センターの視聴覚研修室で開催します。気になる方は、見学だけでも構いませんのでお越しください。

新春の舞「銚子口の獅子舞」の公開

1月14日(日)春日部市無形民俗文化財に指定されております「銚子口の獅子舞」が披露されました。

前日は雪が降り、天気が心配されていましたが、当日は見事に快晴になりました。
冷たい風が吹く中で、多くの皆さんが新春の獅子舞を見るために集まっていただきました。
「宮参り」「天狗の舞」「小獅子の舞」「幣掛り」の4演目が行われました。


宮参りでは、天狗の先導により境内の外から参道を歩いて入場します。境内を清める意味合いをもち、
箱獅子を被る子どもたちも寒い中でも立派に努めていました。

続く「小獅子の舞」を舞うのは14歳の中学生女子で、今回が初舞台となります。今年21歳を迎えたお姉さんに続いて姉妹での小獅子役です。
皆さんが注目する中でも、練習とおり、元気いっぱい跳ね回る小獅子の舞を披露してくれました。


最後の「幣掛り」は三頭獅子の舞で、親子の情愛を表したものです。
三頭の獅子が頭を揺らしながら、踊るのはとても迫力を感じます。


舞いの後には、太夫獅子が観客を頭の上で御幣を振り清めて一年の健康と家内安全などを祈願、さらに神饌が撒かれました。
新春から獅子に福を授けてもらい、地域の皆さんも笑顔が溢れていました。

今年も各所で民俗芸能が公開されます。当日の情報をブログでお知らせしますので、ご期待ください!

#かすかべ地名のはなし (0)

#かすかべプラスワン #地名の由来

春日部市には、市全体の地名「春日部」、「庄和」「豊春」「南桜井」のような地区名の地名、「粕壁」「藤塚」「西宝珠花」などの住居表示として使われる地名、「三枚橋」「馬草場」「花輪下」などの小名(こな)・小字(こあざ)と呼ばれる土地区画、あるいは自治会・町内会ごとの地名があります。

「なんで「大沼」というの?」とか「春日部と粕壁の二つの表記があるのはなぜ?」など、地名は生活に密着した事柄であることから、市民の方にしばしば尋ねられます。先日も、地名の由来について知りたいという方が来館されました。

今後、「ほごログ」では、地名の成り立ち、由来、歴史について、シリーズ「かすかべ地名のはなし」として、なるべく定期的に(限りなく不定期で)発信していこうと思います。

知っているようで意外と知らない地名の由来。今回はその予告編。第一回目はやはり「春日部」「粕壁」でしょうか・・・こうご期待。

 

【ロビーに展示中】手押し消防ポンプについて調べてみた

郷土資料館の展示室は狭いので、大型資料は展示できないので、教育センターのロビー展示しています。今回は、ロビー展示の、手押し消防ポンプ(腕用ポンプ・腕用喞筒)にスポットを当ててみましょう。 #かすかべプラスワン

写真:腕用ポンプ

この手押し消防ポンプは、粕壁地区の内出町内会から平成3年(1991)6月に寄託されたものです。

手押しの消防ポンプは、ガソリンなどを動力とする内燃機関が普及する以前のもので、明治時代後半から大正時代にかけて、各地方で主流となった消防ポンプでした。当時の言葉では「腕用喞筒」(わんようそくとう)と呼ばれていました。「腕用」は手動、「喞筒」はポンプの意味です。少しシャレた言い方では「腕用ポンプ」とか「ハンドポンプ」とも。以下、当日の言い方にならって「腕用ポンプ」と呼びたいと思います。

「腕用ポンプ」が台頭する以前、日本ではの放水器具は「龍吐水」(りゅうどすい)とよばれた複数人で動かす手押し式のポンプや、一人で使う水鉄砲型のポンプでした。「龍吐水」については、辰年ゆかりの資料として前に紹介しています。いずれも木製で、給水を水桶で行い、水圧が低かったため、放水量が少なかったとされています。当時の消火方法は、建物を破壊して延焼を防ぐ破壊消防が主流でした。江戸の火消たちが纏や梯子をつかったのも破壊消防のため。火消たちは鳶口や水桶などをもって火災現場に駆け付け、「龍吐水」は火事装束を湿らす程度だったといわれています。郷土資料館には、粕壁地区の内出町で使われた「龍吐水」や「纏」を常設展で展示しています。粕壁宿(町)でも、江戸時代から明治時代半ばにかけて、破壊消防による消火活動が行われていたことがうかがえます。

明治時代の初め、西洋式の腕用ポンプが本格的に輸入されると、国内でも金属製の腕用ポンプの製造がはじまりました。これまでの木製の龍吐水(在来の腕用ポンプ)は、水を桶で汲み、本体に入れなければなりませんでしたが、西洋式の腕用ポンプは、給水用のホースが備えられ、空気の圧力で、放水と給水を同時に行え、また、空気圧により安定した放水を可能としました。

市内に遺される腕用ポンプは、明治時代後半から大正時代にかけて製造されたもので、その時代に、春日部で腕用ポンプが普及していったようです。腕用ポンプの普及により、破壊消防による自然消火から放水による積極的な消火へと、消防のあり方が変わっていきました。

ロビーの腕用ポンプには、次のような銘板が付されています。

写真:銘板

「製作所 東京神田通新石町 清水弥七」と刻まれています。清水弥七は、内出町で使用されていた明治17年の龍吐水の焼印にもあった名です。龍吐水に続き、腕用ポンプも内出町に販売していたようです。市内に遺される腕用ポンプは、いずれも「清水弥七」の製造のようですが、清水については今のところ詳しくは不明です(宿題とさせてください)。

台車にのるものがポンプです。

写真:側面

ポンプの側面には「内出町自警団」と記されています。

ポンプの四角い風呂桶のようなものは「水槽」(すいそう)というそうです。水槽のなかの複雑な機械がポンプの主要部分にあたります。真ん中にみえるのが、「空気室」(圧力タンク)です。その両側には「円筒」(シリンダー)があり、上の「搖桿」(ようかん・レバー)を上下することで、圧力がかかり、水を吸い上げるとともに、放水します。

水槽の側面の「警」の字の下には吸口(きゅうこう・吸水口)があり、これに「吸管」(きゅうかん)と呼ばれる給水ホースを取り付け、水源から給水します。

写真:放水口

水槽の反対面にも「内出町自警団」とありますが、「警」の字の下のノズルが「放口」(ほうこう・放水口)になります。これに「水管」と呼ばれたホースをつけて、消火対象に放水するのです。

通常、腕用ポンプは、通常3名の消防員と、6~8名の「搖桿手」(ようかんしゅ、レバーを操作する人)が一組になり運用されました。使用にあたっては、台車からポンプ本体をおろし、給水ホース・放水ホースをつけ、「搖桿」(ようかん・レバー)の両先端に「木挺」(もくてい・レバーの持ち手)を1本ずつつけて、3~4名ずつ「木挺」を握り上下することで、圧力がかかり、ポンプが稼働します。

さて、「水槽」の後方には次のような文字がみえます。

写真:水槽の後方

「昭和十一年十一月塗替」昭和11年(1936)11月に、塗装をし直し、現在の外装になったようです。残念ながら、もともとの外装や、おそらく書かれていたであろう製造年月日は塗替えのため不明です。

ただ、なぜ昭和11年に塗り替えがされたのでしょうか。調べてみると、内出町のあった粕壁地区(粕壁町)の消防の歴史が、その背景にあるようです。

『消防発達史 第1編 埼玉県』によれば、粕壁町では、かつて町内を10部に分け、腕用ポンプを10台配備していましたが、大正13年(1924)10月24日、町営の消防組を設け、町内を4部編制としました。編制替えがされた背景は、おそらく、直前の関東大震災で県下三大被災地とされた粕壁町の事情があるかもしれません。4部編成の内訳は次の通りです。第一部は、上町、仲町、春日町、旭町、陣屋、内出、金山。第二部は、仲町の一部、富士見町、元町、新宿組、三枚橋、新々田、松の木、大砂、大下。第三部は川久保、元新宿、大池、内谷、太田。第四部は内出の一部、八幡前、八木崎、幸町、浜川戸。

すなわち、内出町は、第一部(もしくは第四部)に編成されました。4部編成を前後して、大正12年(1923)3月30日、第一部となる町内会では、ガソリンポンプを購入し、同14年(1925)4月2日には第二部でもガソリンポンプが購入されました。

ガソリンポンプは、その名の通り、ガソリンエンジンを搭載した消防ポンプで、当時の消火用具としては最新鋭のものでした。関東大震災が発生した大正12年9月1日にも、粕壁町では新町橋でガソリンポンプの運転が行われ、粕壁小の子どもたちをはじめ、多くの野次馬が見物をしています。ガソリンポンプの導入によって、手動で動かす腕用ポンプは、追いやられていったようです。また、かつて10部編制の消防組が4部編制となり、腕用ポンプがおのずと余分になっていったようです。そこで、町内会では、町内9か所に自警団を組織し、腕用ポンプを備え、自衛消防に備えるようになりました。

このように、大正時代には、粕壁町では、町営の消防組の組織や、町費で鉄塔の火の見櫓の建設など、町の消防設備・組織が整えられていく時代だったようです。町営の消防組で、消防用具の主力から追いやられた腕用ポンプは、町内会で組織した自警団により、再活用され、継承されていったものと考えられます。

ロビーにある「内出町自警団」の腕用ポンプは、このとき追いやられたものなのかもしれませんが、塗装されているため詳しくは不明です。しかし、いずれにしても、この腕用ポンプの存在は、内出町の自衛消防組織が、昭和時代になっても機能していたことを示すものといえましょう。

これまで、気の利いた説明キャプションもなく、ロビーにたたずんでいた腕用ポンプ。重量物で見栄えもしないので、文字通り「お荷物」だと思っていました。ところが、今回調べてみると、消防の歴史や、地域を自らの手で守り、継承していく町や町内会の歴史を物語る、大変重要な資料であることが(いまさら、恥ずかしながら)わかりました。

詳しいキャプションを付け、生き返らせたいと思いますので、ぜひ実物の腕用ポンプをみてやってください。

主な参考文献 横浜開港資料館編『横浜の大火と消防の近代史』(2019年)/消防発達史刊行協会編『消防発達史 第1編 埼玉県』(1933~1935年)/静岡県警察部保安課編『消防全書』(1926年)/嶋村宗正ほか「手押し式消防ポンプの構造と放水性能」『千葉科学大学紀要』6、2013年