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#かすかべ地名の話 (3) #粕壁 の #小名

忘れたことにやってくる、市内の地名の話題。今回は粕壁地区の小さな地名について。 #かすかべプラスワン #地名の由来

市内の場合、現在使用されている住居表示は、江戸時代の宿・村の地名であることが多いですが、普段つかっている地名のなかに小さな地名があります。そうした地名は、一般に、小名(こな)とか、小字(こあざ)と呼ばれています。

まずは、昭和11年(1936)に刊行された『粕壁町誌』の付図「粕壁町略図」をみてみましょう。

画像:粕壁町略図

かつての粕壁町は、現在の粕壁、粕壁東だけでなく、中央、浜川戸、八木崎町、緑町、南、大沼(一部)、南栄町(一部)、豊町(一部)が含まれるエリアでした。上の地図をみると、浜川戸(はまかわど)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)、内出(うちで)、町並(まちなみ)、町裏(まちうら)、井戸棚居(いどたない)、川久保(かわくぼ)、川久保新田(かわくぼしんでん)、土井(どい)、草刈場(くさかりば)、新宿(しんじゅく)、内谷(うちや)、立沼(たてぬま)という地名がみえます。これらが昭和11年当時の粕壁の小字ということになるでしょう。

明治8~9年の「武蔵国郡村誌」には次のような小字が記載されています。

金山(かねやま)、内出(うちで)、寺町(てらまち)、横町、上町(かみまち)、中町(なかまち)、新宿組(しんじゅくぐみ)、三枚橋(さんまいばし)、新々田(しんしんでん)、下組(しもぐみ)、大砂組(だいすなぐみ)、川久保(かわくぼ)、元新宿(もとしんじゅく)、大池(おおいけ)、内谷(うちや)、太田(おおた)、松の木(まつのき)、裏町(うらまち)、前山中(まえやまなか)、上山中(かみやまなか)、陣屋(じんや)、八木崎(やぎさき)、浜川戸(はまかわど)、土井(どい)、井土棚居(いどだない)、草刈場(くさかりば)、馬草新田(ばぐさしんでん)

小字・小名には、①町・村のなかのコミュニティ(現在の町内会)を意味するもの、②土地を小分けした地名を意味するもの、③①と②の両方が混在しているもの、の3通りがあるようです。

粕壁でいえば、寺町、上町などの「町」の付くもの、新宿組や大砂組など「組」が付くものは、コミュニティの名称として使用されますが、草刈場、馬草新田などは、土地の地名として使われています。しかし、これらも人々の生活の移り変わりとともに、土地の名前がコミュニティの名前として使われるようになったり、あるいは、地名自体が消えてしまったりするものもあります。

粕壁は、江戸時代に日光道中が造られてから宿場町として古利根川縁辺の街道沿い(現在の春日部大通り)が町場となっていました。粕壁の人たちは、街道のことを「オーカン(往還)」などと呼んでいたようで、往還沿いは、古利根川境から、寺町、横町、上町(宿・組)、中町(宿・組)、新宿(組)、三枚橋、新々田、下(組)と称されていました。江戸時代後期には、上町・中町・新宿・三枚橋は「宿内四ケ町」とされ、宿場の業務と取り決めを行う町の中心の組となっていたように、これらの小名はコミュニティとしての名称でした。江戸時代の人々は街道沿いの土地を、昭和11年「粕壁町略図」にもみえる「町並」(まちなみ)と称していたようです。

時代を経て、粕壁の人々の生活領域が広がるなかで、最勝院をはじめ寺院が集まる地帯(寺町)、新町橋の手前の地帯(横町)、東陽寺や源徳寺の周辺(新々田)の往還沿い、さらには町並の裏や往還の脇道にも町場が広がっていきました。おそらく、「山中」「裏町」(現在の元町)「陣屋」「松の木」「大砂組」などの、町並のなか、あるいは町の場末にもあたるこれらの地名は、町場が広がり、新たなコミュニティがつくられていくなかで、徐々に小名として定着したものと考えられます。昭和初期ごろ(正確にはわかりません)には、「東町」「旭町」「富士見町」「宮本町」「本町(新宿組)」「一宮町」「春日町」「元町(裏町)」「幸町」などの町内会が成り立ち、住所として併記されることもありました(昭和の終わり頃までか)。

一方、江戸時代に粕壁地内の土地を示した絵図には次のような地名がみえます。

「川久保耕地」「井戸棚居耕地」「内出耕地」「内谷耕地」「八木崎耕地」「浜川戸耕地」「新宿前耕地」「草苅場耕地」「馬草新田」(「井戸棚居」は「井戸田苗」、「馬草新田」は「馬草場耕地」と記されるものもあります)。

これらの地名は、江戸時代の粕壁宿の土地台帳である元禄10年(1697)の検地帳にもみえる地名です(元禄の検地帳には、「内出」「井土棚居」「川窪」「浜川戸」「内屋」「草刈場」「八木崎」「新宿前」「馬草新田」「内田沼」「油戸沼」「立沼」の小名がみえます)。かつ昭和11年の粕壁町略図の農地が広がる地名にほぼ対応し、「耕地」とされることからも、主に土地の名称、とくに田畑・耕作地を指すものとして使われていた小名であるようです。

小字・小名について、どんな意味があるのか、はたまたいつ頃に生まれた地名なのかは、はっきりとわからないものが多いのですが、小さな地名は、土地に刻まれた歴史に思いをはせる糸口になるのではないかでしょうか。

#かすかべ地名の話 (2) #粕壁

#かすかべプラスワン #地名の由来

一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」

第2回目は「春日部」と「粕壁」の話です。

前回、ご紹介したように「春日部」(かすかべ)の地名の由来はいくつかの説がありますが、どれも決定打がなく、ナゾなのです。

市民の方ならばご存じのとおり、「かすかべ」という地名は、「春日部」と「粕壁」の二つの表記が用いられています。「春日部」と「粕壁」の違いは何なのでしょうか。

まずは、「春日部」と「粕壁」の違いを考えるため、古い文献から地名表記の変遷をたどってみましょう。

「かすかべ」の地名の初見は、南北朝時代。延元元年(1336)の後醍醐天皇の綸旨といわれています。この古文書は後醍醐天皇が春日部重行(かすかべ しげゆき)という武士に、「上総国山辺南北」と「下総国春日部郷」の地頭職(じとうしき)を認めるため発給されたものです。当時、春日部重行が「下総国春日部郷」を治めていたことを示すとともに、「春日部郷」(かすかべのごう)という集落が下総国に所在していたことが明らかになります。埼玉県は武蔵一国なんて言われることもありますが、実は埼玉県には下総国も含まれているのです。

 

次の画像は、延文6年(1361)ないし、応永22年(1415)に作成されたと考えられる「市場之祭文」という史料の一部です(国立公文書館所蔵「武州文書」より)

画像:市場之祭文写

ここにも「下総州春日部郷可市祭成之」とみえます。

その後も様々な中世の文献に「春日部郷」が散見されます。

中世には「春日部」と表記される地域に、人々が定住していたことが明らかになるのです。「春日部郷」は現在の市域の浜川戸近辺を中心とする集落だったと考えられています。

というわけで、古い文献にみえる「かすかべ」の地名は「春日部」となるのです。

時代が下り、時は戦国時代。

元亀4年(1573)の北条氏繁感状(写)は、関根図書助(ずしょのすけ)の戦功を賞した古文書ですが、このなかに「糟ケ辺」(かすかべ)の地名がみえます。関宿(千葉県野田市)からの軍勢が北条家の軍勢と衝突したのが、この「糟ケ辺」の地だったようです。

さらに時代が少し下り、天正17年(1589)3月の北条氏房朱印状(写)には、「御領所糟壁」と地名がみえます。この古文書は、岩付城主北条氏房が所領である「糟壁」に対して、諸役(労働役)を免除する代わりに、人を集め、耕地の開発に励むよう命じたものです。当時、「糟壁」が岩付城の城付の所領であったことがうかがえるとともに、地名としては「糟壁」という表記が用いられていたことがわかります。

しかし、古くは「春日部」と表記されていた地名が、なぜ「糟ケ辺」や「糟壁」という字句が当てられるようになったのかは残念ながら不明です。

さらに、天正18年(1590)と比定されている高力清長印判状(写)には、「糟壁新宿」という地名がみえます。この古文書は、岩付城主となった徳川譜代家臣の高力清長が、「糟壁新宿」の図書・弾正に対して、諸役を免除するかわりに人を集め年貢を納めるよう命じたものです。

江戸時代には、地名の表記としてはもっぱら「糟壁」が用いられるようになり、17世紀後半以降は「粕壁」という表記が増えていくことになります。ですから、日光道中の宿場町としての「かすかべ」は「糟壁(町)」や「粕壁(宿)」と表記され、時代が下るにつれ、「粕壁(宿)」が定着していくようになりました。

なお「粕壁」の表記は、宿場町の土蔵が「荒壁」であったから、または造り酒屋の「酒粕」に由来するという説もありますが、実際のところはよくわかっていません。

ただ、江戸時代の記録を細かくみると、「粕壁」ではなく「春日部」「春日辺」と表記することもあったようです。戦国時代から江戸時代にかけてみられる「糟ケ辺」「糟壁」「粕壁」という表記は、「かすかべ」という音を、漢字に当て、読みやすくしたものだけであり、漢字の字義は関係ないのかもしれません。

さて、明治時代、町村制が施行されると「粕壁宿」は「粕壁町」となり、東武鉄道を利用して藤の町・麦わら帽子の町・桐たんすの町として賑わいました。

その後、昭和19年(1944)戦時下での町村合併により、粕壁町は隣村の内牧村と合併し、「春日部町」が誕生します。「春日部」は後醍醐天皇を支えた南朝方の武士春日部氏の苗字であったため「春日部」の表記が選択されたようです。

上述の表記の変遷でみてきた通り、地名としては最も古い表記「春日部」が再び使われることになりましたので、地名「春日部」が復活したともいえるでしょう。

そして、昭和29年(1954)春日部町と武里村・豊春村・幸松村・豊野村の1町4町が合併し、春日部市が誕生します。

春日部町・春日部市の成立によって、東武鉄道の粕壁駅は春日部駅、旧制粕壁中学校は春日部高校と、公共的な施設等には「春日部」という地名が使用されるようになりました。今でも春日部市域全体を指す場合は「春日部」という表記が用いられます。

「春日部」が市域を覆う一方、「粕壁」表記も併用されています。粕壁は、江戸時代の宿場町だった区域の地名として使用され、「粕壁地区」「粕壁東」などと表記されます。春日部市立粕壁小学校は、現在は春日部市が設置した粕壁地区の小学校で、両方の表記が併用される伝統の小学校です。

以上のように、表記の変遷としては、「春日部」が最も古く、紆余曲折をへて「粕壁」が生まれ、そして「春日部」が再び登場するという過程をたどり、現在の用法としては「春日部」は市や町全体を指す地名、「粕壁」は春日部のなかの粕壁地区を指す地名として併用されいる、とまとめられます。

長くなりましたので、次回は粕壁のなかの小さな地名について、紹介したいと考えています。不定期ですが、お付き合いください。

「かすかべ地名のはなし」バックナンバー

八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました

令和6年2月16日(金)に八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。

 

今日は校外学習ということで、強風の中、30分くらい歩いて郷土資料館まで来てくれました!

約60年ほど前の生活から現在に至るまでの「くらしのうつりかわり」についての学習がメインということで、今企画展示室の「くらしのうつりかわり~なつかしの暮らしの道具~」展の解説とともに、資料館内にある模型を中心とした解説も併せて行いました。

 

竪穴式住居模型の見学風景

まずは竪穴式住居の模型を見ながら、約5000年前の縄文時代の生活について解説です。

郷土資料館に入ると目に飛び込んでくるのが、縄文時代の竪穴式住居!子どもたちからも「リアルだ・・・」という声が漏れてきます(笑)

竪穴式住居の中には、「木の実」「魚」「貝」などの当時食べていたものや、「炉(ろ)」「土器」など生活道具が見て取れます。ちなみにこの土器の中で煮られているのは「かき」です。現在でも食卓に並ぶものが5000年前も食べられていることは大きな発見だったようです!

 

粕壁宿模型の見学風景

続いては日光道中粕壁宿の模型を見ながら、約200年前の春日部について解説です。

日光道中は江戸時代に日本橋から日光に向かうために作られた道です。その宿場の一つとして作られたのが粕壁宿。おかげで春日部に“まち”ができたんですね!

 

企画展示室での解説風景

そして企画展示室では、約60年前の生活についての解説をしました。

洗濯板やアイロンなど、現在は電気で動くものも、当時は手作業であったり、電気以外の動力(炭など)を使用していました。

手作業の一つとして、千歯扱き(せんばこき)を使った脱穀の体験もしてもらいました!

 

戦時中の絵手紙を読む子どもたち

クロックノールで遊ぶ子どもたち

自由見学の時間には、たくさんの展示と遊べるおもちゃなどで、存分に資料館を満喫している様子!

今日はたくさんの“昔”を学ぶことができましたね♪

 

今日は風が強くて歩いてくるのが大変だったかもしれませんが、郷土資料館は土日も開館しています(祝日は休館)ので天気のいい日にまた遊びに来てください!

歴史文化講演会 「奥の細道」~旅立ちの風景~ を開催しました!

11月11日(土)、郷土資料館歴史文化講演会を開催しました。

元禄2年(1689)の3月27日(旧暦)に、「奥の細道」の旅程で日光道中粕壁宿に松尾芭蕉が宿泊しました。

本市は芭蕉ゆかりの地であることから、「『奥の細道』~旅立ちの風景~」と題し、國學院大學栃木短期大学教授の塚越義幸(つかごし よしゆき)先生にお話しいただきました。

塚越先生は、俳文学・漢文学がご専門で、芭蕉の人となり、『奥の細道』にちりばめられた古典文学・漢文学の素養、しゃれについて、著名な冒頭と旅立ちの文章を読み進めながら、わかりやすくお話しいただきました。

松尾芭蕉と奥の細道の旅については、不詳な点も多く残っており様々な想像がかきたれてられますが、講演では、紀行文学としての「奥の細道」と松尾芭蕉の作風を中心に解説いただき、文学作品としての「奥の細道」の奥深さ、楽しさを実感することができました。

講演会には50名近い方々に受講いただき、「奥の細道」を読み進めていきたいとの声も多くいただきました。

講演後は、先生に持参いただいた参考資料や郷土資料館所蔵の芭蕉肖像画などについても、解説していただきました。

熱心に質問される方もいらっしゃて、大変盛況でした。

今後も、本市の歴史文化の魅力を多くの皆様に伝えていけるよう、努めてまいります。

 

 

#家康 と春日部

#徳川家康 と春日部の関わりを紹介する春季展示は7月2日(日)まで。展示では家康が実は春日部に来ていたかも!?と紹介しています。 #かすかべプラスワン

展示も終盤なので、ネタバレで紹介します。家康が春日部に在陣することを示すのは、江戸幕府による官撰の系譜「寛政重修諸家譜」。戦国期には古河公方足利家の家来だった一色氏の系譜の記事のなかに見出せます。下の画像はその部分(国立公文書館所蔵)。

画像:寛政重修諸家譜

戦国末からの当主一色義直の記事は、次の通りです。

(前略)五年会津に御発向のとき、粕壁の駅に至りて拝謁し、台駕にしたがひたてまつらむ事を請といへとも、年老たるをもつて許し給はす、男照直を俱せらる、関原凱旋のゝち、参府して御気色をうかかふのところ、御前にめされ、義直老年ながら会津御陣の供奉をこひし事健気なりとの御感ありて、養老の料として下総国和歌領にをいて、千石の地をたまふ(後略)

慶長5年(1600)、家康は会津の上杉景勝の征伐のため、江戸城を立ちました。その途次「粕壁の駅」で一色義直は家康に拝謁し、軍勢に加わりたいと請願しますが、老齢のため家康の許しを得ることができず、嫡男の照直が供奉することになりました。

一色氏は、かつて幸手領(幸手市域から杉戸町・春日部市域の一部)を所領にしていた在地領主です(後に下総国相馬郡に所領を替えられ、現在の野田市の木野崎村に居住)。家康が関東に入部した後は、幸手に知行地5160石余を与えられ、徳川家の旗下となりました。慶長5年当時、義直は隠居の身でしたが、おそらく家康の軍勢が自らの所領幸手領を通行する直前の「粕壁の駅」で、挨拶のため拝謁したものと考えられます。

家康は、会津に向かう途中、小山で江戸に引き返したといい(小山評定)、そのまま関ケ原に向かいました(関ケ原の戦い)。

「諸家譜」はさらに続けて、関ケ原の戦いの後、一色義直は江戸城で家康に拝謁し、老年ながら会津征討に供奉したいと請願を「健気なり」と褒賞され、隠居料として下総国和歌領(現茨城県八千代町)に1000石の知行所を与えられました。

一色義直の「粕壁の駅」での拝謁については、残念ながら同時代の史料は残されていません。「諸家譜」のほか、一色家諸系譜(幸手市史編さん室編『幸手一色氏』)にも記されており、家に伝来した出来事であったと考えられますが、当時いわゆる「日光道中」が成立していたかは疑義が残り、「粕壁の駅」の位置や実態について詳しくはわかりません(後述)。

上杉征伐~小山評定~関ケ原の戦いは、大変ドラマチックな展開であり、その途次に「粕壁の駅」が登場するわけですが、近年は「小山評定はなかった」説も唱えられており、江戸からの行程、江戸までの行程も詳しくはわかりません。このあたりが大河ドラマでがどのように描かれるのか、注目されるところでもあります。

さて、肝心の「粕壁の駅」とは、何か。先日の「みゅーじあむとーく」でも、「粕壁の駅」とはどこなのか、当時粕壁に宿場町があったのか、など観覧者から鋭い質問をいただいたところです。

粕壁宿の名主文書によれば、いわゆる「日光道中粕壁宿」(現在の春日部大通り)の町割りがされたのは、慶長16年(1611)のこととされています。一方、天正18年(1590)9月には、岩槻城主高力清長が「糟壁新宿」に人を集め年貢を納めることを命じています。「糟壁新宿」はのちに元新宿と呼ばれた地区(現南・緑町)であり、いわゆる「日光道中粕壁宿」の成立以前の馬継場は同所にあったと考えられています(詳しくは以前紹介記事参照)。会津征伐の慶長5年は、この間の出来事。果たしてどこに「粕壁の駅」があったのか。はたまた、「粕壁の駅」はそもそもこの時期に存在したのか、今後の検討が必要です。

結論はでませんが、そうした家康と春日部の関わりを紹介している春季展示「かすかべ人物誌」は7月2日(日)まで。家康の朱印状も展示していますので、お見逃しなく。