ほごログ(文化財課ブログ)

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エア博物館 郷土資料館収蔵の指定文化財を紹介しました

4月4日から臨時休館中の「エア博物館」第二弾として、春日部市郷土資料館で収蔵する指定文化財を紹介しました。収蔵資料の紹介ページを充実させましたので、#エア博物館#おうちでミュージアムとしてご活用ください。

担当者のおすすめは、「西金野井香取神社領朱印状」(寄託資料)です。歴代の徳川将軍が発給した歴代の朱印状がそろっており、市域の神社では唯一です。実物の料紙は大髙檀紙(おおたかだんし)という厚手のしわしわな和紙で、当時の将軍の権威を体現しているかのような立派な文書です。リンク先の写真は享保3年(1718)に発給された徳川吉宗朱印状です。8代将軍吉宗は、テレビでは暴れん坊将軍としておなじみですね。

常設展示で常時ご覧いただけるもののほか、普段は収蔵庫で大切に保管されている資料もありますので、おうちでしかご覧いただけないものもありますので、お見逃しなく。指定文化財だけでなく、ほかの収蔵資料もおすすめです!

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その1)

令和2年4月7日(火)から開催予定だった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展は、4月4日からの臨時休館により残念ながら中止となってしまいました。

資料の陳列は大方済んでおり、皆さまに紹介したいことも盛りだくさんで、資料も皆さんにお会いすることを楽しみにしていた(と思いますが)、仕方ありません。今回の展示は、春日部の歴史・文化に深くかかわってきた藤(フジ)について紹介することを趣旨としていました。

写真:展示風景

しかし、もうすぐ、藤の開花の季節。「ほごログ」の場を借りて、皆さんに「藤のまち春日部」展で展示する予定だった資料を紹介し、春日部が誇る藤にまつわる歴史・文化を紹介したいと思います。

市内には、樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えともいわれる「牛島のフジ」(国特別天然記念物)がありますが、実はその起源については大きな謎に包まれています。管見の限り、牛島のフジが記録・文献に登場するのは、明治時代以降のことになります。

今回新たに、明治政府による皇国地誌編さんに関わって調査された牛島村の地誌の原稿である明治10年(1877)1月「牛島村村誌詳細取調書」(当館所蔵)を見出し展示しました。

写真:牛島村村誌詳細取調書

本資料には、牛島村の「名勝」の項目に次のような記述があります。

当村藤岡伊与太郎邸中一藤繁茂セルアリ、★(木偏に幹という字)根周囲壱丈五尺余枝葉瀰蔓スルコト三十間、其幅イン七八間ニ亙リ、蕤茎垂ルヽコト四尺余、其声誉俠近傍故焉(カ)、旧幕ノ頃侯伯屡来テ賞賛ス、加之慶応年干(間)沗クモ東叡山輪王寺ノ宮様遊纜ノ御幸アリ

 

すなわち、当時、藤岡氏の邸宅内に藤があり、近隣で著名だったこと、江戸時代に時折「侯伯」が訪れ賞賛されたこと、慶応年間に輪王寺宮が訪れたことが記述されています。

牛島のフジは、かつて蓮花院の境内にだったともいわれており、史料にみえる藤岡氏とは、牛島女体神社の神職を勤めた人物のようで、元は蓮花院の住職であったともいわれています。蓮華院は明治初年に廃寺となっているので、詳しいことはわかりませんが、明治初頭には藤岡氏の邸内にあったことが明らかになります。

また、江戸時代には「侯伯」、おそらく大名が訪れていたことや、輪王寺門跡が訪れたことが記述されています。おそらく日光道中を通行した大名や、幕末(慶応年間)には輪王寺宮が牛島のフジに訪れ、観覧したものと考えられます。近世の一次資料は現在は見出されていませんので、江戸時代における牛島のフジのあり方を示す資料として非常に重要な資料といえます。

ちなみ、慶応年間の輪王寺宮は、公現法親王で、明治3年(1870)に宮家の北白川家を継いだ、北白川宮能久です。明治33年(1900)刊の『藤の紫折』にも北白川宮能久が訪れたことが触れられています。

以上から、本資料は、牛島のフジに関する最古級、かつ貴重な記述のある重要な資料であるといえます。

今後も「藤のまち春日部」展の資料を紹介していきたいと思います。お楽しみに。

臨時休館のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年4月4日(土)から5月15日(金)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。

臨時休館に伴い、常設展示、および令和2年4月7日(火)から5月2日(土)まで開催予定だったミニ企画展示「藤のまち春日部」展は中止します。また、4月7日(火)から展示予定の常設展示「クレヨンしんちゃんと春日部」も延期します。

なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。

・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ

 

藤の開花の季節にあわせて開催する予定だった、ミニ企画展示「藤のまち春日部」については、本ブログでも展示の内容や資料を紹介する予定です。さながら、今流行の「#エア博物館」「#おうちでミュージアム」として、お楽しみいただければ幸いです。

【1960年代の春日部】北春日部駅の開業

北春日部駅は、西口の土地区画整理事業が予定されており、今後の発展が期待されている駅です。現在は、1日に約1万人の利用客があります。

北春日部駅周辺地区 土地区画整理事業(春日部市役所サイト

東武鉄道では昭和41年(1966)9月1日に、春日部駅、姫宮駅間の春日部市梅田に新電車区を建設し、北春日部駅を開設しました。北春日部駅は、橋上駅で、総工費1億2千万円、ホーム幅9m、ホーム長さ125mで、1日当たりの乗降客数2,800人を見込みました。

また、同日のダイヤ改正で、新造車50両を導入、それまで北越谷駅までだった地下鉄日比谷線の乗り入れを北春日部駅まで延長し、武里団地入居者の輸送力増強が図られました。武里団地入居者への対応については、昭和42年(1967)にせんげん台駅の開業、昭和44年(1969)の武里駅の橋上化など、この後も急ピッチで進められました。

 

一方、新たに設置された春日部電車区は、総面積約10万平方メートル、収容能力220両と当時の私鉄では随一の規模でした。春日部電車区は、大正13年(1924)に西新井駅に設置された西新井電車庫がその起源です。これはその後、昭和27年(1952)に竹ノ塚駅に移転して西新井電車区となりますが、周辺地域の開発が進み、施設の拡充が困難になったことから、西新井電車区を営団地下鉄(現・東京地下鉄)に譲渡し、春日部電車区を新設、移転しました。旧の西新井電車区は、現在、竹ノ塚電車区と呼ばれています。

 

北春日部駅が開業した2か月前の昭和41年(1966)6月30日、東武鉄道では全線電化が完成、佐野線を走っていた蒸気機関車の運用が廃止され、東武鉄道から蒸気機関車が完全に引退しました。

建設中の北春日部駅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建設中の北春日部駅

この写真は、郷土資料館ホームページのかすかべデジタル写真館で紹介しています。

参考文献

『東武鉄道百年史』1998年 東武鉄道株式会社

『春日部市史 第4巻 近現代資料編II』1992年

『春日部市史 第6巻 通史編II』1995年

 

 

【春日部版】古記録にみる感染症への対応の歴史

昨今、新型肺炎の対応・対策をめぐり、日本だけでなく、世界中の人たちが動揺しています。皆さんの日常生活でもさまざまな影響がでているのではないでしょうか。

職業柄、こうした出来事があると「はて、昔の人たちはどうだったのかな?」と気になってしまいます。

今回は、春日部市域に伝わる感染症の流行をめぐる古記録から、先人たちがどのように「病」と対峙していたのかを紹介してみたいと思います。

その古記録とは、市指定有形文化財にも指定されている「長久記」です。「長久記」は、江戸川の河岸場として栄えた西宝珠花の薬種問屋「堺屋」(さかいや)の家の記録で、西宝珠花で起こった諸事件や日常生活について記述されています。

「長久記」には、「麻疹流行記」と題される幕末の文久2年(1862)の記事があります。内容は次の通りです。

文久2年4~5月、江戸で麻疹(はしか)が流行し、西宝珠花では7月上旬からはやり始め、流行当初よりこれまでの麻疹とは異なり、症状が極めて強いものだった。

堺屋では、7月17日に家人が患い、はじめは寒気を感じ、次いで発熱、嘔吐、下痢の症状がつづき、食事は3~4日間、まったくとれなかった。

久喜町に遣いに出していた家人も麻疹に罹ったため、当主の堺屋安右衛門は夫婦で看病に訪れ、薬を与え、便の世話もした。また、快方を願って、「御嶽講」(みたけこう)を信心し、久喜町の講中にも頼み、水行(すいぎょう)をした。

世間では、麻疹のあと皮膚病になったり、吹き出物ができることが多かったが、家人たちは翌年の春には徐々に回復した。

麻疹が流行していた期間には、薬種問屋であった堺屋では薬は品切れになるものもあり、江戸から薬をたびたび取り寄せました。薬が不足したため町の若衆たちは麻疹で臥せてしまった。

9月下旬になると、ようやく麻疹は鎮まったが、閏8月には「コロリン」(コレラ)が流行し、18~23歳くらいの男女が多く亡くなった。特に妊婦が多く亡くなり、江戸川対岸の木間ケ瀬村(現野田市)辺りでは、夥しい人たちが亡くなった。西宝珠花では、町で牛頭天王を出し、氏子一同で信心し、厄を払った。

 

以上が「長久記」の記述です。薬種問屋による記述であるため、症状等が細かく記されるとともに、西宝珠花で治療薬が不足したこと、疫病の鎮静を願って、地域の神仏を信仰したことなどが記録されています。

春日部市域では、町場として人口が密集していた粕壁宿、西宝珠花に疫病の神である牛頭天王が祭られていました。また、疫病退散のために舞ったともされる獅子舞が各地に伝わっています。身を清め、神仏を信心することが、前近代の人々の疫病を防ぐ一つの対策だったのかもしれません。 

先人たちの感染症への対策をみると、正体不明の病が流行し、様々な噂や情報が飛び交うなかでも、病人の看病に努めたり、薬を取り寄せたり、神仏にお願いをしたりと、当時の生活習俗のなかで「やるべきことはやる」強かな姿勢が貫かれていたことがわかります。

ひるがえって、こんにちにおいても、生活者を不安に陥らせるようなデマや流言飛語が飛び交い、先行きが見通せない日々が続いています。先人に学び、私たちも、病やデマに対して毅然とした態度をとり、集団感染を防ぐ日常の予防に努めたり、咳エチケットを守ったり、不要不急の外出は避けたりと、「やるべきことはやる」を徹底すべきではないでしょうか。そうした日々の積み重ねが、流行病の終息につながるのかもしれません。