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三田称平の「作新館」(現黒羽小学校)に関係した漢詩について
―幕末・明治初期、「作新館」(現黒小)教員であった三田称平が自ら教科書を読む姿や自ら教室で教科書を講義をする姿、そして子供たちが教科書を声を出して読んでいる姿を詠った漢詩などを中心に〕― その1 黒羽小学校 昭和44年度卒業生 大沼美雄
はじめに
「漢詩」と呼ばれている文芸があります。その名が示してくれている通り中国大陸に起源を持つ文芸であり、中国大陸では3000年以上前から作られて来た物です。また、「漢詩」は我が国でも古くから作られ、江戸時代以降に作られた物はもちろんのこと、飛鳥時代や奈良時代や平安時代にられた古い作品が今もたくさん残っております。その「漢詩」についてですが、それは従来様々な物を詩題にして作られて来ました。ただその中で1.学校や学校の何かを詩題にした物、2.書物を詩題にした物、3.書物を読むということを詩題にした物、4.学校等で人が書物を読んでいる声を聴くということを詩題にした物、5.学校等で人が書物を講義している声を聴くということを詩題にした物、6.学校等で自らが書物の講義をするということを詩題にした物。こういった物は大陸でも我が国でもあまり作られては来ていなかったようです。
1の学校や学校の何かを詩題にした物については、大陸の物としては例えば後漢(ごかん)の班固(はんご)(32年~92年)の「辟雍詩」(辟雍(へきよう)の詩)、唐の馮涯(ふうがい)の「太学創置石経」(太学(たいがく)に創(はじ)めて石経(せきけい)を置く)という詩、唐の盧照隣(ろしょうりん)の「文翁講堂」(文翁(ぶんをう)の講堂(かうだう))という詩、北宋(ほくそう)の王安石(1021年~1086年)の「潭州新学」(潭州(たんしう)の新学)という詩、北宋の陳師道(1053年~1102年)の「咸平読書堂」(咸平(かんぺい)の読書堂)という詩、明(みん)の李東陽(1447年~1516年)の「詠学宮双柱」(学宮(がくきゅう)の双柱(さうちゅう)を詠(よ)む)という詩などがあり、我が国の物としては水戸の藤田東湖(1806年~1855年)の「弘道館梅花」(弘道館の梅花(ばいくわ))という詩、水戸の青山延寿(のぶとし)(1820年~1906年)の「弘道館梅花、応命」(弘道館の梅花、命(めい)に応ず)という詩・「再賦弘道館梅花」(再び弘道館の梅花を賦(ふ)す)という詩がありますが、非常に少ないです。また、2の書物を詩題にした物については、大陸の物としては例えば西晋(せいしん)の傅咸(ふかん)(239年~294年)の「周易詩」(周易(しうえき)の詩)・「毛詩詩」(毛詩(まうし)の詩)・「周官詩」(周官(しうくわん)の詩)・「左伝詩」(左伝の詩)・「論語詩」(論語の詩)・「孝経詩」(孝経(かうきゃう)の詩)、唐の太宗(たいそう)皇帝(李世民。599年?~649年)の「賦尚書」(尚書(しゃうしょ)を賦す)という詩がありますが、やはり非常に少ないです。なお、唐の太宗の詩の題は「『尚書(しょうしょ)』(書経(しょきょう))について自分の思いや考えを述べる」という意味です。また、3の書物を読むということを詩題にした物については、大陸の物としては例えば明の王守仁(陽明。1472年~1528年)の「読易」(易を読む)という詩、元の呉澄(1249年~1333年)の「題伏生授書図」(伏生(ふくせい)書(しょ)を授(さづ)くるの図(づ)に題す)という詩〈なお、清(しん)の朱彝尊(しゅいそん)の説(『曝書亭集』巻第21、台湾商務印書館刊四部叢刊本、199頁)によれば、この詩には「読尚書」(尚書を読む)という別題があったということなので、「「読尚書」(尚書を読む)という詩」だと称することも可能です。〉、清の朱彝尊(1629年~1709年)の「春日読春秋左氏伝」(春日(しゅんじつ)に春秋左氏伝を読む)という詩、唐の権徳輿(けんとくよ)(759年~818年)の「読穀梁伝」(穀梁伝(こくりょうでん)を読む)という詩、唐の方愚の「読孝経」(孝経を読む)という詩、南宋の朱熹(朱子。1130年~1200年)の「読大学誠意章有感」(大学の誠意の章を読みて感有(かんあ)り)という詩、唐の白居易(楽天。772年~846年)の「読漢書」(漢書(かんじょ)を読む)という詩、唐の李九齢の「読三国志」(三国志を読む)という詩、白居易の「読老子」(老子を読む)という詩・「読荘子」(荘子を読む)という詩、唐の李白(701年~762年)の「読諸葛武侯伝」(諸葛(しょかつ)武侯伝を読む)という詩、北宋の蘇軾(そしょく)(東坡(とうば)。1036年~1101年)の「読道蔵」(道蔵(だうざう)を読む)という詩、清の銭大昕(せんだいきん)(1728年~1804年)の「読漢書」(漢書を読む)という詩があり、我が国の物としては例えば頼山陽(らいさんよう)(1780年~1832年)の「読隋煬紀」(隋(ずゐ)の煬(やう)の紀(き)を読む)という詩、藤田東湖の「読明史」(明史(みんし)を読む)という詩、吉田松陰(1830年~1859年)の「読荘子」(荘子を読む)という詩がありますが、やはりあまり多くはありません。また、4の学校等で人が書物を読んでいる声を自分が聴くということを詩題にした物については、我が国の物としては例えば嵯峨天皇(786年~842年)の「聴誦法華経」(法華経(ほけきゃう)を誦するを聴く)という御製(ぎょせい)、平安時代中期の人大江以言(おおえのもちとき)(955年~1010年)の「冬日陪於飛香舎、聴第一皇子始読御注孝経」(冬日(とうじつ)に飛香舎(ひぎゃうしゃ)に陪(したが)ひ、第一皇子が始めて御注(ぎょちゅう)孝経を読まるるを聴く)という詩があり、大陸の物としては例えば南唐の徐鉉(916年~991年)の「観人読春秋」(人の春秋を読むを観る)という詩がありますが、これは人が『春秋』という書物を読んでいる声を聴いたということを詩題にした物ではなくて、人が『春秋』という書物を読んでいる姿を自分が見たということを詩題にした物です。読んでいるのを聴くにせよ見るにせよそういったことを詩題にした物はやはりあまり多くはありません。また、5の学校等で人が書物を講義している声を自分が聴くということを詩題にした物については、大陸の物としては例えば唐の皎然(こうぜん)(730年~799年)の「聴素法師講法華経」(素法師の法華経を講(かう)ずるを聴く)という詩、唐の高適(704年~765年)の「同馬太守聴九思法師講金剛経」(馬太守(ばたいしゅ)と同じく九思法師の金剛経を講ずるを聴く)という詩があり、我が国の物としては例えば奈良時代の人淡海三船(おうみのみふね)(722年~785年)の「聴維摩経」(維摩経(ゆいまぎゃう)を聴く)という詩、平安時代中期の人高階積善(たかしなのもりよし)の「於法興院聴講法花経」(法興院に於て法花経(ほけきゃう)を講ずるを聴く)という詩、平安時代中期の人源為憲(みなもとのためのり)(1011年没)の「聴講古文孝経」(古文孝経を講ずるを聴く)という詩がありますが、やはりあまり多くはありません。また、6の学校等で自らが書物の講義をするということを詩題にした物については例えば西晋の潘岳(はんがく)(248年~300年)の「於賈謐坐講漢書」(賈謐(かひつ)に於て坐して漢書を講ず)という詩がありますが、やはりあまり多くはありません。
以上述べさせていただいた通り、確かに水戸の藤田や青山は水戸藩の藩校弘道館の梅の花を詩題にした漢詩を詠んでおります。また、傅咸は『周易(しゅうえき)』(『易経(えききょう)』)・『毛詩(もうし)』(『詩経』)・『周官(しゅうかん)』(『周礼(しゅらい)』)・『左伝』(『春秋左氏伝』)・『論語』・『孝経(こうきょう)』といった経書(けいしょ)(「経書」とは儒教の経典のことです。なお、この「経書」については後文で改めて説明をさせていただきます。)名(めい)を詩題にした漢詩を詠み、唐の太宗皇帝も『尚書』(『書経』)という経書名を詩題にした漢詩を詠んでいます。また、王陽明は『易経』、呉澄は『尚書』(『書経』)、朱彝尊は『春秋左氏伝』、権徳輿は『春秋穀梁伝』、方愚は『孝経』、朱子は「大学(章句)」の第6章の誠意の章といった経書を読むということを詩題にした漢詩を詠んでいます。また、大江は一条天皇(980年~1011年)の第一皇子の敦康親王(999年~1018年)が飛香舎(ひぎょうしゃ)で唐の玄宗(げんそう)皇帝(李隆基。685年~762年)の注が付いた『御注孝経』を声を出して生まれて初めてお読みになられているのを直接拝聴したことを詩題にした漢詩を詠んでいます。また、潘岳は賈謐の家で自ら座って『漢書』の講義をする自分を詩題にした漢詩を詠んでいます。
ところで、黒小の前身は周知の通り黒羽藩の藩校作新館ですが、その作新館でその作新館が「作新館」という校名を名乗る以前の時代から長い間教鞭を執っていた三田称平(しょうへい)(号は地山(ちざん)。堀之内生まれで八塩育ち。文化9年12月10日・1813年1月12日~明治26年・1893年7月5日。なお、この「三田称平」については後文で改めてその詳しい伝を紹介させていただきます。)という幕末から明治前期にかけての教育者・学者もまた藩校作新館(又はその前身、「作新館」と名乗る以前の時代の藩立の学校の時代も含む。)に深く関係する漢詩を何首も作りそれを今に残してくれています。
その中には例えば、「尚書」という漢詩があります。これは『地山堂明治詩抄 第壱編』(「頼高家文書(もんじょ)」第29号)56頁に収録されていますが、安政2年(1855年)に作られた物です。作られた時点では直接学校には関係が無かった物だったのかもしれませんが、今になってみれば当時の藩立の学校(現黒小)に絡めても良いと考えてよい作品です。また、「読尚書」(尚書を読む)という漢詩が2首あります。この2首は『地山堂雑記 第36編(地山詩集 一集)』(「三田チヨ家文書」第34号)[写真Ⅰ]の地山堂安政後集の中に収録されていますが、安政4年の秋に作られた物です。(この2首も作られた時点では直接学校には関係が無かった物だったのかもしれませんが、後に藩立の学校・現黒小に大きく関係して来ることになる作品です。)「地山堂詩文草稿綴(北嶽居士三田恒介墓表外)」(「三田チヨ家文書」第92号)投筆余稿によれば、慶応4年(1868年)の旧暦の4月、三田称平はその「読尚書」という題を2首とも第1首についてはたった1字を第2首目についてもたった1字を変更しただけで「作新館講尚書」(作新館(さくしんくわん)に尚書を講ず)という題に改めていますが[写真Ⅱ]、『地山堂明治詩抄 第弐編』(「頼高家文書」第30号)34頁によれば、明治3年(1870年)の2月か3月には2首とも第1首目の中身はそのままに第2首目についてはたった2字を変更しただけでその題を再び元の「読尚書」に戻しています。
三田称平は先ず安政2年(1855年)に「尚書」という詩題の漢詩1首を作っているのですがそれはともかくとして、その約2年後の安政4年の秋に「読尚書」という詩題の漢詩2首を作り、その詩題をその約11年後の慶応4年の旧暦の4月に中身の文字をほんの少し変更しただけでも2首とも「作新館講尚書」に改め、更にその詩題をその約2年後の明治3年の春にやはり中身の文字をほんの少し変更しただけでも2首とも再び「読尚書」に戻しているということ、これについてはただ詩題をちょくちょく変更していただけではないのかという見方もできますが、三田称平が題を2つ立てて、一応別物として存在させていたということは実は非常に注目するべきことであると思われます。
三田称平は藩校で自ら教授する『尚書』という教科書、その教科書名をそのまま題とした漢詩1首を先ず最初に作っています。また、その後に「『尚書』という名の教科書を(自らの教材研究も兼ねて)自ら読む」という題の漢詩2首を作っています。そしてその後その2首を元に2首ともたった1文字の変更をしただけではあったのですが、改めて新たに「作新館という藩校で『尚書』という名の教科書を自ら講義をする」という題の漢詩2首を作っているのです。つまり黒羽藩校の教員であった三田称平は教科書名をそのまま題とした漢詩を作ったり、教科書を自らの教材研究も兼ねて自ら読むという題の漢詩を作ったり、その教科書を作新館という藩校(現黒小)で自ら講義するという題の漢詩を作ったりしているのです。このことは非常に珍しいことだと思われます。もし今のことに譬えて云うならば、高等学校の社会科(地歴公民科)の先生が「世界史A」という題の詩や短歌を作ったり、更に「(教材研究の一環として)世界史A(の教科書)を読む」という題の詩や短歌を作ったり、更に「(自分が教鞭を執る)○○高校(の教室)で世界史Aの講義をする」という題の詩や短歌を作ったりする。それと全く似たようなことなのです。普通は誰もやらないこと、非常に珍しいことです。黒羽の教育界の大先輩である三田先生はそんな普通は誰もやらない非常に珍しいことを幕末・明治初期に黒羽の学校でやってくれていたのです。
また、三田称平には「作新館」という題の漢詩があります。この黒羽藩の校名そのものを題とした詩は『地山堂明治詩抄 第弐編』58頁に収録されていますが、明治4年10月2日(1871年11月14日)に三田称平が作新館の教授(なお、正式な職名は「文学教授」。)に就任した際の作品です。なお、これは『地山堂雑記 第37編(地山詩集 二集)』(「三田チヨ家文書」番号外)地山堂明治集の中や『地山堂明治詩鈔』(「三田チヨ家文書」第90号)の中には「作新館偶成」という別題でもって収録されています。因みにその別題は「作新館の中でふと思い付いて作った作品」という意味です。
また、三田称平には「書作新館天井」(作新館の天井(てんじゃう)に書す)という題の漢詩があります。これは『地山堂明治詩抄 第弐編』58頁に収録されていますが、明治5年の秋に作新館の講堂に天井が張られた際にその天井板に三田称平が墨書した作品です。なお、これは「地山堂詩文草稿綴(北嶽居士三田恒介墓表外)」の中には「作新館開講賦一詩」(作新館の開講(かいかう)に一詩(いちし)を賦す)という別題でもって収録され、『地山堂雑記 第37編(地山詩集 二集)』地山堂明治集の中や『地山堂明治詩鈔』の中には「壬申秋、作新館新造天井。使寄宿生徒二十三名、各書一詩。予与五六教官亦聊録盛事。」(壬申(じんしん)の秋(あき)、作新館(さくしんくわん)に新(あら)たに天井(てんじゃう)を造(つく)る。寄宿生徒二十三名(きしゅくせいとにじふさんめい)をして、各(おのおの)一詩(いちし)を書(しょ)せしむ。予(われ)も五六(ごろく)の教官(けうくわん)と亦聊(またいささ)か盛事(せいじ)を録(ろく)す。)という別題でもって収録されています。因みにそれぞれの別題は「作新館での授業が改めて再開したので(その記念に)漢詩一首を作った」という意味、「壬申(みずのえさる)の年(明治5年・1872年)の秋、作新館では新しく天井を拵(こしら)えた。(その記念にここ作新館で学んでいる)寄宿生たち23名に各自1首ずつ漢詩を(作らせて、それを天井板の上に)書かせた。自分もまた5、6人の教師たちとともにこの立派な行いを少しだけ記録しておくことにした。」という意味です。なお、この作品は黒小の作新館学習室の天井に今も「明治壬申秋、造天井於講堂。使寄宿生徒二十三名、各書一詩。予与五六同僚亦聊録盛事。」(明治壬申(めいぢじんしん)の秋(あき)、天井(てんじゃう)を講堂(かうだう)に造(つく)る。寄宿生徒二十三名(きしゅくせいとにじふさんめい)をして各(おのおの)一詩(いちし)を書(しょ)せしむ。予(われ)も五六(ごろく)の同僚(どうれう)と亦聊(またいささ)か盛事(せいじ)を録(ろく)す。)という題でもって掲げられています。また、他に三田称平には『地山堂雑記 第36編(地山詩集 一集)』地山堂安政後集の中や『地山堂明治詩抄 第壱編』66頁に収録されている安政6年(1859年)の年末に作られた「読書声」(読書(どくしょ)の声(こゑ))という題の漢詩があります。その題が示してくれている通り、人が書物を読んでいる声を聴いて作った作品ですが、これは黒小が「作新館」という校名を名乗る以前にそこで学んでいた子供たちが声を出して書物を読んでいたことを詩題として作られたと思われる作品です。なお、黒小が「作新館」という校名を名乗って以後、そこで学んでいた子供たちが声を出して書物を読んでいたということは「作新館」という漢詩の中にも詠(うた)われております。黒羽の教育界の大先輩である三田先生は今から164年前の安政6年と151年前の明治5年に今の黒小で授業中に教科書を声を出して読む子供たちの姿を漢詩でもって詠い記録してくれていたのです。なお、三田称平には「明治十三年作新館歳暮」(明治十三年作新館(めいぢじふさんねんさくしんくわん)の歳暮(さいぼ))という漢詩があります。これはその名が示してくれている通り明治13年(1880年)の年末の作新館の様子を詠った作品です。
以上が三田称平が今に残してくれている黒小の前身作新館(なお、「作新館」と名乗る以前の時代の藩立の学校の時代も含む。)に関係する漢詩です。全部紹介したい所ではありますが、ここでは次の5首を紹介させていただきたいと思います。
1.「尚書」1首
2.「作新館講尚書」(別題は「読尚書」)2首
3.「作新館」(別題は「作新館偶成」)1首
4.「書作新館天井」(別題有り。その別題については前後述の通りです。)1首
5.「読書声」1首
ここですぐに漢詩の紹介に入って行きたい所ではありますが、その前に前文で触れさせていただいている「経書」、及び「経書」と黒羽藩との関係について述べさせてもらい、それに続けて三田称平という人物についても少し詳しく述べさせていただくことにいたします。
一、経書(儒教の経典)のこと、そして経書と黒羽藩との関係について
「経書」とは前文で何度か述べさせていただいていますが、儒教の経典のことです。儒教の経典と云えば一般には「五経(ごきょう)」と呼ばれて来た5つの経典(具体的には『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』のこと。)と「四書」と呼ばれて来た4つの経典(具体的には「大学」「中庸」『論語』『孟子』のこと。)が有名ですが、実は「五経」に『楽(経)』を加えた「六経(りくけい)」や「十三経(ぎょう)」と呼ばれて来た13種類の経典(具体的には『周易』『尚書』『毛詩』『周礼』『儀礼(ぎらい)』『礼記』『春秋左氏伝』『春秋公羊(くよう)伝』『春秋穀梁伝』『論語』『孝経』『爾雅』『孟子』のこと。)というのもあります。ところで、儒学という言葉があります。儒学とは儒教の経典を学習して行く学問のことですが、儒学は大昔、唐時代以前は主に「五経」を学習して行く学問でした。しかし、(南)宋の時代に朱子が朱子学と呼ばれる新儒学を興してからは「四書」を学習して行くという学問にもなりました。また、朱子学がこの世に現れた南宋時代以後は朱子や朱子のお弟子さんたちが付けた新しい注(新注)が付いた経書を用いて学習をする人たちが現れる一方で朱子学がこの世に現れる以前に付けられた古い注(古注)が付いた経書を引き続き用いて学習をする人たちもおりました。ところで、経書に於ける新しい注と古い注とは具体的には何のことでしょうか。例えば『周易』(『易経』)と『尚書』(『書経』)と『論語』を例に挙げて述べれば、次のようになります。『周易』(『易経』)に於いて新しい注が付いた物とは朱子が付けた注が付いた物で、具体的な書名で云えば『易本義(えきほんぎ)』、古い注が付いた物とは魏の王弼(おうひつ)(226年~249年)と東晋の韓伯(康伯。332年~380年)が付けた注が付いた物で、具体的な書名で云えば『周易注』ということです。また、『尚書』(『書経』)に於いて新しい注が付いた物とは朱子の門人の蔡沈(さいしん)(1167年~1230年)が付けた注が付いた物で、具体的な書名で云えば『書集伝』(別名は『書経集註(しっちゅう)』)、古い注が付いた物とは漢の孔安国が付けたと云われて来た注が付いた物で、具体的な書名で云えば『尚書注』ということです。また、『論語』に於いて新しい注が付いた物とは朱子が付けた注が付いた物で、具体的な書名で云えば『論語集注(しっちゅう)』、古い注が付いた物とは魏の何晏(かあん)(190年~249年)が付けた注が付いた物で、具体的な書名で云えば『論語集解(しっかい)』ということになります。因みにかつて國學院大學文学部文学科に学び漢文学を専攻した私は1年生の時には正規の授業の中で『論語』を朱子の注が付いた『論語集注』つまり新注本で学び、4年生の時にはやはり正規の授業の中で『尚書』(『書経』)を孔安国が付けたと云われて来た注が付いた『尚書注』つまり古注本で学んでおります。大学時代、私は『論語』も『尚書』(『書経』)も正規の授業の中で学んでおりますが、『論語』については朱子学風(朱子学派系)の解釈でもって学んでいたのだが、『尚書』(『書経』)については非朱子学風(非朱子学派系)の解釈で学んでいたということであります。学習や研究にはテキスト選びが重要です。特に新注本と古注本の両方が存在する経書などについて学習や研究をする際にはどちらを選ぶかということが実はたいへん重要になって来ます。例えば『毛詩』(『詩経』)を学んで行くにしても、朱子の注が付いた『詩集伝』を選び、朱子学風(朱子学派系)の新しい解釈でもって学んで行くか、それとも漢の毛公(もうこう)・毛萇(もうちょう)、後漢の鄭玄(じょうげん)(127年~200年)の注が付いた『毛詩(毛伝鄭箋(もうでんていせん))』を選び、唐代以前の古い解釈で学んで行くか、大きく分けて2つの選択肢があるのです。(実は私は大学3年生の時に正規の授業の中で『毛詩』(『詩経』)を学んでおります。因みにテキストは朱子の『詩集伝』でしたが、担当の先生は必ず「毛伝鄭箋」を用意され、たまにですが朱子の解釈に批判を加えておられました。)なお、子供や初心者などが漢文体で書かれた文章の読みやリズムに慣れるために、意味には全くこだわらずただ音読だけをするという際には第3の選択肢がありました。それは本文だけしか載っていない無注本を選ぶという方法でした。
ところで、江戸時代には儒学が盛んであった、幕府立の学校や藩校ではもちろんのこと私塾や寺子屋などでも「四書」や「五経」の学習が行われていたということは一般に云われていることですが、我が黒羽藩や黒羽藩の藩校ではどのようであったのでしょうか。
江戸時代の文化文政時代(1803年~1830年)、黒羽には大関増業公(ますなりこう)(土佐守(とさのかみ)。天明元年6月9日・1781年7月29日~弘化2年3月19日・1845年4月25日)という学者殿様がおりました。その増業公は文化8年11月28日(1812年1月12日)に「家老始諸士之者へ」という御触れ(通達というか命令)を出しました。その中に「セめてハ、若者ハ一芸一術之武芸、四書五経位之所ハ嗜(たしなみ)度(たき)事(こと)、」という一節がありました。これは「侍身分の者の中でも、特に若い者にあっては(剣・槍・弓・馬など何でもよいから)得意とする武芸を1つは持て、また「四書」や「五経」ぐらいは嗜(たしな)むぐらいの教養人であって欲しい。」という意味です。増業公が黒羽藩の家老以下の侍身分の人たちに「四書」や「五経」についての教養を身に付けることを求めていたことがわかります。なお、この御触れが出たのは三田称平が生まれるちょうど1年前。因みに三田称平が漢詩に詠んだ『尚書』(『書経』)は「五経」の1つであります。
また、増業公は文政3年(1820年)に黒羽藩で最初の藩校何陋館(かろうかん)(現黒小の前身の前身)を設立したと云われていますが、その館内の壁にはいわゆる壁書きが書かれ、その中には次のような2箇条があったと云われています。
一(ひとつ)、素読(そどく)は四書を初(はじめ)として、五経に及び、五経終(をはる)の日、有司 (いうし)へ其(その)旨を達(たつす)べし。(以下省略)
一、五経半(なかば)に及(およぶ)の頃、四書の義理を穿鑿して、忠孝の道を弁(わきまふ)べし。
上は「(意味を考えずただ声を出して読むという)素読(と呼ばれる学習)は先ず「四書」について行い、それが終わったら今度は「五経」について行い、「五経」についてのそれが終了した日には担当役人にその学習が終了した旨を報告する必要がある。」という意味です。また、下は「「五経」についての学習が大体半分ぐらいの所まで来た際には、「四書」の中に見える(朱子や朱子学者たちがやたら強調する)奥深い意味を持つ言葉、その意味をとことんまで探ろうし、(それで儒教、特に朱子学者たちが説く)「忠孝の道」というものを理解するべきである。」という意味です。黒羽では作新館の前の何陋館があった時代にも学校で「四書」や「五経」の教育が行われていたことがわかります。なお、「(意味を考えずただ声を出して読むという)素読(と呼ばれる学習)」については本稿の最後のところで触れさせていただきます。
また、幕末期、黒羽には大関増裕公(肥後守(ひごのかみ)。天保8年12月9日・1838年1月4日~慶応3年12月9日・1868年1月3日)という超改革派の殿様がおりました。その増裕公は文久3年(1863年)の旧暦の6月にいわゆる「文武奨励ノ訓示」という物を出しました。その中に「此度三田称平へ、学頭仰せ付けられ候間、諸士之倅二三男に至る迄、幼年より学校へ罷(まか)り出(いで)、素読出精し、講釈承り候様致す可き事。」という一節がありました。これは「このたび今月18日をもって三田称平を(藩学、後の黒羽藩校作新館)の学頭に任命したわけであるが、侍身分の者にあっては長男はもちろんのこと次男や三男も皆、子供の頃から学校へ登校し、(意味を考えずただ声を出して読むという)素読(と呼ばれる学習)に精を出し、(その後は学頭三田称平による専門的)講義を受けるべきである。」という意味です。また、「一、毎日正五ツ時より句読師出席、四ツ時迄素読教授之事。」という一節もあれば、「一、毎月六日・十日・十六日・廿日・廿五日・廿九日、学頭出席、朝五ツ時より四ツ時迄、経書講説之事。」という一節もあります。前者は「(学校では)毎日朝8時ちょうどに句読師という身分の教員が教室に顔を出し、朝10時まで子供たちに素読(と呼ばれる学習)を授けるのだ。」という意味、後者は「(学校では)毎月6日・10日・16日・20日・25日・29日には必ず学頭三田称平が教室に顔を出し、朝8時から朝10時まで、(子供たちに対して)経書についての専門的講義をするのだ。」という意味です。これは藩校がまだ「作新館」とは名乗っていなかった時代のことではありますが、黒羽では相当整った教育がなされていたということが見て取れます。
なお、文部省が明治23年(1890年)7月21日付けで発刊した『日本教育史資料』第1巻、諸藩ノ部、東山道、旧黒羽藩、640頁に「校名 何陋館後改名作新館」とあり、また
教則 教科用書ノ如キ確定ナキヲ以テ今其一二ヲ掲ク 孝経、四書、五経、国史略、十八史略、前後漢書、其他歴史等 素読午前九時ヨリ正午十二時ニ至ル 講義一ヶ月六会 輪講午後
習字午前九時ヨリ午後三時マデ他ノ授業時間ノ間ニ習フ 以上終テ午後三時ヲ退校ノ時限トス
ともあります。少し信憑性に欠ける感がある史料ではありますが、ここからは旧藩時代の現黒小の教育課程などを窺うことができると思います。
二、改めて三田称平という人物について
三田称平[写真Ⅲ]は今から約210年ほど前の文化9年12月10日(1813年1月12日)に堀之内の宮内坪(みょうちつぼ)の秋庭(あきば)助右衛門清房という黒羽藩の侍の家に秋庭家の次男として生まれています。幼い時の名は鉄五郎で、後に房之助に改名し、更に称平と改名し、地山と名乗っております。〈因みに「称平」も「地山」も『周易』(『易経』)から採ったものです。以下、暫くは「称平」と記述させていただきます。〉江戸時代は今とは異なり夫婦の同姓は許されず夫婦は完全に別姓でしたので、称平の母親の姓はもちろん秋庭ではありませんでした。称平の母親の姓は小山田(おやまだ)。称平の母親は堀之内のやはり侍であった小山田藤助光重の娘でした。称平は幼い時からたいへん頭が良く様々な学芸に興味を持ちました。称平は文政3年・1820年(数え年9歳の時、以下年齢については数え年で表記させていただきます。)には藩のお抱え絵師の小泉斐(あやる)(檀山。黒羽藩領芳賀郡益子村の人。明和7年正月1日・1770年1月27日~嘉永7年7月5日・1854年7月29日)から絵を学んでいます。また、朱子の注の付いた「大学」、すなわち『大学章句』を暗誦しております。また、11歳の時(文政5年)には八塩のやはり侍であった三田政武の家から養子として迎えられ、三田を名乗ることになり、その三田家で養母から『大学諺解』(『倭(やまと)大学』)の手ほどきを受けています。〈以下、「称平」ではなく「三田称平」と記述させていただきます。〉また、大関増業公が開催した破魔弓の講習会にも参加しています。また、文政8年(14歳の時)には黒羽藩士で叔父でもあった小山田稲所(栄樹。安永4年・1775年~安政4年3月16日・1857年4月10日)から漢詩の作り方を学び、黒羽藩儒の大沼茂清(号は金門。水戸藩儒の立原翠軒(たちはらすいけん)に師事、黒羽藩校何陋館の支那学教官。安永6年・1777年~嘉永5年1月21日・1852年2月1日)から経書の講説を受けています。また、文政9年(15歳の時)には黒羽藩士の田中脩平(真斎。天保13年6月4日・1842年7月11日没)からも漢詩の作り方を学んでいます。そして、文政10年4月15日・1827年5月10日(16歳の時)には藩の表中小姓になっています。また、三田政武の娘松子(明治2年7月21日・1869年8月28日没)と結婚しています。なお、この頃三田称平は隣藩水戸藩の藩校弘道館に憧れ水戸への遊学を希望していましたが失敗をしています。また、天保2年・1831年(20歳の時)には江戸勤番を命じられて江戸に行き現郡山市出身の江戸の学者安積艮斎(あさかごんさい)(信。二本松藩校敬学館教授。幕府昌平黌教授。寛政3年3月2日・1791年4月4日~万延元年11月21日・1861年1月1日)から朱子学派系の儒学などを約4年間学びました。また、天保5年の旧暦の7月(23歳の時)には幕府から大坂加番を命じられた大関増儀(ますのり)公(伊予守(いよのかみ)。文化8年8月27日・1811年10月14日~慶応元年12月13日・1866年1月29日)に付き従って大坂に行き、大塩平八郎(中斎。後素。寛政5年1月22日~天保8年3月27日・1837年5月1日)から陽明学派系の儒学を約3年間学びました。その後一旦黒羽に帰り藩の近習番(きんじゅうばん)・納戸番(なんどばん)を務め更にまた江戸に戻って艮斎に学んでいます。また、天保8年5月13日・1837年6月15日(26歳の時)には息子深造(安居。黒羽県少属。宇都宮県少属。川西小学校初代事務掛。明治11年・1878年4月26日没)が生まれています。また、天保9年(27歳の時)には友人たち数人とともに江戸の下屋敷の空き部屋を借り、そこを「(再建)何陋館」と名付け、経書などの輪読会や漢詩の作詩会を開催しています。また、天保11年(29歳の時)には郡(こおり)奉行兼勝手掛(がかり)になっています。また、天保15年1月14日・1844年3月2日(33歳の時)には息子恒介(北嶽。作新館助教。大蔵省十三等出仕。明治8年・1875年9月19日没)が生まれています。また、弘化4年・1847年の旧暦の7月(36歳の時)からは大沼茂寛(しげとも)(万年。半太夫。金門の子。黒羽藩家老。作新館学頭。川西小学校の初代校長。湯津上小学校の初代校長。)宅で数人の藩士たちと『論語』の輪講会を始めています。また、嘉永3年4月13日・1850年5月24日(39歳の時)からは大沼宅で『孟子』の輪講会を始めています。また、嘉永5年(41歳の時)には大雄寺の住職の仏山龍光和尚(ぶつざんりゅうこうおしょう)とともに主君に学問を教授する侍講(じこう)となり、大関増昭(ますあきら)公(信濃守(しなののかみ)。天保5年10月20日・1834年11月20日~安政3年2月25日・1856年3月31日)を相手に『論語』の講義を行っています。また、嘉永7年8月12日・1854年10月3日(43歳の時)には友人たちと大雄寺に集まって『書経』の輪講会を開催しています。また、自ら自宅内に開設した地山堂家塾(かじゅく)で四書の講義を始めています。また、安政2年・1855年(44歳の時)には芳賀郡内の藩の領地を治める下(しも)ノ庄(しょう)奉行になっています。また、安政3年(45歳の時)には筑波山や水戸に旅行にでかけ、漢詩を作っています。また、安政4年正月11日・1857年2月5日(46歳の時)からは地山堂家塾で『十八史略』を講義、ついで「大学」(「大学章句」)や『論語』の講義をしています。また、7月23日(9月11日)から(旧暦の)10月まで大沼宅で『孟子』を講義。同月からは『詩経』の講義をしています。また、安政5年正月14日・1858年2月27年(47歳の時)から安政5年3月24日・1858年5月7日(47歳の時)までは大沼から請われて大沼宅で『春秋左氏伝』を講義しています。また、安政6年正月13日・1859年2月15日(48歳の時)には昇格を果たし、藩から給人格の格式をいただいています。また、文久2年・1862年(51歳の時)には小泉光周(みつちか)(檀造。主殿正(とのものしょう)。小泉斐の甥の勝明。その勝明の孫。天保3年11月28日・1832年12月19日~明治38年・1905年1月23日)宅で『百人一首』を講義しています。また、給人格の格式をいただいたからかこの年あたりからは瀧田登・波多野順八・益子四郎といった上級武士たちが三田称平の『論語』の講義を聞きに来るようになっています。また、文久3年6月18日・1863年8月2日(52歳の時)には前文で既に述べた通り、藩学(後の黒羽藩校作新館、つまり現黒小の前身)の学頭(兼支那学皇学教官)に任命されています。また、増裕公の「訓示」に示されている通り、藩学(後の黒羽藩校作新館)では『孟子』についてですが、句読師による素読や学頭による講釈が増裕公臨席のもとで行われています。なお、次男の恒介が句読師になっています。また、『五経大全(たいぜん)』『四書輯疏(しゅうそ)』『三国志』『隋書』『五代史』『戦国策』を購入しています。また、元治元年10月6日・1864年11月5日(53歳の時)には藩学(後の黒羽藩校作新館)で『春秋左氏伝』の授業が始まっています。なお、11月5日(1864年12月3日)には、増裕公の命令でもって藩で鋳造した大砲、その試し撃ちが行われたのですが、大砲の弾が間違って藩学(後の黒羽藩校作新館)の校舎に命中してしまって校舎が大破。それで校舎が使用不能となったため、翌年の1月17日(2月12日)まで子供たちは大雄寺の本堂で授業を受けるということになってしまっています。また、元治2年4月10日・1865年5月4日(54歳の時)には増裕公相手に『韓非子』の講義をしています。また、慶応4年3月9日・1868年4月1日(57歳の時)には侍読(侍講)に任命され、3月12日(4月4日)から毎朝新藩主増勤(ますとし)公(美作守(みまさかのかみ)。黒羽藩知事。子爵。嘉永5年正月5日・1852年1月25日~明治38年8月9日)を相手に講義をしています。また、4月8日(4月30日)には奥羽越列藩同盟加盟諸藩との話し合いのために仙台に出張しています。なお、藩学(後の黒羽藩校作新館)は4月から9月まで戊辰戦争による社会の混乱のため全校休講になっています。また、12月15日(1869年1月27日)には藩から今までの役職に加えて大目付格御傅役をも仰せつかっています。また、明治2年3月18日・1869年4月29日(58歳の時)には黒羽藩は新政府に版籍奉還の建白書を上書していますが、その草稿を撰文したのは三田称平でありました。また、11月8日(12月10日)には黒羽藩権(ごんの)大参事になり集議院議員も兼務することになりました。また、明治3年7月27日・1870年8月23日(59歳の時)には集議院幹事に任じられ、11月28日(1871年1月18日)には作新館の文学教授になり、12月15日(1871年2月4日)には宣教使も兼務することになっています。なお、明治4年7月14日(1871年8月29日)にはいわゆる「廃藩置県」が行われ黒羽藩は黒羽県になっています。また、明治7年(63歳の時)には地山堂家塾で『日本外史』『老子』『朱注論語』の講義をしています。また、明治10年5月1日(66歳の時)には息子六々(後の黒羽町長松本六々。昭和9年5月26日没。北野上の松本正明氏の御先祖)が生まれています。また、明治11年4月19日(67歳の時)には廃藩置県前には黒羽藩の三神社の1つに数えられていた旧黒羽藩領南金丸の那須神社の神職になっています。また、10月には湯津上の笠石神社にある「那須国造碑」を専門的に研究した『那須国造碑考』を出版しています[写真Ⅳ]。また、12月31日には息子革一(明治38年5月18日没)が生まれています。なお、明治12年1月12日(68歳の時)には川西の仲屋楼で三田称平及び三田称平の門人たち計20人(内訳は黒羽人16人・大田原人3人・仙台人1人でした。)が出席して『那須国造碑考』の出版記念の祝宴が開かれ、出席者全員が那須国造碑や笠石神社に関する漢詩を31首作っています。そしてそれらはまとめられて『笠石懐古』という漢詩集として出版されています。因みにその『笠石懐古』については令和4年3月31日に実に145年ぶりに全訳が出されています[写真Ⅴ]。また、明治14年(70歳の時)には4月28日に『日本外史摘解』、5月に『地山堂明治詩抄』を出版しています。また、東京で三田称平の友人たち、具体的な名を挙げれば大沼枕山・岡千仞・小野湖山・奥原晴湖・加藤桜老・亀谷省軒・川田剛・鈴木松塘・増田岳陽・依田百川らが出席して三田称平の70歳の祝宴が開かれ、三田称平の古稀を祝う漢詩をたくさん作っています。また、女流画家の奥原晴湖が絵を2枚を描いてくれています。また、8月11日には三田称平の門人たち、具体的な名を挙げれば磯良節・大塩鉄之助・大野ウノ・大野尚絅・小山宰次郎・小山忠録・佐藤計四郎・浄法寺
五郎・浄法寺龍江・鈴木金松・高橋八郎・瀧田幸一・瀧田篤太郎・瀧田富之助・波多野厚・益子元・藪惣之助・渡辺伝ら30名が出席して再び三田称平の70歳の祝宴が開かれ、三田称平の古稀を祝う漢詩をたくさん作っています。(なお、出席者の中の瀧田篤太郎はこの時僅か10歳と10箇月、浄法寺龍江は13歳と7箇月、大野ウノは14歳と2箇月でした。そんな子供であったのに三田先生の70歳を祝う漢詩を作っていたのです。因みに後に大野ウノは黒小の先生になり、その後更に女流画家・女流書家になっています。)なお、5月に作られた三田称平の古稀を祝う漢詩と8月に作られたやはり古稀を祝う漢詩、それらはまとめられて『地山堂七旬帖』という漢詩集として出版されています。晩年三田称平は中風という病気に罹り体が思うように動かなくなりました。それでも意識・精神は明治26年・1893年7月5日の死去の時までしっかりとしていたようです。三田称平は幕末・明治前期の黒羽に於ける最もビッグな教育者であり、学者でありました。なお、八塩の三田豫平氏宅には今も三田称平が書き残したものがたくさん残っています。