黒羽小学校指定文化財

(黒羽小学校元校長高尾朗 記) 

 

「作新館」扁額
【「作新館」扁額】

 

▶「作新館」扁額について

 この扁額は明治11年12月に元黒羽藩権大参事であった大沼渉氏が東伏見宮嘉彰親王に御揮毫いただき、学校に寄贈したものです。

改作作新館記
【改作作新館記】

▶ 改作作新館記について

 明治4年(1871)に旧黒羽藩主大関増勤(ますとし)公は、私費を投じて藩学「作新館」を新築移転しました。場所は大雄寺の北側で今は水田になっており、記念碑が建っています。
 藩の著名な漢学者であり、作新館の教授でもあった三田称平先生称平先生の次男で、自らも作新館の教授を務めていた三田恒介

先生がその時の感慨を識したものが本校に残る「改作作新館記」です。
 内容のあらましを口語訳すると以下のようになります。
 学校は政治の基礎である。政治の盛衰は人材の集散に関わり、人材の集散は学校の興廃に関わり、学校の興廃は時の勢いと大きく関わる。
 明治の時代になると新政府は古い制度を改め、天皇陛下の名の下にたびたび命令してこの国の学校制度を監督するようになった。そこで人々は謹んで知識の無いことを恥と考えるようになった。これは時勢の成り行きが上昇し始めこれから安泰に向かって新政府が隆盛を迎えようとする証拠である。
 その明治の4年10月に作新館が落成した。元は黒羽城の東の端にあり、狭くゆとりがないので教養を身に付けようとする人々の望みを叶えられなかった。そこで改めて城内の土地を調べ、盛んに茂っていた草木を切って焼き払い、岡を削って平らにした。事業は成功し、高くりっぱな建物が厳かにそびえ、そこで学ぶ人たちも意気盛んである。そのための工費は千五百両、工事に関わった人はのべ一万八千人を数えた。そこでの学習は国学、漢学、洋学及び医学を始め読み書きや算盤まで全て備わっている。さらに、ここに勉強に来る人は常に二百人ほどいる。
 自分は浅薄で劣った資質しかないのにこの隆盛の時代に出会った。進んで新政府を讃える術もなく退いて農作業に従事する力も無い。ただ書物を手に講堂で思い迷っているばかりで、国が興るか衰えるかという大切な時に何もできないでいる。とても恥ずかしいことである。北宋の欧陽脩は「優れた師はあきらめずに教え続けるという思いで遠く曲がりくねった道の先にある成果を求めるものである」と言った。
 それならば、学問の研究を生業にする者もまた怠らずに教育に励もう。幸いにも将来よい人材が育てば、他人に頼らず自分で物事を決められる人となるだろう。重要な役職をこなすことができ、礼儀正しい雰囲気をつくりだすことができる道徳的で裏表のない優れた人材が次々に育っていき、大きな功績を挙げるはずである。その時こそ、この学校の教育がまさに実を結んだと言ってもいいであろう。それは私自身が成し遂げられることではないかもしれないが、この土地の者でなければ知っている人はいない。それゆえここに記録し、将来に期待するものである。

三田恆(恒)識 

格天井
【格天井】

▶ 格天井について

 大田原市指定有形文化財(歴史資料)に指定されており、以下のような説明が記されています。(一部黒羽小との関係が分かるように表記を変更しています)
 明治4年(1871)に旧黒羽藩主大関増勤(ますとし)公は、私費を投じて藩学「作新館」を新築移転しましたが、それを記念して格天井が翌明治5年秋、講堂に造営されました。その後、大正2年(1913)と昭和57年(1982)、同58年の2度の改修工事を経て、いまなお本校に受け継がれています。
 回り縁と格縁によって、全部で18の区画に区分された格天井のそれぞれの鏡板には、漢詩・漢文などが黒い墨で筆書きされており、朱の印鑑も押されています。

鏡板には、『礼記(らいき)』礼運篇(れいうんへん)に見える四霊(麟・鳳・亀・龍)のうち三霊、すなわち「麟」「鳳」「龍」という文字が旧藩主大関増式(ますつね)公や旧黒羽藩士らによって一文字ずつ大きく書かれています。
 さらに当時教官を務めていた三田称平先生や生徒など合計27名による27首の漢詩が書かれています。なお、栃木県知事岡田文次の「学不厭」という句や黒羽町長室井陣四郎の「本校前身者」で始まる漢文もありますが、これらは、大正2年の改築工事の時に書き足されて、新たに掲げられたものです。
 作新館の生徒には大田原藩士もおり、また同館は宇都宮の下野英学校にも大きな影響を与え、同校を私立作新館と改称させ、それは作新学院という形で今も息づいています。この旧作新館講堂格天井は、黒羽のみならず近隣の市町村、そして栃木県における近代教育の出発点の姿を今に伝える重要な資料です。
(黒羽町長室井陣四郎氏が大正2年に付け加えた部分の口語訳)
 本校の前身は旧黒羽藩の藩校作新館である。作新館は明治の初めに黒羽藩主大関候が始めた学校であり、村中の子どもたちを教育していた。その後尋常小学校となったが、明治18年に学校のすべてが前田村他三市町(田町、八塩、堀之内)に寄付された。それから時が経って甚だしく朽ち果ててしまったので、大宿で土地を調べ新たに校舎を建てた。大正2年7月には工事はすべて終了した。
 地元の人は黒羽の教育の元になったものを忘れず、再び以前の校舎の天井を移築しこれを使い、また県知事に書を書き加えていただいた。振り返ると黒羽には軍人や学者、実業家になっている優れた能力や才能のある人が多くいるが、みなこの学校の出身である。
 昔の人の言葉に言う「自分よりも若い者は、さまざまな可能性を秘めているし、努力によって将来どれだけの人物になるのかわからないから若いからといって見くびってはいけない」と。
 少しばかり本校の沿革の大まかなところを記し、併せて国の役に立つ人材が次々とこの学校から続いて世に出ることを期待するものである。 

侍門
【侍門】

▶ 侍門について

 道路(大宿街道)に面したところに建てられています。
 元は旧黒羽藩士興野(きょうの)家の門でしたが、旧黒羽藩士大沼家に買い取られた後、記念に学校に寄贈されたものといわれています。

 大関文庫
【大関文庫】

▶ 大関文庫(作新館文庫)土蔵について

 大正4年に旧黒羽藩主大関家より藩学作新館の蔵書が本校(旧黒羽町)に寄贈されました。校庭の南側にあるこの土蔵はその古書を収納していたものです。毎年夏休みに6年生児童と職員とが一週間かけて虫干しをしていましたが、平成9年に「黒羽芭蕉の館」に移されました。
 旧黒羽小学校第3代校長渋江義也先生の演述書の中にある蔵書についての部分を口語訳すると次のようになります。

 大正4年11月10日に今上天皇の御即位の式典の記念として、大関子爵閣下から旧藩学作新館に備え付けてあった和漢洋書3,200冊ばかりを寄贈いただいた。
 これをひとつの部屋に陳列して黒羽文庫と名づけ、多くの人に見てもらい、将来は徐々に拡張して郷土の文化に貢献できればと

考えていたが、年々児童数が増加し教室のゆとりがなくなってきた。仕方なく校舎を増築をした時には実現しようと思いながら、無駄に土蔵に収容することになってしまったのはたいへん残念である。
 珍しい本が多く、市指定有形文化財(典籍) である写本佐竹得昭著護法秘策(しゃほん さたけとくしょうちょ ごほうひさく)も含まれています。

しだれ桜
【しだれ桜】

▶ しだれ桜について

 校庭の東側にあり、4月になるとたくさんの花を咲かせます。遊具のすぐ側にあり、子どもたちに親しまれています。

カツラ木
【カツラ木】

▶ カツラ木について

 校歌に出てくるカツラの木です。4月の初めに写真のように一週間ほどきれいな紅紫の花が咲き、秋には黄色く紅葉します。

 カツラは雌雄異株ですが、学校のものは雄株だと思われます。

「黒羽藩作新館」印大関私学作新館印
 【「黒羽藩作新館」印】    【大関私学作新館」印】   

▶ 印章について

「黒羽藩作新館」印

 作新館は安政4年5月に藩主により設立されましたが、これは当時使われていた印章です。

「大関私学作新館」印

 明治時代になって宇都宮県から免許の無い家塾・私塾の閉校について通達があり、作新館は明治7年4月に「小学作新館」として仮開設します。7月には私立小学校設置の許可があって正式に開校しました。10月には学区制定によって「大関私立作新館」と改称し、作新館は存続しました。この印章は明治12年6月に旧黒羽藩主からいただいたものです。