ほごログ(文化財課ブログ)

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総武鉄道開業後の粕壁駅『新編図録春日部の歴史』ーその76

東武アーバンパークライン(野田線)は、明治44年(1911)に開通した柏駅と野田町駅間の千葉県営鉄道野田線を起源とします。北総(ほくそう)鉄道に払い下げられた後、埼玉県域では、昭和4年(1929)に大宮駅と粕壁駅(現在の春日部駅)間が、昭和5年(1930)には粕壁駅と清水公園駅間が開通し、大宮駅と柏駅間の直通電車の運転が開始されました。昭和4年には北総鉄道の社名が「総武(そうぶ)鉄道」に改められました。

ご紹介する写真は、総武鉄道が全線開業した後の粕壁駅の様子です。一番右側が東武鉄道の上りホーム、中央に東武鉄道の下りホーム、左に総武鉄道のホームがみえます。東武鉄道の下りホームには、蒸気機関車にひかれた貨物列車が入線しています。

さて、総武鉄道の経緯も詳しく触れている東部地区文化財担当者会発行の研究報告書『東部地区の交通』(1,500円)は、残部が10冊程度となっております。購入ご希望の方は、春日部市教育委員会文化財保護課(土日は郷土資料館)までお問い合わせください。

粕壁商工会『粕壁町誌』1936
「東武鉄道の電化」『新編図録 春日部の歴史』92ページ

総武鉄道開業後の粕壁駅
総武鉄道開業後の粕壁駅

川辺小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

平成31年2月15日に川辺小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。
学芸員から昔の春日部について説明を聞いたあと、資料館内を自由に見てまわりました。


見学の様子
用水路から田んぼに水をいれる農機具である「水車(水ぐるま)」に触れたり、

見学の様子
「千歯こき」で稲からモミを取ることもしました。

見学の様子
学芸員の説明には、メモを取りながら真剣に聞いてくれました。

見学の様子
昔の乗り物や、おもちゃで遊びながら昔の生活も体験しました。

郷土資料館では、3月24日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。

八木崎小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

平成31年2月14日に八木崎小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

見学の様子

少し昔のくらしを展示した企画展示室では、
実際に日常で使われていた生活用品や学用品等を、見たり触れたりしました。


見学の様子

昔の春日部の写真を見て、春日部の移り変わりを実感したり


見学の様子

隣の常設展示室では、もっと昔である江戸時代の粕壁宿の模型を見たりして、昔を身近に感じていました。

※郷土資料館では、3月24日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。

鷹番廃止の高札『新編図録春日部の歴史』ーその75

御鷹場(おたかば)は、寛永5年(1628)、江戸城を中心に設けられました。
江戸城の五里四方を、将軍自らが鷹狩りに行く御拳場(おこぶしば)、その外縁部に徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)が鷹狩りを行う拝領鷹場(はいりょうたかば)、さらにその外側には将軍の鷹を訓練する御捉飼場(おとらえかいば)が設けられ、現在の春日部市域は御捉飼場に属していました。

御捉飼場に住む人たちには様々な規則や役割が課せられました。写真の高札は、泊まり込みで鷹の見張りを行う鷹番(たかばん)という役割が、負担軽減のために享保6年(1721)に廃止される際に掲示されたものです。

『最後の将軍がみた春日部‐野鳥と御鷹場・御猟場』2013 春日部市郷土資料館
「鷹場と負担」『新編図録 春日部の歴史』92ページ

鷹番廃止の高札

古文書勉強会の成果(その11)

平成31年2月2日(土)と古文書勉強会を開催しました。市民の方々が主体的に市内神間地区ゆかりの江戸時代の古文書=神間村文書(春日部市郷土資料館所蔵)を解読しています。これまでの成果はこちらからさかのぼって御覧になれます。
写真:勉強会の模様
2月は4点の史料を解読しました。成果は以下の通りです。

【史料番号26】
    質物ニ相渡申畑地証文之事

 

一上畑壱反壱畝弐歩    町田耕地

能勢十次郎様御知行所御水帳面利兵衛名前也

 右は当巳御年貢金其外要用差詰リ申候ニ付

 貴殿江御無心申、右之畑地壱反壱畝弐歩質物ニ

 相渡金四両壱分借用仕只今慥ニ請取申処

 実正也、但し年季儀之ハ当巳十二月より来申十二月迄

 中三ケ年季ニ相定申候、此畑地ニ付諸新(親)類等不申及

 横合より少も構無御座候、若何如様之六ケ敷儀出来

 致候とも、我等加印之もの何方迄も罷出急度埒明、貴

 殿之質物ニ可致候、聊御苦労ニ相掛ニ申間敷候

一御公儀様御年貢諸役之義ハ貴殿方ニ而御勤被成

 べく候、尤年季目之申十二月中ニ罷成候ハヽ、本金四両

 壱分急度返金致候ハヽ右之畑地不残御返し

 可被下候、若受返し申儀不罷成候ハヽ、流可申候間、此証文

 を以右之畑地貴殿所持被成べく候、自然御

 縄入等御座候ハヽ、貴殿名前ニ御請可被成候、又は御勝

 手ニ而何方へ何程之質物ニ御渡し被成候とも

 我等儀ハ不及申右加印之もの印形致為質物ニ

 入替可申候、其節違儀申間敷候、勿論此証文

 を以貴殿御所持被成候内は、何年過候とも少も

 違乱無御座候、為念組中印形致質物証文入

 置申処如件               

   安政五年     下総国葛飾郡

     午三月       神間村

               出石地主

                甚五兵衛㊞

               五人組

                兵左衛門㊞

               同

                源次郎㊞

               同

                林蔵㊞

                名主           

               久左衛門㊞

 

                  同国同郡同村


          源兵衛殿
(ひとことメモ)
安政5年(1858)の質地証文。地主甚五兵衛が、旗本能勢氏知行所の上畑1反余を質に入れ、金4両1分を借用したもの。

写真:神間村文書26

【史料番号28】

 


   質物ニ相渡申畑地証文之事
一上畑三反歩      町田耕地
    此分米三石
   能勢十次郎様御知行所 御水帳利兵衛名前
右は当巳御年貢其外諸仏(払)方ニ差支貴殿迄無心
申右之畑地三反歩質物ニ相渡し金拾五両借用
仕、只今慥ニ請取申処実正也、但シ年季之儀は
当巳十一月より来ル申十一月迄中三ケ年季ニ相定メ申候、
此畑地ニ付諸新(親)類は不及申、横合より少も構無御座候、
若何方より何如様之六ケ敷儀出来致候とも、我等
加判之もの何方迄も罷出急度埒明、貴殿江質
物ニ可致候、聊御苦労相掛申間敷候
一御公儀様御年貢諸役之儀は貴殿方ニ而御勤可被成候、
 尤年季月之申十一月ニ本金拾五両急度返金
 致候ハヽ、右之畑地不残御返し可被下候、若請返し
 申儀不罷成候ハヽ流可申候間、此証文ヲ以右畑地貴殿
 所持可被成候、自然御縄入御座候ハヽ貴殿名前ニ御請
 可被成候、又は御勝手ニ而何方江何程之質物ニ御渡し
 被成候共、我等義ハ不及申ニ右加判之もの印形
 致し為質物ニ入替可申候、其節違義申間敷候、勿論
 此証文貴殿御所持被成候内は何年過候とも少も
 違乱無御座候、為念組中印形致質物証文
 入置申処依而如件
   安政四年      下総国葛飾郡神間村
    巳十一月        地主
                 甚五兵衛㊞
                五人組
                 兵左衛門㊞
                同
                 源次郎㊞
                同
                 林蔵㊞
                名主
                 久左衛門㊞
            同国同郡
                源兵衛殿

 

(ひとことメモ)
安政4年(1857)の質地証文。地主甚五兵衛が、旗本能勢氏知行所の上畑3反余を質に入れ、金15両を借用したもの。

写真:神間村文書28


【史料番号31】
   質物相渡シ申田地証文之事
一上田五畝歩        八丁通り
一下田壱反五畝歩      同
一中畑九畝歩        同
一下畑弐反六畝歩      同
一屋敷五畝歩        同
  此高四石五升八合 御水帳面新左衛門名前
一上田七畝拾歩       茨田耕地
一中田壱反壱畝歩      同
一下田壱反壱畝弐拾歩    同
一上畑七畝歩        同
一中畑五畝歩        同
一下畑壱反八畝歩      同
  此分米五石九升弐合壱勺
            御水帳面久松名前
右は当亥ノ御年貢其外払方差詰申候ニ付、
書面之田畑貴殿江質物ニ相渡シ金子三拾両
借用仕、只今慥ニ請取申候処実正也、但シ
年季之儀は当亥十二月より来ル寅ノ十二月迄
中三年ニ相定、田畑質物ニ入置申候間
一御年貢諸役之儀は貴殿方ニ而被成御勤作徳并
立木等貴殿近(進)退可被成候、年季明キ寅十二月ニ
相成候ハヽ、金子返済可仕間地所御返シ可被下候、
若其節請返兼候砌田畑無甲乙其時之相場ニ而
相渡シ可申候、此地所ニ付御年貢未進拝借等外江
借金書入等不仕、組合并親類相談之上質地相渡シ
候間、外より故障之筋無御座候間、流地以後御検地
入ニ相成候ハヽ何様御名前ヲ請被成候共申分無
御座候、依之為後証質地証文相渡シ申処
如件        下総国葛飾郡神間村
   天保十年         地主
      亥ノ十二月      源兵衛㊞
          (切取抹消)[      ]
                名主
                 兼右衛門(印墨抹消)
         同国同郡同村
            組頭
                           栄治郎殿

(ひとことメモ)
天保10年(1839)の質地証文。地主源兵衛のほか、二名が連署していたが一名は署名部分を切り取り、兼右衛門は印を墨で抹消している。金子が返済されて反故になったため、このような処置がなされたと考えられる。
写真:神間村文書31の切り取り部分

【史料番号36】

   差上申一札之事
御知行所豆州武州総州先年御先納金
被仰付、村々一同御請仕御上納奉差上候処
今般村々江深ク御憐察を以前書御
先納金不残御下ケ済被下置一同立会
慥ニ奉請取候、依之為後日一同連印之
一札奉差上候処仍如件
  元次(治)二年丑二月     御知行所
 (後筆)             豆州田方郡
「御知行所            間宮村
    武総葛飾郡           名主
      神間村            吉田隼太郎
       名主           右後見名主
        源兵衛            惣四郎㊞
      芦橋村       
        利右衛門      下総国葛飾郡
      千塚村          永沼村
        孫右衛門        名主
      永沼村            野口孝右衛門
       名主
        野口孝右衛門     神間村
    豆州田方郡           名主
      間宮村              源兵衛㊞
       後見名主        芦橋村
      間宮村           名主
        吉田惣四郎          利右衛門㊞
       名主          千塚村
        吉田隼太郎 」     名主
                       孫右衛門㊞


   御地頭所様御内
      御役人中様

(ひとことメモ)
元治2年(1865)に旗本能勢氏の知行所(伊豆国・武蔵国・下総国)の村々が能勢氏に上納した先納金を残らず「御下ケ」(返金)とし、これを知行所村々の村役人らが受け取り、能勢家の下僚あてに提出した文書。差出人は下段に判を押しているが、提出する前に連署の順に支障があったらしく、上段に差出人を書き直している。実際に提出されたものではないようである。
写真:神間村文書36

写真:神間村文書36の差出人の部分

次回は、3月23日(土)14時~を予定しています。