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校長ブログNo133‐1 シリーズ白浜小学校はあのとき⑦ 終戦の日に

おはようございます。今日はまずこちらの写真から。木戸の「護国神社」です。同じ敷地内に「忠魂碑」もあります。(「護国神社」はフードショップいちはら様、木戸郵便局の隣に位置します。)

前回の、校章を発案した伊藤貫校長についての回顧録の続きに次のような文章があります。「奉安殿を寄贈されたのは椎名弘氏(消防団長、PTA会長、保育園長として多方面に活躍された)である。奉安殿は戦後学校に置くことができず移転させられた。現在は護国神社として辻(注:実際の「つじ」は、しんにょうは点が1つ)部落に安置されてある。

鉛筆奉安殿(ほうあんでん)鉛筆

戦前の日本において、天皇皇后の写真(御真影ごしんえい)と教育勅語を納めていた建物である。御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令により奉安殿は廃止が決定。全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が出た。

▼戦時中の「奉安殿」と思われる建物(椎名弘氏による寄贈)

No130に掲載した「日曜日の日直も宿直も、二人ずつの勤務に強化され、警戒警報が発令されると、夜中でも職員は出勤し、御真影奉安所の警護と、重要書類の持ち出し、校舎の警備にあたったものです。」といった記述にあるように、当時の教職員にとっては命がけだったことが分かります。

私がこれまで勤務した学校で、学校の隣の敷地に「忠魂碑」が建立されていた学校がいくつかありました。実際に石碑に「忠魂碑」と大きく刻まれていることからもそのことがわかります。ただし、石碑に記載されている内容についてはあまりに細かく、また歳月が経っていることもあり不鮮明なこともあり、読んだことがありません。今回も、この「護国神社」について、ネットで取り急ぎ調べてみましたが、残念ながらわかりませんでした。写真を撮影しに行ったときは、入口に柵があり、立入禁止の状態でした。いつどのような形でここに建立されのか、かつて学校敷地内にあった「奉安殿」が移転されたことなどは「創立100年誌」の手記がてがかりとなっています。戦後79年が過ぎてもなお、このように戦争遺産を目にし、当時の時代を想像するにつけ、今の平和な時代のありがたさを改めて感じます。

これまでシリーズで、白浜小学校に関わる教員や児童の戦時中の回想を取り上げてきました。私の世代であれば、激動の昭和を生きた祖父母の実体験を生で聴くことができました。初めて聞いたのは小学4年生のときです。きっかけは、担任の先生から与えられた夏休みの課題研究のテーマが「戦争について調べる」だったからです。卒業まで同じ担任だったため、その後も同じテーマで続けて取り組みました。最初は「戦争って何?」と何も分からなかったですが、千葉県出身で戦前から東京で生活していた祖母の話は、戦争中の暮らしに始まり、空襲や疎開についていつでも話を聞くことができたのは貴重なことで大変ありがたいことでした。さらに、担任の先生が授業中、実体験に基づいた歴史の話をしてくれたことなどに加え、新聞、テレビ、漫画や本、映画など調べていくうちに知らなかったことを知る楽しさとなり、興味をもつようになりました。今回、「創立100年誌」を読むことにより、これまで知らなかった地域の戦争時代のことを知る貴重な機会になり、たいへんありがたく思っています。