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【 #8月27日 】 #今日は何の日? in春日部

 明治32年(1899)8月27日、北千住駅ー久喜駅間に東武鉄道が開通しました。

貨車1両と客車3両を連結した混合列車が、毎日、上り、下り7本の運行を開始しました。開通時の駅は、北千住、西新井、草加、越ヶ谷(現・北越谷)、粕壁(現・春日部)、杉戸(現・東武動物公園)、久喜でした。1等から3等までの客車種別が設けられ、北千住駅ー久喜駅間の運賃は3等客車で33銭でした。粕壁駅の明治33年(1900)の年間乗降客数は20万人程度(『埼玉県統計書』1900年)、単純計算で1日に約300人が粕壁駅を利用していたと考えられます。

明治32年12月には、新田駅、蒲生駅、武里駅、和戸駅、明治33年には竹ノ塚駅が開設されました。明治35年(1902)には、吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)から北千住駅、明治43年(1910)には新伊勢崎駅から伊勢崎駅間が開通し、吾妻橋駅から伊勢崎駅間全線開通となりました。この間、明治38年(1905)には、根津嘉一郎氏が初代社長に就任し、一時営業不振に陥った東武鉄道の立て直しを図ります。

 

東武鉄道線路平面図

明治29年(1896)東武鉄道線路平面図(国立公文書館所蔵:クリックで画像ファイルがダウンロードされます)

 

さて、明治29年(1896)に作成された東武鉄道線路平面図が残されています。

この図には、千住から足利間に予定線路が書かれています。この図面が書かれた当初、すでに開業していた両毛鉄道足利停車場(現・両毛線足利駅)に乗り入れ、終点とする予定でした。しかしながら渡良瀬川架橋について地元の同意が得られず、明治39年(1906)に足利は渡良瀬川南岸に足利町停車場(現・足利市駅)をもうけ、日本鉄道伊勢崎停車場(現・伊勢崎駅)に終点が変更されました。

また、この図には、当時の市街地が 細かく書かれています。当然のことながら、宿場町として栄えた粕壁も大きい市街地として書かれています。そしてよく見ると、駅(停車場予定地)が、宿場町の東側に書かれています。

どのような意図であったかはわかりませんが、予定線路通りのルートをたどると、粕壁駅の手前と杉戸駅の先で大落古利根川を渡ることとなり、橋が余計に必要になることなどが理由として考えられます。

 

東武鉄道線路平面図拡大

東武鉄道線路平面図(拡大。草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸の停車場予定地をいずれも宿場町の東側に書いている)

 

東武鉄道はこの後、大正11年(1922)に浅草駅(現とうきょうスカイツリー駅)から久喜駅間の複線化、大正15年(1926)までに同区間の電化が完成し、電車の運行で乗車時間が大幅に短縮されました。

 

参考文献

東武鉄道株式会社『東武鉄道百年史』1998年

春日部市教育委員会『新編図録 春日部の歴史』2016年

 

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#エア博物館 「藤のまち春日部」展の紹介(その3)

前回に引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、明治32年(1899)の東武鉄道開通以後の「牛島のフジ」(国特別天然記念物)についての蘊蓄(うんちく)。

前回ご紹介したように、千住馬車鉄道の開通もあり、「牛島のフジ」は東京の人々にも徐々に知られていきましたが、どうやら、東京近郊の名所として多くの人々に知られるのは東武鉄道開通後のようです。どうしてそのように考えられるのか。理由の一つとして、「牛島のフジ」に関する文献・資料は、明治32年以前のものは極端に少なく、鉄道開通以降、増えるということが挙げられます。新聞や著名人の紀行文だけでなく、地元粕壁でも、明治33年(1900)5月に『粕壁藤の紫折(しおり)』(当館所蔵)という観光パンフレットが発行されています。こうした刊行物・新聞や前回紹介したような絵葉書などによって、「牛島のフジ」はより多くの人々に知られるようになり、汽車を利用して、気軽に日帰りで訪れる東京近郊の名所地として確立されていきました。

また、5月には東武鉄道沿線では、牛島のフジとならんで、館林のツツジも花盛りを迎えます。東武鉄道では、フジの花盛りの季節に粕壁までの鉄道運賃を割引とし、東京の観光客を取り込もうとし、沿線に花の名所を位置づけていくことで、鉄道利用者を増やそうとしていったようです。例えば、田山花袋と牛島のフジを観覧した大町桂月は、東京から東武鉄道を利用して館林のツツジを観覧した後、田山と牛島のフジに訪れています(『東京遊行記』)。藤の花が満開を迎えるころには、一日の乗客が3000人に及んだといいます(『東武鉄道線路案内記』)。当時、最寄りの停車場である粕壁駅前には汽車や人力車の待合茶屋が設けられいた(『埼玉県営業便覧』)ことも考えると、藤のシーズンには粕壁は観光客で大変賑わったことでしょう。

さて、今回紹介する資料は、東武鉄道開通以後の明治40年(1907)の紫雲館の領収書です。 

写真:紫雲館領収書

紫雲館とは、牛島のフジの所在する庭園「藤花園」内にあった料亭です。紫雲館については、『東武鉄道線路案内記』(明治37年刊行)に「曽(かつ)て清浦法相観覧の砌(みぎり)、当園を紫雲館と命名せられり、今其遍(ママ)額を掲けあり、園内には紫雲館と称する賃席料理店あり、閑雅にして客室清浄川魚の名物なり」(32コマ)とあります。

清浦法相とは、当時司法大臣で、のちに総理大臣となる清浦奎吾(1850~1942)のこと。清浦奎吾は、若い頃に埼玉県の官吏でもあり、埼玉県東部地域とゆかりが深い人物です。紫雲館という名は、この清浦が命名したといい、能筆家でもあった清浦の扁額もあったと記されています。園内の紫雲館は静かで趣が深く清潔な賃席料理店であり、川魚料理が名物だったといいます。

 さて。この紫雲館の領収書は、明治40年5月13日のもの。粕壁町の篤志家であった山口万蔵が利用したときのものです。料理代・席料として2円95銭が計上され、そのほか「大和弐ツ」の代金として14銭を領収しています。「大和」とは酒か何か品物の銘柄なのでしょうか、詳細は不明です。あるいは「大和」と読んでいいものか微妙な字なのですが。いずれにしても、『東武鉄道線路案内記』が紹介しているように料理を出す施設であったことがうかがえます。

そして、学芸員一押しなのが、この領収書のハンコです。展示会ではココを皆さんにご覧いただきたかった!

ハンコの部分を少し拡大して撮影した写真が下のものです。

写真:領収書のハンコ

薄くてよくみえないのかもしれませんが、原物も薄いのでご了承ください。

ハンコには「藤花園章」と刻まれています。一押しは紫の朱肉です。藤ですから、藤色と言うべきでしょうか。なんとも洒落ているではありませんか!

この藤色の朱肉から、「閑雅」な紫雲館の情景が読み取れる(のではないかと個人的には思う)とてもいい資料だと思います。収蔵庫から(偶然)見いだした時、結構感動したんですよ。

なお、今年は、牛島のフジの公開は中止となりました。4月30日、花盛はちょうど最高の状態だそうです。残念ですが、藤の花も、フジをみながら語る蘊蓄も、来年まで楽しみにしておきましょう。

次回も#おうちミュージアム 牛島のフジの蘊蓄にご期待ください。