黒羽小卒業生
合気道養神館の創立者塩田剛三氏に武道の基礎を教えた人について
黒羽小明治43年度卒の柔道家大沼環(たまき)七段の生涯
塩田清一氏・大沼環・塩田剛三氏の3つの「養神館道場」
黒羽小学校 昭和44年度卒業生 大沼美雄
黒羽小学校は昔の黒羽藩の藩校何陋館(かろうかん)や作新館の流れを汲む学校ですが、過去にはどのような卒業生がいたのでしょうか。もうだいぶ前の新聞ですが、昭和50年(1975)9月10日の「下野新聞」の「わが学舎(まなびや)、黒羽・黒羽小⑫ 卒業生群像」という特集記事には、明治30年代の黒小の卒業生として林業の方面で力を尽くした斎藤酉之助と斎藤雄之助、また若い頃は黒小の先生を勤め、後に有名な画家となった石川寅寿(別名は「寒巌(かんがん)」)が紹介され、次いで明治44年の卒業生として東京の警察署で柔道を教え、黒羽に帰ってからは町民に柔道を教えて、町民の中に柔道を広めた大沼環(たまき)が紹介されていました。記事は更に昭和1桁(けた)時代の卒業生まで続き、合計43人が紹介されていますが、記事の中で4番目に紹介されている大沼環は私の祖父であり、私の手元には大沼環の遺品も少し残っているので、今から110年も前に黒小を卒業した私たちの大先輩の大沼環という人が黒小卒業した後どんな人生を歩んで行ったのか。ここではそんな話をしておきたいと思います。
大沼環は明治31年(1898)9月25日に当時の那須郡黒羽町大字北滝の大沼家(現在の大沼秀勝さんの家)の第5男として生まれました。黒小に通い明治44年(1911)3月に尋常科を卒業、すぐに高等科に入学し、大正2年(1913)3月に高等科を卒業しました。なお、黒小では菊池次男という先生に特にお世話になったそうです。また、黒小時代の同級生には五味渕寛氏・黒沢新太郎氏・鈴木勇二氏・佐藤清氏・増渕金之助氏といったような人々がいたそうです。大沼環は大正2年の春に北滝の古森道場(揚武館、道場主は古森熈(ひろし)氏)に入門、柔道の稽古を始め、柔(やわら)の道を歩み始めました。そして、大正7年(1918)9月14日には数人の黒羽の友人達と上京、翌大正8年(1919)11月15日には警察官となり、警視庁赤坂区表町警察署に勤務することになりました。大正10年(1921)7月2日には警視庁四谷警察署に転勤し、翌大正11年(1922)1月には柔道の総本山とも言うべき講道館に入門しております。なお、この時期大沼環はそれまで住んでいた東京府赤坂区榎(えのき)坂(さか)町(まち)(アメリカ大使館の隣)から東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷に引っ越しております。翌大正12年(1923)5月22日には警視庁から柔道助手に任命され警察官に柔道を教えるという役職に就きました。翌大正13年(1924)春には東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷から東京府四谷区大番町の新宿御苑正門前に引っ越して、一時的にそこに住んでおります。その大番町(大番町29番地)に塩田清一という人が院長を務める塩田小児科医院という非常に評判が良くてたいへん繁盛(はんじょう)していた病院が有りました。何しろ毎日朝早くからたくさんの大人や子供が列をなして並び、その繁盛ぶりといったら、何と病院の前におもちゃを売る露店が並んだほどであったということです。塩田清一院長は九州帝国大学医科大学医学科を卒業したあと同大学で暫(しばら)く助手をしていたという経歴を持つ立派なお医者さんでありましたが、その一方で青少年の育成に非常な関心を持ち、それには武道しかないと考え、大正14年(1925)には医院の一部を改築して柔剣道場を作り、そこを「養神館(塩田道場)」と名付け、柔道の先生と剣道の先生をよそから招いて柔剣道による青少年の育成に力を尽くしました。その「養神館(塩田道場)」の開館式の日に撮影された記念写真[図Ⅰ]には塩田清一氏をはじめ加藤熊一郎(別名は「咄堂(とつどう)」)という学者さん、そして小磯国昭・古荘幹郎(ふるしょうもとお)・畑英太郎・畑俊六といった当時の陸軍の有名な軍人さんたち、そして柔道の先生として大沼環、剣道の先生として椎名八重蔵、また塩田氏の次男の塩田剛君(後に「剛三」と名乗る)という少年が写っております。塩田の「養神館(塩田道場)」に柔道の先生として招かれていたのは大沼環であったのです。
図Ⅰ 養神館(塩田道場)の開館式の日に撮影された記念写真
「「養神館(塩田道場)」の開館式の日(大正14年) 最前列中央の剣道着の少年 塩田剛君(塩田清一の次男、後に剛三と名乗る)
2列目右より3人目から 加藤熊一郎(咄堂(とつどう)) 塩田清一 1人おいて、畑英太郎
3列目右より3人目から 古荘(ふるしょう)幹郎(もとお) 畑 俊六 小磯国昭(後首相)
4列目右 椎名八重蔵 4列目左 大沼 環
なお、昔東京には「在京黒羽会」というのが有りましたが、大沼環は大正14年冬に黒羽のお殿様の子孫の大関増輝氏(子爵)のお宅で開かれた「在京黒羽会」に参加をしております。また、その頃大沼環は東京府豊多摩郡代々幡町大字代々木457番地(明治神宮西参道通下)に引っ越しております。また、昭和3年(1928)1月8日には大沼環は柔道四段になっております。なお、同年同月には神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現在は神奈川県鎌倉市)の由(ゆ)比(い)ヶ(が)浜(はま)で塩田剛君(当時は四谷第六小学校6年生)と写真[図Ⅱ]を撮っています。
図Ⅱ 大沼 環 氏(左)と 塩田 剛 氏(右) *神奈川県鎌倉市由比ガ浜にて
その3ヶ月後の4月、塩田剛君は東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)に入学しましたが、その際にどちらかを選択しなければならなかった柔剣道では剣道ではなく柔道を選択したそうですが、塩田剛君はそれまで「養神館(塩田道場)」で大沼環先生から柔道の稽古をみっちりと付けてもらっていたせいか、柔道では同学年の誰にも負けなかったということだそうです。なお、塩田剛はその約4年後の昭和7年(1932)5月23日に合気術の植芝盛平の「植芝道場」に入門し、大沼環から教えられた柔道というか武道の基礎の上に合気術、つまり後の合気道の技を磨いて行ったのです。ところで、大沼環は昭和4年(1929)5月5日には皇居内の済寧館という武道場で開催された天覧試合に出場しております。また、その4日後の5月9日には京都で開催された大日本武徳会の武徳祭大演武会の柔道の試合に出場し、同会の総裁の梨(なし)本(もとの)宮(みや)さまから御(ご)褒(ほう)美(び)を賜(たまわ)り、同会から「大日本武徳会柔道練士」と名乗ることを許されております。また、大沼環は昭和5年(1930)4月には警視庁四谷警察署の柔道助手を辞職、塩田清一氏のお世話で東京府立第九中学校(現在の東京都立北園高等学校)の柔道の先生になっております。こんなふうに東京や京都で柔道で活躍をし少しは有名になっていた大沼環は昭和6年(1931)夏と昭和7年夏に一時帰郷し、川西警察署で柔道の夏期稽古の指導をしております。また、昭和8年(1933)4月には東京府立第六中学校の柔道教師になっております。そして、昭和11年(1936)8月1日には東京市渋谷区代々木山谷町453番地に引っ越しをし、21日にはそこに自宅兼道場(建坪48坪、2階が自宅で1階が道場。なお、建物の前には「養神」と刻まれた石柱が立っておりました[図Ⅲ]。)を完成させ、11月1日には「養神館(大沼道場)」の館主として名誉館長としてお迎えした塩田清一氏とともに「養神館(大沼道場)」を開館し、開館記念の柔道大会を開催しておりますが、その際に記念品として配られた「養神館大沼道場」の名入りの小さな杯も伝わっております[図Ⅳ]。
図Ⅲ「養神」と刻まれた石柱
図Ⅳ 「養神館大沼道場」の名入りの杯 昭和15年に配る
また、大沼環は昭和15年(1940)には「養神館(大沼道場)」に大関増輝氏と荒木貞夫氏(男爵、元陸軍大臣、元文部大臣、陸軍大将)をお招きして皇紀二千六百年記念の大会(紅白試合)を開催しております。なお、年代ははっきりといたしませんが、「養神館(大沼道場)」にはあの愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)氏(当時の満州国皇帝の弟君)が直接訪問され、「「正義」大沼方家)へ止候(とどまりさうらひ)て」(「正義」大沼さんという人の立派な家に足を止めた折に)という色紙[図Ⅴ]を置いていってくれております。
図Ⅴ 満州皇帝溥儀(ラストエンペラー)の弟 愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)からいただいた色紙
にわかには信じられない話ではありますが、塩田清一氏が愛新覚羅家と深い交流を持ち、溥傑氏が嵯峨浩(ひろ)さん(嵯峨侯爵家ご令嬢)と結婚をされたのも塩田氏が橋渡しをしたからだと言われていること等を考慮すれば、溥傑氏の「養神館(大沼道場)」訪問もまず本当のこととして間違いは無いと思われます。また、昭和16年(1941)春には大沼環は栃木県下英霊慰霊祭参列の為に来県した林銑十郎(せんじゅうろう)氏(元首相、陸軍大将)を雲厳寺にお連れしております。また、昭和17年(1942)1月11日には柔道六段になっております。また、昭和18年(1943)夏には大沼環は東京都下中学校柔道大会で第九中学校を優勝に導いております。しかし、昭和20年(1945)5月25日に米軍による大空襲により、自宅及び「養神館(大沼道場)」を失ってしまっております。大沼環は家と道場を失ってからは渋谷区内の富ヶ谷や初台などに住み、昭和22年(1947)の春には千葉県香取郡古城村万力(現千葉県旭市万力)に移住。ついで昭和25年3月には遂に帰郷して黒羽町黒羽田町に住むことになりました。そして、念願の柔道場建設に乗り出し黒羽町八塩の三田鼎(てい)次(じ)氏(内科医、三田医院院長)らの金銭的援助を得て、昭和27年(1952)7月10日には黒羽町大字黒羽田町94番地に柔道場(通称「大沼道場」)を完成させ、黒羽柔道愛好会を立ち上げて、同会会長兼師範になりました。そして、8月には「大沼道場」で第1回暑中稽古を開催しました。そして、10月23日には自宅兼整骨院の上棟式を挙行、昭和28年(1953)1月10日には大沼環は新築した自宅に引っ越しました。また、9月11日には黒羽柔道愛好会の中に女子部を新設、いずれも黒小の卒業生である大沼喜代子、金子節子、栗田久子、黒沢千恵子、小泉玲子、笹川トキ子、生田目昊子(こうこ)の7名が真新しい柔道着に身を包み、柔道の稽古を始めました。昭和27年から昭和32年(1957)まで黒羽柔道愛好会は活発に活動し、黒羽田町の「大沼道場」は地元では相当有名になりました。その間、大沼環は昭和29年(1954)5月7日に柔道七段になっております。しかし、病気のために昭和32年12月30日に死去、それは享年59歳という少し早めの死でありました。
昭和30年6月10日、塩田剛氏が塩田剛三氏と名乗って「合気道養神館」という合気道の流派を立ち上げられました。その流派名の中に「養神館」という言葉が入っているのは剛三氏の父の清一氏が立ち上げた「養神館(塩田道場)」を受け継いだものだということは間違いが有りません。ただ、3つの「養神館(道場)」を年代順に並べてみると明治44年に開館した塩田清一氏の「養神館(塩田道場)」、昭和11年8月に開館した大沼環の「養神館(塩田道場)」、そして昭和30年6月10日に創立された塩田剛三氏の「合気道養神館」となりますので、塩田剛三氏が立ち上げた「合気道養神館」はもしかしたら大沼環の「養神館(大沼道場)」も受け継いだものだということが言えるかもしれません。
学校教育・社会教育といったような教育現場では「文武両道」という言葉をよく耳にします。文武両面に力を注いで努力するのも良いでしょう。また、文武の両面からどちらか一方を選択し、文の面だけに特に力を注いで努力するもの良いし、武の面だけに特に力を注いで努力するのも有りだと思います。もちろん、長い歴史を持つ黒羽小学校のこと、過去には文武両面に力を注いで努力した卒業生もいれば、文の面だけに特に力を注いで努力した卒業生もいたことでしょう。ここでは武の面に特に力を注いで努力し、柔道家になり後身を対象とした柔道の指導に一生のうちの殆どを費やした黒小の明治43年度の卒業生であり明治45年度(大正元年度)の卒業生でもあった大沼環のことを紹介してみましたが、私がここにこれを発表させてもらったことをきっかけに大沼環の他にも武の面に特に力を注いで努力した卒業生がいなかったか、また文の面に特に力を注いで努力した卒業生がいなかったか、或いは文武の両面に力を注いで努力した卒業生がいなかったか、これからみんなで探って行ってみよう。そんな機運が黒小の卒業生や関係者の中から沸き立って来てくれれば幸いである。我が祖父大沼環をここに紹介させていただいた者として、また卒業生の1人として私は今そんなふうに考えております。