ほごログ(文化財課ブログ)

タグ:市制15周年

武里のオリジナルソング(広報補足・その8・最終回)

いよいよ、広報かすかべ10月特集号の補足も最終回です。今回は、 #武里 の #オリジナルソング #たけさと音頭 について。 #かすかべプラスワン

今年はコロナウィルスの影響で軒並み中止になってしまいましたが、近年、春日部市では「かすかべ音楽祭」や「ブラスジャンボリー」など、音楽のイベントが定着しつつあり、「音楽のまち春日部」とも称されています。しかし、そうした「歌や音楽で盛り上がろう!地域で一つになろう!」という取り組みは、実は最近の始まったものではありません。

「春日部のご当地ソング」ともいえる歌は、世に知られているだけでも19曲もあります(『春日部の歌と歩み』による)。以下、曲名・発表年を時代順に列挙します。

粕壁小唄 昭和7年(1932)以前/和楽音頭 昭和13年(1938)以前/春日部音頭 昭和25年(1950)/幸松音頭 昭和29年(1954)/新春日部音頭 昭和31年(1956)/古利根しぐれ 昭和31年(1956)/大凧音頭 昭和36年(1961)/たけさと音頭 昭和50年(1975)/小渕音頭 昭和52年(1977)/小渕小唄 昭和52年(1977)/庄和音頭 昭和55年(1980)/春日部藤音頭 昭和57年(1982)/春日部踊り 昭和60年(1985)/庄和町・町民憲章の歌 昭和61年(1986)/新大凧音頭 昭和61年(1986)/春日部サンバ 平成元年(1998)/庄和大凧ばやし 平成2年(1990)/心の空 平成27年(2015)

以前紹介した「春日部藤音頭」、大凧あげ祭りで流れる「新大凧音頭」、チェリッシュでおなじみの「春日部サンバ」、夏祭りで披露される「新春日部音頭」「古利根しぐれ」、夕刻のチャイムで流れる「心の空」など、おなじみの歌も多い一方、今では音源を入手できない歌もあります。それぞれの歌や制作の経緯や背景については、ふれあい大学34期生桐組6班の皆さんが執筆・編集された『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)に詳しく述べられています。

さて、このなかで、ひと際異彩を放つのが「たけさと音頭」です。「たけさと音頭」は、昭和50年(1975)武里団地入居10周年を記念して「団地の子どもたちに、ふるさと感覚を」としてつくられました(※広報では昭和52年としましたが、正しくは昭和50年のようです)。歌詞の作詞は、団地の住民に募りました。十数篇の応募があり、入選したのは文筆家の高木圀夫氏。氏は著書『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)のなかで次のように述懐しています。

「私の地元が子供たちにふるさと感覚を持たせる一つのアイデアとして祭り用の音頭を募集していたのであった。(略)なにげなしに原稿用紙の端に言葉を並べてみた。それが入選したのだ。考えられなかった。」

高木氏によれば、詞は決まったものの、作曲が問題となり、高木氏が高木東六の甥であることから、地元の人たちに取り次ぎを懇願され、高木東六が作曲をすることになったそうです。高木東六は、高名なピアニスト・作曲家で、TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてもおなじみでした。「たけさと音頭」は、オペラの作曲家がつくった唯一の民謡として生まれたのです。お披露目となったのは昭和50年(1975)8月1日、大場小学校体育館でたけさと音頭発表会が開催されました。当時の県知事も招待されたそうです。貴重な写真が武里団地の自治会報「たけさと」111号に掲載されています。

 写真:たけさと音頭発表会

異彩を放つのは、高木東六作曲だからではありません。上にあげた春日部のご当地ソングには、古利根川・江戸川・藤の花・大凧揚げなど、春日部を象徴する風景などが歌詞に織り込まれています。しかし、「たけさと音頭」には「郷土」を感じられるワードはわずかに「藤の花びら」だけです。『春日部の歌と歩み』では「「春日部」や「武里」といった地名が一切出てこず、「ふるさと音頭」とうたっているのが地域の歌としてはとてもユニークです」と的確に評しています。

曲ができた当時、春日部市はベッドタウンして人口が激増していた時代でした。武里団地は市のベッドタウン化の先駆けともなった地区です。そうした武里団地発の「たけさと音頭」の歌詞は、子どもたちになじみやすい言葉でつづられ、よく言えば「ユニーク」ですが、土臭さ、泥臭ささのような「郷土」的な個性がないように感じます。その理由はおそらく、それぞれ異なる「郷土」をもつ住民(親世代)たちが、新たな「ふるさと」を想像し、制作されたからではないでしょうか。「武里団地夏祭り」、そしてその場で流されてきた「たけさと音頭」(盆踊り)は、ベッドタウン化した春日部らしいイベント・ご当地ソングといえるのかもしれません。 

昭和49年武里団地夏祭り

ただ、残念なことに、郷土資料館では「たけさと音頭」のレコードを入手できておりません。春日部の現代史資料として極めて貴重だと思います。お持ちの方はご一報いただけると幸いです。

 

以上、市制15周年を機に、8回にわたり市内八地区の身近な歴史ネタを紹介させていただきました。それぞれの歴史はそれぞれ人の思いやさまざまな経緯が折り重なり、紡がれてきたものです。そうしたことをもう一度顧みることで、新たな「春日部らしさ」=まちの良さに気付き、そして春日部が歩む未来がみえてくるのではないでしょうか。

参考文献 ふれあい大学34期生桐組6班『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)、高木圀夫『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)

軍需工場・時計工場のまち南桜井(広報補足その7)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #南桜井駅 北側にあった #軍需工場 について。 #かすかべプラスワン

庄和地域の玄関口、南桜井駅。現在は市街地化され、駅前はにぎわっています。実は、南桜井駅周辺の市街地化のきっかけは、昭和戦中の軍需工場の疎開に求められます。
昭和18年夏ごろ、精工舎は東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう、伝達を受け、同19年3月より東京太平町の工場の一部の疎開を開始します。精工舎とは、東洋の時計王ともよばれた服部金太郎が創業した服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の製造・開発部門です。
昭和18年12月までに、南桜井村大字金野井、大字大衾、川辺村大字米島、大字新宿新田に、約6万坪の工場、約9万坪の厚生施設の敷地が強制買収されました。
当時の南桜井駅近辺はうっそうとした森で、松林などが生い茂り、「大衾山」、あるいは「オバケの森」とよばれていたそうです。こうした森林を敷地にするため、南桜井や周辺の青年団や粕壁中学校(現県立春日部高校)の生徒などが勤労奉仕として木の根堀りや建材の運搬作業に動員されました。なかには、大きな木は素人になかなか切れないので、シャリキとよばれる職人が大勢雇われ、木を切ったそうです。

この軍需工場は、服部時計店南桜井工場と命名され、昭和18年11月6日に資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅に貨物専用の米島仮停車場が設置され、その北側隣接地に工場・男子寄宿舎、南側に女子寄宿舎、武州川辺駅の南側に社宅が建設されました。当時、南桜井村の人口は3625人、川辺村は2424人(いずれも昭和15年国勢調査)でしたが、南桜井工場の疎開によって、3000人以上ともいわれる人が移住してきましたので、敷地内には医務室(診療所・病棟)や学校(私立服部南桜井青年学校)両村は景観も住民構成も大きくかわることになりました。

南桜井工場で製造されたのは、高射砲の弾丸の頭につけ爆発を誘発する部品で、45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管でした。高スピード、高回転のなかで正確に動かなければならないので時計製作よりも高い技術が必要だったといわれています。工場がフルに操業を開始したのは昭和19年10月で、最初の製品が完成したのは昭和20年1月のことといわれています。

また、昭和20年5月には、同年3月・4月の東京大空襲で被害を受けた東京第一陸軍造兵廠の第三製造所が、南桜井工場の北部の未利用地に疎開しました。精工舎の南桜井工場と混同を防ぐため江戸川工場と名付けられました。江戸川工場は軍直属の官営工場で、風船爆弾の信管を製造しました。

終戦となり、軍需工場は操業をとりやめ、閉鎖されます。南桜井工場はおよそ1年弱、江戸川工場は3か月半で幕を閉じることになりました。その後、工場の建物25万坪、機械2000台は大蔵省の管理下におかれましたが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと全国農業会の支援を後ろ盾に施設設備は転用され、昭和21年3月28日に株式会社農村時計製作所が発足します。農村時計では、目覚まし時計などを製造していましたが、品質はあまり良くなかったといわれます。経営難のためからバリカンや地震計の製造もしたこともありました。しかし、戦後の経済政策もあり、農村時計は昭和25年10月に事業を停止します。
農村時計の末期、順調な売れ行きをみせていた「リズム」という商標の時計がありました。昭和25年11月3日、この商標を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足し、農村時計の事業は継承されることになります。南桜井駅周辺は、平成9年(1997)年9月に工場が東京都墨田区に移転するまで、リズム時計の南桜井工場とともに戦後を歩んでいくことになりました。
リズム時計の工場はご記憶がある方も多いのではないでしょうか。写真も残っています。

写真:昭和49年南桜井駅と北側のリズム時計工場

昭和49年(1974)南桜井駅と北側のリズム時計工場

写真:昭和49年南桜井駅南側

昭和49年(1974)リズム時計工場からみた南桜井駅の南側

南桜井駅周辺は、その後ショッピングモールや住宅地として再開発され、軍需工場や時計工場の面影はほとんど残っていません。しかし、青年学校の跡地には葛飾中学校(のち移転。現桜川小学校)、医務室の跡地には子供の町として利用されるなど、道路・住宅の区画などは軍需工場以来の名残りがあります。また、ショッピングモールの敷地内に、リズム時計の創業地の記念時計塔が立てられています(シティーセールス広報課撮影)。

写真:南桜井の時計塔

昭和時代の南桜井駅周辺は軍需工場・時計工場とともに歩んできたといっても過言ではありません。ですが、終戦のときに関係資料が廃棄されてしまったため、戦中の軍需工場・時計工場については資料が少なく、詳しくわからない部分が多いのです。今回、気の利いた図版がないのもそのためです。

平成のはじめ、県立庄和高校地理歴史研究部は、資料が少ないなかで、地域住民の方々、関係者の方々に聞き取りをするなど丹念に調査をし、上述したことを明らかにしています。その成果は『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』という私家版にまとめられています。今から30年前だから聞けた話がふんだんに詰め込まれ、南桜井の歴史を知るうえで必読の書です。

長文になってしまいましたが、庄和高校のみなさんが明らかにされたことは、上のことにとどまりません。入手困難な図書なのですが、『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』も合わせてご覧いただけると幸いです。

次回は最終回です。クライマックスは、武里地区の「たけさと音頭」について。

参考文献 庄和高等学校地理歴史研究部『むかし庄和町に軍需工場があった』(1991年)、同『賀川豊彦と農村時計』(1991年)、同『南桜井村戦後史』(1989年)、『春日部市史 庄和地域 近代・現代』(春日部市、2013年)
     

豊野・藤塚橋は歴史ある橋(広報補足その6)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #古利根川 に架かる #藤塚橋 について。 #かすかべプラスワン

藤塚橋の架橋が計画されたのは、昭和6年(1931)11月のこと。大正15年(1926・昭和元年)10月に一ノ割駅が開業し、駅と豊野村を結ぶ架橋の要望が高まったことが直接の背景でした。昭和8年(1933)5月8日に架設されます。

藤塚橋は、木造の橋で、幅は3.63mしかなく、当然大型の車両は通行できませんでした。当時の貴重な写真が伝わっています(藤塚小郷土資料室所蔵)。

 写真:昭和17~18年藤塚橋

昭和17~18年藤塚橋

写真:昭和25年ごろ藤塚橋

昭和25年ごろ藤塚橋

 

藤塚橋は当時、賃取橋(ちんとりばし)といって、有料の橋でした。現代的な感覚では、橋を渡るのに、なぜお金がかかるのか、と思いますが、当時は橋は地元の人たちが私費を投じて架橋した公共物でないものが多く、橋の維持管理費を賄うため、通行料を徴収する必要がありました。

その後、藤塚橋は、昭和29年(1954)の市制施行のときに春日部市に買収され、公共物となり、無料で渡れる橋となり、昭和40年(1965)にコンクリート製の橋に架け替えられ、現在に至ります。昭和40年の渡り初めの時の写真がこちらです。ちなみに、藤塚橋のたもとには、昭和40年の架け替えを記念し、橋の由来を刻んだ石碑が建てられています。

写真:藤塚橋開通

橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。

市内を見渡すと、江戸川・庄内古川・古利根川・古隅田川のいずれにも、もともとは渡船場で、その後継として橋が架けられる例が散見されます。以前紹介した、江戸川の宝橋(西宝珠花ー東宝珠花・宝珠花の渡し)のほか、古隅田川の十文橋(粕壁ー梅田・十文渡し)、古利根川の八幡橋(粕壁ー八丁目)、古利根川橋(赤沼ー平方・戸崎の渡し)、庄内古川の永沼橋(藤塚ー永沼・永沼の渡し)、倉田橋(赤沼ー赤崎・倉田の渡し)などです。このほか、古くからの橋も元々渡河点だった可能性があります。

車優先社会の現代にあっては、交通渋滞を緩和させるため、幹線道路が整備され、いとも簡単に新たな橋が架けられ、私たちは橋に対してありがたみをあまり感じることが少なくなっています。藤塚橋を含め、現在も残る歴史ある橋は、河川で地理的に隔てられた両岸の人々の交流の結節点=渡船場の後継として架橋されたものといえるでしょう。地元の方々が架橋や維持に苦心され、両岸の人々をつないできた歴史ある橋であることを知れば、少々渋滞してもイライラしないかもしれません。

次回は、南桜井の時計工場について紹介します。

参考文献 『歴史の道調査報告書 利根川の水運』(埼玉県教育委員会、1989年)

粕壁・大池のひみつ(広報補足その5)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #釣り堀 だった #粕壁 地区の #大池 について。 #かすかべプラスワン

広報誌では次のように紹介しました。

大池に観光客が殺到!?

昭和34年、東武鉄道株式会社に粕壁の大池(現大池親水公園)を貸し出し、つりの家が新築されました。つりの家は、その名の通り、東武鉄道が運営する釣り堀で、池には桟橋が架けられ、釣り客でにぎわいました。

 

大池は、記録の上では、少なくとも江戸時代から存在していた池です。大池の東側を南北に通る「大池通り」は、江戸時代には「蝦夷堤」(「江曽堤」・えそつつみ・えぞつつみ)と呼ばれた堤防と認識され、古来の古利根川の堤防と考えられています。大池の起源は、洪水時にこの堤防が切れ、できた水たまり(押堀・オッポリ)であると考えられ、古利根川が現在の河道になる以前(近世以前)に成立したと考えられます。次の江戸時代中期、安永3年(1774)の絵図写は、大池を描いた最古の資料です。

画像:大池 安永絵図

粕壁(宿)には、大池のほかに、赤堀池(現コミュニティーセンター敷地内)、二ツ池(浜川戸の鹿島池・金池、現存しない)と呼ばれた池がありました。大池は、これらの池のなかでもひときわ大きな池だったので「大池」と名付けられたのでしょう。天明6年(1786)の大洪水のときには、岸の柳に大蛇がいた、という逸話もあり、池のほとりには水神様が祀られています。

大池は、昭和8年(1932)「粕壁町地図」などにも、池沼として描かれています。池の周囲に水路があり、排水や遊水地として利用されていたものとみられます。

写真:昭和8年大池

 

戦後の空中写真(昭和24年。空中写真は国土地理院提供、以下同じ)でも、なんの変哲もない池であることがみてとれます。

写真:昭和24年空中写真

しかし、大池史上、大きな転機となったのが、冒頭に触れた、東武鉄道による大池つりの家建設。池のほとりに「つりの家」を建設し、大池は釣り堀施設として利用されることになりました。昭和41年(1966)のつりの家の写真がこちらです。

写真:昭和41年つりの家 写真:昭和50年空中写真

池のなかに桟橋をかけ、釣り客が釣りを楽しめるようにしていたようです(昭和50年空中写真)。

昭和40年ごろ製作されたと考えられる春日部市のパンフレットにも「観光」スポットとして大池つりの家が紹介されています。

画像:パンフ表紙写真:春日部市パンフレット

このパンフレットをみると、古利根川の花火大会、市内の神社仏閣に並んで大池つりの家が紹介されています。パンフレットの表紙も、藤、桐箪笥、麦わら帽子にならんで、釣りのイメージが描かれています。東武鉄道は、鉄道利用者を増やすために沿線に観光スポットを造り、大池を釣り堀として整備したのでしょう。当時、釣りは春日部市を代表する観光の目玉として押し上げられていったと考えられます。

画像:パンフレット拡大

写真:大池つりの家

その後、春日部市では宅地化がすすみ、人口が増えていきました。昭和50年ごろから、釣り堀以前は大池に落とされていた排水が、線路沿いや大池のまわりに溜まり、悪臭をはなっていると問題視されるようになっていきました。また、昭和50年代後半には、つりの家の管理者が不在になり、荒廃していると報告され、東武鉄道から早期に返還して、市民憩いの場にとの声が高まっていきました。

昭和63年の空中写真をみると、

写真:昭和63年空中写真

昭和末年には桟橋が取り外され、現状復帰されていったものとみられます。

そして、平成2年(1990)4月、大池憩いの家がオープンします。現在は、珍しい野鳥も訪れる市民憩いの場として利用されています。池での釣りは禁止されています。 

詳しい資料がなく、釣りの家の時代・市に返還されるまでの過程がよくわかりませんが、釣り客でにぎわったのは、昭和30~40年代にかけての短い期間だったと考えられます。おそらく、春日部のベッドタウン化・宅地開発の波にのみこまれていったのではないでしょうか。

次回は、豊野・藤塚橋の話題です。

花積って思いのほか有名な地名です(広報補足その4)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #考古学 をかじった人は必ず知っている「花積」の #縄文土器 について。 #かすかべプラスワン

 

広報の記事では、次のように紹介しました。

花積って有名な地名

花積は、考古学をかじった人は必ずしっている地名です。なぜなら花積下層式土器という「花積」の地名がつけられた今から約7千年前の土器の型式になっているからです。

花積には貝塚があり、周辺に比べて小高いため、東京湾が春日部まで広がっていた時代に陸地だったことが実感できます。

 

花積には、花積貝塚という、県内では数少なく、学術上欠くことのできない縄文時代の貝塚が所在します。なぜ学術上欠くことができないのか。それは、花積下層式土器(はなづみかそうしきどき)の標式遺跡だからです。標式とは、聞きなれない言葉ですが、考古学で一つの型式を的確に示すことのできる典型的な遺跡・遺物を指すものです。考古学上、花積下層式土器という土器の型式を決定づけた遺跡ということです。

花積貝塚は、明治時代中頃には既に貝塚として知られていましたが、広く知られるようになったのは、昭和3年の大山史前学研究所による発掘以後になります。大山史前学研究所は、軍人であり考古学者でもある公爵・大山柏が邸宅内に設置した遺跡の調査研究機関です。

大山史前学研究所の発掘調査により、花積貝塚の貝層は中間に土層を隔てて二層あり、上部貝層から勝坂式土器が多く出土したのに対し、下部貝層からは蓮田式土器が出土しました。のち、後者の蓮田式土器は細分類され、花積貝塚の下層からはじめて発見された土器型式は甲野勇により「花積下層式土器」と命名され、縄文時代前期初頭の土器型式と定められます。

 

花積下層式土器は、胎土中に繊維を多量に含み、羽状縄文(右撚りと左撚り縄をつなげて文様をつけたもの)や、撚糸(よりいと)が「の」の字形に押し付けられた文様が施されている特徴があります。 

大山史前学研究所が発掘した花積下層式土器はこちら。

写真:花積下層式土器(春日部市史考古資料編)

花積貝塚では戦前の調査でも、その後の調査でも花積下層式土器は破片のみの出土であり、完全な形の花積下層式土器は発見されていません。素人考えだと、完形の土器が出土していないのに、なぜ花積下層式土器はかくも有名なのだろうか、と思うところですが、戦前、大山史前学研究所を中心とする考古学者たちが、小さな土器片であっても、資料に基づき実証的に土器研究を積み重ねてきたため、現在も花積下層式土器という土器型式名称が学術用語として使われ、広く知られているのです。

残念ながら、大山史前学研究所は昭和20年5月の空襲に遭い、収蔵していた貴重な資料は焼失・散逸してしまいました。花積下層式土器の命名の基になった写真の土器は、失われてしまいました。

花積下層式土器は、縄文時代早期と前期を結ぶ学術上重要な土器型式であり、今後の研究も期待されているようです。と同時に、考古学と春日部を結ぶ重要な土器でもあります。

郷土資料館でも、縄文土器について詳しいお客様から、花積貝塚・花積下層式土器についての展示が貧弱だと、たまにお叱りをいただきます。花積貝塚・市内の遺跡から展示に耐え得る花積下層式土器の出土例が乏しい事情をお話して、陳謝することもありますが、「花積」の名が付いた土器から、春日部に興味をもってくださる方もいらっしゃるのです。

次回は、粕壁の大池についてです。

 

参考文献 『春日部市史 考古資料編』、阿部芳郎『失われた史前学 公爵大山柏と日本考古学』(岩波書店、2004年)