ほごログ(文化財課ブログ)

タグ:武里団地

人口急増時代の春日部ゆかりの資料

現在、開催中の企画展「まちをみつめて50年」の展示資料を少し紹介。今回は春日部市の人口がぐーんと上がった昭和40年ごろの資料。 #かすかべプラスワン

企画展では、昭和29年(1954)の(旧)春日部市の誕生から、現在の市庁舎が誕生するまでの市政のあゆみを、ギュギュっと紹介しています。なかでも春日部にとって、大きな転機となったのは昭和40年初頭。埼玉県で国民体育大会が開催され、駅西口の風景が大きくかわり、また、武里団地が造成され、市内に1万人規模の街が造られ、春日部の風景は大きくかわっていったのです。

当時の状況を物語る資料は無いかと、収蔵庫から探して並べたのが、下の資料。

画像:資料展示風景

 手前の大畑小学校の表札は、大畑小学校が平成15年に閉校したときに収集したもの。大畑小学校は、武里団地の中に昭和41年(1966)に開校した小学校で、春日部市にとって、初めての新設小学校でした。団地の中にあるということからわかるように、武里団地が造成され、入居がはじまり、団地の子どもたちが通った小学校なのです。

奥のお人形と、ネズミとアヒルの壁掛けレリーフは、武里診療所旧蔵の資料。閉所した平成7年に収集したものです。武里診療所は、市立病院の出張所として昭和41年に武里団地内に設置されました。これらの資料は団地の子どもたちをあやすため置かれ、飾られたのでしょう。ネズミとアヒルは、世界的に著名なキャラクター。しかし、ちょっと顔が変?診療所設置当時のものか定かではありませんが、昔は類似品や海賊版があふれている時代。ライセンス品ではないのかもしれません。

そして、赤ちゃんの人形。目や髪がクリンとしていて、欧米系の顔つきのようにもみえます。ちょっと苦しそうな体勢で座らせているのは、背中を見ていただきたいため。

画像:赤ちゃん人形の背中

背中には「小児科」の文字が。これで、間違いなく診療所で使われていたものであるといえましょう。

いずれも、春日部市の人口が急増したときの資料です。人口の増加はグラフや年表にすれば一目でわかりますが、このような当時のモノからも、当時の世相や雰囲気を感じることができるのではないでしょうか。

展示は、7月7日まで。6月30日には展示解説講座も開催します。ぜひご覧ください。

武里団地着工60周年記念事業と武里団地の石碑

11月19日(日)、武里南公民館において、武里団地着工60周年記念講演会が開催されました。武里団地記念講演会

武里団地着工60周年記念事業(第1弾)開催!(武里南公民館のブログ)

この催しは、昭和38年(1963年)に武里団地が着工してから60周年を記念し、武里南公民館主催で行われました。郷土資料館からは、鬼塚が招かれ「1960年代の武里団地」と題した講演を行いました。

また子どものころ9街区にお住まいで、元群馬大学非常勤講師の巻島隆氏より「武里団地と私 昭和の思い出」と題してご講演をいただきました。

9街区は残念ながら、現在、取り壊し中です。巻島さんは、9街区や武里団地の幼少期の思い出について、こと細かに「ここは武里団地9街区」というブログにまとめられています。先日のご講演についても、複数の記事をあげられていますので、ぜひごらんください。

ここは武里団地9街区

 

ところで、武里団地が昭和38年(1963年)に着工したということの根拠は、どこにあるのでしょうか?

武里団地石碑

団地内、カスミ春日部武里店と武里図書館の間の道沿いにある石碑にそれは記されています。

石碑には次のように刻まれています。(別分は分譲のことを表しています。)

着工 昭和38年11月

竣工 昭和43年1月

戸数 6,119戸

賃貸 5,559戸

別分 560戸

面積 約582,000平方メートル

 

団地の完成については、入居開始の年代が話題になることが多く、着工の年が資料としてなかなか出てこないことがあります。

武里団地についても、春日部市広報で撮影した写真は、昭和39年(1964年)の造成工事や昭和40年(1965年)の起工式、同じ年の建物建設風景などです。残念ながら昭和38年にどのような工事が行われたかは不明ですが、確かに昭和38年中に工事が開始されたと石碑に刻まれています。

S39武里団地準備工事(広報)

昭和39年武里団地準備工事(広報写真より)

S40武里団地起工式(広報)

昭和40年武里団地起工式(広報写真より)

ちなみ武里団地の入居開始は、昭和41年(1966年)4月で、こちらは「入居案内」などの資料から知ることができます。そして、石碑にある通り、竣工は昭和43年(1968年)1月となっており、入居が開始されてもなお、建設工事が進められていたことがわかります。

普段は通り過ぎてしまうかもしれない武里団地の石碑ですが、団地の完成時のデータをいまに伝える重要な記録です。

新方川の桜 #桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、桜咲くかすかべに協力しています。

武里団地の南側新方川の桜が見ごろを迎えています。写真は令和4年3月28日(月)撮影のものです。桜は越谷市と春日部市にまたがって咲いていますが、団地の各部屋からも楽しめる桜です。

新方川の桜

春日部と越谷市境を流れる新方川は、古くは千間堀(せんげんぼり)と言われ、春日部市の西部の排水をになっていました。明治42年(1909)から大正5年(1916)にかけて実施された新方領耕地整理事業事業で整備され、「新方領堀」と呼ばれました。その後さらに、昭和2年〜8年(1927〜1933)に県営事業で整備され、合流先が元荒川から中川に変更となり、「新方川」となりました。

新方領耕地整理記念碑

国道4号沿いには、「新方領耕地整理記念碑」が建てられています。

新方領耕地整理については、国会図書館デジタルコレクションで竣工記念で出された冊子が公開されています。

国会図書館デジタルコレクション 埼玉県新方領耕地整理組合竣功記念

 

新方川沿いの桜は、せんげん台駅から歩いてすぐで、電車でのアクセスも便利です。ぜひお出かけいただき、新方川の歴史とともに桜をお楽しみください。

 

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武里のオリジナルソング(広報補足・その8・最終回)

いよいよ、広報かすかべ10月特集号の補足も最終回です。今回は、 #武里 の #オリジナルソング #たけさと音頭 について。 #かすかべプラスワン

今年はコロナウィルスの影響で軒並み中止になってしまいましたが、近年、春日部市では「かすかべ音楽祭」や「ブラスジャンボリー」など、音楽のイベントが定着しつつあり、「音楽のまち春日部」とも称されています。しかし、そうした「歌や音楽で盛り上がろう!地域で一つになろう!」という取り組みは、実は最近の始まったものではありません。

「春日部のご当地ソング」ともいえる歌は、世に知られているだけでも19曲もあります(『春日部の歌と歩み』による)。以下、曲名・発表年を時代順に列挙します。

粕壁小唄 昭和7年(1932)以前/和楽音頭 昭和13年(1938)以前/春日部音頭 昭和25年(1950)/幸松音頭 昭和29年(1954)/新春日部音頭 昭和31年(1956)/古利根しぐれ 昭和31年(1956)/大凧音頭 昭和36年(1961)/たけさと音頭 昭和50年(1975)/小渕音頭 昭和52年(1977)/小渕小唄 昭和52年(1977)/庄和音頭 昭和55年(1980)/春日部藤音頭 昭和57年(1982)/春日部踊り 昭和60年(1985)/庄和町・町民憲章の歌 昭和61年(1986)/新大凧音頭 昭和61年(1986)/春日部サンバ 平成元年(1998)/庄和大凧ばやし 平成2年(1990)/心の空 平成27年(2015)

以前紹介した「春日部藤音頭」、大凧あげ祭りで流れる「新大凧音頭」、チェリッシュでおなじみの「春日部サンバ」、夏祭りで披露される「新春日部音頭」「古利根しぐれ」、夕刻のチャイムで流れる「心の空」など、おなじみの歌も多い一方、今では音源を入手できない歌もあります。それぞれの歌や制作の経緯や背景については、ふれあい大学34期生桐組6班の皆さんが執筆・編集された『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)に詳しく述べられています。

さて、このなかで、ひと際異彩を放つのが「たけさと音頭」です。「たけさと音頭」は、昭和50年(1975)武里団地入居10周年を記念して「団地の子どもたちに、ふるさと感覚を」としてつくられました(※広報では昭和52年としましたが、正しくは昭和50年のようです)。歌詞の作詞は、団地の住民に募りました。十数篇の応募があり、入選したのは文筆家の高木圀夫氏。氏は著書『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)のなかで次のように述懐しています。

「私の地元が子供たちにふるさと感覚を持たせる一つのアイデアとして祭り用の音頭を募集していたのであった。(略)なにげなしに原稿用紙の端に言葉を並べてみた。それが入選したのだ。考えられなかった。」

高木氏によれば、詞は決まったものの、作曲が問題となり、高木氏が高木東六の甥であることから、地元の人たちに取り次ぎを懇願され、高木東六が作曲をすることになったそうです。高木東六は、高名なピアニスト・作曲家で、TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてもおなじみでした。「たけさと音頭」は、オペラの作曲家がつくった唯一の民謡として生まれたのです。お披露目となったのは昭和50年(1975)8月1日、大場小学校体育館でたけさと音頭発表会が開催されました。当時の県知事も招待されたそうです。貴重な写真が武里団地の自治会報「たけさと」111号に掲載されています。

 写真:たけさと音頭発表会

異彩を放つのは、高木東六作曲だからではありません。上にあげた春日部のご当地ソングには、古利根川・江戸川・藤の花・大凧揚げなど、春日部を象徴する風景などが歌詞に織り込まれています。しかし、「たけさと音頭」には「郷土」を感じられるワードはわずかに「藤の花びら」だけです。『春日部の歌と歩み』では「「春日部」や「武里」といった地名が一切出てこず、「ふるさと音頭」とうたっているのが地域の歌としてはとてもユニークです」と的確に評しています。

曲ができた当時、春日部市はベッドタウンして人口が激増していた時代でした。武里団地は市のベッドタウン化の先駆けともなった地区です。そうした武里団地発の「たけさと音頭」の歌詞は、子どもたちになじみやすい言葉でつづられ、よく言えば「ユニーク」ですが、土臭さ、泥臭ささのような「郷土」的な個性がないように感じます。その理由はおそらく、それぞれ異なる「郷土」をもつ住民(親世代)たちが、新たな「ふるさと」を想像し、制作されたからではないでしょうか。「武里団地夏祭り」、そしてその場で流されてきた「たけさと音頭」(盆踊り)は、ベッドタウン化した春日部らしいイベント・ご当地ソングといえるのかもしれません。 

昭和49年武里団地夏祭り

ただ、残念なことに、郷土資料館では「たけさと音頭」のレコードを入手できておりません。春日部の現代史資料として極めて貴重だと思います。お持ちの方はご一報いただけると幸いです。

 

以上、市制15周年を機に、8回にわたり市内八地区の身近な歴史ネタを紹介させていただきました。それぞれの歴史はそれぞれ人の思いやさまざまな経緯が折り重なり、紡がれてきたものです。そうしたことをもう一度顧みることで、新たな「春日部らしさ」=まちの良さに気付き、そして春日部が歩む未来がみえてくるのではないでしょうか。

参考文献 ふれあい大学34期生桐組6班『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)、高木圀夫『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)

東洋一のマンモス団地

9月13日(日)まで企画展「1960年代の春日部」を開催しています。

「東洋一のマンモス団地」とは、どこの団地を指しているのでしょうか?という質問をいただきました。

草加市の草加松原団地は、1962年入居開始、竣工時戸数は5,926戸を誇ります。
草加市歴史民俗資料館では、10月4日まで、「草加×東洋一のマンモス団地展(草加市歴史民俗資料館サイトにリンク)」が開催されています。

わが春日部市の武里団地は、1966年入居開始で、竣工時の戸数が賃貸、特別分譲を合わせて6,119戸です。武里団地と草加松原団地は、埼玉県内のみならず全国的にも、規模が大きい団地です。

最大規模の団地は、UR都市機構のサイト(該当サイトにリンク)によると、東京都板橋区の高島平団地(1972年入居開始)で、総戸数10,170戸と、UR都市機構(旧日本住宅公団)が手がけた最大の団地とのことです。


国立国会図書館サーチ(該当サイトにリンク)で「東洋一 マンモス団地」という言葉で検索してみると、1962年7月1日号の週刊現代の記事がヒットします。この記事では、「夢の東洋一マンモス団地の誕生」と題し、大阪府の「千里丘陵ニュータウン」を採りあげています。千里ニュータウンは、大阪府営住宅、大阪府住宅供給公社、UR都市機構の住宅で構成され、3万戸の住宅にピーク時には約13万人が居住しました。

作家の藤井青銅氏は、2005年に『東洋一の本』を著し、日本中の「東洋一」を集め、考察されています。「東洋一」という言葉は、戦前から戦中の1926~1940年ごろと1951~1965年ごろの2度、新聞記事の見出しに多く使われたようです。武里団地や草加松原団地が完成した1960年代は、2回目の「東洋一」が多く使われる時期にあたります。また「東洋」という言葉は、確定的な範囲を示すものではなく、「西洋」に対して誕生した言葉であるようです。

藤井氏は、「東洋一」という言葉は、『エジプト旅行記』(ドミニク・ビバン・ドゥノン著、1802年)や福沢諭吉の『世界国尽』(1869年)が初出ではないかと推察されています。そして仮説として「西洋>東洋」という図式を意識した明治期の日本人が、「東洋一」であれば、西洋に認められると考え、多用し始めたのではないかとしています。

また高度経済成長期は、奇跡的に経済復興を果たした日本が、「東洋一」を名乗りやすくなり、規模の大きさなどを示す「東洋一」が数多く生まれたとしています。
ちなみに『東洋一の本』に掲載されている「日本全国『東洋一』物件リスト」には、大阪府の香里団地が「東洋一の団地」と呼ばれたことがあるとして掲載されています。

「東洋」の範囲を確定できない以上、真の「東洋一のマンモス団地」は残念ながらわかりませんが、1960年代の人々が「東洋一」と胸を張って誇った団地の歩みを、後世にも受け継いでいきたいものです。

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

 

参考文献

日本住宅公団20年史刊行委員会 1975 『日本住宅公団20年史』 日本住宅公団

千里ニュータウン情報館サイト https://senri-nt.com/

藤井青銅2005『東洋一の本』株式会社小学館