ほごログ(文化財課ブログ)

タグ:水害

幸松小出張授業のお手紙届きました!

10月6日、昨年度に引き続き、幸松小学校で出前授業を行いました。4年生の皆さんは総合的な学習で、地域の地形や災害について学習されているそうで、出張授業(でばりぃ資料館)では、幸松地区の水害の歴史について、お話しさせていただきました。  #かすかべプラスワン

 

後日、幸松小4年生の皆さんからお礼のお手紙(感想文)をいただきました。総勢80数名もの 感想文をいただいてとてもうれしいです。全部は紹介できませんが、そのなかでも、とても素敵な感想がありましたので、これも昨年度に引き続き、紹介させていただきます。

お礼の手紙表紙

 

まずはじめの方は、次のように書いてくれました。

画像:感想1

授業では、幸松地区の水害のなかのうち、昭和22年のキャサリン(カスリン)台風の水害について、少し詳しくお話ししました。幸松地区(当時は幸松村)には、水があふれた、濁流が押し寄せた地図(記録)が残されており、身近な地域が水災に遭ったことが克明にわかります。利根川から決壊した濁流が押し寄せたのは、およそ一日後のことで、それ以前に幸松のさまざまな水路で水があふれたことや、死者や避難者の数も伝えました。身近な地域が水害にあっていたこと、「びっくり」して、少し怖かったかもしれませんが、そうした話をいろいろな学校で話してほしいと、感想をくれました。その土地その土地には、固有の歴史があることを何となくわかってくれたのかもしれません。そうした機会ができること、個人的にも望んでいますので、他の学校さんからのオファーもお待ちしています。

 

次の方は、このように書いてくれました。

画像:感想2

昨今、首都圏外郭放水路は防災施設として再注目されています。外郭放水路ができたことで、市内の湛水の機会は大幅に減ったようです。しかし、この子のいうように、災害はいつ起きるのかわかりません。「油だん」は禁物ですね。出張授業が、防災意識を高める機会にもなったのならば、とてもうれしいです。

 

最後に紹介するのはこちら。

画像:感想3

授業では、めがね橋がただの橋ではなく、古利根川からの逆流を防ぐ、レンガ樋門であることを紹介しました。授業の前に校外学習でめがね橋を見学していたので、印象に残る人が多かったようです。全国津々浦々の小学校4年生で「樋門」の意味を理解しているのは、幸松小学校の皆さんだけかもしれませんね。

重要なのは、後半の文章。「親にもあまり教えてもらえなくて、だから私が親たちに教えたいと思います」

地域で語り継がれ、受け継がれてきた歴史・伝統を、子どもたちが学び、そして伝えていくこと。郷土資料館として、こんなに嬉しいことはありません。ぜひ、親御さんにめがね橋のスゴさを話してください。

幸松小4年生の皆さんは、これから地域の地形を学んだり、災害のときにどのように行動すればよいのかを考えたりする学習をするそうです。私が授業で伝えた、水害の怖ろしさ、そして地域の先人がそれを克服してきたことも、改めて考えていただき、ぜひ、地域の防災について学びを深めてください。

実は、幸松小4年生の皆さんには昨年度のでばりぃ資料館でも会っていましたが、憶えている子は少なかったようです。今回の出張授業では、話を聞いてくれたお礼に名刺を渡しました。郷土資料館のこと、もう忘れないでね。それよりも、名刺をたよりに、郷土資料館に遊びに来てくれるとうれしいです。待ってます。

幸松小4年生のお手紙に「めがね橋」を学ぶ

先日、幸松地区の水害の歴史について、出張授業にうかがいましたが、幸松小4年生のみなさんより、そのお礼のお手紙をいただきました。出張授業(でばりぃ資料館)では、幸松地区の水害の歴史、とくに幸松小の皆さんにとって身近なめがね橋がただの橋じゃない!ことを説明しました。

どんな話をしたのか、めがね橋のなにがすごいのか、幸松小の皆さんが手紙で説明しながら、お礼を書いてくれました。素晴らしい手紙のお礼として、みなさんに紹介することで、再度めがね橋とはなにかを紹介してみたいと思います。

画像:手紙1

その通り。めがね橋は明治24年(1891)に完成した古い橋です。そして、ただの橋じゃなくて、樋門(ひもん)なのです。樋門は川からの逆流を防ぐために造られました。古さと逆流を防ぐ点が「すごい」と思ってくれたようです。「なくてもいい」のではなく、必要だから造られた、そして今ものこされていること、知ってもらえたようです。ありがとうございます。

 県内で2番目に古いレンガ樋門であるとともに、「めがね橋がさんがい(災害)からわたしたちを守ってくれていた」ことも知ってくれたようです。この点、幸松小の皆さんにとって、すごく重要です!ありがとうございます。

画像:手紙3

幸松小の皆さんは事前にめがね橋を見に行ったそうですが、そのときはよくわからなかったようですが、授業に接して、「せきばしら(堰柱)」「かくおとし(角落とし)」についてわかってくれたようです。そう、ここに板をはめて樋門にすることも理解してくれました。きっと、堰柱と角落としを知っている小学四年生は幸松小学校だけですよ!

その一方で、水害は「ちょっとこわい」とも感じてくれたようです。いやなことから目を背けず、歴史を学んで「こわい」と思うことも大事なことだと思います。ありがとうございます。

画像:手紙4

めがね橋を通学路にする子もいます。板が通るぐらいの「くぼみ」(角落とし)を再確認してくれたようですし、お家に帰ってお母さんにもお話ししてくれたようです。お家の方にもめがね橋のスゴさを伝えてくれてありがとうございました。

画像:めがね橋の絵

板を落として逆流を防ぐ状態の、めがね橋の挿絵を描いてくれた子もいました。堰柱と角落としも描かれ、きっちり板が落としてありますね!ありがとうございます。

画像:手紙4

めがね橋だけでなく、水塚(みづか)や用心船についてもお話ししましたが、幸松地区から江戸城にお米を納めていたという話も少ししました。幸松は米どころで、不動院野のもち米がとくに美味しいお米で、江戸時代の終わりごろ、江戸城の御膳に上納されていました。このことを感想に書いてくれた子がいました。趣旨から外れた、ちょっとマニアックな話題だったので、覚えていてくれて、とてもうれしいです。ありがとうございます。

画像:手紙5

社会科が苦手だった子も面白く感じてくれたようです。ありがとうございます。

社会科の学習は、国語や算数などの教科に比べると後回しにされがちですが、社会の成り立ち・仕組みを知るなかで、自分の位置を知る重要な教科だと思います。埼玉県、春日部市、幸松がどんな地域なのか、それが自分や世界とどうかかわるのかを考えながら、学べば、きっとこれからの社会科学習も楽しくなるはずです。 

授業で説明したこと、きちんと伝わっていたようで、うれしいです。あと、どんぐりをくれた少年からもお礼のメッセージをもらいました。ありがとう。

めがね橋のスゴさ、幸松の水害の歴史について、お家の方だけでなく、知らない人はきっと沢山いるでしょう。今度は、そのスゴさについて、郷土資料館のわたしではなく、幸松小のみなさんが伝えてくれたら、とてもうれしいです。みなさん、素敵なお手紙ありがとうございました。

【幸松小でばりぃ資料館】めがね橋は、ただの橋じゃない

10月12日、幸松小学校第4学年の総合的な学習の時間に、でばりぃ資料館(出張授業)してきました。幸松小4年生のみなさんは、フィールドワーク、座学、コンピュータープログラムなどを通じて、幸松地区の防災について、様々な観点から学習されているそうです。本時は、その一環として「幸松と水害」というテーマで、幸松地区の水害の歴史について、学芸員がお話しするものです。

写真:授業の様子

話題は水害。少し暗い話題なので、クイズなどを交えて、楽しく話を進めてみました。みなさん、元気よく、積極的にクイズに参加してくれました。

写真:挙手する児童たち

しかし、「馬や牛、人の死体が流れてくることもあった」とか、「家が流されてしまう人もいた」とか、水害のリアルな話をすると、表情を曇らせる児童もいました。ちょっとビックリしたかもしれませんが、実際に幸松であった事実なのです。

最後に、めがね橋について解説。事前にフィールドワークでめがね橋と傍らにある石碑を見学していましたので、めがね橋の存在を知らない子はいませんでした。けれど、なんで「めがね」っていうのか、「めがね橋はただの橋じゃない」という話をすると、みなさん驚いていました。実はめがね橋は、古利根川からの逆流を防ぐ、県内で2番目に古いレンガの樋門(ひもん)なのです。

写真:石碑の説明

幸松小学校の先生が記述した明治43年「幸松村水害誌」には、「この記録を読んだ人が水害当時の状況を知り、昔の水害について考え、失敗を反省する材料としてくれれば、この記録をつくってよかったと思う」と記しています。幸松は様々な水害の記録が伝わる地区で、めがね橋をはじめ、水塚など災害歴史遺産とでもいうべき史資料が比較的よく遺っています。昔の水害について克明にわかること、そして過去の水害を克服して現在の幸松があること。幸松小学校のみなさんには、今そして未来の春日部に暮らす一人として、この地区の過去の水害について知っておいてもらいたい、と最後にお話ししました。ちょっと難しかったでしょうか。

カスリン台風の水害については、前に紹介したこともあるのでこちらを参照ください。

授業の後、2組の男子からどんぐりをもらいました。もらったどんぐりは、大切にしますので、みなさん、今日の話を大切にしてもらえたら、うれしいです。

【 #常設展 】藤の花と水害関係史料展示替

常設展示を一部展示替しました。日々変わりゆく春日部のまちとともに、郷土資料館もまた日々変わっているのです。 #かすかべプラスワン

今回は2か所更新しました。

一つ目は、藤の花です。ところで、藤の花言葉を知っていますか? 答えはこの記事の末尾で。

入館された方を華やかな藤の花が出迎えてくれます。この藤棚は、ミニ展示「牛島のフジ」展で製作したものです。

藤の季節までしまったままにするのも惜しいので、展示しました。

写真:藤棚のモニュメント

これで一年中、市の花「フジ」を楽しめます。ただ、狭き展示室ですので、早速弊害が。入り口付近のパネルが藤の花の影で見づらくなってしまいました。

 写真:藤の花影

藤の花のシルエット・影を楽しむのも乙、と思いますが、いかがでしょうか。

 

もう一つは、展示室奥の「水とのたたかい」のコーナー。

長らく展示していた樋籠村の絵図を撤収し、明治42年7月に南桜井村から請願された江戸川の改修工事願を展示しました。内容は、南桜井村の人たちが、郷社香取神社(西金野井香取神社)の境内が江戸川に浸食されること、また粕壁と金野井を結ぶ「壱等公益道路」の起点にあたる河岸場が危険であることを理由に、県費で江戸川の改修を請願したものです。郷社香取神社の由来なども記されており、文書の内容も興味深いのですが、さらに興味深いのは添付の図面です。

 画像:岩井家文書157-2

当時の西金野井香取神社付近の様子が描かれています。西金野井香取神社は、昭和27年(1952)の江戸川改修工事により、現在地に移転しています。かつては参道がもっと長く、現在地よりも北方約100mに神社の本殿が鎮座していました。これ以前は、現在の堤防や河川敷の付近に、寺院や民家、河岸場などが所在していたのです。この史料(図面)は、市域屈指の舟運の拠点として栄えた西金野井の江戸川改修以前の状況を示した貴重な資料であると評価されます。

 

さて、冒頭の件ですが、藤の花言葉は「歓迎」だそうです。まさに、入り口に展示するに相応しい、と思いますが、いかがでしょうか。天候不順が続きますが、変わりゆく郷土資料館の展示を、ぜひご覧ください。

【9月16日】 #今日は何の日? in春日部

今から74年前の9月16日は、カスリン台風による水害が発生した日です。 #かすかべプラスワン

昭和22年(1947)9月14日朝から降り出した雨は、15日には強くなりました。いわゆるカスリン台風(カスリーン・キャサリンとも)による豪雨です。台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつありましたが、台風の接近に先立って秋雨前線が活発化し、豪雨がもたらされました。この間の雨量は秩父で県内最高611ミリメートルを記録しました。

16日0時20分ごろには利根川流域の栗橋(久喜市)で水位が9メートル以上に達し、その10分後、埼玉県東村(現加須市)の新川通地先で、堤防が350メートルにわたり決壊、洪水は古利根川筋を南下しながら、埼玉県東部(中川低地)を飲み込み、東京都江東区まで進行しました。

当時の状況は『昭和22年9月埼玉県水害誌』(以下、『水害誌』)に詳しくまとめられています。

これによれば、春日部市内に利根川の洪水が実際に達したのは、9月16日の午後から夕方ごろのようです。東村の堤防決壊から半日あまり時間が経過していました。とはいえ、幸松村では、洪水が達する以前、午後2時頃から新倉松落や旧倉松落などの水路が相次いで決壊するなど、大雨による河川の逆流などもあり、被害が出ていたようです。

16日の夕刻を過ぎると、南桜井村・幸松村で浸水がはじまり、午後11時には春日部町境の隼人堀が氾濫し、内牧・梅田でも浸水が始まります。17日午前0時には宝珠花村の水田が濁流で浸水、午前5時には春日部町の川久保地先で古利根川が決壊し、町域の南部・町並の一部が浸水しました。午前10時には古利根川の春日橋が流失、午前11時には豊野村に幸松村方面から押し寄せた濁流により、全村浸水。同刻には武里村の字備後で古利根川が越水(午後1時決壊)。正午には川辺村の字水角・赤崎・飯沼・米崎、米島・中野(現東中野)の一部が濁流に覆われました。

利根川の洪水(濁流)の進行の経過は、『水害誌』所収の図に図示されています。古利根川や庄内古川を画して、濁流の進行状況が異なったことがうかがえます。赤い実線は16日、赤い破線は17日の洪水進行状況を示しています。読み取りづらい部分もありますが、市域では古利根川以東の地域の濁流進行が早く、豊春村・武里村では徐々に浸水が進行していったようです。また、台地や発達した自然堤防などの高台は浸水を免れたこともわかります。

 画像:浸水図

『水害誌』の付録である『附録写真帳』には当時の貴重な写真が掲載されています。下の写真は武里村で撮影されたものです。武里村の水防団が警戒する様子がみえます。このほかの市内の写真は「かすかべデジタル写真館」で紹介しています。

写真:武里村の状況

浸水位(深さ)は幸松村で「床上六尺以上」(床から約180cm)と報告されています。市内では6日以上湛水(水がひかない)地域もあり、高台や水塚(土盛りした建物)の上で生活する方も多く、1か月もの間避難する方もいました。農作物や橋の被害、家屋の浸水、流失・半壊する家も多くあり、大変な被害をもたらす災害となりました。また、水が引いた後の掃除も大変だったとの聞き取り記録もあります。

カスリン台風の発生から70数年が経過し、災害を経験した方も少なくなってきています。カスリン台風時には、明治43年(1910)の水害を経験した方がまだご存命で、その経験で助かった命も少なくないと聞いています。先人の経験をきちんと知り、伝え、それを学ぶことで、私たちやみなさんの暮らしの「備え」にきっとなるのではないかと思います。

春日部市では、最近「災害ハザードマップ」をリニューアルしました。こちらもぜひお目通しください。

 

参考文献 『昭和22年9月埼玉県水害誌』(埼玉県、1950年)、『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会、2013年)、カスリーン台風70年特集サイト(カスリーン台風70年実行委員会)

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