ほごログ(文化財課ブログ)

タグ:徳川家康

3月3日、16日に歴史文化講演会を開催します

郷土資料館では3月に2本の歴史文化講演会を開催します。

どちらもただいま参加受付中です。お申し込みはお電話、電子申請からどうぞ。

みなさま、お誘いあわせの上ご参加ください。

●郷土資料館歴史文化講演会 平野明夫先生「徳川家康の関東入国と岡部氏」
関東地方の歴史に大きな影響を及ぼした徳川家康の移封と、それに伴い野田に入り、本市域にも所領があった岡部氏について、中世史がご専門の先生にわかりやすく解説していただきます。
日程 令和6年3月3日(日曜日)午後2時~4時
場所 教育センター
講師 平野 明夫(ひらの あきお)先生(國學院大學兼任講師 日本中世史)
募集人数 80人(申し込み順)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み

 

●莵原雄大先生「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」
砂丘から発見された平安時代の遺跡について、調査を担当した越谷市職員を講師に迎え、わかりやすく解説していただきます。
日程 令和6年3月16日(土曜日)午前10時~正午
場所 教育センター
講師 莵原 雄大(うはら ゆうた)先生(越谷市教育委員会生涯学習課職員)
募集人数 80人(申し込み順)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み

 

#家康 と春日部

#徳川家康 と春日部の関わりを紹介する春季展示は7月2日(日)まで。展示では家康が実は春日部に来ていたかも!?と紹介しています。 #かすかべプラスワン

展示も終盤なので、ネタバレで紹介します。家康が春日部に在陣することを示すのは、江戸幕府による官撰の系譜「寛政重修諸家譜」。戦国期には古河公方足利家の家来だった一色氏の系譜の記事のなかに見出せます。下の画像はその部分(国立公文書館所蔵)。

画像:寛政重修諸家譜

戦国末からの当主一色義直の記事は、次の通りです。

(前略)五年会津に御発向のとき、粕壁の駅に至りて拝謁し、台駕にしたがひたてまつらむ事を請といへとも、年老たるをもつて許し給はす、男照直を俱せらる、関原凱旋のゝち、参府して御気色をうかかふのところ、御前にめされ、義直老年ながら会津御陣の供奉をこひし事健気なりとの御感ありて、養老の料として下総国和歌領にをいて、千石の地をたまふ(後略)

慶長5年(1600)、家康は会津の上杉景勝の征伐のため、江戸城を立ちました。その途次「粕壁の駅」で一色義直は家康に拝謁し、軍勢に加わりたいと請願しますが、老齢のため家康の許しを得ることができず、嫡男の照直が供奉することになりました。

一色氏は、かつて幸手領(幸手市域から杉戸町・春日部市域の一部)を所領にしていた在地領主です(後に下総国相馬郡に所領を替えられ、現在の野田市の木野崎村に居住)。家康が関東に入部した後は、幸手に知行地5160石余を与えられ、徳川家の旗下となりました。慶長5年当時、義直は隠居の身でしたが、おそらく家康の軍勢が自らの所領幸手領を通行する直前の「粕壁の駅」で、挨拶のため拝謁したものと考えられます。

家康は、会津に向かう途中、小山で江戸に引き返したといい(小山評定)、そのまま関ケ原に向かいました(関ケ原の戦い)。

「諸家譜」はさらに続けて、関ケ原の戦いの後、一色義直は江戸城で家康に拝謁し、老年ながら会津征討に供奉したいと請願を「健気なり」と褒賞され、隠居料として下総国和歌領(現茨城県八千代町)に1000石の知行所を与えられました。

一色義直の「粕壁の駅」での拝謁については、残念ながら同時代の史料は残されていません。「諸家譜」のほか、一色家諸系譜(幸手市史編さん室編『幸手一色氏』)にも記されており、家に伝来した出来事であったと考えられますが、当時いわゆる「日光道中」が成立していたかは疑義が残り、「粕壁の駅」の位置や実態について詳しくはわかりません(後述)。

上杉征伐~小山評定~関ケ原の戦いは、大変ドラマチックな展開であり、その途次に「粕壁の駅」が登場するわけですが、近年は「小山評定はなかった」説も唱えられており、江戸からの行程、江戸までの行程も詳しくはわかりません。このあたりが大河ドラマでがどのように描かれるのか、注目されるところでもあります。

さて、肝心の「粕壁の駅」とは、何か。先日の「みゅーじあむとーく」でも、「粕壁の駅」とはどこなのか、当時粕壁に宿場町があったのか、など観覧者から鋭い質問をいただいたところです。

粕壁宿の名主文書によれば、いわゆる「日光道中粕壁宿」(現在の春日部大通り)の町割りがされたのは、慶長16年(1611)のこととされています。一方、天正18年(1590)9月には、岩槻城主高力清長が「糟壁新宿」に人を集め年貢を納めることを命じています。「糟壁新宿」はのちに元新宿と呼ばれた地区(現南・緑町)であり、いわゆる「日光道中粕壁宿」の成立以前の馬継場は同所にあったと考えられています(詳しくは以前紹介記事参照)。会津征伐の慶長5年は、この間の出来事。果たしてどこに「粕壁の駅」があったのか。はたまた、「粕壁の駅」はそもそもこの時期に存在したのか、今後の検討が必要です。

結論はでませんが、そうした家康と春日部の関わりを紹介している春季展示「かすかべ人物誌」は7月2日(日)まで。家康の朱印状も展示していますので、お見逃しなく。

 

みゅーじあむとーく開催しました

6月18日(日)に春季展示「かすかべ人物誌」のみゅーじあむとーく(展示解説)を開催しました。 #かすかべプラスワン

午前の部、午後の部ともに、郷土の歴史に高い関心をお持ちの皆さんにお集まりいただき、質問を交えながら展示解説をしました。

西金野井香取神社に伝わる天正19年(1591)の徳川家康の朱印状については、実物を見ながら史料の内容や形状を解説。写真では家康の朱印が見づらいのですが、実物では家康の朱印が確かに捺されていることがわかります。皆さんには、2代将軍の徳川秀忠の朱印状(の写真)と比べて、家康の朱印状と何が違うのかを考えていただきました。

写真:みゅーじあむとーくの様子

「色が違う!」と答える方がいらっしゃいましたが、写真の色が悪かったようで・・・すみません。

大きく異なる点は、家康の朱印状は、料紙を横半分に折った「折紙」という形態であるのに対し、秀忠のそれは、料紙全体を使用した「竪紙」という形態です。また、写真ではわかりにくいのですが、秀忠の朱印状は大高檀紙(おおたかだんし)とよばれる皴(しわ)の入った料紙を使っています。

一般的に「竪紙」という形態は「折紙」よりも厚礼な書式といわれています。天正19年の家康の寺社宛の朱印状は、①家康の花押が捺された竪紙のものと、②西金野井香取神社の例と同じ折紙で朱印が捺されるものの二通りに分けられます。①の例は領地100石を超える寺院宛のもので、より有力な寺社には厚礼な①の形式で朱印状を発給したようです。西金野井香取神社は、朱印状の形式から考えれば、広い地域まで勢力を及ぼす大きな寺社ではないが、北条氏の時代からの地域の有力な神社であったといえることができましょう。

天正19年(1591)、朱印状を発給した家康は、まだ豊臣政権下で関東地方の一大名にすぎませんでしたが、家康は、地域の有力な中小規模の寺社にも朱印状を与え、関東地方の地域支配を盤石なものにしていったのでしょう。

一方、秀忠の朱印状で使用される大高檀紙(おおたかだんし)は、豊臣秀吉が自らの朱印状で採用した料紙であり、天下人を象徴する料紙でした。秀忠の朱印状は、先代家康が寄進した領地を安堵(保障)する継目安堵の意味を持ちましたが、有力な寺院とともに西金野井香取神社のような地域の有力神社にも、竪紙の大高檀紙が使用されました。秀忠が朱印状を発給した元和3年(1617)は、豊臣氏は滅び、秀忠はすでに征夷大将軍となっていましたが、各地には有力な大名もあり、徳川政権を盤石なものにしていく過渡期でもありました。将軍の発給する文書の形式を整えて、政権・領国支配を安定させていく時期にあったので、継目の安堵もより厚礼なものにしていったのでしょう。

西金野井香取神社に伝わる家康の朱印状からは、当時の家康の政治的な立場を読み取ることができるのです。

本当は、秀忠の朱印状と並べて展示しようかと構想していたのですが、スペースの都合でお披露目は見送りました。またの機会をお楽しみに。とはいえ、家康の朱印状が見られるのも7月2日(日)まで。お見逃しなく。

春日部に伝来した #松尾芭蕉 の肖像

元禄2年(1689)3月27日、奥州の歌枕を訪ねる「奥の細道」の旅に出立した芭蕉は、その夜、弟子の曽良とともに「カスカヘ」に泊まりました。 #かすかべプラスワン

現在開催中の春季展示「かすかべ人物誌」では、春日部ゆかりの歴史上の人物として、徳川家康・松尾芭蕉について展示紹介しています。展示は7月2日(日)まで。6月18日(日)には展示解説(みゅーじあむとーく)を開催します。

今回は、展示中の松尾芭蕉ゆかりの資料を紹介します。松尾芭蕉と粕壁の関係についてはこちら

画像:松尾芭蕉肖像

上の画幅は、市内に伝来した松尾芭蕉肖像です。肖像自体は、芭蕉の墓所・近江の義仲寺で刷られたものです。近世中期ごろから、芭蕉を偲ぶ「芭蕉忌」という句会が芭蕉の命日に各地で開かれるようになりました。この肖像画も「芭蕉忌」に際して義仲寺で刷られたものなのかもしれませんが、担当者が調べる限りでは同じ肖像の資料は見つかってなさそうですので、詳しくは不明です。

注目されるのは画像の上の墨書です。「稲つまに悟らぬ人のたうとさよ」と芭蕉の著名な句が記されています。署名は「素丸書」とあります。墨書は、溝口素丸という人物が書いたものであることがわかります。

この素丸、近世中期にそこそこ名の知れた俳諧の宗匠。葛飾蕉門と呼ばれる江戸周辺の俳諧の一派のドン、其日庵(三世)の名跡を名乗ります。彼の自筆の芭蕉の句が記された芭蕉の肖像の軸がなぜ春日部に伝来したのでしょうか。

 

6月18日(日)の「みゅーじあむとーく」では、その事情について詳しく解説する予定です。上の写真の資料のほかにも芭蕉の肖像が2幅と1冊並んでいます。展示は7月2日(日)まで。お見逃しなく。

 

展示名:春日部市郷土資料館(第67回)春季展示「かすかべ人物誌」

会 期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日) 開館時間:9時~16時45分

会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)

休館日:会期中の月曜日

入場料:無料

関連事業:みゅーじあむとーく 6月18日(日)10時30分~、15時~

【春季展示】みゅーじあむとーくを開催しました

5月20日(土)から始まった「かすかべ人物誌」展の初日、学芸員による展示解説(みゅーじあむとーく)を開催しました。 #かすかべプラスワン

午前、午後ともに多くの皆さまにお集まりいただき、徳川家康や松尾芭蕉など歴史的な著名人物の人気ぶりがうかがわれました。

写真:展示解説の様子

解説では、家康の朱印状の形式や、家康が粕壁に来ていたことを伝える後世の史料、松尾芭蕉の肖像画幅、葛飾蕉門とよばれる俳諧一派の活動について、重点的にお話しました。

とくに俳諧・文芸について紹介していることもあり、普段とはちがって、文化文芸に関心の高い皆さんにご参加いただけた模様です。

次回のみゅーじあむとーくは、6月18日(日)を予定しています。ご興味あれば、ご参集ください。