ほごログ(文化財課ブログ)

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#エア博物館 「藤のまち春日部」展の紹介(その3)

前回に引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、明治32年(1899)の東武鉄道開通以後の「牛島のフジ」(国特別天然記念物)についての蘊蓄(うんちく)。

前回ご紹介したように、千住馬車鉄道の開通もあり、「牛島のフジ」は東京の人々にも徐々に知られていきましたが、どうやら、東京近郊の名所として多くの人々に知られるのは東武鉄道開通後のようです。どうしてそのように考えられるのか。理由の一つとして、「牛島のフジ」に関する文献・資料は、明治32年以前のものは極端に少なく、鉄道開通以降、増えるということが挙げられます。新聞や著名人の紀行文だけでなく、地元粕壁でも、明治33年(1900)5月に『粕壁藤の紫折(しおり)』(当館所蔵)という観光パンフレットが発行されています。こうした刊行物・新聞や前回紹介したような絵葉書などによって、「牛島のフジ」はより多くの人々に知られるようになり、汽車を利用して、気軽に日帰りで訪れる東京近郊の名所地として確立されていきました。

また、5月には東武鉄道沿線では、牛島のフジとならんで、館林のツツジも花盛りを迎えます。東武鉄道では、フジの花盛りの季節に粕壁までの鉄道運賃を割引とし、東京の観光客を取り込もうとし、沿線に花の名所を位置づけていくことで、鉄道利用者を増やそうとしていったようです。例えば、田山花袋と牛島のフジを観覧した大町桂月は、東京から東武鉄道を利用して館林のツツジを観覧した後、田山と牛島のフジに訪れています(『東京遊行記』)。藤の花が満開を迎えるころには、一日の乗客が3000人に及んだといいます(『東武鉄道線路案内記』)。当時、最寄りの停車場である粕壁駅前には汽車や人力車の待合茶屋が設けられいた(『埼玉県営業便覧』)ことも考えると、藤のシーズンには粕壁は観光客で大変賑わったことでしょう。

さて、今回紹介する資料は、東武鉄道開通以後の明治40年(1907)の紫雲館の領収書です。 

写真:紫雲館領収書

紫雲館とは、牛島のフジの所在する庭園「藤花園」内にあった料亭です。紫雲館については、『東武鉄道線路案内記』(明治37年刊行)に「曽(かつ)て清浦法相観覧の砌(みぎり)、当園を紫雲館と命名せられり、今其遍(ママ)額を掲けあり、園内には紫雲館と称する賃席料理店あり、閑雅にして客室清浄川魚の名物なり」(32コマ)とあります。

清浦法相とは、当時司法大臣で、のちに総理大臣となる清浦奎吾(1850~1942)のこと。清浦奎吾は、若い頃に埼玉県の官吏でもあり、埼玉県東部地域とゆかりが深い人物です。紫雲館という名は、この清浦が命名したといい、能筆家でもあった清浦の扁額もあったと記されています。園内の紫雲館は静かで趣が深く清潔な賃席料理店であり、川魚料理が名物だったといいます。

 さて。この紫雲館の領収書は、明治40年5月13日のもの。粕壁町の篤志家であった山口万蔵が利用したときのものです。料理代・席料として2円95銭が計上され、そのほか「大和弐ツ」の代金として14銭を領収しています。「大和」とは酒か何か品物の銘柄なのでしょうか、詳細は不明です。あるいは「大和」と読んでいいものか微妙な字なのですが。いずれにしても、『東武鉄道線路案内記』が紹介しているように料理を出す施設であったことがうかがえます。

そして、学芸員一押しなのが、この領収書のハンコです。展示会ではココを皆さんにご覧いただきたかった!

ハンコの部分を少し拡大して撮影した写真が下のものです。

写真:領収書のハンコ

薄くてよくみえないのかもしれませんが、原物も薄いのでご了承ください。

ハンコには「藤花園章」と刻まれています。一押しは紫の朱肉です。藤ですから、藤色と言うべきでしょうか。なんとも洒落ているではありませんか!

この藤色の朱肉から、「閑雅」な紫雲館の情景が読み取れる(のではないかと個人的には思う)とてもいい資料だと思います。収蔵庫から(偶然)見いだした時、結構感動したんですよ。

なお、今年は、牛島のフジの公開は中止となりました。4月30日、花盛はちょうど最高の状態だそうです。残念ですが、藤の花も、フジをみながら語る蘊蓄も、来年まで楽しみにしておきましょう。

次回も#おうちミュージアム 牛島のフジの蘊蓄にご期待ください。

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その2)

中止となった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展について、前回に引き続き #エア博物館 #おうちでミュージアム として紹介します。牛島のフジ(国特別天然記念物)は、明治時代半ば以降、東京近郊の名所として急速に認知されるようになっていきました。

 

今回紹介する資料は、「牛島のフジ」の手描き彩色写真絵葉書です。

 画像:彩色写真絵葉書

絵葉書には「粕壁の藤花」「M44」と記されています。「M44」は明治44年(1911)と考えられます。明治時代後期の文献では、「牛島の藤」と現地の「牛島」を冠して紹介されるものは少なく、「粕壁の藤」と紹介されるものが多くみられます。ですから、絵葉書の「粕壁の藤花」とは牛島のフジを撮影したものと考えられます。

 

明治初めの記録には「都下ニ遠キヲ以テ知ルモノ稀ナリ」、つまり、東京から遠いため牛島のフジを知る者はあまりいない、と評されています(「大日本国誌」)。牛島のフジが「粕壁の藤」として広く知られるようになるのは、春日部に鉄道が開設されて以降のことのようで、その嚆矢は、明治26年(1893)に千住と粕壁を結ぶ千住馬車鉄道の開通に求められます。

 

明治28年(1895)5月10日には、幸堂得知が、友人の俳人稲見悟友とともに千住茶釜橋より鉄道馬車に乗り、「粕壁の藤花」を観覧した紀行文を新聞紙上に掲載しています(朝日新聞・明治28年5月16・19・22日号)。幸堂の紀行文は、千住馬車鉄道の利用実態を具体的に記したものとしても貴重で、越ケ谷から乗車してきた旅籠屋の女性2名も藤を見に行くといい、「大門」(東八幡神社の参道の入口付近)で下車して、古利根川の橋(八幡橋か)では橋銭を徴収されたことなどが記録されています。同行した稲見悟友は、牛島の園内で「乗出して馬車の早さに引かへて めつそう長き牛じまの藤」と短歌を詠みました。この歌は早い(短い)馬車と花房の長い牛島の藤を対比した歌であり、馬車鉄道は、千住―粕壁間を片道3時間半で運行しましたが、当時の人たちにとって、東京郊外に早くアクセスできる手段だったことがわかります。

 

幸堂らと同様に馬車鉄道を利用して牛島のフジを訪れた著名人に大和田建樹(1857~1910)がいます。大和田は詩人で、「♪汽笛一声新橋を~」の鉄道唱歌の作詞家として知られています。大和田が牛島のフジを訪れた日時は明らかでありませんが、彼の著書『雪月花』(明治30年刊)のなかで、「粕壁の藤」に馬車で訪れ、藤花を「氷柱の如き滝波の如く」と描写しています。また、「客は花を二房三房づゝ請ひ取りて。傘を挿しなどしつゝゆく。さながら藤娘のさまよなど笑ふもあり。」と記しています。現在は国の特別天然記念物に指定され、保存すべき樹木とされていますので、何人たりとも花房を痛めることは許されませんが、当時、訪れた客は、花房を取り、あるいは和傘をさし、藤花の下をくぐりながら観藤する情景がうかがえます。なお、大和田の『雪月花』は国立国会図書館のデジタルコレクションでご覧になれます(粕壁の藤は76コマ~)。

 

明治44年の彩色写真絵葉書にも、池の向こう岸に和傘をさす和装の女性が写っており、大和田の描写を借りれば「さながら藤娘」のようです。

ちなみに、この絵葉書は職員がインターネットオークションで購入したものです。インターネットオークションで「粕壁」と検索すると、牛島のフジの絵葉書がたくさんヒットします。こうした絵葉書が土産物として広まり、さらに多くの人々に「粕壁の藤」は知られるようになっていったのでしょう。展示会では、いくつかの絵葉書を陳列していました。皆さんにご覧いただけず、無念です。

 写真:資料陳列状況

千住馬車鉄道の廃止後、明治32年(1899)東武鉄道が開通すると、「粕壁の藤」はさらに多くの人々に知られるようになっていきますが、その話は、次回の#エア博物館で。

 

なお、今年度の牛島のフジの観覧は、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、休園となりました。歴史ある牛島のフジは来年度までお預けとなってしまいましたが、藤花の様子は牛島のフジを管理されている藤花園さんのホームページで紹介されるようです。

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その1)

令和2年4月7日(火)から開催予定だった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展は、4月4日からの臨時休館により残念ながら中止となってしまいました。

資料の陳列は大方済んでおり、皆さまに紹介したいことも盛りだくさんで、資料も皆さんにお会いすることを楽しみにしていた(と思いますが)、仕方ありません。今回の展示は、春日部の歴史・文化に深くかかわってきた藤(フジ)について紹介することを趣旨としていました。

写真:展示風景

しかし、もうすぐ、藤の開花の季節。「ほごログ」の場を借りて、皆さんに「藤のまち春日部」展で展示する予定だった資料を紹介し、春日部が誇る藤にまつわる歴史・文化を紹介したいと思います。

市内には、樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えともいわれる「牛島のフジ」(国特別天然記念物)がありますが、実はその起源については大きな謎に包まれています。管見の限り、牛島のフジが記録・文献に登場するのは、明治時代以降のことになります。

今回新たに、明治政府による皇国地誌編さんに関わって調査された牛島村の地誌の原稿である明治10年(1877)1月「牛島村村誌詳細取調書」(当館所蔵)を見出し展示しました。

写真:牛島村村誌詳細取調書

本資料には、牛島村の「名勝」の項目に次のような記述があります。

当村藤岡伊与太郎邸中一藤繁茂セルアリ、★(木偏に幹という字)根周囲壱丈五尺余枝葉瀰蔓スルコト三十間、其幅イン七八間ニ亙リ、蕤茎垂ルヽコト四尺余、其声誉俠近傍故焉(カ)、旧幕ノ頃侯伯屡来テ賞賛ス、加之慶応年干(間)沗クモ東叡山輪王寺ノ宮様遊纜ノ御幸アリ

 

すなわち、当時、藤岡氏の邸宅内に藤があり、近隣で著名だったこと、江戸時代に時折「侯伯」が訪れ賞賛されたこと、慶応年間に輪王寺宮が訪れたことが記述されています。

牛島のフジは、かつて蓮花院の境内にだったともいわれており、史料にみえる藤岡氏とは、牛島女体神社の神職を勤めた人物のようで、元は蓮花院の住職であったともいわれています。蓮華院は明治初年に廃寺となっているので、詳しいことはわかりませんが、明治初頭には藤岡氏の邸内にあったことが明らかになります。

また、江戸時代には「侯伯」、おそらく大名が訪れていたことや、輪王寺門跡が訪れたことが記述されています。おそらく日光道中を通行した大名や、幕末(慶応年間)には輪王寺宮が牛島のフジに訪れ、観覧したものと考えられます。近世の一次資料は現在は見出されていませんので、江戸時代における牛島のフジのあり方を示す資料として非常に重要な資料といえます。

ちなみ、慶応年間の輪王寺宮は、公現法親王で、明治3年(1870)に宮家の北白川家を継いだ、北白川宮能久です。明治33年(1900)刊の『藤の紫折』にも北白川宮能久が訪れたことが触れられています。

以上から、本資料は、牛島のフジに関する最古級、かつ貴重な記述のある重要な資料であるといえます。

今後も「藤のまち春日部」展の資料を紹介していきたいと思います。お楽しみに。