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【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】記念講演会、ミュージアムトークを開催しました
9月3日(日)、講師に横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長の古屋紀之先生をお招きし、記念講演会を開催しました。
古屋先生は、『古墳の成立と葬送祭祀』というご著書があり、古墳の成立とかかわりが大きい底部穿孔土器のご研究も精力的に行われています。
ご講演では、各地の弥生時代後期と古墳時代の底部穿孔土器をご紹介いただきました。
まず、弥生時代後期の方形周溝墓出土の土器では、底だけではなく、壺の肩の部分や胴部にも穿孔されたものがみられます。大田区の久ヶ原遺跡の方形周溝墓では、胴部の下方に穿孔された壺と穿孔具として使われたと思われる石が至近距離で出土しました。とりあげたのちに土器のあなに石をあててみたところ、石の形とあなの形がピタリとあったとのことです。
こういった出土例をもとに、大田区では講座で、古屋先生を講師として、実際に弥生土器の複製品に石であなをあけてみる実験をしたそうです。記念講演会では、その時の動画も放映していただき、意外と簡単に石で土器にあなをあけられることがわかりました。また、あなをあける際に、土器の外面から石をあてると、石が当たった部分を中心に内面の表面がはがれるという現象もご紹介いただきました。
古墳時代前期には、方形周溝墓や古墳の墳丘上に、複数の底部穿孔土器が墳丘を囲むようにおかれる 囲繞(いにょう・いじょう)配列がみられるようになります。溝の中から発見される底部穿孔土器も、墳丘上に置かれたものが転がり落ちたものと考えられます。
権現山遺跡で発見された底部穿孔壺は、やはり墳丘上におかれたものと考えられますが、権現山遺跡の底部穿孔壺は小さいものなので木製の台などの上に置かれた可能性も考えられるとのことです。
また権現山遺跡1次調査では、1辺が約8mある竪穴建物跡が発見されていますが、そういった大型の建物に住んでいた地域のリーダーのような人が葬られた墓なのではないかという推論もご提示されました。
日付が変わりまして、9月3日(日)は、午前、午後、ミュージアムトークを開催し、たくさんの方にご参加いただきました。最終日ということもあり、じっくりとご覧いただいた方も多かったようです。ありがとうございました。
さて、9月3日(日)に最終日をむかえた「あなのあいた壺」展ですが、返却日程の都合により、9月10日(日)まで、展示を継続します。まだ「あなのあいた壺」をご覧になっていない方は、この機会にぜひご来館ください。
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】昭和38年4月5日埼玉新聞の記事
権現山遺跡の第1次調査は、昭和38年4月2日から4日に行われました。埼玉新聞の取材を受け、翌4月5日には、旧大滝村(現・秩父市)三十場(みそば)で調査された遺跡と合わせ、紙面に大きく掲載されました。
記事では「底にあながあけられている」ことは明記されていませんが、「ハニワ(埴輪)ツボ」と表現され、実用のものではなく、埴輪のように祭祀に使われたものだと書かれています。
また、米島や西親野井、松伏町の築比地(ついひじ・記事中の「ついへじ」は誤り)、杉戸町豊岡でも遺跡が発見されていることが書かれており、これは米島は米島貝塚、西親野井は神明貝塚、杉戸町豊岡は目沼浅間塚古墳(めぬませんげんづか古墳)の調査を示しています。松伏町築比地の「昨年石オノ」との記述はどの遺跡かわかりませんが、築比地地区では、昭和29年(1954)に、栄光院貝塚の調査が行われています。
昭和38年4月5日埼玉新聞
(記事全文)
考古資料各地からぞくぞく 庄和村から発掘 土器など原型のままで
北葛庄和村で古墳時代の土器多数がほとんど原型のまま発掘され、考古学研究に貴重な資料がそろったと関係者を喜ばせている。出土したのは同村中野通称”権現山台地”で、同所農業、横川四郎さん(五五)ら六人の所有地六千平方メートルを畑にするため、さる三月末からブルドーザーでけずりとっていたところ、地表下一メートル前後のところから土器数個が出てきたので工事関係者が同村葛飾中、横川好富教諭(二五)=国学院大日本史学専攻=に連絡、国学院大の学生と同中学生数人の協力を得て、三日から現場の下調べをかねて出土品をとり集めた。
この結果四日までに土器と什(じゅう)器など二十余点がみつかったが、土器、什器とも素焼きのウツワで、大きいのは直径一〇センチ、平均七、八センチあり、ほとんど原型のまま出土した。同教諭はこれを県文化財保護委の柳田敏司係長にみせたが、土器は三、四世紀の古墳時代(今から千五、六百年前)のもので、土器のうちハニワ(埴輪)ツボは当時の住民が祭し(祀)用に使ったものと推定され、県下では松山についで二度目の出土器だという。
この近くの同村米島と西親野井では、さきに縄文(じょうもん)土器、松伏村築比地(ついへじ)では昨年石オノ、杉戸町豊岡では数年前に前方後円墳が発掘されており、住民がいたので、このほかにも考古学の資料が出土するのではないかと期待されている。
(昭和38年4月5日埼玉新聞)
<開催中>春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
<参加自由>ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。
【令和5年夏季展示予告その6】須釜遺跡の底部穿孔土器
須釜遺跡3号再葬墓出土底部穿孔土器
須釜遺跡は、倉常の中川(庄内古川)左岸の水田地帯で、周りより1~2mほど標高が高い自然堤防と呼ばれる微高地に立地します。これまでに3回の発掘調査が行われ、1・2次調査では、古墳時代前期の竪穴状遺構や包含層、近世の屋敷跡が確認されています。3次調査は、平成13年(2001)に土地所有者が耕作作業をしている際に弥生土器が発見されたことがきっかけとなり行われました。弥生時代中期の11基の再葬墓と呼ばれる墓跡と、それに伴って約30点の完全な形に近い弥生土器が発見されました。須釜遺跡の出土遺物は平成17年に埼玉県の有形文化財に指定されました。
須釜遺跡の底部穿孔土器は3号、4号、6号、7号再葬墓から出土しています。壺以外に、甕や筒形の土器も穿孔されています。いずれも焼成後の穿孔です。底の外面(下側)に何かを当てた痕跡がないことから、内面(上側)からあなをあけているものと考えられます。
須釜遺跡7号再葬墓出土土器(側面、底面、内面)
ほかの再葬墓の遺跡でも底部穿孔土器が出土することはあるものの、須釜遺跡のように多くの土器が穿孔されることはありません。須釜遺跡の再葬墓は、お墓の形が再葬墓から方形周溝墓に移り変わる時期に営まれたと考えられており、そういった時代背景から底部穿孔土器が多く出土している可能性も考えられます。
須釜遺跡については、下記の記事などもご覧ください。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺
【令和5年夏季展示予告その5】権現山遺跡の大口径羽口
権現山遺跡で発見された大口径羽口(写真のように置いた時の縦の長さ19㎝)
昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査では、奈良時代から平安時代の大口径羽口(だいこうけいはぐち)が発見されています。羽口とは、鉄を加工する炉の内部に、火の力を強めるために空気を送り込むための送風管のことです。粘土で作られており、火を受けた跡や溶けた鉄が付着していることが確認できます。
今回ご紹介する羽口はとても大きいもので、大口径羽口と呼ばれています。大口径羽口は、砂鉄から鉄を作るための竪型炉(たてがたろ)に装着されたものです。権現山遺跡では、このほかにも、製鉄(製錬・せいれん)にともなう炉壁(ろへき)や鉄滓(てっさい)が、総量34435.2g出土しています。
竪型炉の本体は発見されておらず、資料が集中して出土した場所は、廃材を捨てる排滓場(はいさいば)であったと考えられます。大口径羽口などの特徴から、時代は、8世紀後半から9世紀前半と推定されています。
春日部市周辺では、製鉄(製錬)の工程に関する遺跡は現在のところ、この権現山遺跡のみです。鍛冶(鉄を製品にしあげる)の工程の遺跡は、松伏町の本郷遺跡や市内米島の吉岡遺跡、宝珠花の町道遺跡、小渕の小渕山下遺跡で発見されています。
この大口径羽口の出土により、権現山遺跡周辺で、砂鉄を原料とした製鉄を行っていたことが推定できます。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
【令和5年夏季展示予告その4】権現山遺跡の縄文時代晩期の土器
権現山遺跡から出土した縄文時代晩期の土器(土器の高さ48.2㎝)
権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代晩期の土器を紹介します。
縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6時期に区分されていますが、春日部市域でもっとも遺跡数が多いのが縄文時代前期です。東京湾が北に広がった縄文海進がもっとも進んだ時期で、低地は海となり、陸地であった台地で人々は生活し、貝塚を残しました。縄文時代中期の遺跡も比較的多くみられます。縄文時代後期になると、遺跡数は少なくなりますが、神明貝塚のような大きな遺跡が確認されています。
縄文時代晩期は今から約3,300~2,500年前で、市内では今回ご紹介する権現山遺跡の深鉢形土器が、ほぼ唯一の資料です。
この土器は、昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査で、古墳時代前期までに埋まったとみられる埋没谷から発見されました。縄文時代晩期後半、中部地方から東北地方にみられる浮線文系土器群に属するものと考えられています。
口径(復元)34.5㎝、推定の高さ48.2㎝の大型のもので、口縁には、2個1組と1個の山形の突起を交互に5個つけています。浮線文系土器の文様は、網状文(あみじょうもん)とよばれる網目のような模様がよく見られますが、権現山の土器は、竹などの工具で平行に線が引かれる平行沈線(へいこうちんせん)が描かれており、浮線文系土器群のなかでも新しい特徴とみられています。
縄文時代早期の土器に続き、この晩期の土器も大変貴重な資料です。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺