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ほごログ

八木崎小学校で出張授業を行いました

6月29日(月)に八木崎小学校の6年生を対象に縄文時代に関する出張授業を行いました。学習指導要領の改定や新型コロナウィルスの影響もあり、この時期までずれ込んでしまいましたが、今年度最初の出張授業となりました。

 

教科書では国特別史跡である千葉県の加曾利貝塚や青森県の三内丸山遺跡が取り上げられていますが、春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が身近にあること、実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。

神明貝塚の動画を見る様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲授業導入では神明貝塚の紹介動画と学校近くの遺跡を紹介。集中してみたり、メモしたり、一生懸命の授業風景です。

体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。

石器を使用して段ボールを切る体験

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲切れ味抜群の黒曜石の剥片。段ボールが難なく切れ込める、この切れ体験では毎年、歓声があがります。

1学期末まで各学校の依頼に応じて、この出張授業に取り組みます!

 

【 #常設展 】#春日部を踏みしめよう! 【 #土足歓迎 】

#春日部市郷土資料館 の常設展示は日々替わっています。今回は「空から春日部をみてみた」を追加しました。

空から春日部をみてみた

説明不要だと思いますが、要するに、春日部市域の航空写真を床に貼ってみました。手作りです。

写真は平成26年4月頃のものです。製作にあたっては、国土地理院の地理院地図を活用しました。

 

でも、ただ見るだけじゃ、つまらない。「見るんじゃない、感じるのだ」

ということで、郷土春日部を踏みしめましょう。「土足禁止」ならぬ、「土足歓迎」です。

ご自分のご自宅や学校・会社、市の施設がどこにあるか、目と足で感じ、探してみてくださいね~

春日部市の「へそ」をさぐる

春日部市の「へそ」はどこでしょうか。「へそ」とは、人の腹部にあるくぼみ(おへそ)のことですが、転じて、物の中央にあたる部分、物事の重要な部分の意でも使われます。春日部市の「へそ」を探る方法を思案すると、市域の中心地点(これを幾何的重心というそうです)が思い浮かびます。それを求めるのは複雑な数式を解かなければならないので、それは後考に期すとして、人文学的には次の二つのアプローチが思い浮かびます。

①仮説上の「へそ」 

最近の国勢調査では、全国の市町村別の人口重心が公開されています。

人口重心とは、人口の1人1人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が全体として平衡を保つことができる点をいいます。

平成27年の国勢調査によれば、春日部市の人口重心は、東経139度45分55.14秒 北緯35度58分16.1秒ということがわかりました。地図におとすと、ゆりのき通と東武線が交差するアンダーパスの南側の付近(緑町1丁目14番地)に相当します。ちなみ、平成22年の国勢調査による人口重心は、東経139度45分55.10秒 北緯35度58分15.67秒となり、この5年間で約5m北西に移動したことがわかります。

 

②市政における「へそ」 

春日部市には「中央」という住居表示があります。

春日部市の「中央」は、元は大字粕壁の一部、春日部駅西口に展開する商業地区および住宅地区にあたります。昭和43年(1968)9月の市議会で、大字粕壁字内出(うちで)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)を、中央一丁目、二丁目と定めることになり、昭和44年(1969)7月26日に誕生しました。

当時の春日部市は武里団地の造成をはじめとして、人口が急速に増加する傾向にありました。とりわけ現在の「中央」一帯は、昭和42年(1967)の国民体育大会に伴う整備以降、商業地区・官公庁が集約される地区として急速に発展を遂げていきました。昭和44年(1969)1月には市立病院が完成、同45年(1970)12月には市役所(現庁舎)が完成、同46年(1971)12月には駅西口改札が開設され、市の「中央」としての機能を備えいきました。

「中央」の住居表示を得た、春日部駅西口の付近の貴重な写真を紹介しましょう。いずれも当時としてはまだ珍しいカラー写真で市の刊行物に掲載されたものです。一枚目は昭和45年(1970)頃の春日部駅西口付近を空撮したものです(当時は西口改札はまだありませんでした)。

昭和45年頃の春日部駅西口付近空撮

低地に広がる田圃が、直線・直角の街路で整然と区画されいったことがわかります。

 次は、昭和46年(1971)ごろの市庁舎より春日部駅方面を眺めた写真。

昭和46年頃市庁舎より春日部駅方面

駅のホームまで見通せます。東口には今はなきスーパーマーケット(尾張屋・ニチイ)が建っています。

 

ところで、春日部市のみならず、昭和40年代から50年代にかけて県内各市町で「中央」の住居表示が創られていきました。県内の「中央」を列記すると以下の通りです(『角川日本地名大辞典』11埼玉県、昭和55年)。

・草加市 昭和41年(1966)4月に草加駅付近を「中央」

・蕨市 昭和41年(1966)10月に市の中央部・蕨駅付近を「中央」

・加須市 昭和42年(1967)5月に加須駅付近を「中央」

・本庄市 昭和45年(1970)9月に市の中央部・官公庁が集約される地区を「中央」

・上福岡市 昭和47年(1972)4月に市の中央部・上福岡駅近くを「中央」(現ふじみ野市上福岡中央)

・北本市 昭和48年(1973)6月に北本駅付近を「中央」

・久喜市 昭和48年(1973)11月に市の中央部・久喜駅付近を「中央」

・行田市 昭和51年(1976)2月に市の中央部・行田市駅南口付近を「中央」

昭和55年以降、栗橋町にも「中央」(現久喜市栗橋中央)、鷲宮町にも「中央」(現久喜市鷲宮中央)が創られていったようです。最近の例では、お隣のさいたま市では、平成15年(2003)4月の政令指定都市施行に伴い、旧与野市域が「中央区」と命名されています。

高度経済成長期の行政は、官公庁や市街地の中心となる駅周辺部を町の中心として「中央」と名付けたがる傾向があるようです。町が「中央」を基点にして発展することは歓迎すべきことではありますが、「中央」と名付けられることによって、「馬草場」や「与野」といった先人たちがつけた地名が失われていく側面も見逃せません。

いずれにしても、昭和40~50年代、あるいは1960~70年代にかけて、春日部市をはじめ埼玉県下の市は、高度経済成長の波にのみこまれて、都市化を遂げ、現在の町に至っているといっても過言ではありません。

春日部市に「中央」という「へそ」がが生まれたのは1960年代。春日部の町がどのように変わっていったのか、詳しく知りたいなぁ~、と思う今日この頃です。

・・・今後の郷土資料館の活動にご期待ください。

 

資料を寄贈いただきました♪

令和2年6月23日(火)には、市民の方から歴史資料の寄贈をいただきました。

ありがとうございます。

内容は、『上柳区・川端支部(川端組)の青年会』の昭和25年(1950年)から令和元年(2019年)までの青年会の総会についての財務収支表です。

 

●資料名:春秋青年会当番賄控帳 川端組

●年代:昭和25年9月~令和2年3月

●大きさ:縦 33㎝ 横 12㎝ 厚さ  2.5㎝

 

 戦後から令和にいたる、時代ごとの物価・品物・社会状況などを垣間見ることができる大変貴重な資料であり、「飲み物、食べ物の値段は70年でこんなに変わるものなのか」と改めて実感する事ができました。

上柳地区川端支部の皆さま、代々引き継がれる資料を寄贈いただき、ありがとうございました。

 

【常設展示】ビデオコーナーと体験コーナーを復帰しました

コロナウィルス感染防止のため一時中止しておりました、ビデオコーナーと体験コーナーにつきまして、安全対策が十分に行えるものに限り、復帰しました。 

ビデオコーナーは、5名様まで、間隔を開けた状態で30分までに限り、ビデオ、DVDをご視聴いただけます。

ビデオコーナー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

体験コーナーには、次のものを復帰しました。つかいおわったおもちゃは元に戻さず、「つかったものを入れる箱」を用意しましたので、その中に入れてください。1日あけて、消毒した上で、もとに戻します。  体験コーナー

・赤電話、黒電話(あかでんわ、くろでんわ)

・けんだま

・まんげきょう

・ぴょんぴょんカード

・パタパタ

・かみとんぼ

・かみてっぽう

・おてだま

・めんこ

・ぶんぶんごま

・かざぐるま

・レインスティック

 

郷土資料館ではコロナ感染症拡大防止のため、いくつかのお願いをしております。皆さまにはご迷惑をおかけしますが、ご協力いただきますようお願いいたします。

また郷土資料館にお越しの際は、ご無理のないようお気を付けください。

【配布してます】広報写真にみる1960年代の春日部

<ご注意ください。郷土資料館は6月13日(土)は臨時休館です。>

資料館では、6月2日より「KASUKABE1960s-1960年代の春日部」を実施する予定でしたが、コロナウイルス感染拡大防止のため、中止といたしました。楽しみにされていた皆様には、お詫び申し上げます。

かわりにではございませんが、資料館では現在、「広報写真からみる1960年代の春日部」と題した小冊子を配布しております。PDFを掲載いたしますので、ご覧いただければ幸いです。

広報写真にみる1960年代の春日部.pdf(1269KB)

冊子に掲載している写真は大部分が、郷土資料館サイト内の「かすかべデジタル写真館」に掲載しているものです。デジタル写真館では、1960年代に限らず、昔なつかしい写真を多数、掲載しておりますので、あわせてご覧ください。

郷土資料館ではコロナ感染症拡大防止のため、ご来館の皆さまにいくつかのお願いをしております。皆様にはご迷惑をおかけしますが、ご協力いただきますようお願いいたします。

また郷土資料館にお越しの際は、ご無理のないようお気を付けください。

【常設展】常設展示に米島貝塚出土黒浜式土器を2個体展示しています

常設展示で、これまで1個体を展示していた米島貝塚(こめじまかいづか)出土の黒浜(くろはま)式土器を2個体に増やしました。昨年の春の展示「指定文化財でめぐる春日部」で企画展示室に展示したもう1点の指定文化財の土器です。

米島貝塚出土黒浜式土器は、昭和36年(1961)に、住宅地造成に先立って行われた発掘調査で発見されたもので、平成20年に、優品2点が春日部市有形文化財に指定されました。

「黒浜式」は、蓮田市の黒浜貝塚群の出土土器をもとに設定された縄文時代前期の土器型式で、比較的粗い縄文が施されることが特徴です。また粘土に植物繊維を混入している痕跡が見られることから「繊維土器(せんいどき)」とも呼ばれます。「繊維土器」の手法は、黒浜式以前から確認されますが、黒浜式の次の「諸磯(もろいそ)a式」には見られなくなります。

米島貝塚では、黒浜式の中でも古段階の土器が出土する10号住居跡と黒浜式の繊維土器でありながら「諸磯a式」に近い文様をもつ土器が出土する2号住居跡が発見され、黒浜式土器の変遷を検討するきっかけになりました。

常設展示で、向かって左側に展示しているものが10号住居跡出土のもの、右側が2号住居跡出土のものです。10号住居跡出土土器は、米島貝塚の報告書では「g類」とされ、「器面全体が縄文(じょうもん)のみで覆われ」ています。一方、2号住居跡出土土器は「f類」とされ、「口縁部(こうえんぶ)に半截竹管具(はんさいちっかんぐ・半割りの竹)を用いて(中略)極めて幅の狭い文様帯(もんようたい)をもつもの」で、展示の土器にも、竹管具によるコンパス文と呼ばれる文様が描かれています。

現在の黒浜式土器の研究では、およそ古、中、新の3段階の変遷をたどるとされており、10号住居跡は古段階、2号住居跡出土土器は中段階に属すと考えられています。

米島貝塚出土黒浜式土器展示状況

しろのTシャツの少年、#クレヨンしんちゃん の記念スタンプをおす

6月5日夕方、「しろのTシャツを着た小学生が来ています」と、受付から連絡がありました。「しろのTシャツ」とは、白いTシャツではなく、クレヨンしんちゃんの愛犬「シロ」の図柄のTシャツのこと。色は青でしたから、シロの青いTシャツです。

先だっての再開後、 #春日部市郷土資料館 では、クレヨンしんちゃんの常設展示コーナーを開設していましたから、「これは再開後の一大ニュースだ!」ということで、しんちゃんの常設展示コーナーで記念に写真を撮らせてもらいました。話を聞くと、男の子は、市内在住のしんちゃんが大好きな小学3年生。好きなキャラクターは、しんちゃん、だそうです。

写真:展示をみる少年

特製のスタンプも、何度もおしてくれました。当館では、スタンプは2種類用意していますが、しんちゃんとシロの絵柄のスタンプがお気に入りとのことで、とても喜んでくれました。

しんちゃんは、漫画やアニメだけでなく、春日部の郷土資料館でも子どもたちを笑顔にしてくれています。

写真:スタンプをおす少年

ポツンと子どもの人形 新型コロナウイルスの終息と疫病除けを願って

常設展示室内

郷土資料館展示室の片隅に、ポツンとおかれた子供の人形。

座敷童子(ざしきわらし)ではありません。

皆さま、当館に来館されたら、どこにいるか、探してみてください。

この子が羽織(はお)っているのは、80年くらい前に、市内の小学校に通っていた児童が、実際に着ていたものです。マスクをしているのは、もちろん今の新型コロナウイルスに感染しないよう、皆さまに注意を促すためです。

ポツンと子供の人形

さて、この子は、何やら呪文のようなものが書かれた紙を、手に持っています。

よく見ると、この紙には「疱瘡神五人誤り證文事」と、タイトルが書いてあります。「ほうそうしん(がみ)ごにんあやまりしょうもんのこと」と読みます。

疱瘡(ほうそう)とは天然痘(てんねんとう)のこと。すでに40年前、地球上から根絶されたウイルスですが、強い感染力を持ち、致死率が高く、かつては恐ろしい流行病でした。科学的な知識が普及する前は、病は疫病神(やくびょうがみ)によってもたらされると人々に考えられていました。

江戸時代には、疱瘡神は、症状ごとに5柱に分かれており、この紙が貼ってある家には入りません、疱瘡神は取りつきませんと、疱瘡神たちが約束したものです。「疱瘡神の詫び証文(ほうそうしん(がみ)のわびしょうもん)」として、歴史学や民俗学の専門家の間では、よく知られている古文書です。

 疱瘡神に対してこのような誓約書を書かせたとすることで、疱瘡を予防しよう、発病しても軽症にとどめてもらおうと、江戸時代の人々は考えたのです。この誓約書は、市内に伝わったもので、実際に使われたものなのでしょう。このような疱瘡神の詫び証文は各地に伝わっており、特に、子供のいる部屋の中に貼り付け、使われていた例が、これまでにわかっています。

新型コロナウイルスは、天然痘ではありませんが、同じ疫病であることから、疫病退散の意味を込めて、この子に持ってもらいました。

 なお余談ですが、この誓約書の本文の最後に、「依而如件」と書かれています。「よってくだんのごとし」と読み、以上のとおりです、という意味の決まり文句ですが、この「件」という文字に由来する、半人半牛の姿の「件(くだん)」という妖怪がいました。「件」は疫病の流行や豊作などの人々にとっての吉凶を予言し、「件」の絵は疫除けとなると考えられていたそうです。

*疱瘡神の詫び証文については、時枝務氏の研究成果「呪符・守札と偽文書」(『偽文書学入門』2004年 柏書房)などに、妖怪「件」については、関口博巨氏「近世人の表現をめぐる試論―妖怪・昔話・芝居・偽文書など―」(『偽文書・由緒書の世界』2013年 岩田書院)によりました。

 

 

 

 

#アフターコロナ 郷土資料館再開 #クレヨンしんちゃん 登場など展示替

本日、令和2年6月2日(火)より #春日部市郷土資料館 が再開しました。十分な感染症対策を行った上での開館となり、ご利用の皆様に諸々のお願いをしております。今日は、再開後の資料館の様子をお伝えします。

館内に入ると、まず受付にビニールカーテンがつるされています。少し前でしたら異様でしたが、巷ではもうおなじみのビニールカーテン。飛沫感染を予防するためです。

写真:受付

入館される方には、皆様の安全を確保するため、お名前とご連絡先の記名やマスクの着用をお願いしています。

当館ではおなじみの、昔のおもちゃなどで遊べる体験展示コーナーですが、こちらも感染症予防のため大幅に展示物を撤去し、体験をご遠慮いただいております。

 写真:石臼の体験

縮小につぐ縮小でご不便をおかけしておりますが、再開後の良いニュースもあります。

本来ならば、4月7日にお披露目する予定だった展示替「クレヨンしんちゃんと春日部」の展示が、ようやくお披露目することができました。ほんとに小さなスペースですが、春日部市で制作したクレヨンしんちゃんの関係資料や、春日部ゆかりののある作品などを展示しています。なかでもイチオシなのが、「郷土資料館オリジナルのしんちゃんスタンプ」です。世界で唯一のスタンプを、ぜひご利用ください。スタンプはこまめに消毒しておりますので、ご安心を。

写真:クレヨンしんちゃん展示

また、地味ですが、①常設展示「江戸時代の村々」コーナーの古文書、②「水とのたたかい」コーナーの明治43年(1910)の水害記録「幸松村水害誌」を展示替えしました。①は、ちょうど300年前の水角村の古文書(年貢割付状)をくずし字が読めなくてもわかるように展示しました。②は、水害後の幸松村の産業についての報告記事を紹介しています。あわせてご覧ください。

写真:常設展の展示替

今後、コロナウイルスの感染の収束状況により、展示替や各種イベントを再企画していく予定です。

庄和総合支所で展示替えを行いました

庄和総合支所1階ロビーで開催している「春日部市発掘調査速報展示」の展示替えを行いました。

 

今回の展示は、平成29年度の権現山(ごんげんやま)遺跡3次地点、令和元年度の鷲前(わしまえ)遺跡1次地点の発掘調査成果のお披露目となります。どちらも庄和地区の東中野(ひがしなかの)に所在する遺跡で、昨年度、整理作業が終了し全ての発掘調査を終えました。

 

権現山遺跡の調査では古墳時代が始まる頃の住居跡がみつかり、そこで発掘された土師器(はじき)という土器を展示しています。土師器は弥生土器と同じように素焼きで作られた土器で、古墳時代からみられるようになります。その一つには穴が開けられた土器もあり、展示ケース越しに確認してみてください。

 

鷲前遺跡の調査では約6000年前の縄文時代の住居跡がみつかり、そこで発掘された縄文土器と貝がらを展示しています。特に注目してほしいのはハマグリやアサリ、マテガイといった、海に生息するたくさんの種類の貝がらです。

この貝塚を伴う住居跡からは、現在は海なし県の埼玉県ですが、縄文時代は気温が高く、海水面が上昇していたことから、春日部市内にも海が広がっていたことがわかります。つまり、鷲前遺跡でみつかった貝がらは、遺跡の周辺で採れたものです。不思議な感覚ですが、「春日部産」のハマグリやアサリと言っても過言ではないでしょう。また展示した3個体の土器には細かな縄目(なわめ)がつけられ、まさに縄の芸術をみることができます。

 

 

 

新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言は解除されましたが、「密」にならず、お譲り合ってご覧いただければと思います。

 

庄和総合支所での展示の様子

 

 

 

 

 

 

令和2年6月2日から郷土資料館を再開します

新型コロナウイルス感染拡大防止のため令和2年4月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和2年6月2日(火曜日)から開館します。
なお、体験コーナーは利用できません。

<来館時のお願い>
・大人数での来館は控えてください。館内の状況により、入場制限を行う場合があります
・発熱などの風邪症状のある人は入館できません
・皆さんの安全確保のために、入館時に氏名・緊急連絡先の記入をお願いします
・入館時の手指の消毒にご協力をお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・滞在時間は、30分を目安にしてください
・会話を控えるとともに、他の来館者との十分な距離(おおむね2メートルを目安)をとってください

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(最終回)

前回まで5回にわたってお送りしてきた、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)の #おうちミュージアム 。今回は最終回。牛島のフジに訪れた歴史上の人物について紹介します。

観光案内のパンフレットなどで、牛島のフジに訪れた著名人として、もっぱら語られるのは、詩人の三好達治。「何をうし島千歳ふじ はんなりはんなり」と詠んだ「牛島古藤花」は牛島のフジを象徴する詩として紹介されています。三好達治は著名な詩人ですし、彼が牛島のフジを題材にして詩を遺したことは春日部の誇るべき文化遺産だと思います。しかし、前々回の記事で紹介したように、牛島のフジが「国指定」天然記念物とされて以降、指定以前の由来や歴史が捨象されていく傾向がみられます。三好達治が牛島に訪れたのは昭和36年(1961)の春。古いようで、実は50年前の出来事、しかし新しいわけでもない。詩の世界に疎い展示担当者は、「牛島古藤花を詠んだ三好達治」と初めて聞いたとき、「三好達治って??」と正直思ってしまいました。

ミニ企画展「藤のまち春日部」では、三好達治に劣らない歴史上の著名人が牛島のフジに訪れたことをパネルで紹介しました。

写真:展示風景

さて、どんな人物が訪れたのか(ハードルあがっちゃいました)。

古くは、江戸時代の大名諸侯、慶応年間には日光山輪王寺門跡(のちの北白川宮能久)が訪れました。これについては初回の記事で紹介したところです。大名諸侯とありますので、近世史料を丹念に調査すれば、〇〇藩の御殿様が牛島のフジに来ていた!なんてこともわかるかもしれません。ちなみに北白川宮能久は、日清戦争の時に台湾に近衛師団長として出征し、現地でマラリアに罹り急死する人です。皇居外苑の北の丸公園内に馬上の姿の銅像があることでも知られます。

明治以降では、現在判明する限りでは、明治19年(1886)5月に跡見花蹊(跡見学園創始者)、同33年(1900)5月に幸田露伴(小説家)、松原二十三階堂(小説家)同35年(1902)5月に徳川昭武(徳川慶喜実弟)、同45年4月に渋沢栄一(実業家)が訪れています。また、訪れた年代は未詳ですが、清浦奎吾(総理大臣)、大和田建樹(詩人)、徳富蘇峰(思想家)、田山花袋(小説家)、大町桂月(詩人)、中野三允(俳人)なども訪れています。

大和田建樹についてはその2の記事で、田山花袋・大町桂月・清浦圭吾についてはその3の記事で紹介しました。

今回は、新紙幣1万円札の肖像になる渋沢栄一について少し紹介しましょう。渋沢が牛島のフジに訪れたのは明治45年(1912)4月28日のこと。旧制粕壁中学校(現・県立春日部高等学校)の講演会に招かれ、粕壁駅から人力車に乗り、牛島のフジを見学しています。ちなみに、渋沢は大正7年(1918)5月11日にも、町内の某家の敷地内にある碑文の除幕式に出席するため、粕壁に訪れています。

上述の著名人のほかにも、数多の政治家・文化人が牛島のフジに訪れたはずです。訪問したかどうかはわかりませんが、昭和の小説家太宰治の作品「斜陽」にも牛島のフジが登場しますし、平塚らいてうは牛島のフジに訪れようとしていたことが手記に記されています。「天国に一番近い島」で知られる森村桂さんの父で、旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)卒業の純文学作家豊田三郎は、晩年夫人と牛島のフジを見に行こうと約束していていましたが、残念ながら果たせなかったそうです。余談ですが、昭和43年放送のNHK朝の連続テレビ小説「あしたこそ」は、森村桂さんの家族がモデルです。昭和以前の文化人にとって、牛島のフジは間違いなく藤の名所だったことがうかがえます。今後も調査をすすめていけば、牛島のフジを彩る歴史上の人物たちが見いだされることになるに違いありません。

 計6回にわたりお送りしてきた#エア博物館「藤のまち春日部」展は、今回が最終回になります。コロナのおかげで誰も観ることなく、バラされた展示会も無事「成仏」することができました。展示担当者としては、資料の原物をご覧いただき、皆さまからご意見・ご感想・お叱りをいただきたかったのですが、こうした形でWEB上に爪痕を遺すのも悪くないかなとも思っています。

最後に、「藤のまち春日部」のリバイバル展示ができること、そして皆様が牛島のフジをはじめとする春日部の藤により一層の親しみ・愛着を抱いていただくことを願い、擱筆させていただきます。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

#エア博物館 春日部市内の遺跡

 

#おうちで博物館

考古学講座にむけて、今回は市内の遺跡をおおまかにみていきます。

春日部市域の地形をみると、西側には岩槻区方面から続く大宮台地、東側には野田市方面から続く下総台地があります。内牧や花積が大宮台地上、西親野井、塚崎、西宝珠花、西金野井、米島、東中野などが下総台地上に位置します。台地の間は、中川低地と呼ばれ、自然堤防という微高地が、河川の流れに沿って立地します。また埼玉県東部地域には、特徴的な地形である河畔砂丘(かはんさきゅう)が存在し、市内でも小渕、浜川戸、藤塚で確認することができます。市内の遺跡は、縄文時代までは台地上で展開しますが、弥生時代以降、低地にも遺跡がみられます。低地の発掘調査はまだ少なく、今後、低地においても縄文時代以前の遺跡が発見される可能性があります。

慈恩寺原北遺跡の石器

春日部市域で最も古い人間の痕跡は、約3万年前の旧石器時代のものです。慈恩寺原北(じおんじばらきた)遺跡(花積)、坊荒句(ぼうあらく)遺跡(内牧)、風早(かざはや)遺跡(西金野井)で、約3万年前の石器が発見されています。

 

 

 

 

米島貝塚出土黒浜式土器縄文時代は、今から約6,000年前をピークとする縄文海進(じょうもんかいしん)により、春日部市域の中心部が海となり、その沿岸となる大宮台地、下総台地に、貝塚が多く残されます。海が最も入ってきた時期にあたる縄文時代前期の代表的な遺跡は、花積貝塚(花積)や町道(まちみち)遺跡(西宝珠花)、米島貝塚(米島)などが挙げられ、アサリやハマグリなど、海の貝で貝塚が形成されています。

今から約3,800年前、縄文時代後期には、神明貝塚(しんめいかいづか、西親野井)が営まれます。神明貝塚は、直径約150mの範囲にドーナツ状に貝が広がる貝塚で、貝の種類は、汽水に生息するヤマトシジミが実に99%を占めます。この時代には海が南へ下がり、春日部市域周辺には、淡水と海水がまじりあう汽水域が広がっていたことがヤマトシジミの出土量からわかります。貝塚では、貝からカルシウム成分が土壌に供給されることにより、本来であればなくなってしまう、人骨や獣骨、魚骨などが残されています。神明貝塚でも現在までに5体の人骨が発見されています。また、新潟県で採れるヒスイを素材にした装飾品など貴重な遺物も発見されています。2020年3月に国指定史跡になりました。

 

須釜遺跡出土土器弥生時代は、埼玉県東部地域では遺跡数が非常に少なくなります。しかしながら、2001年に倉常の自然堤防上に立地する須釜(すがま)遺跡で、約2,000年前の再葬墓(さいそうぼ)と呼ばれる墓の跡が発見され、弥生時代の本格的な遺跡として認知されるとともに、低地においてさらなる弥生時代の遺跡発見の可能性が高まっています。再葬墓の「再葬」とは、人の遺体を土中などに一定期間埋葬したのちにとり出し、骨だけの状態に整えて土器に入れ、再度、埋葬することです。須釜遺跡では、2回目の埋葬の跡である11基の再葬墓と約30個体の完全な形に近い土器が発見されました。また、土器の表面に稲籾の痕跡が確認され、当時の春日部市域の人々はすでに米を知っていたと考えられます。

 

古墳時代になると、台地上では、風早(かざはや)遺跡、尾ヶ崎(おがさき)遺跡(西金野井)や香取廻遺跡(大衾)、権現山遺跡(東中野)で前期の集落が確認されています。権現山遺跡では、底部穿孔壺形土器(ていぶせんこうつぼがたどき)が出土し、県指定文化財になっています。低地では、沼廻(ぬままわり)遺跡(銚子口)、須釜遺跡(倉常)、浜川戸遺跡(浜川戸)で前期の遺物が出土しています。

塚内4号墳出土の刀

古墳時代後期、6世紀前半から営まれる内牧の塚内(つかない)古墳群は、約20基の古墳から形成される市内の古墳時代を代表する遺跡です。塚内4号墳からは、直刀や鉄鏃(てつぞく)、ガラス小玉、人物埴輪などとともに、下総系と武蔵系の2種類の円筒埴輪が出土しています。一つの古墳から武蔵、下総2地域の円筒埴輪が出土している唯一の例であり、春日部の地が武蔵と下総の境界の地であったことがわかります。

古墳時代後期の集落は、台地上では、塚崎遺跡(塚崎)、貝の内遺跡、陣屋遺跡(西宝珠花)、宮前遺跡(東中野)、低地の自然堤防上では、小渕山下遺跡、小渕山下北遺跡(小渕)などで確認されています。

 

貝の内遺跡出土の下総国分寺瓦8~10世紀の奈良、平安時代となると、台地上では、貝の内(かいのうち)遺跡(西宝珠花)や塚崎遺跡(塚崎)、低地では、小渕山下遺跡(小渕)や浜川戸遺跡(浜川戸)、八木崎遺跡(八木崎)などで大規模な集落が営まれます。貝の内遺跡では、現在の千葉県市川市に所在した下総国分寺(しもうさこくぶんじ)で使われた軒平瓦(のきひらがわら)が出土し、当時、貝の内遺跡を含む春日部市の東部が、下総国の範囲であったことのみならず、下総国分寺と何らかのつながりがあったことを示します。小渕山下遺跡や浜川戸遺跡などは、低地の自然堤防上に営まれた集落で、多くの住居跡が集中的に立地しています。奈良、平安時代の遺跡から出土する道具には、土師器(はじき)や須恵器(すえき)といった土器のほかに、刀子(とうす)や鎌などの鉄製品があります。またこの時期には、日常的に広範囲の地域と流通があり、例えば須恵器は、埼玉県西部の比企地域や茨城県の新治地域の産地から運ばれたものが出土しています。土器や道具に書かれた文字資料も増加します。塚崎遺跡では、「春ア□□」(□は不明の字)と墨書された須恵器が出土しています。「ア」の字は「部」と解読でき、「春部」と読めることから「春日部」につながる文字である可能性があります。八木崎遺跡では、春日部高校の新校舎建設に先立つ発掘調査で、「奉念隋□道足」と刻まれた糸をつむぐための石製の紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土しています。

 

浜川戸遺跡の板碑中世では、浜川戸遺跡の発掘調査で、堀や建物の跡、また板碑などが発見されています。春日部八幡神社には、周辺に館を構えた武士の春日部氏が鎌倉の鶴岡八幡宮から八幡神社を勧請(かんじょう)した由緒が伝わっており、発見された堀や建物の跡は春日部氏の館であった可能性が濃厚です。

遺跡は、その地に生きた名もない人々の生活を、飾ることなく伝えてくれます。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その5)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、戦後そして現代に至る、春日部市のまちづくりとフジの関係について紹介します。

昭和30年(1955)8月22日、牛島のフジは、国の特別天然記念物に指定されます。今もなお、「特別」天然記念物のフジは唯一であり、牛島のフジは春日部を象徴するものとなります。春日部市では、現在にいたるまで牛島のフジを由来として、藤を活用したまちづくりを進めています。昭和48年(1973)10月、春日部市制20周年を記念して、フジを市の花と制定されました。

昭和54年(1979)には市の花フジ147本を植樹した街路「ふじ通り」が整備され、同57年5月以来、「ふじ通り」では「春日部藤まつり」が開催されました。記念すべき第一回藤まつりの写真が遺っています。

写真:第一回藤まつり

横断旗をもつ高校生の服装が時代を物語りますね。

また、第一回藤まつりの開催を記念して「藤音頭」が制作・制定され、レコードが頒布されました。「藤音頭」の作詞は国語学者金田一春彦、作曲は山本直純、歌い手は原田直之でした。藤音頭発表会の貴重な写真も遺っています。

写真:藤音頭発表会

金田一先生にもお越しいただきました(右から5番目の椅子に座ってらっしゃいます)。

平成4年(1992)には、全国の藤にゆかりのある市の代表者が集まり、都市づくりの会議「藤の都市サミット」が開催されました。平成4年の第1回サミットは、静岡県藤枝市において開催され、フジを市の花に定めている全国の市の代表者が集まり、都市づくりについて話し合うものでした。これも貴重な写真が遺っています。

写真:藤サミット第1回

前列左が三枝前市長です。平成6年(1994)には春日部市を会場として第二回藤の都市サミットが開催され、ふじ通り沿いで、谷原二丁目交差点付近にある公園「ふじ広場」に、参加した藤の都市の首長らによって、フジが植樹されました。藤の都市サミットは、残念ながらその後立ち消えとなってしまったようです。
平成17年(2005)、旧春日部市・旧庄和町合併後、同19年2月21日にはフジが新市の花として指定されます。ちなみに旧庄和町の花は「ショウブ」でした。新市においても、旧庄和町のシンボル「大凧あげ」と融合した大凧マラソンのイメージキャラクター「ふじだこくん」や「藤テラス」といった新たなイベントなども生まれています。春日部の特産品「押絵羽子板」でも「藤娘」が好まれて製作されています。

今年はコロナ禍により、藤まつり、藤テラス、牛島の藤の公開と藤に関するイベントが軒並み中止となってしまいました。しかし、藤の花の季節は過ぎましたが、季節を問わず、市の花フジを楽しませてくれるものがあります。その代表例といえるのがこれ。

写真:春日部市のマンホール

マンホールです。粕壁地区の学校通りで撮影しました。これは彩色されていますが、色のないバージョンや少し小ぶりなものもあるようです。春日部市では、まちづくりのなかで市の花フジをモチーフにした制作物がとり入れられてきました。普段は見過ごしがちな日常の風景のなかにも、まだまだフジが隠れているかもしれませんよ。個人的にも、展示のためのマンホール捜し、結構楽しかったです。

余談ですが、先日、とあるテレビで、春日部親善大使のあるタレントさんが、巷で人気の漫画・アニメ「鬼滅の刃」の藤は春日部の藤(牛島の藤)だと話し、春日部をPRされていました。「鬼滅の刃」は架空の話でしょうし、根拠がないので「聖地」ではないようですが、春日部の代名詞である藤の花に再びスポットがあたるといいですね。

次回はいよいよ「藤のまち春日部」展の最終回。牛島の藤に訪れた著名人について紹介したいと思います。

#エア博物館 遺跡と遺構と遺物

#おうちで博物館

郷土資料館の今年度の計画では、12月ごろに学芸員による「考古学講座」を予定しています。広報やほごログでご案内いたしますので、ご興味のある方はぜひご参加いただければと思います。新型コロナ感染症の状況も心配ですが、実施に向けて準備を進めています。

今回は講座でお話する内容の中から、考古学でよく使われる「遺跡」と「遺構(いこう)」と「遺物(いぶつ)」という用語についてご紹介します。

まず遺物は、土器や石器のような遺跡からとりはずして動かせるもののことを言います。人工遺物の他に、動物の骨や植物の種子など自然遺物と呼ばれるものも含まれます。

遺構は、住居の跡や墓の跡など、容易に遺跡からとりはずして持ち運べないもののことを言います。そしてこの遺構、遺物から構成されるものが遺跡です。

視点を変えてみますと、資料館に展示している土器や石器などはすべて遺物です。遺構は図面や写真、資料館の竪穴式住居模型のような復元模型の方法で紹介されます。

遺構は、遺構の剥ぎ取りなど例外的な方法を除いては、実物を持ち帰ったり、展示することができません。したがって、発掘調査を行う場合は、遺跡でしっかりと遺構の記録をとることが重要になります。

さらに、過去の人類の活動を研究する上では、遺跡内の遺構と遺物の位置関係が重要になります。例えば、一つの土器が、竪穴式住居の床面から発見されたのか、埋まっている土の中から発見されたのか、ここに着目することによって、その土器が竪穴式住居に住んだ人たちの土器なのか、それとも住居が使われなくなってからの土器なのかを推定することができます。

遺構と遺物を区別して考えることで、遺跡への理解が深まります。

 

遺構:竪穴住居跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺構:竪穴住居跡(貝の内遺跡(西宝珠花))

遺物:土器

 

 

 

 

 

 

遺物:土器 (塚崎遺跡(塚崎)の土師器(はじき))

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その4)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、昭和初めに国の天然記念物に指定され、ますます有名になっていく「牛島のフジ」(国特別天然記念物)について蘊蓄(うんちく)を語ります。

昭和3年(1928)1月18日、「牛島のフジ」はに国指定天然紀念物に指定されました。当時、埼玉県の天然紀念物としては5つ目でした。国会図書館デジタルコレクションで当時の『官報』を御覧いただけます(2コマ目左下段)が、『官報』上の表記は「牛島ノ藤」だったのですね。

ところで、国指定の文化財といえば、先日、市内の西親野井地区の神明貝塚が国の史跡に指定されました。市内では「牛島のフジ」に次いで2例目の国指定となりました。神明貝塚の例のように、国の文化財の指定にあたっては綿密な調査・研究が積み重ねられ、学術的な評価・価値づけがされた上で指定となります。同様に「牛島のフジ」も、当時の国の調査団による調査が行われ、価値付けがなされています。

調査は指定を遡る数年前の大正末年、植物学の大家で、日本に天然記念物の概念を広めた三好学(理学博士)の指導のもと、内務省の名勝天然紀念物保存調査会により調査されました。当時の調査報告『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第35号(大正13年刊・98~99コマ目)によれば、「世ニ紫藤ノ大ナルモノナキニ非ザレドモ未本樹ノ如ク著シキモノアルヲ聞カズ、天然紀念物トシテ指定セラルベキモノト信ズ」と評価されています。つまり、藤の大木は無くはないが、「牛島のフジ」ほどものは未だに聞いたことがないので、天然紀念物に指定すべきだと評しています。同時に保存要件としては、根・幹・枝の損傷を防いで、適切な施肥をすることも指摘されています。

前にも触れた通り、明治時代には、花房を取ったり、和傘でさして藤花の下を(おそらく傘で花を痛めつけながら)くぐる観覧客がいました。天然紀念物に指定されることによって、「牛島のフジ」は国内有数の保存されるべき樹木として位置づけられることになったのです。

一方で、「牛島のフジ」の国指定は、結果として観光資源としての価値を高めていくことにも繋がりました。大正末の新聞紙上では内務省の調査団が訪れ、国指定に向けて期待する声が報じられていましたし、国天然紀念物の指定直後の5月には、関係諸氏を招き開催された祝賀会が開催されています(下の写真・かすかべデジタル写真館より)。

(クリックすると大きな画像が御覧いただけます)

さらに、昭和5年(1930)には『世界一藤のかすかべ』と題された、「牛島のフジ」を中心とした粕壁町・幸松村の観光ガイドブックが発行されています(館蔵)。明治時代には「関東一」だった「牛島のフジ」は「世界一」へと成長を遂げていったのです。国天然紀念物指定以降、「牛島のフジ」は国に認められた古木として、ますます多くの人々に知られるようになり、のちに春日部のシンボルにもなっていきます。

しかし、国の天然紀念物指定の本旨は、観光資源化でなく、その保存です(そういえば昨年は「史蹟名勝天然紀念物保存法100周年」でした)。表向きには華やかに「国の天然紀念物」と騒ぎ立てることは結構なのですが、その裏側の保存・保全にも光をあてるべき、と文化財行政に携わる職員として思います。こんなことを書くと、「観光マインドがない」と揶揄されてしまいそうですね。

「牛島のフジ」に関していえば、国指定以降、適切に保存・保全され、さらに戦後に施行された文化財保護法のなかで、昭和30年(1955)8月22日に国の特別天然記念物に指定され、今日まで保存・保全されてきています。昭和3年の国指定が今日までの「牛島のフジ」の保存・保全の起源となったといえ、こうした保存・保全の経緯があってはじめて「牛島のフジ」は存在しえているのです。

また、指定後のブランディングにも問題があるようです。「国指定」の冠を前面に押し出した刊行物等をみると、指定以前の由来や歴史が捨象される傾向が読み取れます。「国指定」のブランド力が強いため、中身が伴わず、空虚な価値付けに終始するものが多いようです。牛島のフジに関する伝説は昭和5年(1930)刊『世界一藤のかすかべ』が初見だったりします。

ですから、この#エア博物館「藤のまち春日部」展では、「国指定」以前の、「国指定」に留まらない牛島のフジの魅力を歴史のなかに見いだそうとしてきました。

藤の花は、もうすっかり散ってしまいましたが、あと2回ほど「牛島のフジ」に関する#エア博物館#おうちミュージアムにお付き合いください。

休館延長のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年5月31日(日)までの期間、郷土資料館の臨時休館を延長します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。

 

また、6月に予定しておりました下記のイベントは中止します。企画展示や講座につきましては、改めて企画し、皆さまに告知いたします。

・6月2日(火)~7月12日(日)企画展示「かすかべの宝もの17 KASUKABE1960s-1960年代の春日部」

・6月7日(日)大川明弘先生による歴史文化講演会・ウォーキング「古地図で読み解く昭和の粕壁」

・6月27日(土)展示解説講座・上演会

 

なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。

・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ

#エア博物館 #これはなんでしょう

#春日部市郷土資料館 では #休館中 収蔵資料の整理を進めています。今日は収蔵庫内に眠るお宝を #おうちミュージアム として紹介。

これなんでしょう?なにする道具?

 

 

 

 

 

 

正解は、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名称は「ミゾキリ」

春日部では古くから桐細工が盛んで、とくに桐箪笥・桐小箱が特産品となっています。「ミゾキリ」は木材を削るカンナの一種(溝切りカンナとも呼ばれるようです)です。この「ミゾキリ」は大正時代~昭和戦前まで、桐小箱を作っていた市内の職人が使っていた道具で、箱の本体と蓋を合わせるための溝などをほる時に使われたようです。

道具を横からみると、

 

矢印のところに突起(木・刃)があって、ここを木材の上で滑らすと、溝がほれるようになるのです。右手のナットを緩めて、溝をつけたい間隔を調整することもできます。

溝切りカンナは現在でも市販されているようですが、桐小箱づくりは高度経済成長期に機械化が進展したため、こうした道具は現在ではあまり使われていません。現在、春日部では桐箪笥職人の方たちが伝統工芸士として認定され、伝統的な桐箪笥製造の技術を伝承していますが、古くは桐小箱づくりの職人も「ハコサシ」などと呼ばれ、高度な指物技術を有していたものと考えられます。「ミゾキリ」は春日部の桐細工産業の技術を伝える資料として、とても貴重なものです。

エア博物館 おうちでぬりえをしませんか

#エア博物館 #おうちで博物館 #ぬりえ

いつもきょうどしりょうかんでくばっている、ぬりえをしょうかいします。

おうちでぬりえをたのしんでください。

 

クリックするとPDF(ぴーでぃーえふ)ファイルをダウンロードします。いんさつしてつかってください。

1.銚子口の獅子舞1.銚子口の獅子舞(ちょうしぐちのししまい)

2.備後須賀稲荷の初午祭(びんごすかいなりのはつうまさい)

3.やったり踊り3.やったり踊(おど)り

4.竪穴式住居4.竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)

5.牛島のフジ5.牛島(うしじま)のフジ

6.桐だんす・桐小箱6.桐(きり)タンス・桐小箱(きりこばこ)

7.押絵羽子板7.押絵羽子板(おしえはごいた)

8.秋葉神社の天狗8.秋葉神社の天狗(あきはじんじゃのてんぐ)

9.在原業平の伝説9.在原業平の伝説(ありわらのなりひらのでんせつ)

10.梅若丸の伝説10.梅若丸の伝説(うめわかまるのでんせつ)

11.千住馬車鉄道11.千住馬車鉄道(せんじゅばしゃてつどう)

12.春日部に最初に住んだ人たち12.かすかべに最初(さいしょ)に住(す)んだ人(ひと)たち

13.花積貝塚13.花積貝塚(はなづみかいづか)

14.内牧・塚内古墳群14.内牧・塚内古墳群(うちまき・つかないこふんぐん)

15.春日部氏の歴史15.春日部氏の歴史(かすかべうじのれきし)

16.日光道中粕壁宿16.日光道中粕壁宿(にっこうどうちゅうかすかべじゅく)

17.麦わら帽子17.麦わら帽子(むぎわらぼうし)

18.不動院野の神楽18.不動院野の神楽(ふどういんののかぐら)

19.赤沼の獅子舞19.赤沼の獅子舞(あかぬまのししまい)