ほごログ(文化財課ブログ)

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春日部の子どもたちと #関東大震災 (その4)

10月8日までのミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介しています。その4は東京の避難民について。 #関東大震災100年

地震が発生した1日の夜、まだ小さな揺れもあり、倒壊しかかっている建物で過ごすことができず、多くの方は野宿をすることになりました。夜中には、南の空が真っ赤になっていたといいます。東京の火災が春日部からも見えたのです。

赤くなった空をみて、東京の火事が春日部にまで来るのではないかと、不安に思うひとも多かったようです。町では、消防組や青年団(下の写真)が夜番にあたったといいます。

写真:粕壁町の青年団

注目されるのは、高等科の女子による次の作文。

一日の夜十二時ごろになると東京からしなん民がにげてきた

「しなん民」とは、避難民のこと。すでに1日の夜中には東京から焼け出されて逃げてくる人が春日部にまで到達していました。

東京から粕かべにひなんしてきた人がたくさんきました。これらの人にみちをおしへてやつたりしました。その中にわ、きものがこげてぼろぼろになつているものもあれば、目のたまのない人たちがたくさんにげてきます(3年男子)

街道の町である粕壁には、多くの東京の避難民がやってきました。夜が明けると自動車で避難してくる人も大勢来たと記す子もいます。避難してくる人は、着物がボロボロだったり、体のほうぼうにやけどがあったり、足がむくんでしまっている人もいました。9月3日・4日になると、表通り(現春日部大通り)は「おまつりのやうに混雑」するほど、東京の避難民が通り、町内会や青年団で炊き出しや麦湯・薬を配ったりしたそうです。

子どもたちは、東京の避難民に接するなかで、東京のすさまじい状況を耳にしました。料理屋の倅であった高等科の男子は、店に出入りしている仕事師から次のような話を聞いたようです。

「私は被服廠に逃げましたが、火の上に火が重り合つておしよせてきますので、唯では熱つくてゐられないので、石油の空鑵を頭にかぶり足の方には着物をかけてゐましたが、風がひどくて吹きとばされてしまいました。それからゐたまらなくなったので、かうりを泥水でしめし、その泥水で口をゆすぎゆすぎしてゐましたが、其の水の中に女のかみがあつて手を入れるとさらさらとさはってとても今のではのめないと、それから火が遠くなつたので、起上つて見ると、まわりは死体で一ぱい、馬の下で生残った者と我達とで二十何人ゐました。ぐずぐずしてゐると青年団がバケツに水を持って来て、「水をほしい人はこい」といったので、すぐ行くと女達や子供が手を入れてのんでゐました。私は後でのみに行くと泥水でほんのすこし有るばかりでした。それをやっとのみ、それ安田さんの氷室へ行き、丸太で氷をかき、それをしゃぶってゐましたが、あつくてとけてしまひました。そこへビールを六七本さげてくる人がありました。その人にビールを二本もらひ、のんでやつと命だけは助かりましたが、せなかや、うでにこのやうにやけどをしてしまひました。」と背中を見せながら目に涙をうかべていひました。

この仕事師(職人)は、多くの死者をだした東京の本所の被服廠から春日部に帰ってきました。水が飲めるか飲めないかギリギリのところで、まさに九死に一生を得たのです。やけどを見せながら、語る姿をみて、この話を聞いた男子は、「私達はま不幸とはいひ、此の様な艱難辛苦をして九死に一生を得て、帰って来た人と比較すれば、どれ程災難をまぬかれたかしれません」と記しています。

3年生の男子は、「東京はどこもどこもやけてしまったとのことでした。私たちは東京の人から見ればうちの中へねられたのは幸福だとおもっております」と記しています。この子は自宅で眠れたようですが、粕壁の被害も少なからずあったにも関わらず、東京の被災状況に接し、東京の人たちがいかに気の毒であり、自分たちは恵まれているとの考えに至ったようです。

自らの町だけでなく、遠隔地の被害を自分事としてとらえた当時の子どもたちのまなざしは、メディアを媒介に世界で起きている悲惨な出来事してどこか他人事にとらえがちな、私たちも見習うべきことなのかもしれません。

 

展示もいよいよ終盤です。最終日の10月8日(日)には、児童の作文を読み解く歴史文化講演会も準備しています。ぜひ、ご参加ください。

日時:令和5年10月8日(日)14時~16時

会場:春日部市教育センター

定員:80名(先着順・申込制)

費用:無料

申込:郷土資料館まで直接、または電話、または電子申請

 

春日部の子どもたちと #関東大震災 (その3)

現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介しています。その3は被災後の生活。 #関東大震災100年

大きな揺れがあったとき、みなさんは何をしますか?

先日9月1日の防災の日には「シェイクアウト埼玉」という防災訓練キャンペーンが県内で実施されました。これによれば、「まず低く」「頭を守り」「動かない」という安全確保行動をとることが、大事なのだそうです。

それでは、粕壁町の人たちは関東大震災の大きな揺れが起きたとき、どのような行動をとったのでしょうか。いくつか、小学生の作文を引用してみましょう。

 

・・・それでなか(東武座)にはいっていますと、おとこのこが地震んだといって、せはぎ(騒ぎ)はじめました。それで私はいちまくさん(一目散)にかけてでました。そうして、でんしんばしらにつかまっていました。すると、あんちゃんがむかへにきました。(四年女子)

 

みんなでべんきゃうをしていました。するとおばさんが地震ですよといったので、みんながとびだしました。(四年女子)

 

・・・余震は後を絶へませんでした。其の度毎に桐の木(に脱か)つかまり、電柱につかまつたりしてゐました。(高等科男子)

 

粕壁町では、大きな揺れがあり、多くの建物が全壊・半壊しました。かろうじて崩れなかった家屋でも傾いていたり、つっかえ棒をして、かろうじて建っている家もあったり、小さな揺れが続いたため、建物の中に居ることは危険と判断されたようです。粕壁の人たちは、とっさに建物から飛び出し、町並みの「往還」(春日部大通り)には、電信柱が立っていましたので、町場の人は電信柱に、農村の地区や裏に庭がある家では大きな木につかまり、また竹藪などに逃げ込んで、揺れをしのいだようです。桐の木が登場するあたりが、桐ダンスや桐箱作りが盛んだった粕壁の特徴ともいえましょうか。

避難した人たちはその後、どのように生活をおくることになったのでしょうか。再び、小学生の作文をみてみましょう。

 

よるになると、じしんが来てつぶされてはいけまいとおもって、ねてゐられませんから、おもてへえんだいをもちだして、そとであそんでゐました。(四年男子)

えんだいをだして、ふとんとどてらをもってきてそとでねた(三年女子)

うすべりをしいて、その上にのっかっていました。(三年女子)

ほったて小屋をこしらえて、そこでねた(三年男子)

 

地震後の数日間は、外で過ごす人も多かったようです。ほったて小屋をつくって過ごす人もいましたが、作文で多いのは「えんだい」を置いて、その上で過ごしたというものです。「えんだい」とは腰掛けをする「縁台」のことでしょう。

かつて町場での市では、路地に「高見世」と呼ばれる板縁台を置いて、商売をしたといわれています(飯能市立博物館特別展図録『飯能縄市』)。「縁台」というとベンチ・腰掛けをイメージしますが、ここにみる「縁台」は商品を並べる陳列台を指しているものなのかもしれません。作文に「縁台」が多く登場するのは、粕壁も古くから市が開かれた宿場町だったから、かもしれません。

とはいえ、「縁台」のみならず、「薄縁」や「筵」をひいた家もありました。外では蚊帳(かや)をつって過ごしたことも作文に記されています。家が倒壊してしまった人たちは、知り合い・近所の家に泊めてもらったり、被害の少なかった百間(現宮代町)や内牧(市内)、徳力(現さいたま市岩槻区)の親戚の家に疎開する人もいたようです。

 私どもは、二三日まい(前)の桐畑ニねました。(五年女子)

上の女の子は、桐畑で数日過ごしたようです。 数日間、家によっては一週間くらいは外で過ごす人もいたようです。

ここでも「桐」が登場。これまで文献ではよくわからなかった桐畑の存在が、子どもたちの作文に記され、町の産業を物語る史料としても重要です。

 

少し脱線してしまいましたが、作文では、地震の後の暮らしも詳しく記されています。10月8日(日)には、児童の作文を読み解く歴史文化講演会も準備しています。ぜひ、ご参加ください。

日時:令和5年10月8日(日)14時~16時

会場:春日部市教育センター

定員:80名(先着順・申込制)

費用:無料

申込:郷土資料館まで直接、または電話、または電子申請

 

春日部の子どもたちと #関東大震災 (その2)

現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。その2は粕壁の被害。 #関東大震災100年

粕壁町は関東大震災の埼玉県下三大被災地と称されるごとく、その被害は甚大なものでした。

当時の粕壁町の人口は5813名(世帯数1222世帯ー大正9年)で、南埼玉郡屈指の町でした。被災状況は、統計資料によれば、全壊305戸、半壊341戸で、死傷者は29名を数えました。東京や横浜と比べれば、その数字は少ないのですが、粕壁町は大きな火災がなく、直接の被害は地震の揺れのみでしたので、そう考えれば甚大な被害といえるのではないでしょうか。ただ、数字では伝わらない被害もあったはずです。粕壁小の震災文集は数字では語りきれない様々な被災状況を伝えてくれるのです。

では、地震発生の様子や、地震の被害を粕壁小学校の子どもたちは作文にどのように記したのでしょうか。

とある高等科二年生の男の子の記述を紹介してみましょう。

・・・ごはんだといったから、いこうとしたら、みしりみしりと、ゆれてきた。それ地震だといって、さきにとびだした。あとから、母といもうとと、あとからでてきた。母は、をはらいにいもうとをだいて、つぐんでしまった。私は母のかたに、つかまってゐた。小供はワァーとないて、その中に、ほこりがたってどこもみえなくなった。みちみちとおそろしい音がした。だんだんしづかになって、家の中を見ると、父とねいさんが、はいっていた。早くでた方がいいといって、前を見ると、家がたほれてゐる。又となりの家も、たほれてゐる。ゆれるたんびに小供がないて、人々はさはぎはじめる。となりのねいさんがあかんぼうーがでないとないてゐる。それからみつけはじめた。するとなきだしたから、まだいきているといってみつけてゐた。

この男の子は、粕壁の町中(町並)に住んでいたようです。ちょうどごはんを食べようとしたところ、大きな揺れがあり、お母さんと妹と慌てて外に飛び出ました。お母さんは、妹を抱いて、しゃがみこんでしまった。小さな子どもの鳴き声がして、あたりは倒壊した建物のホコリがたち、どこも見えなくなかったようです。また「みちみち」と恐ろしい音がした、といいますから、二度目の大きな揺れがあったのでしょうか。その後、だんだん静かになったが、お父さんと姉さんが家のなかにに居たため、早く出たほうがいいと声をかけました。家の周りは、前の家、隣の家が倒れていたといいます。揺れるたびに子どもが泣き、大人たちは慌てふためいていました。小さな揺れが続き、そのたびに建物の倒壊の恐れが生じたのでしょう。隣のお姉さんは、「あかんぼうーがでない」と言って泣いていたそうです。赤ちゃんが生き埋めになってしまったのでしょうか。その後、発見し、まだ生きているといっていますから、小さな命は助かったようです。

粕壁町では、昭和10年に『震災写真帖』という写真記録冊子を編さんし、写真で被害の状況を今に伝えています。

写真は、かすかべデジタル写真館でも紹介しているところですが、そのほかにも様々な写真がありますので、今回はそちらを紹介します。

写真:仲町裏通り

まず、仲町裏通りと紹介される写真。上の作文の男の子が住んでいた近くの写真です。

写真:上町表通り

次に上町表通りの写真。上町の被害は特にひどかったそうで、作文でも丸八から小松軒まで建物が将棋倒しになったと記されています。次は上町の裏通りの写真。

写真:上町裏通り

おそらく、古利根川沿いの新町橋のたもとのあたりの様子と思われます。

次は、新宿組の写真と紹介されています。

写真:新宿組

新宿組(現・本町、匠大塚付近)の写真は、建物につっかえ棒をしています。新宿組もとくに被害が大きく「一番ひどい」とも、作文に記されています。

 以上は、粕壁町のメインストリートである国道6号の陸羽街道(現春日部大通り・旧日光道中)の写真でした。町の中心の商家、それも老舗の商家が軒並み倒れてしまったので、町の人たちは大変ショックだったことでしょう。

子どもたちが通う、小学校校舎も倒壊してしまいました。

写真:小学校校舎1

写真:小学校校舎2

当時の粕壁小学校は、現在は商工センター跡地となっている場所にありました。

ある子どもの作文にこのように記されています。

学校へ来て見ると、新しい方は、めちゃめちゃにこはれ、古い方は私等の教室の隣から、屋根がおちて、一階のやうであった。これは新しい方がつぶれるのに、ひっぱられたのだと、先生から聞いた。

当時、校舎は古い木造校舎と新しい木造校舎がありましたが、新しい校舎のほうが全壊し、古い方は上の部分がひっぱられるように屋根が落ちてしまったといいます。「情けない」と記す高学年の子もいましたが、2学期早々に校舎が壊れてしまい、子どもたちはショックを受けたことでしょう。

粕壁の被害は建物ばかりではありません。作文でこのように書いている子がいます。

前の畠を見れば、どうどうと水わいてゐた。井戸はくづれはぢまった。その後から、砂がふいて井戸がうつまった(高等科一年男子)

川久保、新宿は往来が二尺もさがってしまった。其の長は一町位も長くさがってしまった。又、井戸のむぐった家や、井戸のうまった家はたくさんあった。又井戸の水の赤い水が今度はきれいな水になった井戸もあった。(高等科男子)

粕壁の川久保や元新宿の付近、また古利根川沿いでは、地割れや土地の陥没が相次ぎました。作文にもみたように「往来」(国道6号、陸羽街道)は元新宿の付近で2尺(約60センチ)も陥没し、その長さは約100メートルに及んだといいます。国道の陥没は別サイトで写真を紹介しています。付近では、水が湧き、井戸が崩れ埋まり、砂の噴出も続出しました。関連する写真は次のようなものがあります。

写真:見返しの松の亀裂

これは、見返しの松の亀裂と説明があります。おそらく、街道沿いで武里村境に植わっていた松並木(現緑町付近)と考えられます。写真の男性の前に大きな地割れができているのがわかります。地割れは古利根川沿いで起こり、屋敷の生垣が最大5尺(約150センチ)動いたと報告されています(埼玉県地震調査報文)。

写真:噴出した石

上の写真は「噴出した石塊」と説明が付されています。『埼玉県地震調査報文』によれば、元新宿・土井・川久保では水、砂が噴出し、元新宿では浮石が出てきたと報告されていますので、おそらくこの「浮石」を撮影したものと考えられます。

この現象は、武里村、幸松村、豊野村をはじめ、南埼玉郡、北葛飾郡域で広域に発生しています。陸地測量部(現国土地理院)の測量によれば、県内の低地では土地が広域に沈降したことが報告されています(「大正十二年関東震災地垂直変動要図」)

小学校の作文や写真などの様々な資料は、人や建物の被害数ではわからない関東大震災の恐ろしさを、今に伝えてくれるのです。私たちは、数字ではなく具体的な状況を理解することで、歴史のなかの地震に向き合い、今後起こりうる災害に備えていかなければならないのかもしれません。

春日部の子どもたちと #関東大震災 (その1)

現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ第一弾。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。初回は子どもたちの日常。 #関東大震災100年

画像:作文集表紙

震災の経験により、粕壁尋常小学校に通う子どもたちは、その記憶をたどりながら、作文を記しました。もちろん、作文には、災害にあった家や町の様子が子どもたちの目線で記録されていますが、被害の状況ばかりでなく、地震に遭う直前の日常もわずかですが記されています。

地震が発生した9月1日、粕壁小学校では2学期の始業式が行われました。夏休みが終わり、学校を楽しみにしていた子も多かったようです。「先生のいふことを聞いた」と記す子もいます。2学期の始めなので、先生から訓話もあったのでしょう。学校が終わると、みな、足早に家に帰りました。

「学校からかえってるすをしていた」と留守番をする子や、家で本を読む子、写真絵葉書を見る子もいましたが、屋内で最も多いのは、「ごぜんをたべた」というものです。昼食中あるいは用意をしていたところ、地震に遭ったという子が多いようです。

だた、昼食をたべずに、遊びに行く子も多くいました。

どんな遊びをしたのか。男の子では魚釣りが多い印象です。友だちと古利根川で落ち合う約束をし、魚の餌になるみみずを掘っていたところ、地震に遭った子もいれば、魚を2、3匹釣ったところ、地震に遭ったという子もいます。

女の子では、近所の「種や」の赤ちゃんが誕生日できれいな着物を着るので、おぶせてもらったとか、友だちと「うつしえ」をしたという子がいます。

特定の催し物に集まる子どもたちも多くいました。その一つには、神明神社の境内に遊び場ができたので、そのお祝いを東武座で行うことにもなっていました。学校の先生が、上町に住む子どもたちに、東武座に集まるように呼びかけていたようで、東武座に集まる子も多くいたようです。そのほか、新町橋の上で、粕壁では珍しいガソリンポンプの試運転があり、これを見物に行く子も多くいたようです。

一方、汽車に乗って、浅草に遊びに行く子もおり、停車場で汽車を待っていたところ、地震が発生しました。

大地震が起きるまでの束の間の様子は、子どもたちによってさまざまですが、担当者が一番「ほっこり」した日常は次の3年生の女の子の文章です。

画像:作文

「私はおくにねそべっていもをたべてゐて、うちのおっかさんと、こうとう一年のこがひるねをしてゐました。そして私がそとへあそびにいかうとしたら、ぢしんがはじまりましたから」(以下略)

家の奥に寝そべりながらイモを食べ、お母さんと子ども(兄弟でしょうか?)が昼寝をしていたので、外に遊びにいこうとしたところ、地震が発生した、というのです。

ねそべっていもを食べているなんて、のんびりした時代だなぁ、と思わず( ̄ー ̄)ニヤリ

「おっかさん」という呼び方も、当時の情景が伝わってきます。

このように、震災の前の記述はわずかですが、子どもたちがさまざまな日常を過ごしていたことがうかがえます。子どもたちが普段何をしていたのか、どんな遊びをしたのかという日常は、記録には遺りにくいものです。その意味でも、震災児童文集は貴重な記録といえるでしょう。

100年経った今、実物も展示していますので、ぜひこの機会にご覧ください。

また、講演会もあわせてお楽しみください。

歴史文化講演会「粕壁小児童文集から読み解く関東大震災」

 #関東大震災100年 お知らせ第三弾は歴史文化講演会です。粕壁小の100年前の児童文集から関東大震災の実態を読み解く講座です。

画像:講演会チラシ

講師は、大川明弘先生。粕壁地区出身で中学校で教鞭をとられ、現在春日部市市史編さん委員として、いつも春日部市の文化財行政にご助言いただいております。

今回は、関東大震災100年ということで、ミニ展示でも紹介する粕壁小の「文集」を委細に読み込み、粕壁町の町並みや子供たちの普段の生活、被災の状況について、詳しくお話しいただきます。

ミニ展示スタンプラリーとあわせて、お楽しみください。

 

日時:令和5年10月8日(日)14時~16時

会場:春日部市教育センター

定員:80名(先着順・申込制)

費用:無料

申込:9月13日(水)より、郷土資料館まで直接、または電話、または電子申請