ほごログ(文化財課ブログ)

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#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その4)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、昭和初めに国の天然記念物に指定され、ますます有名になっていく「牛島のフジ」(国特別天然記念物)について蘊蓄(うんちく)を語ります。

昭和3年(1928)1月18日、「牛島のフジ」はに国指定天然紀念物に指定されました。当時、埼玉県の天然紀念物としては5つ目でした。国会図書館デジタルコレクションで当時の『官報』を御覧いただけます(2コマ目左下段)が、『官報』上の表記は「牛島ノ藤」だったのですね。

ところで、国指定の文化財といえば、先日、市内の西親野井地区の神明貝塚が国の史跡に指定されました。市内では「牛島のフジ」に次いで2例目の国指定となりました。神明貝塚の例のように、国の文化財の指定にあたっては綿密な調査・研究が積み重ねられ、学術的な評価・価値づけがされた上で指定となります。同様に「牛島のフジ」も、当時の国の調査団による調査が行われ、価値付けがなされています。

調査は指定を遡る数年前の大正末年、植物学の大家で、日本に天然記念物の概念を広めた三好学(理学博士)の指導のもと、内務省の名勝天然紀念物保存調査会により調査されました。当時の調査報告『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第35号(大正13年刊・98~99コマ目)によれば、「世ニ紫藤ノ大ナルモノナキニ非ザレドモ未本樹ノ如ク著シキモノアルヲ聞カズ、天然紀念物トシテ指定セラルベキモノト信ズ」と評価されています。つまり、藤の大木は無くはないが、「牛島のフジ」ほどものは未だに聞いたことがないので、天然紀念物に指定すべきだと評しています。同時に保存要件としては、根・幹・枝の損傷を防いで、適切な施肥をすることも指摘されています。

前にも触れた通り、明治時代には、花房を取ったり、和傘でさして藤花の下を(おそらく傘で花を痛めつけながら)くぐる観覧客がいました。天然紀念物に指定されることによって、「牛島のフジ」は国内有数の保存されるべき樹木として位置づけられることになったのです。

一方で、「牛島のフジ」の国指定は、結果として観光資源としての価値を高めていくことにも繋がりました。大正末の新聞紙上では内務省の調査団が訪れ、国指定に向けて期待する声が報じられていましたし、国天然紀念物の指定直後の5月には、関係諸氏を招き開催された祝賀会が開催されています(下の写真・かすかべデジタル写真館より)。

(クリックすると大きな画像が御覧いただけます)

さらに、昭和5年(1930)には『世界一藤のかすかべ』と題された、「牛島のフジ」を中心とした粕壁町・幸松村の観光ガイドブックが発行されています(館蔵)。明治時代には「関東一」だった「牛島のフジ」は「世界一」へと成長を遂げていったのです。国天然紀念物指定以降、「牛島のフジ」は国に認められた古木として、ますます多くの人々に知られるようになり、のちに春日部のシンボルにもなっていきます。

しかし、国の天然紀念物指定の本旨は、観光資源化でなく、その保存です(そういえば昨年は「史蹟名勝天然紀念物保存法100周年」でした)。表向きには華やかに「国の天然紀念物」と騒ぎ立てることは結構なのですが、その裏側の保存・保全にも光をあてるべき、と文化財行政に携わる職員として思います。こんなことを書くと、「観光マインドがない」と揶揄されてしまいそうですね。

「牛島のフジ」に関していえば、国指定以降、適切に保存・保全され、さらに戦後に施行された文化財保護法のなかで、昭和30年(1955)8月22日に国の特別天然記念物に指定され、今日まで保存・保全されてきています。昭和3年の国指定が今日までの「牛島のフジ」の保存・保全の起源となったといえ、こうした保存・保全の経緯があってはじめて「牛島のフジ」は存在しえているのです。

また、指定後のブランディングにも問題があるようです。「国指定」の冠を前面に押し出した刊行物等をみると、指定以前の由来や歴史が捨象される傾向が読み取れます。「国指定」のブランド力が強いため、中身が伴わず、空虚な価値付けに終始するものが多いようです。牛島のフジに関する伝説は昭和5年(1930)刊『世界一藤のかすかべ』が初見だったりします。

ですから、この#エア博物館「藤のまち春日部」展では、「国指定」以前の、「国指定」に留まらない牛島のフジの魅力を歴史のなかに見いだそうとしてきました。

藤の花は、もうすっかり散ってしまいましたが、あと2回ほど「牛島のフジ」に関する#エア博物館#おうちミュージアムにお付き合いください。

休館延長のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年5月31日(日)までの期間、郷土資料館の臨時休館を延長します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。

 

また、6月に予定しておりました下記のイベントは中止します。企画展示や講座につきましては、改めて企画し、皆さまに告知いたします。

・6月2日(火)~7月12日(日)企画展示「かすかべの宝もの17 KASUKABE1960s-1960年代の春日部」

・6月7日(日)大川明弘先生による歴史文化講演会・ウォーキング「古地図で読み解く昭和の粕壁」

・6月27日(土)展示解説講座・上演会

 

なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。

・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ

#エア博物館 #これはなんでしょう

#春日部市郷土資料館 では #休館中 収蔵資料の整理を進めています。今日は収蔵庫内に眠るお宝を #おうちミュージアム として紹介。

これなんでしょう?なにする道具?

 

 

 

 

 

 

正解は、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名称は「ミゾキリ」

春日部では古くから桐細工が盛んで、とくに桐箪笥・桐小箱が特産品となっています。「ミゾキリ」は木材を削るカンナの一種(溝切りカンナとも呼ばれるようです)です。この「ミゾキリ」は大正時代~昭和戦前まで、桐小箱を作っていた市内の職人が使っていた道具で、箱の本体と蓋を合わせるための溝などをほる時に使われたようです。

道具を横からみると、

 

矢印のところに突起(木・刃)があって、ここを木材の上で滑らすと、溝がほれるようになるのです。右手のナットを緩めて、溝をつけたい間隔を調整することもできます。

溝切りカンナは現在でも市販されているようですが、桐小箱づくりは高度経済成長期に機械化が進展したため、こうした道具は現在ではあまり使われていません。現在、春日部では桐箪笥職人の方たちが伝統工芸士として認定され、伝統的な桐箪笥製造の技術を伝承していますが、古くは桐小箱づくりの職人も「ハコサシ」などと呼ばれ、高度な指物技術を有していたものと考えられます。「ミゾキリ」は春日部の桐細工産業の技術を伝える資料として、とても貴重なものです。

エア博物館 おうちでぬりえをしませんか

#エア博物館 #おうちで博物館 #ぬりえ

いつもきょうどしりょうかんでくばっている、ぬりえをしょうかいします。

おうちでぬりえをたのしんでください。

 

クリックするとPDF(ぴーでぃーえふ)ファイルをダウンロードします。いんさつしてつかってください。

1.銚子口の獅子舞1.銚子口の獅子舞(ちょうしぐちのししまい)

2.備後須賀稲荷の初午祭(びんごすかいなりのはつうまさい)

3.やったり踊り3.やったり踊(おど)り

4.竪穴式住居4.竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)

5.牛島のフジ5.牛島(うしじま)のフジ

6.桐だんす・桐小箱6.桐(きり)タンス・桐小箱(きりこばこ)

7.押絵羽子板7.押絵羽子板(おしえはごいた)

8.秋葉神社の天狗8.秋葉神社の天狗(あきはじんじゃのてんぐ)

9.在原業平の伝説9.在原業平の伝説(ありわらのなりひらのでんせつ)

10.梅若丸の伝説10.梅若丸の伝説(うめわかまるのでんせつ)

11.千住馬車鉄道11.千住馬車鉄道(せんじゅばしゃてつどう)

12.春日部に最初に住んだ人たち12.かすかべに最初(さいしょ)に住(す)んだ人(ひと)たち

13.花積貝塚13.花積貝塚(はなづみかいづか)

14.内牧・塚内古墳群14.内牧・塚内古墳群(うちまき・つかないこふんぐん)

15.春日部氏の歴史15.春日部氏の歴史(かすかべうじのれきし)

16.日光道中粕壁宿16.日光道中粕壁宿(にっこうどうちゅうかすかべじゅく)

17.麦わら帽子17.麦わら帽子(むぎわらぼうし)

18.不動院野の神楽18.不動院野の神楽(ふどういんののかぐら)

19.赤沼の獅子舞19.赤沼の獅子舞(あかぬまのししまい)

#エア博物館 「藤のまち春日部」展の紹介(その3)

前回に引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、明治32年(1899)の東武鉄道開通以後の「牛島のフジ」(国特別天然記念物)についての蘊蓄(うんちく)。

前回ご紹介したように、千住馬車鉄道の開通もあり、「牛島のフジ」は東京の人々にも徐々に知られていきましたが、どうやら、東京近郊の名所として多くの人々に知られるのは東武鉄道開通後のようです。どうしてそのように考えられるのか。理由の一つとして、「牛島のフジ」に関する文献・資料は、明治32年以前のものは極端に少なく、鉄道開通以降、増えるということが挙げられます。新聞や著名人の紀行文だけでなく、地元粕壁でも、明治33年(1900)5月に『粕壁藤の紫折(しおり)』(当館所蔵)という観光パンフレットが発行されています。こうした刊行物・新聞や前回紹介したような絵葉書などによって、「牛島のフジ」はより多くの人々に知られるようになり、汽車を利用して、気軽に日帰りで訪れる東京近郊の名所地として確立されていきました。

また、5月には東武鉄道沿線では、牛島のフジとならんで、館林のツツジも花盛りを迎えます。東武鉄道では、フジの花盛りの季節に粕壁までの鉄道運賃を割引とし、東京の観光客を取り込もうとし、沿線に花の名所を位置づけていくことで、鉄道利用者を増やそうとしていったようです。例えば、田山花袋と牛島のフジを観覧した大町桂月は、東京から東武鉄道を利用して館林のツツジを観覧した後、田山と牛島のフジに訪れています(『東京遊行記』)。藤の花が満開を迎えるころには、一日の乗客が3000人に及んだといいます(『東武鉄道線路案内記』)。当時、最寄りの停車場である粕壁駅前には汽車や人力車の待合茶屋が設けられいた(『埼玉県営業便覧』)ことも考えると、藤のシーズンには粕壁は観光客で大変賑わったことでしょう。

さて、今回紹介する資料は、東武鉄道開通以後の明治40年(1907)の紫雲館の領収書です。 

写真:紫雲館領収書

紫雲館とは、牛島のフジの所在する庭園「藤花園」内にあった料亭です。紫雲館については、『東武鉄道線路案内記』(明治37年刊行)に「曽(かつ)て清浦法相観覧の砌(みぎり)、当園を紫雲館と命名せられり、今其遍(ママ)額を掲けあり、園内には紫雲館と称する賃席料理店あり、閑雅にして客室清浄川魚の名物なり」(32コマ)とあります。

清浦法相とは、当時司法大臣で、のちに総理大臣となる清浦奎吾(1850~1942)のこと。清浦奎吾は、若い頃に埼玉県の官吏でもあり、埼玉県東部地域とゆかりが深い人物です。紫雲館という名は、この清浦が命名したといい、能筆家でもあった清浦の扁額もあったと記されています。園内の紫雲館は静かで趣が深く清潔な賃席料理店であり、川魚料理が名物だったといいます。

 さて。この紫雲館の領収書は、明治40年5月13日のもの。粕壁町の篤志家であった山口万蔵が利用したときのものです。料理代・席料として2円95銭が計上され、そのほか「大和弐ツ」の代金として14銭を領収しています。「大和」とは酒か何か品物の銘柄なのでしょうか、詳細は不明です。あるいは「大和」と読んでいいものか微妙な字なのですが。いずれにしても、『東武鉄道線路案内記』が紹介しているように料理を出す施設であったことがうかがえます。

そして、学芸員一押しなのが、この領収書のハンコです。展示会ではココを皆さんにご覧いただきたかった!

ハンコの部分を少し拡大して撮影した写真が下のものです。

写真:領収書のハンコ

薄くてよくみえないのかもしれませんが、原物も薄いのでご了承ください。

ハンコには「藤花園章」と刻まれています。一押しは紫の朱肉です。藤ですから、藤色と言うべきでしょうか。なんとも洒落ているではありませんか!

この藤色の朱肉から、「閑雅」な紫雲館の情景が読み取れる(のではないかと個人的には思う)とてもいい資料だと思います。収蔵庫から(偶然)見いだした時、結構感動したんですよ。

なお、今年は、牛島のフジの公開は中止となりました。4月30日、花盛はちょうど最高の状態だそうです。残念ですが、藤の花も、フジをみながら語る蘊蓄も、来年まで楽しみにしておきましょう。

次回も#おうちミュージアム 牛島のフジの蘊蓄にご期待ください。