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考古学講座第3回を開催しました。

考古学講座第3回を開催しました。

考古学講座

本日は、1.分類と型式学、2.春日部市の弥生時代の遺跡についてがテーマでしたが、弥生時代のお話が途中になってしまっていますので、また次回に補足したいと思います。

考古学における分類について、特に遺跡で発見された遺物は、人工遺物か自然遺物か、人工遺物の素材は何か、機能は何か、デザインや製作技法に違いはあるか、といった複数の基準で分類され、整理されます。そしてデザインや製作技法をもとに分類した指標として「型式」が設定されます。型式は装飾的要素と機能的要素が設定の基準となっており、機能的要素には技術革新により変化するものと、機能の実用性が喪失しているにもかかわらず、装飾などとして残る場合があります。

土器の中でも縄文土器は、遺跡名を付した型式が細かく設定されていますが、これは型式として初めて設定できた土器群の出土した遺跡名をつける場合が多いです。

春日部の弥生時代については、倉常の須釜遺跡で発見されている再葬墓について、再葬とは何か、再葬の根拠などについて、お話ししました。

春日部市も含まれる埼玉県東部地域は、弥生時代の遺跡が非常に少ない地域です。そのような状況の中で、平成13年(2001)に低地に立地する須釜遺跡から、弥生時代の本格的な遺跡が発見されました。また春日部市内では、谷原新田でも、水路の工事中に弥生土器が1点発見されています。

埼玉県東部地域は、現在のところ弥生時代の遺跡数は少ないですが、調査が及んでいない低地の部分に未知の弥生時代の遺跡が存在している可能性があります。

  

考古学講座では、毎回、博物館や資料館の考古学に関する特別展や企画展を紹介しています。詳細は各所のサイトをご確認いただくか、資料館でポスター掲示やチラシ配架なども行っていますのでご利用ください。

(現地説明会)

真福寺貝塚発掘調査現地見学会

12月9日(日)午前10時~11時30分、午後1時30分~3時 

史跡真福寺貝塚発掘調査現場(さいたま市岩槻区城南3丁目949番地付近)

 

(研究会)

・12月2日(土)研究会「埼玉の縄文時代後晩期研究の現状」  埼玉県立歴史と民俗の博物館(申し込み不要)

・1月28日(日)公開セミナー「旧石器から縄文へ」 荏原文化センター大ホール(往復はがきで申し込み要)

 

(展示会_閉会日順)

東京都北区飛鳥山博物館 10月24日(火)~12月10日(日)「北区貝塚物語」

宮代町郷土資料館 10月28日(土)~12月24日(日)「古代のみやしろ-古墳時代の宮代町-」

久喜市郷土資料館 10月14日(土)~12月27日(水)「大集合!久喜市の遺跡」

埼玉県立歴史と民俗の博物館 11月14日(火)~1月14日(日)「縄文コードをひもとくー埼玉の縄文土器とその世界 」

岩槻郷土資料館 11月21日(火)~1月21日(日)「縄文時代のさいたま」 

川口市郷土資料館 11月3日(金)~2月25日(日)「縄文のナニコレコレミテ」 

 

考古学講座第3回を開催しました

11月26日(土)、考古学講座第3回を開催しました。

本日は、1.分類と型式学、2.春日部市の弥生時代の遺跡についてお話をしました。分類と型式については、遺跡から出土した遺物はまず分類されて評価されること、型式には装飾的要素と機能的要素が型式設定の基準となっており、機能的要素には技術革新により変化するものと、機能の実用性が喪失して生物の痕跡器官のように装飾などとして残る場合があるなどのお話をしました。

春日部市の弥生時代については、弥生時代という時代設定について簡単に触れたうえで、弥生時代の再葬墓(さいそうぼ)が営まれた倉常地区の須釜(すがま)遺跡についてお話ししました。

さて、今回もアンケートに多くの質問をいただきました。そのなかのいくつかをとりあげます。

考古学講座第3回

●神明貝塚出土の人骨から検出されているDNA型、パブログループN9b2は、大陸のどこにみられるのか。

N9b2型は大陸にみられるということではなく、これまで発見されているDNA型のなかで珍しいものとのことです。安達登氏のご研究によると、近年、東北地方で発見された縄文時代の人骨から確認されているそうです。

全国遺跡報告総覧『埼玉県春日部市 神明貝塚総括報告書』 P.214~216)

 

●型式名は誰が提唱して誰かが認定するのか?

型式名は、研究者が他の型式と分類できる一群の遺物を見出した時に提唱されます。提唱されても、さらに研究が深められ、細分されたりすることもあり、多くの研究者が使い始めるのには時間がかかります。生物学の学名のように型式名を「認定」するという公式な手続きはなく、通常は、研究者の支持の多い型式名が使われます。

 

●向ヶ丘弥生町貝塚ではなぜ、壺が完全な形で見つかったのか?現在、貝塚は消えてしまっているのか?

「完全な形」で見つかったのは、土器が埋まっていた深さまで、工事などの影響を受けなかったからです。ちなみに壺の首から口縁の部分は失われています。

1884年(明治17年)、有坂鉊蔵(しょうぞう)、坪井正五郎、白井光太郎が連れ立って、向ヶ丘弥生町の貝塚に出かけ、有坂が「弥生式土器第1号」を発見します。この5年後の1889年、坪井が「帝国大学の隣地に貝塚の痕跡有り」と題する報告を雑誌上で行いますが、この報告は周辺の地ならし工事が盛んになって貝塚が失われようとしていることへの危惧によるものでした。

(石川日出志2008『「弥生時代」の発見・弥生町遺跡』シリーズ「遺跡を学ぶ」050 新泉社)

東京大学構内など周辺地区は「本郷台遺跡群」として埋蔵文化財包蔵地、また国指定史跡「弥生二丁目遺跡」となっています。貝塚としての登録もあります。

東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス

 

●弥生時代の再葬墓について、福島県須賀川市牡丹平遺跡の再葬墓の人骨はなぜそろっていないのか?再葬される骨はどの部位が多いか?地域で残される骨に差はあるか?

牡丹平遺跡の再葬墓人骨は、解体・選別から壺に収納する過程で選別されたものと考えられます。設楽博己氏のご研究によると、東北地方の再葬墓では、全身の骨を部分ごとにくまなく選択して土器に納める傾向があり、関東から中部高地地方では、大腿骨など下半身の大きな骨や歯だけなど部分の骨を納めた例が多いようです。いずれにしても、二次葬の遺跡から発見される人骨は確認例が少ないので、遺跡の新発見により、この傾向が変わる可能性もあります。

(設楽博己2008『弥生再葬墓と社会』 塙書房)

 

●弥生時代の再葬は一部の人(支配していた人)がされるものか?

残された墓の形態や規模に差別化が少ないことなどから、再葬墓の文化圏では、一部の人ではなく、多くの人が再葬墓に埋葬されたと推測できます。