ほごログ
【常設展】須釜遺跡出土土器を展示替えしました
郷土資料館常設展示の弥生時代のコーナーでは、須釜遺跡の再葬墓から出土した弥生時代中期(約2,000年前)の土器を展示しています。
須釜遺跡の概要についてはこちら→須釜遺跡再葬墓出土遺物一括-指定文化財でめぐる春日部
これまでは、遺跡発見のきっかけとなった1号再葬墓の土器を展示していましたが、このたび4号再葬墓から出土した土器に展示替えしました。
4号再葬墓は、須釜遺跡でも変わった再葬墓で、ほかの再葬墓では複数の土器が1つの穴から出土したのに対し、4号再葬墓では、今回展示する土器、1つだけが出土しました。
出土した土器は壺形で、やや高い位置に最大径をもつプロポーションがとても整った土器です。胴の部分には、縄文をつけた上に、棒の先のようなもので、花のように、円から四方向に楕円形がのびるモチーフが4つみられます。
底には穴があけられ(底部穿孔:ていぶせんこう)、墓に使う土器として、日常の土器とは区別されました。さらに、割れた部分を再度つなげるために使う穴(補修孔:ほしゅうこう)もみられます。
土器の表面には籾(もみ)がはりついていたあと(籾圧痕:もみあっこん)があります。(展示では籾圧痕の部分にシールを貼っています。)
制作途中の弥生土器の表面に籾がつき、土器を焼いた後にそれが圧痕として残ることは、考古学では古くから知られていました。近年、圧痕と思われる穴にシリコンを入れ型どりしたレプリカを作成し、それを電子顕微鏡で観察することにより、何によってできた穴かを調べる「レプリカ法」が考古学でも積極的に使われています。レプリカ法により籾だけでなく、植物の種、茎など、さまざまなものが土器に圧痕として形を残していることがわかってきています。
須釜遺跡では、4号再葬墓の土器のほかにも籾や玄米の圧痕が残された土器が6個体出土しており、弥生時代の春日部には、確実に米が存在していたことを示しています。
ぜひご来館いただき、実物をお確かめください。
4号再葬墓出土状況
4号再葬墓出土土器の底の穴(底部穿孔)
4号再葬墓出土土器表面の籾のあと(籾圧痕)
4号再葬墓出土土器
緑小学校で出張授業を行いました
11月7日(土)に緑小学校の6年生を対象に縄文体験教室の出張授業を行いました。約3か月ぶりの出張授業は、土曜授業の日となりました。
子どもたちによると、社会科の授業は江戸時代の徳川家光の頃まで進んでいるとのことで、縄文時代がどんな時代だったかと聞いてみるも、苦笑いで答えに詰まる様子もあり、授業での印象も遠のいていたようにも感じられました。
▲春日部市内にも縄文時代の遺跡があることを知り、真剣に授業を受けてくれました。
▲石器のコーナーでは切れ味の体験だけでなく、石器の原料となる石材がどこからやってきたのか学びます。遠いところとの交易によってもたらされたものと知り、驚く様子もみられました。
子どもたちも授業が終わるころには、だんだんと縄文時代について学んだことを思い出した様子で、問いかけにも応じてくれました。本日のように平日だけでなく土曜授業の場合でも出張授業に対応しますので、ご依頼お待ちしています。
花積って思いのほか有名な地名です(広報補足その4)
引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #考古学 をかじった人は必ず知っている「花積」の #縄文土器 について。 #かすかべプラスワン
広報の記事では、次のように紹介しました。
花積って有名な地名
花積は、考古学をかじった人は必ずしっている地名です。なぜなら花積下層式土器という「花積」の地名がつけられた今から約7千年前の土器の型式になっているからです。
花積には貝塚があり、周辺に比べて小高いため、東京湾が春日部まで広がっていた時代に陸地だったことが実感できます。
花積には、花積貝塚という、県内では数少なく、学術上欠くことのできない縄文時代の貝塚が所在します。なぜ学術上欠くことができないのか。それは、花積下層式土器(はなづみかそうしきどき)の標式遺跡だからです。標式とは、聞きなれない言葉ですが、考古学で一つの型式を的確に示すことのできる典型的な遺跡・遺物を指すものです。考古学上、花積下層式土器という土器の型式を決定づけた遺跡ということです。
花積貝塚は、明治時代中頃には既に貝塚として知られていましたが、広く知られるようになったのは、昭和3年の大山史前学研究所による発掘以後になります。大山史前学研究所は、軍人であり考古学者でもある公爵・大山柏が邸宅内に設置した遺跡の調査研究機関です。
大山史前学研究所の発掘調査により、花積貝塚の貝層は中間に土層を隔てて二層あり、上部貝層から勝坂式土器が多く出土したのに対し、下部貝層からは蓮田式土器が出土しました。のち、後者の蓮田式土器は細分類され、花積貝塚の下層からはじめて発見された土器型式は甲野勇により「花積下層式土器」と命名され、縄文時代前期初頭の土器型式と定められます。
花積下層式土器は、胎土中に繊維を多量に含み、羽状縄文(右撚りと左撚り縄をつなげて文様をつけたもの)や、撚糸(よりいと)が「の」の字形に押し付けられた文様が施されている特徴があります。
大山史前学研究所が発掘した花積下層式土器はこちら。
花積貝塚では戦前の調査でも、その後の調査でも花積下層式土器は破片のみの出土であり、完全な形の花積下層式土器は発見されていません。素人考えだと、完形の土器が出土していないのに、なぜ花積下層式土器はかくも有名なのだろうか、と思うところですが、戦前、大山史前学研究所を中心とする考古学者たちが、小さな土器片であっても、資料に基づき実証的に土器研究を積み重ねてきたため、現在も花積下層式土器という土器型式名称が学術用語として使われ、広く知られているのです。
残念ながら、大山史前学研究所は昭和20年5月の空襲に遭い、収蔵していた貴重な資料は焼失・散逸してしまいました。花積下層式土器の命名の基になった写真の土器は、失われてしまいました。
花積下層式土器は、縄文時代早期と前期を結ぶ学術上重要な土器型式であり、今後の研究も期待されているようです。と同時に、考古学と春日部を結ぶ重要な土器でもあります。
郷土資料館でも、縄文土器について詳しいお客様から、花積貝塚・花積下層式土器についての展示が貧弱だと、たまにお叱りをいただきます。花積貝塚・市内の遺跡から展示に耐え得る花積下層式土器の出土例が乏しい事情をお話して、陳謝することもありますが、「花積」の名が付いた土器から、春日部に興味をもってくださる方もいらっしゃるのです。
次回は、粕壁の大池についてです。
参考文献 『春日部市史 考古資料編』、阿部芳郎『失われた史前学 公爵大山柏と日本考古学』(岩波書店、2004年)
懐かしい暮らしで元気に
11月8日(日)市内の高齢者施設の方々が #春日部市郷土資料館 を見学されました。 #かすかべプラスワン
みなさん、高度経済成長前後の生活道具をご覧になって、「若いころちゃぶ台を使っていた」とか「炭を使って、アイロンを使った」など、昔のことを懐かしんでお楽しみいただけたようです。
郷土資料館はデイサービスなど、高齢者施設の方々の見学も歓迎しています。
なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。団体でご見学を希望される場合は、事前にご相談いただければ幸いです。
郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました
令和2年11月7日(土)に、郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました。
江戸打ち紐を使い、10㎝程度の小さなぞうりを編み込んでいくもので、毎年参加者の方にはご好評いただいている企画です♪
ミニぞうり作成前には、郷土の歴史に親しんでいただくため、職員が春日部市域にまつわる伝説の紙芝居を朗読しました。
職員の説明を聞きながら、皆さん丁寧に編み込んで綺麗なミニぞうりを完成させていました。
講座終了後のアンケートには、難しかったけど楽しかったというご意見をたくさんいただき、充実した時間を過ごしていただけたようで私共もうれしい限りです。
こちらはミニぞうりの見本です。飾りにぴったりミニサイズ♪
郷土資料館では、今後も新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底しながら、講座などの企画を行っていく予定です。
広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!
【体験ワークショップ】埼玉県民の日(11月14日)パタパタをつくろう
11月14日(土)の埼玉県民の日、体験ワークショップをおこないます。
体験ワークショップでは、手作りのおもちゃを作ったり、蓄音機(ちくおんき)でレコードの音楽をきいたりします。
今回作るおもちゃは「パタパタ」です。板返しとも言って、上から下へ板がパタパタと音を立てて裏返っていく、ちょっと不思議なおもちゃです。
申し込みはいりません。午前10時30分と午後2時からそれぞれおこないます。
県民の日は、郷土資料館でおもちゃを作って、たのしく遊びましょう。
体験ワークショップ「パタパタをつくろう」
日時:令和2年11月14日(土)午前10時30分~・午後2時~
場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)
作るおもちゃ:パタパタ(板返し)
蓄音機の上演もあります。
費用:無料
申し込み:不要。予定の時間に郷土資料館におこしください。
*参加者多数の場合、人数制限をさせて頂く場合がございます。当日、会場で検温させていただきますが、体調の悪い方は参加をお控えください。またマスクの着用をお願いします。
放送大学の方が、郷土資料館を見学しました
令和2年11月1日(日)に放送大学の学生の方が、面接授業「埼玉の街道」の一環として郷土資料館を見学
されました。
皆さん歴史に興味のある方なので、学芸員の解説に深く頷きながら聴いている方や、メモを取られる方、常設展示のパンフレットを手に取る方も多くいらっしゃいました。
資料館を見学した後は、粕壁宿の現在の街並みを見学に行かれました。
今回は20名の幅広い年齢層の方にお越しいただきました。
郷土資料館が皆さんの学びの一端となれば幸いです。
郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡の上、ぜひご来館ください。
「1960年代の春日部」の写真を掲示しています
夏季展示でご好評いただいた「1960年代の春日部」展で使用した写真を、資料館入口横の掲示板に展示しています。
しばらくの間、定期的に入れ替えながら展示します。
教育センターにお越しの際は、ぜひご覧ください。
また展示する写真を掲載した展示図録は、下記のリンクからPDFをご覧になれます。
(PDF)1960年代の春日部(春日部市郷土資料館)(2.4MB)
船も車も通れる橋(広報補足 その3)
引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は庄和北部の西宝珠花の、江戸川に架けられていた橋「宝橋」について。川舟を並べ、その上に板を渡して橋にした船橋でした。 #かすかべプラスワン
人工の河川である江戸川は、その開削以来、舟運が大変盛んな河川であり、西宝珠花は河岸場の町として賑わった集落でした。宝珠花は、中世以来の郷村であり、江戸川が開削されたため、西宝珠花と東宝珠花(千葉県野田市)に「分断」された地域でもありました。そのため、江戸川に隔てられていても、東西の交流は盛んで、渡船場もあったようです。
しかし、明治時代以降の河川改修により、江戸川の川幅が広がり、堤防もかさ上げされ、さらには、東武鉄道の粕壁駅や杉戸駅に連絡する自動車の交通量が増加してきてことにより、架橋への要望が高まっていきます。
大正13年(1924)、西宝珠花の有志が宝橋組合を結成し、県内でも珍しい船橋を架橋しました。永久橋でなく、船橋とした理由は、未だ舟運業が盛んであり、蒸気船や和船の航行を妨げないためでした。郷土資料館では、宝橋組合の資料を保存していますが、そのなかに、次のような宝橋の設計図面があります。
図面から読み取れるように、合計11艘の舟が板橋を支え、中央部の舟が旋回することで、幅11.2mの舟が通過できる航路をつくりました。
宝橋の架橋によって、舟運業を妨げず、自転車・自動車・リヤカー・人力車など、渡船では向こう岸に渡りづらかった車両も通行することが可能となりました。橋の維持管理のため、通行料が必要な有料の橋でした。通行の回数券や定期券も発行されていたようです。
戦後、自動車輸送が普及し、江戸川の舟運が衰退していくと、県道の整備にあわせて、宝橋を永久橋に架け替えすることが計画され、昭和33年(1958)3月、鉄筋コンクリート製の宝珠花橋が架橋されました。橋開きの当日には、西宝珠花・東宝珠花の両岸の住民が押し寄せ、混雑した様子がうかがえる古写真もあります。
「船も車も通れた」というのが、舟運と陸運が共存していた当時の市域の交通事情を象徴しているようです。わたしたちが、普段は何気なく渡っている橋にも、そこに橋が架けられた経緯があると思いを巡らせると、ワクワクするのは私だけ!?
次回は、豊春地区の花積、花積下層式土器の話です。
武里中学校が、郷土資料館を見学しました
令和2年10月29日(木)に武里中学校特別支援学級の生徒が、郷土資料館を見学に訪れました。
館内の竪穴式住居や宿場の模型を見学しながら学芸員の説明を受けました。
学芸員が説明をしながら質問やクイズをだしたところ、“勘がいいな~”と感じたり、“よく知っているな~”とこちらが感心してしまうような回答を聞く場面もありました。
今と昔の春日部市の航空写真を見比べて、武里中学校の場所が変わっていることに気付くと、
「ホントだ!」「えっ、知らなかった」という声が聞こえてきました。通っている学校の歴史を学ぶよい機会になったようです。
郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。
なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡、ご相談のうえ、ぜひご来館ください。
【常設展】 #博物館実習生 による展示【 #展示替 】
春日部市郷土資料館の常設展示の1コーナーを展示替しました。この展示は、8月にお手伝いいただいた博物館実習生の皆さんによるプロデュース展示です。 #かすかべプラスワン
展示のテーマは「道具を受け継ぐ」。粕壁地区の大工さんの道具について寄贈者ご本人から聞き取り調査し、調書を作成、キャプションもつくってもらいました。みなさん、真剣に、そして懸命に資料を一つ一つ丁寧に調査し、どうしたらご覧いただくみなさんに伝えたい事が伝えられるのか、苦心しながらキャプションをつくってくれました。そのときの記事はこちら。資料の陳列まで実習でできれば、良き実習だったのですが、時間切れ。少し時間が経ってしまいましたが、このたびその成果をお披露目することになりました。
今年の12月末まで展示予定です。ぜひ、ご覧ください。
松栄学園高等学校が、郷土資料館を見学しました
令和2年10月22日(木)に松栄学園高等学校が、課外授業の一環として郷土資料館を見学に訪れ、竪穴式住居や粕壁宿の模型を見学しながら、学芸員の説明を受けました。
粕壁宿の模型を見ながら、宿場の特徴を答えてもらったところ、「畑が多い」「建物が整っている」など、計画的に整えられた町場の雰囲気を感じ取ってくれたようです。
千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験後の自由時間には、生徒さんが各展示コーナーに散らばり、幅広く見回ってくれたことが印象的でした。
郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。
なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡、ご相談のうえ、ぜひご来館ください。
春日部にあった競馬場(広報補足 その2)
前回に引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足説明です。今回は、春日部市幸松地区小渕にあった競馬場のこと。 #かすかべプラスワン
戦前の競馬は、富国強兵のため軍馬資源の確保・産馬の奨励といった国策のために行われたものが主でした。春日部市内の競馬場は、「春日部競馬」と呼ばれ、昭和15年(1940)9月から昭和22年(1947)まで、小渕の地で開催されました。
当時の競馬は、軍馬資源保護法による「鍛錬競馬」であり、軍用保護馬と指定された馬のみ出走が許されたものでした。埼玉県では、羽田競馬・川崎競馬と並んで三大競馬と称された大宮競馬場が隆盛していましたが、昭和13年(1938)の軍需工業動員法により飛行場の用地とされ廃止され、新たに春日部の小渕の地が、当時県内唯一の競馬場として選定されました。
施設は、大宮競馬場の古材で建て、投票券の印刷、出馬表の印刷などは、毎朝浦和からオート三輪で運び、番組編成員は八丁目の仲蔵院でガリ版切りなどをやったと伝えられています。
ただ、売り上げは不振で出走頭数、入場人員も最低。昭和18年(1933)末には軍需工場に貸与され、競馬は一時中断されるに至りました。
戦後、鍛錬競馬の元になった軍馬資源保護法が廃止されると、俗にいう「ヤミ競馬」が始まります。春日部では2回延べ8日間、開催されました。
昭和21年(1946)11月に地方競馬法が制定されると、県内唯一の春日部競馬で地方競馬が1回延べ6日間開催されました。しかし、売り上げが悪く、また浦和の熱心な競馬場誘致もあって、昭和23年(1948)に浦和競馬に移転され、春日部競馬場の歴史は幕を下ろします。
残念ながら、当時のことを示す資料は、昭和23年(1948)の埼玉県庁の火災により、焼失したといわれ、詳しいことはよくわかりません。地元小渕の方によれば、お父さんが農閑の合間に馬券販売の手伝いをしたと話す方もいますが、競馬場があったという記憶は薄れつつあります。ちなみに、春日部競馬ではなく、「粕壁競馬」と書く文献もありますが、当時の一次史料が見出されていないため不明です。今回は、『埼玉県競馬史』にならい、「春日部競馬」としました。
広報かすかべにも掲載しましたが、春日部競馬場を物語る資料の一つに、航空写真があります。
戦後(昭和22年)に米軍が撮影したもののほか、昭和20年代の写真には、古利根川沿いの小渕一帯に、楕円形の馬場の跡が認められます。下の写真参照(国土地理院空中写真より)。この場所は、小渕の河畔砂丘が分布するところで、砂地を利用したダート馬場であったことが想像されます。競馬場が選定された当時、食糧を生産する農地をつぶすことは困難だったため、砂丘と桃畑の果樹園を走路として1000mの馬場がつくられたそうです。
昭和35年(1960)競馬場跡地にはアンデスハムの工場が建設され、現在も国道16号沿いの工場として利用されています。
現在、競馬場の跡はありませんが、古利根川沿いの小渕周辺には、河畔砂丘と呼ばれる内陸型の砂丘の痕跡があり、高齢者施設の幸楽荘の敷地や、近隣の寺社の境内などは砂地になっています。砂丘の地に足を運んでいただき、かつて競馬場であったことに思いをはせてみてはいかがでしょうか。
次回は、西宝珠花の船橋・宝橋について紹介する予定です。
参考文献 田辺一夫編『埼玉県競馬史』(埼玉県競馬主催者協議会、1965年)
【歴史文化講演会】震災後の粕壁町【 #藤羊羹 #桐箪笥 】
令和2年10月17日(土)、昨年度に引き続き、大川明弘先生をお迎えして、古地図から #関東大震災 前後の #粕壁町 の歴史について読み解く講演会を開催しました。
今回は、ちょうど100年前の大正9年(1920)から、昭和10年(1935)ごろまでを対象に、粕壁町の震災被害状況や産業の移り変わりを、諸資料に基づきながらお話しいただきました。
ご講演では、県内三大被災地とされた粕壁町の被害状況はもとより、桐箪笥生産額が大正14年(1925)以降、町の工業生産額の第一位になり、町内の桐箪笥産業が震災後に隆盛すること、牛島のフジの国天然記念物指定の後に町内の飲食業などサービス業に変化がみられることを明らかにされました。昭和初期には町内の菓子店で「藤羊羹」なる名物(現在はない)を販売していたそうです。近現代の春日部を象徴する藤や桐箪笥産業の礎、また小学校校舎の建設など教育の礎が関東大震災の復興期に形成されていくと見通されるお話でした。
これまで、市内の近現代史は、地元の方の記憶・伝承に基づいて叙述されることが多かったように思えます。しかし、粕壁のご出身の大川先生は地元の記憶や伝承に加えて、これまで検討されたことのなかった「粕壁町勢要覧」(粕壁町の統計資料・当館所蔵)や「粕壁小学校震災文集」(当館寄託)などの諸資料に基づいて事実関係を実証されました。その点で、非常に有意義なお話であったと思います。
会場からは、桐箪笥産業は江戸時代まで遡ると聞いているがどうなのか、など鋭い質問が投げかけられました。大川先生のお話の趣旨は、震災後に卸問屋業が増え、箪笥生産量が増加していくというものでした。先生も応答されたように、実は、江戸時代・明治時代の市内の桐箪笥産業のあり方について、よくわからない部分が多いのです。ご講演により、今後の課題が明らかになったのだと思います。
受講者の方からは、「市内のなかで粕壁は魅力ある地域だと思った」や「ますます春日部が好きになった」など、うれしい声もありました。地元の先生が郷土の歴史を紐解くことで、郷土愛・地元愛が育まれる。大変有意義な講演会でした。
藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました
令和2年10月20日(火)に藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。
市内の小学校3年生あてに配布した「たんけんシート」をもってきて、昔の暮らしや道具について、学芸員から説明を受けました。
千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験、「力がいる」「たいへん」といった感想のほかにも、「楽しかった」「気持ちよかった」などの声もあり、昔の苦労と知ると同時に新鮮な体験を楽しんでくれたようです。体験後はコロナ対策のためアルコール消毒もしっかりしました。
「オリジナルスタンプには行列が!」
みんなマスクを着用して、順番をよく守っていましたね♪
「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。
昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。
【更新】収蔵資料の紹介【祝・50点達成】
春日部市郷土資料館のホームページでは、展示しきれない、まちの歴史を物語る重要な資料を多くの方に知っていただくため、ほそぼそと収蔵資料の紹介をしています。この夏、博物館実習生の大学生のみなさんに協力いただき、今回5件の資料を紹介することができました。
実習生には、調書作成から、写真撮影、解説文の作成に至るまで取り組んでもらいました。その時の実習生による報告はこちらです。今回紹介するものは、いずれも春日部の歴史を語る上では重要な資料です。
亀田鵬斎書の看板は、粕壁の老舗の薬種問屋金子家に伝来した看板です。亀田は、江戸時代の有名な書家で、金子家に滞在したお礼に書をしたためたと伝えられています。宿場町粕壁における文化的交流を知るうえで貴重な資料といえます。
世界一藤のかすかべは、昭和5年に刊行された粕壁町や牛島のフジの観光案内書です。当該期の歴史的公文書など、まとまった資料が少ないなかで、国指定天然記念物指定直後の牛島のフジや、粕壁町・幸松村の状況を知るうえで基礎資料です。
木崎六之助商店の取引先名簿は、粕壁町の桐箪製造の商店に伝来した商店の名簿です。春日部の桐箪笥は特産品とされていますが、歴史的な経緯については、具体的にわかっていません。市域の産業の歴史を再考する上で重要な資料といえます。
備後石井家伝来の俳額は、江戸時代の市域を代表する俳人・石井文龍を輩出した備後石井家に伝来したものです。神社などに奉納されたものと考えられますが、詳しい経緯はわかりません。ただ、武里地区を中心とする葛飾蕉門の流れをくむ人々による投句がみられ、江戸時代後期に地域俳諧が盛んだったことがうかがえる資料です。
陣屋稲荷狐像は、粕壁の陣屋地区で祀られていた稲荷社の奉納されていた狐像です。陣屋稲荷は、平成30年8月に解体・遷座してしまいました。近代の粕壁町内の稲荷信仰の一端を物語る資料です。
この5件を更新して、収蔵資料の紹介の点数が、漸く50件に到達しました。
豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました
令和2年10月16日(金)に豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。
今から約60年前の生活の様子について学芸員から説明を聞いたり、千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験をしました。
航空写真に乗っかって、約60年前という自分が生まれる前の春日部の様子を食い入るように見る場面もありました。
帰り際には、「もっと見たい!」「また来ます!」といったうれしい声も♪
マスクの着用や体験後の手指の消毒など、コロナ対策をばっちり行って、楽しい見学会となりました。
「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。
昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。
【広報かすかべ】まちのことを知ってみよう!補足(その1)
令和2年10月1日、春日部市は市制施行15周年を迎えました。10月1日は春日部市民の日です。 #かすかべプラスワン
市の広報誌「広報かすかべ」10月号では、市制15周年の記念して、特集記事「まちのこと知って、まちのことを発信してみよう!」が組まれました。
郷土資料館では、2面・3面の記事の内容を監修(?)しました。記事の内容は、市内8地区の意外に知らない、身近な歴史ネタを紹介したものです。郷土の歴史は「春日部らしさ」。なので、市制15周年を機に、身近にある「春日部らしさ」を再発見してもらいたいと願い、記事を書きました。
紙面に限りもありましたので、言葉足らずだった部分もありますので、この場を借りて補足説明をさせていただきます。今回はその第一弾「内牧編」です。
記事は次の通りです。
春日部唯一!?古代人の顔
内牧の塚内古墳群(市指定史跡)は、6世紀~7世紀につくられた約20基の古墳からなる古墳群です。このうち塚内4号墳からは、市内でも数少ない、人の形をした埴輪(はにわ)が発見されています。※古墳は全て私有地に所在し、一般公開はされていません。
埴輪の性別は男性です。郷土資料館で展示中。
郷土資料館ではおなじみの人物埴輪を紹介しました。顔を側面に、美豆良(みずら)とよばれる男性の髪型を模った造形の痕跡がありますので、男性の埴輪とされています。
市内では、内牧の塚内古墳群のほか、庄和南部の東中野地区の向之内塚山古墳の二地区に古墳が認められます。塚内古墳群は20数基確認され、向之内塚山古墳と合わせて、多くの埴輪片が出土しています。しかし、人や馬などを模った形象埴輪はわずかで、さらに人の形の埴輪は、紹介した人物埴輪が「唯一!?」です。実は、この「!?」がミソです。
人物埴輪の出土例は、塚内古墳群で数点確認されます。その一部が下の写真です。
首から肩・胸にかけての、人物埴輪の部分です。丸いものは首飾りを模っているのでしょうか。
残念ながら、顔面は失われており、どんな顔だちなのか不明です。このほかにも、人の形の埴輪の部位と考えられる欠片がいくつか発見されていますが、肝心のお顔は見つかっていません。
ですから、塚内4号墳は、顔だちがわかる埴輪としては市内唯一ですが、人の形の埴輪として「唯一」ではないのです。今後、新たに発見されるかもしれません。そうした期待も込めて、「唯一」ではなく「唯一!?」とした次第です。
長くなりましたが、補足説明でした。次回は、幸松編・競馬場の話を予定します。
【台風】古文書講座(初級編・中級編)中止します
令和2年10月10日(土)に開催予定の古文書講座(初級編・中級編)について、台風14号の接近が予想されていますので、受講者の皆さんの安全のため、中止といたします。
初回は、11月14日(土)となりますので、ご承知おきください。
皆さまのご理解のほど、よろしくお願いいたします。
【はじまりました】「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具」展
令和2年10月6日(火)より、小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」がはじまりました。
この展示では、今から約60年前の、道具やくらしの変化、そしてまちのうつりかわりを紹介するものです。小学校第3学年の社会科地域学習単元に対応した内容になっていますので、お子様でも楽しく学べる内容になっています。ご家族でぜひご利用ください。大人の方は、昔を懐かしんでいただける内容として、お楽しみいただけます。
この展示会は、毎年恒例なのですが、コロナ禍にあってハンズオン展示が難しいということもあり、今回は大幅に展示物や陳列方法を見直してみました。
担当者のおすすめは、新設した「切手と収蔵品でたどる20世紀」のコーナーです。
平成11年・12年に発売された20世紀デザイン切手を軸に、切手の図柄に描かれるゆかりの収蔵品を合わせて並べてみました。しかし、数万点はくだらない当館の収蔵品でも、昭和40・50年代の資料は乏しく、頭を悩ませました。
そこで、粕壁のレコード店に駆け込み、当時流行したレコードを捜し、陳列することにしました。ピンク・レディー「UFO」、ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」、山口百恵「秋桜」などがそれです。担当者は同時代を知りませんが、レコードジャケットの風合いが懐かしさを醸し出していると思います。そのほかにも、時代を象徴する出来事にゆかりの資料を展示していますので、ぜひご覧ください。
展示名:小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」
会期:令和2年10月6日(火)~令和3年3月21日(日)
休館日:月曜日・祝日・年末年始
入館料:無料