ほごログ(文化財課ブログ)

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【教えます】休館中は何をしているんですか?

#春日部市郷土資料館 は4月4日から臨時休館ですが、休館中も開館を期して準備を進めています。今回は #休館中 の資料館の #裏側 をご紹介します。

広報誌などでお知らせしていたように、新年度4月から、「クレヨンしんちゃん」や市の花「藤」の展示などを予定していたところですが、コロナウイルスの感染拡大を防止するため休館となり、中止・延期となってしまいました。

例年、今の時期には春季・夏季の企画展示に向けた調査に専念しているところですが、現在コロナウイルスの感染の終息に見通しが立たないことから、対面での資料調査・聞き取り調査等も自粛せざるをえず、企画展示の準備もままならない状況にあります。

郷土資料館の展示室はそんなに広くないので、展示物もほどほどといったところですが、実は地下にある資料収蔵庫には、普段は展示しきれないほどの資料が眠っています。教育委員会の職員も意外と知りません。今年度、郷土資料館に異動してきた職員もその数の膨大さに驚いていました!

写真:収蔵庫の様子 

収蔵庫を覗くと、こんな感じです。資料の劣化を防ぐための中性紙の箱で保管している古文書や歴史資料のほか、昔の生活道具・用具など多種多様な資料が棚に並んでいます。上の写真は収まりのよい部分を撮影したものですが、収蔵庫内は溢れんばかりの資料で、もう大変なことになっています。

以上のような状況にありますので、現在郷土資料館では将来への準備として、普段はなかなか落ち着いてできない収蔵資料の整理を進めています。休館中、何をしているのか。その答えは、資料の整理です。

写真:資料整理の風景

資料の整理とは、資料の点検をはじめ、未整理資料の確認・整理、写真の撮影などなど。職員総出で日々格闘しています。

恥ずかしい話ですが、「こんなのあったのか!」とか「久しぶりにみた」とか、なかには「(他所からわざわざ借りてきたけど)ウチ(=当館)にもあったのか!」など、地味ですが、発見に次ぐ発見の毎日です。この発見をすぐにでも、皆さんに実物を通じてお伝えしたいところですが、来るべき時まで温めておきたいと思います。一部はこのブログで「エア博物館」として紹介していきます。

エア博物館 春日部の歴史と火山灰

(2021年7月14日、専門研究者の方からご指摘をいただき、2003年刊行の『新編 火山灰アトラスー日本列島とその周辺』に基いた年代等に修正し、修正箇所はアンダーラインで示しました。)

 

#エア博物館 #おうちでミュージアム ということで、今回は火山灰について考えます。 

関東近県の火山の中では、現在も草津白根山で警戒情報が出されています。

草津白根山(白根山(湯釜付近))の活動状況

草津白根山の平成30年1月の噴火では、春日部市に被害はありませんでしたが、噴火の規模や風向きによっては春日部市にも火山灰が降る可能性があります。

噴火が観測された時は火山灰に注意してください(春日部市公式サイト)

コロナウィルスの影響で外出する機会も少ないかと存じますが、噴火の情報を見聞きしたときは、まず建物内に移動してください。

さて、関東地方の歴史と火山をみてみると、古くは鹿児島県の姶良カルデラの26000~29000年前に噴出した姶良丹沢火山灰(姶良Tn:AT)から、伊豆、箱根方面の火山では西暦1707年の富士宝永火山灰(F-Ho)、群馬・栃木方面の火山では、西暦1783年の浅間A(天明)火山灰(As-A)と多くの火山灰の存在が確認されています。

下に、2003年に刊行された『新編 火山灰アトラス 日本列島とその周辺』という本から、関東地方の火山灰を引用しました。これらの火山灰はすべて春日部市域に降灰しているわけではありません。しかしながら、特に群馬・栃木方面の火山の噴火は、土砂が多く利根川に流れ、春日部市の古利根川や江戸川も河床があがるなどの被害がありました。

また、火山灰は、火口に近い地域の場合、土壌中に土層になって現れることもありますが、春日部市域では、土壌に含まれる火山ガラスなどの特徴と検出層位から、どの火山灰かを特定しています。市域では、姶良丹沢火山灰(AT)や立川ローム上部ガラス質(UG)と推定される火山ガラスが確認されています。 

  以下、火山灰名、火山灰の記号、年代の順に引用しました。年代が不明なものは空欄となっています。

<富士・箱根・北関東:F-HoからAT>
富士宝永 F-Ho 西暦1707年(宝永4年)
富士新期上部(群)F-HoとF-Zoの間には8-9層のsfa(スコリア降下火山灰)があり、富士東麓から横浜・川崎まで分布。泥炭地遺跡で古墳平安時代の指標になる。
富士砂沢 F-Zn 2500~2800年前
富士大室 F-Om 2500~2800年前
富士大沢 F-Os 2500~2800年前
天城カワゴ平 Kg 3126~3145年前
伊豆大室山 Om 5000年前
富士新期下部(群) Kgと富士黒土層の間には仙石sfaなど4層以上のsfaがある。縄文後期から前期末までの遺物包含層と関係
箱根中央火口丘新規(群) 完新世のテフラ(小型火砕流)はK-Ahの下位に1層(神山起源Hk-Km5、約7.5-8Ka)、上位に2層(二子山起源Hk-Ft、約5.5Kaと冠ヶ岳起源Hk-Kn、約3Ka、Kg直上)がある。Hk-Km5、Knはカルデラの外側にも分布(上記年代は暦年較正値)。
鬼界アカホヤ K-Ah 7300年前
立川ローム上部ガラス質 UG(年代不記載)
安房 AG 13000~14000?年前
富士相模野第1 F-SS1 24000~26000年前
箱根中央火口丘中期(群) 含雲母グリース状Gr以後10ka以前の主に神山起源のテフラ(小型火砕流)は6層ある。そのうちAT直上のHk-Km3(約25ka)、Gr直上のHk-Km1(<50Ka)が顕著。
姶良Tn AT 26000~29000年前


<浅間・榛名・赤城・日光・北関東:As-AからAT>
浅間A(天明)As-A 1783(天明3)
浅間B(天仁) As-B 1108(天仁1)
榛名二ッ岳伊香保 Hr-FP 6世紀中葉 古墳時代
榛名二ッ岳渋川 Hr-FA 6世紀初頭 古墳時代
浅間C As-C 4世紀中葉 弥生時代
浅間D As-D 4500~5500年前 縄文中期
鬼界アカホヤ K-Ah 7300年前
浅間小諸2 As-Km2 11000~14000年前
男体七本桜 Nt-S 14000~15000年前
男体今市 Nt-I 14000~15000年前
浅間小諸1 As-Km-1 15000~16000年前
浅間草津 As-K 15000~16500年前
浅間板鼻黄色 As-YP 15000~16500年前
浅間大窪沢2 As-Ok2
浅間大窪沢1 As-OK1
浅間白糸 As-Sr 15000~20000年前
浅間雲場 As-Kb
男体片岡・小川(群) Nt-Kt/Og
浅間板鼻褐色(群) As-BP 20000~25000年前
那須黒森(群)Nas-Kr AT以上に2層、AT~DKP(大山倉吉)に2層、DKP直下に1層。どれも小規模なsfa、afa(降下火山灰)、pfi(小型火砕流堆積物)を伴う場合あり。
姶良Tn  AT  26000~29000年前

参考文献:町田洋・新井房夫 2003『新編 火山灰アトラス-日本列島とその周辺』財団法人東京大学出版会

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その2)

中止となった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展について、前回に引き続き #エア博物館 #おうちでミュージアム として紹介します。牛島のフジ(国特別天然記念物)は、明治時代半ば以降、東京近郊の名所として急速に認知されるようになっていきました。

 

今回紹介する資料は、「牛島のフジ」の手描き彩色写真絵葉書です。

 画像:彩色写真絵葉書

絵葉書には「粕壁の藤花」「M44」と記されています。「M44」は明治44年(1911)と考えられます。明治時代後期の文献では、「牛島の藤」と現地の「牛島」を冠して紹介されるものは少なく、「粕壁の藤」と紹介されるものが多くみられます。ですから、絵葉書の「粕壁の藤花」とは牛島のフジを撮影したものと考えられます。

 

明治初めの記録には「都下ニ遠キヲ以テ知ルモノ稀ナリ」、つまり、東京から遠いため牛島のフジを知る者はあまりいない、と評されています(「大日本国誌」)。牛島のフジが「粕壁の藤」として広く知られるようになるのは、春日部に鉄道が開設されて以降のことのようで、その嚆矢は、明治26年(1893)に千住と粕壁を結ぶ千住馬車鉄道の開通に求められます。

 

明治28年(1895)5月10日には、幸堂得知が、友人の俳人稲見悟友とともに千住茶釜橋より鉄道馬車に乗り、「粕壁の藤花」を観覧した紀行文を新聞紙上に掲載しています(朝日新聞・明治28年5月16・19・22日号)。幸堂の紀行文は、千住馬車鉄道の利用実態を具体的に記したものとしても貴重で、越ケ谷から乗車してきた旅籠屋の女性2名も藤を見に行くといい、「大門」(東八幡神社の参道の入口付近)で下車して、古利根川の橋(八幡橋か)では橋銭を徴収されたことなどが記録されています。同行した稲見悟友は、牛島の園内で「乗出して馬車の早さに引かへて めつそう長き牛じまの藤」と短歌を詠みました。この歌は早い(短い)馬車と花房の長い牛島の藤を対比した歌であり、馬車鉄道は、千住―粕壁間を片道3時間半で運行しましたが、当時の人たちにとって、東京郊外に早くアクセスできる手段だったことがわかります。

 

幸堂らと同様に馬車鉄道を利用して牛島のフジを訪れた著名人に大和田建樹(1857~1910)がいます。大和田は詩人で、「♪汽笛一声新橋を~」の鉄道唱歌の作詞家として知られています。大和田が牛島のフジを訪れた日時は明らかでありませんが、彼の著書『雪月花』(明治30年刊)のなかで、「粕壁の藤」に馬車で訪れ、藤花を「氷柱の如き滝波の如く」と描写しています。また、「客は花を二房三房づゝ請ひ取りて。傘を挿しなどしつゝゆく。さながら藤娘のさまよなど笑ふもあり。」と記しています。現在は国の特別天然記念物に指定され、保存すべき樹木とされていますので、何人たりとも花房を痛めることは許されませんが、当時、訪れた客は、花房を取り、あるいは和傘をさし、藤花の下をくぐりながら観藤する情景がうかがえます。なお、大和田の『雪月花』は国立国会図書館のデジタルコレクションでご覧になれます(粕壁の藤は76コマ~)。

 

明治44年の彩色写真絵葉書にも、池の向こう岸に和傘をさす和装の女性が写っており、大和田の描写を借りれば「さながら藤娘」のようです。

ちなみに、この絵葉書は職員がインターネットオークションで購入したものです。インターネットオークションで「粕壁」と検索すると、牛島のフジの絵葉書がたくさんヒットします。こうした絵葉書が土産物として広まり、さらに多くの人々に「粕壁の藤」は知られるようになっていったのでしょう。展示会では、いくつかの絵葉書を陳列していました。皆さんにご覧いただけず、無念です。

 写真:資料陳列状況

千住馬車鉄道の廃止後、明治32年(1899)東武鉄道が開通すると、「粕壁の藤」はさらに多くの人々に知られるようになっていきますが、その話は、次回の#エア博物館で。

 

なお、今年度の牛島のフジの観覧は、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、休園となりました。歴史ある牛島のフジは来年度までお預けとなってしまいましたが、藤花の様子は牛島のフジを管理されている藤花園さんのホームページで紹介されるようです。

エア博物館 郷土資料館収蔵の指定文化財を紹介しました

4月4日から臨時休館中の「エア博物館」第二弾として、春日部市郷土資料館で収蔵する指定文化財を紹介しました。収蔵資料の紹介ページを充実させましたので、#エア博物館#おうちでミュージアムとしてご活用ください。

担当者のおすすめは、「西金野井香取神社領朱印状」(寄託資料)です。歴代の徳川将軍が発給した歴代の朱印状がそろっており、市域の神社では唯一です。実物の料紙は大髙檀紙(おおたかだんし)という厚手のしわしわな和紙で、当時の将軍の権威を体現しているかのような立派な文書です。リンク先の写真は享保3年(1718)に発給された徳川吉宗朱印状です。8代将軍吉宗は、テレビでは暴れん坊将軍としておなじみですね。

常設展示で常時ご覧いただけるもののほか、普段は収蔵庫で大切に保管されている資料もありますので、おうちでしかご覧いただけないものもありますので、お見逃しなく。指定文化財だけでなく、ほかの収蔵資料もおすすめです!

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その1)

令和2年4月7日(火)から開催予定だった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展は、4月4日からの臨時休館により残念ながら中止となってしまいました。

資料の陳列は大方済んでおり、皆さまに紹介したいことも盛りだくさんで、資料も皆さんにお会いすることを楽しみにしていた(と思いますが)、仕方ありません。今回の展示は、春日部の歴史・文化に深くかかわってきた藤(フジ)について紹介することを趣旨としていました。

写真:展示風景

しかし、もうすぐ、藤の開花の季節。「ほごログ」の場を借りて、皆さんに「藤のまち春日部」展で展示する予定だった資料を紹介し、春日部が誇る藤にまつわる歴史・文化を紹介したいと思います。

市内には、樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えともいわれる「牛島のフジ」(国特別天然記念物)がありますが、実はその起源については大きな謎に包まれています。管見の限り、牛島のフジが記録・文献に登場するのは、明治時代以降のことになります。

今回新たに、明治政府による皇国地誌編さんに関わって調査された牛島村の地誌の原稿である明治10年(1877)1月「牛島村村誌詳細取調書」(当館所蔵)を見出し展示しました。

写真:牛島村村誌詳細取調書

本資料には、牛島村の「名勝」の項目に次のような記述があります。

当村藤岡伊与太郎邸中一藤繁茂セルアリ、★(木偏に幹という字)根周囲壱丈五尺余枝葉瀰蔓スルコト三十間、其幅イン七八間ニ亙リ、蕤茎垂ルヽコト四尺余、其声誉俠近傍故焉(カ)、旧幕ノ頃侯伯屡来テ賞賛ス、加之慶応年干(間)沗クモ東叡山輪王寺ノ宮様遊纜ノ御幸アリ

 

すなわち、当時、藤岡氏の邸宅内に藤があり、近隣で著名だったこと、江戸時代に時折「侯伯」が訪れ賞賛されたこと、慶応年間に輪王寺宮が訪れたことが記述されています。

牛島のフジは、かつて蓮花院の境内にだったともいわれており、史料にみえる藤岡氏とは、牛島女体神社の神職を勤めた人物のようで、元は蓮花院の住職であったともいわれています。蓮華院は明治初年に廃寺となっているので、詳しいことはわかりませんが、明治初頭には藤岡氏の邸内にあったことが明らかになります。

また、江戸時代には「侯伯」、おそらく大名が訪れていたことや、輪王寺門跡が訪れたことが記述されています。おそらく日光道中を通行した大名や、幕末(慶応年間)には輪王寺宮が牛島のフジに訪れ、観覧したものと考えられます。近世の一次資料は現在は見出されていませんので、江戸時代における牛島のフジのあり方を示す資料として非常に重要な資料といえます。

ちなみ、慶応年間の輪王寺宮は、公現法親王で、明治3年(1870)に宮家の北白川家を継いだ、北白川宮能久です。明治33年(1900)刊の『藤の紫折』にも北白川宮能久が訪れたことが触れられています。

以上から、本資料は、牛島のフジに関する最古級、かつ貴重な記述のある重要な資料であるといえます。

今後も「藤のまち春日部」展の資料を紹介していきたいと思います。お楽しみに。