ほごログ(文化財課ブログ)

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庄和総合支所で展示替えを行いました

庄和総合支所1階ロビーで開催している「春日部市発掘調査速報展示」の展示替えを行いました。

 

今回の展示は、平成29年度の権現山(ごんげんやま)遺跡3次地点、令和元年度の鷲前(わしまえ)遺跡1次地点の発掘調査成果のお披露目となります。どちらも庄和地区の東中野(ひがしなかの)に所在する遺跡で、昨年度、整理作業が終了し全ての発掘調査を終えました。

 

権現山遺跡の調査では古墳時代が始まる頃の住居跡がみつかり、そこで発掘された土師器(はじき)という土器を展示しています。土師器は弥生土器と同じように素焼きで作られた土器で、古墳時代からみられるようになります。その一つには穴が開けられた土器もあり、展示ケース越しに確認してみてください。

 

鷲前遺跡の調査では約6000年前の縄文時代の住居跡がみつかり、そこで発掘された縄文土器と貝がらを展示しています。特に注目してほしいのはハマグリやアサリ、マテガイといった、海に生息するたくさんの種類の貝がらです。

この貝塚を伴う住居跡からは、現在は海なし県の埼玉県ですが、縄文時代は気温が高く、海水面が上昇していたことから、春日部市内にも海が広がっていたことがわかります。つまり、鷲前遺跡でみつかった貝がらは、遺跡の周辺で採れたものです。不思議な感覚ですが、「春日部産」のハマグリやアサリと言っても過言ではないでしょう。また展示した3個体の土器には細かな縄目(なわめ)がつけられ、まさに縄の芸術をみることができます。

 

 

 

新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言は解除されましたが、「密」にならず、お譲り合ってご覧いただければと思います。

 

庄和総合支所での展示の様子

 

 

 

 

 

 

令和2年6月2日から郷土資料館を再開します

新型コロナウイルス感染拡大防止のため令和2年4月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和2年6月2日(火曜日)から開館します。
なお、体験コーナーは利用できません。

<来館時のお願い>
・大人数での来館は控えてください。館内の状況により、入場制限を行う場合があります
・発熱などの風邪症状のある人は入館できません
・皆さんの安全確保のために、入館時に氏名・緊急連絡先の記入をお願いします
・入館時の手指の消毒にご協力をお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・滞在時間は、30分を目安にしてください
・会話を控えるとともに、他の来館者との十分な距離(おおむね2メートルを目安)をとってください

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(最終回)

前回まで5回にわたってお送りしてきた、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)の #おうちミュージアム 。今回は最終回。牛島のフジに訪れた歴史上の人物について紹介します。

観光案内のパンフレットなどで、牛島のフジに訪れた著名人として、もっぱら語られるのは、詩人の三好達治。「何をうし島千歳ふじ はんなりはんなり」と詠んだ「牛島古藤花」は牛島のフジを象徴する詩として紹介されています。三好達治は著名な詩人ですし、彼が牛島のフジを題材にして詩を遺したことは春日部の誇るべき文化遺産だと思います。しかし、前々回の記事で紹介したように、牛島のフジが「国指定」天然記念物とされて以降、指定以前の由来や歴史が捨象されていく傾向がみられます。三好達治が牛島に訪れたのは昭和36年(1961)の春。古いようで、実は50年前の出来事、しかし新しいわけでもない。詩の世界に疎い展示担当者は、「牛島古藤花を詠んだ三好達治」と初めて聞いたとき、「三好達治って??」と正直思ってしまいました。

ミニ企画展「藤のまち春日部」では、三好達治に劣らない歴史上の著名人が牛島のフジに訪れたことをパネルで紹介しました。

写真:展示風景

さて、どんな人物が訪れたのか(ハードルあがっちゃいました)。

古くは、江戸時代の大名諸侯、慶応年間には日光山輪王寺門跡(のちの北白川宮能久)が訪れました。これについては初回の記事で紹介したところです。大名諸侯とありますので、近世史料を丹念に調査すれば、〇〇藩の御殿様が牛島のフジに来ていた!なんてこともわかるかもしれません。ちなみに北白川宮能久は、日清戦争の時に台湾に近衛師団長として出征し、現地でマラリアに罹り急死する人です。皇居外苑の北の丸公園内に馬上の姿の銅像があることでも知られます。

明治以降では、現在判明する限りでは、明治19年(1886)5月に跡見花蹊(跡見学園創始者)、同33年(1900)5月に幸田露伴(小説家)、松原二十三階堂(小説家)同35年(1902)5月に徳川昭武(徳川慶喜実弟)、同45年4月に渋沢栄一(実業家)が訪れています。また、訪れた年代は未詳ですが、清浦奎吾(総理大臣)、大和田建樹(詩人)、徳富蘇峰(思想家)、田山花袋(小説家)、大町桂月(詩人)、中野三允(俳人)なども訪れています。

大和田建樹についてはその2の記事で、田山花袋・大町桂月・清浦圭吾についてはその3の記事で紹介しました。

今回は、新紙幣1万円札の肖像になる渋沢栄一について少し紹介しましょう。渋沢が牛島のフジに訪れたのは明治45年(1912)4月28日のこと。旧制粕壁中学校(現・県立春日部高等学校)の講演会に招かれ、粕壁駅から人力車に乗り、牛島のフジを見学しています。ちなみに、渋沢は大正7年(1918)5月11日にも、町内の某家の敷地内にある碑文の除幕式に出席するため、粕壁に訪れています。

上述の著名人のほかにも、数多の政治家・文化人が牛島のフジに訪れたはずです。訪問したかどうかはわかりませんが、昭和の小説家太宰治の作品「斜陽」にも牛島のフジが登場しますし、平塚らいてうは牛島のフジに訪れようとしていたことが手記に記されています。「天国に一番近い島」で知られる森村桂さんの父で、旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)卒業の純文学作家豊田三郎は、晩年夫人と牛島のフジを見に行こうと約束していていましたが、残念ながら果たせなかったそうです。余談ですが、昭和43年放送のNHK朝の連続テレビ小説「あしたこそ」は、森村桂さんの家族がモデルです。昭和以前の文化人にとって、牛島のフジは間違いなく藤の名所だったことがうかがえます。今後も調査をすすめていけば、牛島のフジを彩る歴史上の人物たちが見いだされることになるに違いありません。

 計6回にわたりお送りしてきた#エア博物館「藤のまち春日部」展は、今回が最終回になります。コロナのおかげで誰も観ることなく、バラされた展示会も無事「成仏」することができました。展示担当者としては、資料の原物をご覧いただき、皆さまからご意見・ご感想・お叱りをいただきたかったのですが、こうした形でWEB上に爪痕を遺すのも悪くないかなとも思っています。

最後に、「藤のまち春日部」のリバイバル展示ができること、そして皆様が牛島のフジをはじめとする春日部の藤により一層の親しみ・愛着を抱いていただくことを願い、擱筆させていただきます。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

#エア博物館 春日部市内の遺跡

 

#おうちで博物館

考古学講座にむけて、今回は市内の遺跡をおおまかにみていきます。

春日部市域の地形をみると、西側には岩槻区方面から続く大宮台地、東側には野田市方面から続く下総台地があります。内牧や花積が大宮台地上、西親野井、塚崎、西宝珠花、西金野井、米島、東中野などが下総台地上に位置します。台地の間は、中川低地と呼ばれ、自然堤防という微高地が、河川の流れに沿って立地します。また埼玉県東部地域には、特徴的な地形である河畔砂丘(かはんさきゅう)が存在し、市内でも小渕、浜川戸、藤塚で確認することができます。市内の遺跡は、縄文時代までは台地上で展開しますが、弥生時代以降、低地にも遺跡がみられます。低地の発掘調査はまだ少なく、今後、低地においても縄文時代以前の遺跡が発見される可能性があります。

慈恩寺原北遺跡の石器

春日部市域で最も古い人間の痕跡は、約3万年前の旧石器時代のものです。慈恩寺原北(じおんじばらきた)遺跡(花積)、坊荒句(ぼうあらく)遺跡(内牧)、風早(かざはや)遺跡(西金野井)で、約3万年前の石器が発見されています。

 

 

 

 

米島貝塚出土黒浜式土器縄文時代は、今から約6,000年前をピークとする縄文海進(じょうもんかいしん)により、春日部市域の中心部が海となり、その沿岸となる大宮台地、下総台地に、貝塚が多く残されます。海が最も入ってきた時期にあたる縄文時代前期の代表的な遺跡は、花積貝塚(花積)や町道(まちみち)遺跡(西宝珠花)、米島貝塚(米島)などが挙げられ、アサリやハマグリなど、海の貝で貝塚が形成されています。

今から約3,800年前、縄文時代後期には、神明貝塚(しんめいかいづか、西親野井)が営まれます。神明貝塚は、直径約150mの範囲にドーナツ状に貝が広がる貝塚で、貝の種類は、汽水に生息するヤマトシジミが実に99%を占めます。この時代には海が南へ下がり、春日部市域周辺には、淡水と海水がまじりあう汽水域が広がっていたことがヤマトシジミの出土量からわかります。貝塚では、貝からカルシウム成分が土壌に供給されることにより、本来であればなくなってしまう、人骨や獣骨、魚骨などが残されています。神明貝塚でも現在までに5体の人骨が発見されています。また、新潟県で採れるヒスイを素材にした装飾品など貴重な遺物も発見されています。2020年3月に国指定史跡になりました。

 

須釜遺跡出土土器弥生時代は、埼玉県東部地域では遺跡数が非常に少なくなります。しかしながら、2001年に倉常の自然堤防上に立地する須釜(すがま)遺跡で、約2,000年前の再葬墓(さいそうぼ)と呼ばれる墓の跡が発見され、弥生時代の本格的な遺跡として認知されるとともに、低地においてさらなる弥生時代の遺跡発見の可能性が高まっています。再葬墓の「再葬」とは、人の遺体を土中などに一定期間埋葬したのちにとり出し、骨だけの状態に整えて土器に入れ、再度、埋葬することです。須釜遺跡では、2回目の埋葬の跡である11基の再葬墓と約30個体の完全な形に近い土器が発見されました。また、土器の表面に稲籾の痕跡が確認され、当時の春日部市域の人々はすでに米を知っていたと考えられます。

 

古墳時代になると、台地上では、風早(かざはや)遺跡、尾ヶ崎(おがさき)遺跡(西金野井)や香取廻遺跡(大衾)、権現山遺跡(東中野)で前期の集落が確認されています。権現山遺跡では、底部穿孔壺形土器(ていぶせんこうつぼがたどき)が出土し、県指定文化財になっています。低地では、沼廻(ぬままわり)遺跡(銚子口)、須釜遺跡(倉常)、浜川戸遺跡(浜川戸)で前期の遺物が出土しています。

塚内4号墳出土の刀

古墳時代後期、6世紀前半から営まれる内牧の塚内(つかない)古墳群は、約20基の古墳から形成される市内の古墳時代を代表する遺跡です。塚内4号墳からは、直刀や鉄鏃(てつぞく)、ガラス小玉、人物埴輪などとともに、下総系と武蔵系の2種類の円筒埴輪が出土しています。一つの古墳から武蔵、下総2地域の円筒埴輪が出土している唯一の例であり、春日部の地が武蔵と下総の境界の地であったことがわかります。

古墳時代後期の集落は、台地上では、塚崎遺跡(塚崎)、貝の内遺跡、陣屋遺跡(西宝珠花)、宮前遺跡(東中野)、低地の自然堤防上では、小渕山下遺跡、小渕山下北遺跡(小渕)などで確認されています。

 

貝の内遺跡出土の下総国分寺瓦8~10世紀の奈良、平安時代となると、台地上では、貝の内(かいのうち)遺跡(西宝珠花)や塚崎遺跡(塚崎)、低地では、小渕山下遺跡(小渕)や浜川戸遺跡(浜川戸)、八木崎遺跡(八木崎)などで大規模な集落が営まれます。貝の内遺跡では、現在の千葉県市川市に所在した下総国分寺(しもうさこくぶんじ)で使われた軒平瓦(のきひらがわら)が出土し、当時、貝の内遺跡を含む春日部市の東部が、下総国の範囲であったことのみならず、下総国分寺と何らかのつながりがあったことを示します。小渕山下遺跡や浜川戸遺跡などは、低地の自然堤防上に営まれた集落で、多くの住居跡が集中的に立地しています。奈良、平安時代の遺跡から出土する道具には、土師器(はじき)や須恵器(すえき)といった土器のほかに、刀子(とうす)や鎌などの鉄製品があります。またこの時期には、日常的に広範囲の地域と流通があり、例えば須恵器は、埼玉県西部の比企地域や茨城県の新治地域の産地から運ばれたものが出土しています。土器や道具に書かれた文字資料も増加します。塚崎遺跡では、「春ア□□」(□は不明の字)と墨書された須恵器が出土しています。「ア」の字は「部」と解読でき、「春部」と読めることから「春日部」につながる文字である可能性があります。八木崎遺跡では、春日部高校の新校舎建設に先立つ発掘調査で、「奉念隋□道足」と刻まれた糸をつむぐための石製の紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土しています。

 

浜川戸遺跡の板碑中世では、浜川戸遺跡の発掘調査で、堀や建物の跡、また板碑などが発見されています。春日部八幡神社には、周辺に館を構えた武士の春日部氏が鎌倉の鶴岡八幡宮から八幡神社を勧請(かんじょう)した由緒が伝わっており、発見された堀や建物の跡は春日部氏の館であった可能性が濃厚です。

遺跡は、その地に生きた名もない人々の生活を、飾ることなく伝えてくれます。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その5)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、戦後そして現代に至る、春日部市のまちづくりとフジの関係について紹介します。

昭和30年(1955)8月22日、牛島のフジは、国の特別天然記念物に指定されます。今もなお、「特別」天然記念物のフジは唯一であり、牛島のフジは春日部を象徴するものとなります。春日部市では、現在にいたるまで牛島のフジを由来として、藤を活用したまちづくりを進めています。昭和48年(1973)10月、春日部市制20周年を記念して、フジを市の花と制定されました。

昭和54年(1979)には市の花フジ147本を植樹した街路「ふじ通り」が整備され、同57年5月以来、「ふじ通り」では「春日部藤まつり」が開催されました。記念すべき第一回藤まつりの写真が遺っています。

写真:第一回藤まつり

横断旗をもつ高校生の服装が時代を物語りますね。

また、第一回藤まつりの開催を記念して「藤音頭」が制作・制定され、レコードが頒布されました。「藤音頭」の作詞は国語学者金田一春彦、作曲は山本直純、歌い手は原田直之でした。藤音頭発表会の貴重な写真も遺っています。

写真:藤音頭発表会

金田一先生にもお越しいただきました(右から5番目の椅子に座ってらっしゃいます)。

平成4年(1992)には、全国の藤にゆかりのある市の代表者が集まり、都市づくりの会議「藤の都市サミット」が開催されました。平成4年の第1回サミットは、静岡県藤枝市において開催され、フジを市の花に定めている全国の市の代表者が集まり、都市づくりについて話し合うものでした。これも貴重な写真が遺っています。

写真:藤サミット第1回

前列左が三枝前市長です。平成6年(1994)には春日部市を会場として第二回藤の都市サミットが開催され、ふじ通り沿いで、谷原二丁目交差点付近にある公園「ふじ広場」に、参加した藤の都市の首長らによって、フジが植樹されました。藤の都市サミットは、残念ながらその後立ち消えとなってしまったようです。
平成17年(2005)、旧春日部市・旧庄和町合併後、同19年2月21日にはフジが新市の花として指定されます。ちなみに旧庄和町の花は「ショウブ」でした。新市においても、旧庄和町のシンボル「大凧あげ」と融合した大凧マラソンのイメージキャラクター「ふじだこくん」や「藤テラス」といった新たなイベントなども生まれています。春日部の特産品「押絵羽子板」でも「藤娘」が好まれて製作されています。

今年はコロナ禍により、藤まつり、藤テラス、牛島の藤の公開と藤に関するイベントが軒並み中止となってしまいました。しかし、藤の花の季節は過ぎましたが、季節を問わず、市の花フジを楽しませてくれるものがあります。その代表例といえるのがこれ。

写真:春日部市のマンホール

マンホールです。粕壁地区の学校通りで撮影しました。これは彩色されていますが、色のないバージョンや少し小ぶりなものもあるようです。春日部市では、まちづくりのなかで市の花フジをモチーフにした制作物がとり入れられてきました。普段は見過ごしがちな日常の風景のなかにも、まだまだフジが隠れているかもしれませんよ。個人的にも、展示のためのマンホール捜し、結構楽しかったです。

余談ですが、先日、とあるテレビで、春日部親善大使のあるタレントさんが、巷で人気の漫画・アニメ「鬼滅の刃」の藤は春日部の藤(牛島の藤)だと話し、春日部をPRされていました。「鬼滅の刃」は架空の話でしょうし、根拠がないので「聖地」ではないようですが、春日部の代名詞である藤の花に再びスポットがあたるといいですね。

次回はいよいよ「藤のまち春日部」展の最終回。牛島の藤に訪れた著名人について紹介したいと思います。