ほごログ(文化財課ブログ)

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#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その5)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、戦後そして現代に至る、春日部市のまちづくりとフジの関係について紹介します。

昭和30年(1955)8月22日、牛島のフジは、国の特別天然記念物に指定されます。今もなお、「特別」天然記念物のフジは唯一であり、牛島のフジは春日部を象徴するものとなります。春日部市では、現在にいたるまで牛島のフジを由来として、藤を活用したまちづくりを進めています。昭和48年(1973)10月、春日部市制20周年を記念して、フジを市の花と制定されました。

昭和54年(1979)には市の花フジ147本を植樹した街路「ふじ通り」が整備され、同57年5月以来、「ふじ通り」では「春日部藤まつり」が開催されました。記念すべき第一回藤まつりの写真が遺っています。

写真:第一回藤まつり

横断旗をもつ高校生の服装が時代を物語りますね。

また、第一回藤まつりの開催を記念して「藤音頭」が制作・制定され、レコードが頒布されました。「藤音頭」の作詞は国語学者金田一春彦、作曲は山本直純、歌い手は原田直之でした。藤音頭発表会の貴重な写真も遺っています。

写真:藤音頭発表会

金田一先生にもお越しいただきました(右から5番目の椅子に座ってらっしゃいます)。

平成4年(1992)には、全国の藤にゆかりのある市の代表者が集まり、都市づくりの会議「藤の都市サミット」が開催されました。平成4年の第1回サミットは、静岡県藤枝市において開催され、フジを市の花に定めている全国の市の代表者が集まり、都市づくりについて話し合うものでした。これも貴重な写真が遺っています。

写真:藤サミット第1回

前列左が三枝前市長です。平成6年(1994)には春日部市を会場として第二回藤の都市サミットが開催され、ふじ通り沿いで、谷原二丁目交差点付近にある公園「ふじ広場」に、参加した藤の都市の首長らによって、フジが植樹されました。藤の都市サミットは、残念ながらその後立ち消えとなってしまったようです。
平成17年(2005)、旧春日部市・旧庄和町合併後、同19年2月21日にはフジが新市の花として指定されます。ちなみに旧庄和町の花は「ショウブ」でした。新市においても、旧庄和町のシンボル「大凧あげ」と融合した大凧マラソンのイメージキャラクター「ふじだこくん」や「藤テラス」といった新たなイベントなども生まれています。春日部の特産品「押絵羽子板」でも「藤娘」が好まれて製作されています。

今年はコロナ禍により、藤まつり、藤テラス、牛島の藤の公開と藤に関するイベントが軒並み中止となってしまいました。しかし、藤の花の季節は過ぎましたが、季節を問わず、市の花フジを楽しませてくれるものがあります。その代表例といえるのがこれ。

写真:春日部市のマンホール

マンホールです。粕壁地区の学校通りで撮影しました。これは彩色されていますが、色のないバージョンや少し小ぶりなものもあるようです。春日部市では、まちづくりのなかで市の花フジをモチーフにした制作物がとり入れられてきました。普段は見過ごしがちな日常の風景のなかにも、まだまだフジが隠れているかもしれませんよ。個人的にも、展示のためのマンホール捜し、結構楽しかったです。

余談ですが、先日、とあるテレビで、春日部親善大使のあるタレントさんが、巷で人気の漫画・アニメ「鬼滅の刃」の藤は春日部の藤(牛島の藤)だと話し、春日部をPRされていました。「鬼滅の刃」は架空の話でしょうし、根拠がないので「聖地」ではないようですが、春日部の代名詞である藤の花に再びスポットがあたるといいですね。

次回はいよいよ「藤のまち春日部」展の最終回。牛島の藤に訪れた著名人について紹介したいと思います。

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その4)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、昭和初めに国の天然記念物に指定され、ますます有名になっていく「牛島のフジ」(国特別天然記念物)について蘊蓄(うんちく)を語ります。

昭和3年(1928)1月18日、「牛島のフジ」はに国指定天然紀念物に指定されました。当時、埼玉県の天然紀念物としては5つ目でした。国会図書館デジタルコレクションで当時の『官報』を御覧いただけます(2コマ目左下段)が、『官報』上の表記は「牛島ノ藤」だったのですね。

ところで、国指定の文化財といえば、先日、市内の西親野井地区の神明貝塚が国の史跡に指定されました。市内では「牛島のフジ」に次いで2例目の国指定となりました。神明貝塚の例のように、国の文化財の指定にあたっては綿密な調査・研究が積み重ねられ、学術的な評価・価値づけがされた上で指定となります。同様に「牛島のフジ」も、当時の国の調査団による調査が行われ、価値付けがなされています。

調査は指定を遡る数年前の大正末年、植物学の大家で、日本に天然記念物の概念を広めた三好学(理学博士)の指導のもと、内務省の名勝天然紀念物保存調査会により調査されました。当時の調査報告『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第35号(大正13年刊・98~99コマ目)によれば、「世ニ紫藤ノ大ナルモノナキニ非ザレドモ未本樹ノ如ク著シキモノアルヲ聞カズ、天然紀念物トシテ指定セラルベキモノト信ズ」と評価されています。つまり、藤の大木は無くはないが、「牛島のフジ」ほどものは未だに聞いたことがないので、天然紀念物に指定すべきだと評しています。同時に保存要件としては、根・幹・枝の損傷を防いで、適切な施肥をすることも指摘されています。

前にも触れた通り、明治時代には、花房を取ったり、和傘でさして藤花の下を(おそらく傘で花を痛めつけながら)くぐる観覧客がいました。天然紀念物に指定されることによって、「牛島のフジ」は国内有数の保存されるべき樹木として位置づけられることになったのです。

一方で、「牛島のフジ」の国指定は、結果として観光資源としての価値を高めていくことにも繋がりました。大正末の新聞紙上では内務省の調査団が訪れ、国指定に向けて期待する声が報じられていましたし、国天然紀念物の指定直後の5月には、関係諸氏を招き開催された祝賀会が開催されています(下の写真・かすかべデジタル写真館より)。

(クリックすると大きな画像が御覧いただけます)

さらに、昭和5年(1930)には『世界一藤のかすかべ』と題された、「牛島のフジ」を中心とした粕壁町・幸松村の観光ガイドブックが発行されています(館蔵)。明治時代には「関東一」だった「牛島のフジ」は「世界一」へと成長を遂げていったのです。国天然紀念物指定以降、「牛島のフジ」は国に認められた古木として、ますます多くの人々に知られるようになり、のちに春日部のシンボルにもなっていきます。

しかし、国の天然紀念物指定の本旨は、観光資源化でなく、その保存です(そういえば昨年は「史蹟名勝天然紀念物保存法100周年」でした)。表向きには華やかに「国の天然紀念物」と騒ぎ立てることは結構なのですが、その裏側の保存・保全にも光をあてるべき、と文化財行政に携わる職員として思います。こんなことを書くと、「観光マインドがない」と揶揄されてしまいそうですね。

「牛島のフジ」に関していえば、国指定以降、適切に保存・保全され、さらに戦後に施行された文化財保護法のなかで、昭和30年(1955)8月22日に国の特別天然記念物に指定され、今日まで保存・保全されてきています。昭和3年の国指定が今日までの「牛島のフジ」の保存・保全の起源となったといえ、こうした保存・保全の経緯があってはじめて「牛島のフジ」は存在しえているのです。

また、指定後のブランディングにも問題があるようです。「国指定」の冠を前面に押し出した刊行物等をみると、指定以前の由来や歴史が捨象される傾向が読み取れます。「国指定」のブランド力が強いため、中身が伴わず、空虚な価値付けに終始するものが多いようです。牛島のフジに関する伝説は昭和5年(1930)刊『世界一藤のかすかべ』が初見だったりします。

ですから、この#エア博物館「藤のまち春日部」展では、「国指定」以前の、「国指定」に留まらない牛島のフジの魅力を歴史のなかに見いだそうとしてきました。

藤の花は、もうすっかり散ってしまいましたが、あと2回ほど「牛島のフジ」に関する#エア博物館#おうちミュージアムにお付き合いください。

#エア博物館 「藤のまち春日部」展の紹介(その3)

前回に引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、明治32年(1899)の東武鉄道開通以後の「牛島のフジ」(国特別天然記念物)についての蘊蓄(うんちく)。

前回ご紹介したように、千住馬車鉄道の開通もあり、「牛島のフジ」は東京の人々にも徐々に知られていきましたが、どうやら、東京近郊の名所として多くの人々に知られるのは東武鉄道開通後のようです。どうしてそのように考えられるのか。理由の一つとして、「牛島のフジ」に関する文献・資料は、明治32年以前のものは極端に少なく、鉄道開通以降、増えるということが挙げられます。新聞や著名人の紀行文だけでなく、地元粕壁でも、明治33年(1900)5月に『粕壁藤の紫折(しおり)』(当館所蔵)という観光パンフレットが発行されています。こうした刊行物・新聞や前回紹介したような絵葉書などによって、「牛島のフジ」はより多くの人々に知られるようになり、汽車を利用して、気軽に日帰りで訪れる東京近郊の名所地として確立されていきました。

また、5月には東武鉄道沿線では、牛島のフジとならんで、館林のツツジも花盛りを迎えます。東武鉄道では、フジの花盛りの季節に粕壁までの鉄道運賃を割引とし、東京の観光客を取り込もうとし、沿線に花の名所を位置づけていくことで、鉄道利用者を増やそうとしていったようです。例えば、田山花袋と牛島のフジを観覧した大町桂月は、東京から東武鉄道を利用して館林のツツジを観覧した後、田山と牛島のフジに訪れています(『東京遊行記』)。藤の花が満開を迎えるころには、一日の乗客が3000人に及んだといいます(『東武鉄道線路案内記』)。当時、最寄りの停車場である粕壁駅前には汽車や人力車の待合茶屋が設けられいた(『埼玉県営業便覧』)ことも考えると、藤のシーズンには粕壁は観光客で大変賑わったことでしょう。

さて、今回紹介する資料は、東武鉄道開通以後の明治40年(1907)の紫雲館の領収書です。 

写真:紫雲館領収書

紫雲館とは、牛島のフジの所在する庭園「藤花園」内にあった料亭です。紫雲館については、『東武鉄道線路案内記』(明治37年刊行)に「曽(かつ)て清浦法相観覧の砌(みぎり)、当園を紫雲館と命名せられり、今其遍(ママ)額を掲けあり、園内には紫雲館と称する賃席料理店あり、閑雅にして客室清浄川魚の名物なり」(32コマ)とあります。

清浦法相とは、当時司法大臣で、のちに総理大臣となる清浦奎吾(1850~1942)のこと。清浦奎吾は、若い頃に埼玉県の官吏でもあり、埼玉県東部地域とゆかりが深い人物です。紫雲館という名は、この清浦が命名したといい、能筆家でもあった清浦の扁額もあったと記されています。園内の紫雲館は静かで趣が深く清潔な賃席料理店であり、川魚料理が名物だったといいます。

 さて。この紫雲館の領収書は、明治40年5月13日のもの。粕壁町の篤志家であった山口万蔵が利用したときのものです。料理代・席料として2円95銭が計上され、そのほか「大和弐ツ」の代金として14銭を領収しています。「大和」とは酒か何か品物の銘柄なのでしょうか、詳細は不明です。あるいは「大和」と読んでいいものか微妙な字なのですが。いずれにしても、『東武鉄道線路案内記』が紹介しているように料理を出す施設であったことがうかがえます。

そして、学芸員一押しなのが、この領収書のハンコです。展示会ではココを皆さんにご覧いただきたかった!

ハンコの部分を少し拡大して撮影した写真が下のものです。

写真:領収書のハンコ

薄くてよくみえないのかもしれませんが、原物も薄いのでご了承ください。

ハンコには「藤花園章」と刻まれています。一押しは紫の朱肉です。藤ですから、藤色と言うべきでしょうか。なんとも洒落ているではありませんか!

この藤色の朱肉から、「閑雅」な紫雲館の情景が読み取れる(のではないかと個人的には思う)とてもいい資料だと思います。収蔵庫から(偶然)見いだした時、結構感動したんですよ。

なお、今年は、牛島のフジの公開は中止となりました。4月30日、花盛はちょうど最高の状態だそうです。残念ですが、藤の花も、フジをみながら語る蘊蓄も、来年まで楽しみにしておきましょう。

次回も#おうちミュージアム 牛島のフジの蘊蓄にご期待ください。