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2024年8月の記事一覧

校長ブログNo132-1 シリーズ白浜小学校はあのとき⑥「校章」に寄せた思い

シリーズ白浜小学校はあのとき⑥ は過去ブログNo46 (5月23日)でも取り上げた「校章」の由来についてです。初めて校章を見たとき、ハマヒルガオの花をかたどったものかと思いました。別の職員は、星、ウミガメなどにも見えたと言っていました。いずれも違いました。

過去ブログの記事から一部再掲します。

「白浜小学校の「白」に片仮名で「ハマ」を図案化したもので、白浜小学校の「強く・たくましく・明るい」児童を象徴としたもの」です。

第5代校長 伊藤 貫 氏(在職期間1930年(昭和5年)~1943年(昭和18年))による考案です。

シリーズでお伝えしてきたとおり、1941年(昭和16年)は、白濱尋常高等小学校が白浜国民学校へと改称された年です。校章は、1941年(昭和16年)国民学校となったときに制定されました。(その前に校章があったかどうかは沿革史からははっきりしていません。)この1941年(昭和16年)は日本では歴史上大きな意味をもつ年です。

鉛筆紀元2600年鉛筆

「紀元(きげん)2600年は皇紀(こうき)2600年とも呼ばれる。太平洋戦争が始まる前年の1940年(昭和15年)が神武天皇が即位してから2600年に当たる節目の年を迎える。このことから、日本政府は1935年(昭和10年)10月1日に当時の内閣総理大臣岡田啓介(岡田内閣)を会長とする「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮(かしはらじんぐう)や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。」

当時の校長、伊藤 貫 氏について、当時在職した職員はつぎのように回顧しています。

「戦争もいよいよ激しさを増した昭和16年、学校は国民学校と改称された。校長は伊藤貫先生で、当時学校は心身ともに健全なる皇民の育成ということで体育が重視された。この時、白浜小が体育指導の県指定の研究学校に指定された。公開研究会当日は県下各学校の校長、体育主任が多数参加されて盛大な研究会であった。体育実演にさきだって、集合台に乗った伊藤校長の前を校旗は皇紀2600年を祝し、在満の斉藤隆司氏の寄贈によるものである。」

「伊藤校長は赤穂浪士の討入りの日、12月14日、全校児童を早朝召集し、校庭に大かがり火をたき、児童は学校で作った醤油のおにぎりをいただき先生のお話を聞いた。赤穂義士を愛した、明治生まれの気骨がうかがわれたなつかしい行事だった。」

今では想像もできない国家をあげての戦意高揚が叫ばれた時代でした。国策の標語「国は第一、私は第二」(日本カレンダー株式会社)が象徴するように、全ては戦争のための時代だったのです。

伊藤貫氏は、校長退職後、戦後、1947年(昭和22年)第25代 白浜村長となります。戦後の新しい日本の民主政治で行われた初の公選による初代村長でした。「戦後の社会的混乱、物資不足、食糧事情のきびしい環境の中で、校長時代からの幅広い人脈と人間関係によりよく村政を治めた功績は誠に大きい。」と回顧しています。

校長ブログNo131 シリーズ先生からの夏だより⑤(残暑お見舞い)

シリーズ先生からの夏だより⑤(残暑お見舞い)

今日は、G先生からのおたよりです。

残暑お見舞い申し上げます。

みなさん夏休みも残り少なくなってきましたね。充実した夏休みを過ごしていますか。もしかして「まだ宿題やってない」とかありませんよね・・・。

先生はこの夏、久しぶりに海に行きました。塩っ辛い海水、灼熱の太陽と砂、大人になっても海に行くとテンションが上がってしまい、はしゃいでしまいました。

夏休みも後半です。残り少ないですが、思いっきり遊んで残り少ない夏休みを充実させてくださいね。先生たちは2学期元気に登校してくる君たちを待っています。9月2日、忘れ物をせず登校してきてください。

(ひらがな文)

ざんしょおみまいもうしあげます。

みなさん なつやすみも のこり すくなくなって きましたね。じゅうじつした なつやすみを すごしていますか。もしかして 「まだしゅくだいやってない」 とか ありませんよね・・・。

せんせいは このなつ、ひさしぶりに うみに いきました。しおっからい かいすい、しゃくねつの たいようと すな、おとなになっても、うみに いくと テンションが あがってしまい、はしゃいで しまいました。なつやすみも こうはんです。のこり すくないですが、 おもいっきり あそんで のこりすくない なつやすみを じゅうじつさせて くださいね。せんせいたちは 2がっき げんきに とうこうしてくる きみたちを まっています。9がつ2にち、わすれものをせず とうこう してきてください。

G先生、思いっきりはしゃいだようですね。きっと楽しかったんだろうなあ。みなさんは今年、海へ行きましたか? 入って初めてわかるあの塩辛さ。砂浜から全速力で走って海へとびこんでいったり、波乗りしたり、浮き輪で身をまかせてプカプカ浮かんだり、貝を拾ったり、シャベルとバケツをもって砂山をつくったり、砂の中に埋まったり?!いろいろな楽しみ方でたしかにテンションが上がりますよね。

夏休み前の授業で、G先生からも教わったと思いますが、水の事故には十分気を付けて。A先生の「なつやすみスイッチ」の話も思い出してくださいね。けっして子供だけで遊ぶことのないように、必ず大人の人に見守ってもらいながら、楽しいひとときを過ごしてくださいね。

校長ブログNo130‐1 シリーズ白浜小学校はあのとき⑤国が第一 私は第二

白浜小学校はあのとき⑤ 国民学校の男性教師による手記

タイトルの「国が第一 私は第二」は国策標語((株)日本カレンダー1941年(昭和16年)

「戦時中、男子職員はズボンの上からゲートルを巻き戦闘帽を着用。女子職員は、手縫いのモンペの上下で、だれもが防空頭巾と、救急袋を肩からかけているのが、日常の姿であり、通勤着でした。日曜日の日直も宿直も、二人ずつの勤務に強化され、警戒警報が発令されると、夜中でも職員は出勤し、御真影奉安所の警護と、重要書類の持ち出し、校舎の警備にあたったものです。」

平日だけでなく、休日までお国のために奉公した当時の教職員は自分たちの家庭は二の次で大変な思いだったと思います。この文章に出てくる「御真影奉安所」については8月15日付の記事で触れます。

「校庭の周囲には、いくつもの防空壕が掘ってありました。最初の頃B29は、はるか上空を編隊で、都市や軍需施設をめがけて通り過ぎるので、さほど怖さを抱かず、木陰や、防空壕の入口から眺めていたものでした。しかしその後、艦載機がくるようになってからは、何度かゾッとするような恐ろしい思いをしました。爆音がしたかと思うと、黒っぽい機影が頭上に襲いかかり、ごく低空でバリバリという不気味な音と共に銃撃するという、むごさでした。」

「当時6年生の担任で、その日も授業中で、警戒警報発令という知らせがあったかと思うと、たて続けに空襲警報となり、素足で校庭を横切り、防空壕に飛び込んだと同時に、ダダダダキュンという耳元での銃声に、思わず全員が抱き合ってしまいました。解除になり教室に帰ってきて驚いたことには、校舎の何か所かに銃撃を受け、その中の一発が私たちの教室を、廊下から黒板の左上の壁を射抜いていたことです。背筋の凍る思いをしました。」

▼撮影年不明 (当時の校長の在職期間(2年間)を手がかりに、1944年(昭和19年)か1945年(昭和20年)のものと思われる。

 

校長ブログNo129  シリーズ白浜小学校はあのとき④「欲しがりません勝つまでは」

白浜小学校はあのとき④ 国民学校の女性教師による手記

タイトルの「欲しがりません勝つまでは」は戦意高揚のための国策標語。

「昭和17年に白浜国民学校へ赴任した。次第に、大東亜戦争も激しくなり、校庭は野菜畑と化し、白浜じゅうの出征家族の家へ毎日のように勤労奉仕にでかけました。機銃掃射を受けて、田の土手に姿をかくしたり、近くの家の防空壕にかけこんだり、毎日が命がけでした。腰まで田の水につかって稲架(はさ)に稲をかけ、星を戴いて泣き泣き帰ってきたことも幾度か。主人も海軍に応召して南方の海に出征するし、夜中に空襲警報が鳴ると、もう一人の先生と防空頭巾に身をかため、暗い夜道を学校警備におもむいたこともありました。あの時代の児童は、まことにみじめな学校生活を送っていたものでした。」

「後日、成人した教え子から受けた言葉を二、三拾ってみましょう。『修学旅行ができなかったから、これから修学旅行に連れて行ってください。』『勤労奉仕ばかりで、ろくろく勉強しなかったので、中学生の息子から数学を教えてくれと言われても、今困ってしまう。』

『さつまいもがお弁当の時代で、クラスに二人持ってこれない児童がいて、先生が一個ずつ分けてくれた。その一人はぼくで、それがうれしくてたまらなかった。現在は妻や子供に恵まれ幸せに暮らしているが、僕はあの時のことを教訓として、愛情と質素を胸に頑張っています』

校長ブログNo128 シリーズ「先生からの夏だより」④(残暑お見舞い)

シリーズ先生からの夏だより(残暑お見舞い)

さあ、夏休みも、どまんなかに近づいてきました。立秋が過ぎ、先生からの夏だよりも今回から「残暑お見舞い」になります。

最初はE先生からのおたよりです。

こんにちは! お久しぶりです。元気に過ごしていますか?

終業式の日、「明日からも学校に行きたいな~」と言われました。

今はどんな気持ちでしょうか?)^o^(

夏休みはいつもより自由な時間が多いと思います。ふだん、なかなかできないことにチャレンジしてみてくださいね。

先生は、お菓子づくりをしてみようと思っています。うまくできるかな・・・。

9月になったらぜひお話を聞かせてくださいね。みんなに会えるのを楽しみにしています。

(ひらがな文)

こんにちは! おひさしぶりです。げんきに すごしていますか?

しゅうぎょうしきのひ、「あしたからもがっこうにいきたいな~」と言われました。

いまは どんな きもちでしょうか? )^o^(

なつやすみは いつもより じゆうな じかんが おおいと おもいます。ふだん、なかなか できないことに チャレンジ してみて くださいね。

せんせいは、おかしづくりを してみようと おもっています。うまく できるかな・・・。

9がつに なったら ぜひ お話を 聞かせて くださいね。みんなに 会えるのを 楽しみに しています。

次にF先生からの残暑お見舞いです。

残暑お見舞い申し上げます

夏休みも残り半分となりました。パリオリンピックも後半戦。たくさんのメダリストが誕生し、私たちに感動と喜びを与えてくれました。

また、高校野球選手権大会(甲子園)が始まりました。選手の皆さんはそれぞれの目標(夢)に向かってたくさんの努力を重ねてきていると思います。

みなさんの夢は何ですか?

私が中学生のときに2つの夢をもちました。

1つ目は吹奏楽部の甲子園「杉並普門館」に行くこと。2つ目は「小学校の先生になること」小学生の頃の音楽の成績は全てCと1。

でも、夢は叶うんです。毎日、毎日、少しずつ努力を重ねていきましょう。

9月2日、皆さんの成長した姿を楽しみにしています。

(ひらがな文)

さんしょおみまいもうしあげます。

なつやすみも のこりはんぶんと なりました。パリオリンピックも こうはんせん。たくさんの メダリストが たんじょうし、わたしたちに かんどうと よろこびを あたえてくれました。

また、こうこうやきゅう せんしゅけんたいかい(こうしえん)がはじまりました。せんしゅの みなさんの それぞれの もくひょう(ゆめ)にむかって たくさんの どりょくを かさねてきていると おもいます。

みなさんの ゆめは なんですか?

わたしが ちゅうがくせいのときに 2つのゆめを もちました。

1つめは、すいそうがくぶの こうしえん「すぎなみふもんかん」にいくこと。2つめは「しょうがっこうの せんせいになること」しょうがくせいのころの おんがくのせいせきは すべてCと1。でも、ゆめは かなうんです。まいにち、まいにち、すこしずつ どりょくを かさねていきましょう。

9がつ2にち、みなさんの せいちょうしたすがたを たのしみにしています。

「ふだんなかなかできないこと」がいつもよりもできることはうれしいですね。E先生はどんなお菓子を作るのかな?家で作るお菓子は家族みんなが笑顔になるとってもステキな楽しみの1つです。甘いものが好きな校長先生もいろいろと想像してしまいます。楽しみですね。E先生、がんばってください!!

みんなはどんなものが好きですか?真夏に「あつい~あつい~」と言って食べたくなるのはやっぱり冷たいアレ!アレって?!みんなも大好きなかき氷、アイス、ソフトクリームでしょう?買ったらすぐに食べないと、アッというまに溶けてしまうので気を付けてくださいね。この間TVのCMで「ずるいすいか」と「やばいパイン」とおもしろいコピーを見ました。どんな味なのか興味をそそります。あっ、大事なこと!「ほけんだより夏休み号」や「給食だより」にも書いてありましたよ。冷たいものを食べすぎたり飲みすぎたりするとかえって夏バテの原因になりますから...。「〇〇しすぎない。」ということに気をつけましょう。

みなさんにおススメなのは、横芝光町ならではの新鮮な果物や夏野菜です。メロン、スイカ、トウモロコシなどおいしい農産物に恵まれていますよね。近くの道の駅や海の駅でも新鮮な産地直送の食べ物がたくさん並んでいますよ。

楽しい夏休み、おいしいものを食べて、楽しいひとときを過ごしてくださいね興奮・ヤッター!

そして、F先生からの残暑お見舞い。今年の夏は特別です。オリンピックや高校野球甲子園大会などみんなも応援しているのではないのかな?夢や目標をもって努力する姿に感動した人も多いはず。子供の頃にできなくたって夢を追い続けることの大切さや努力することの大切さを教えてくれるF先生からの夏だよりです。きっとF先生から音楽の授業を教わったことのあるあなたも、F先生の夢を今回初めて知ってすごいなぁと感じたはず!!「努力は今、夢はきっとかなう」2学期の授業を楽しみにしていてくださいね。

校長ブログNo127 シリーズ白浜小学校はあのとき③「増産だ 意気で耕せ 汗でとれ」

白浜小学校はあのとき③ 国民学校の男性教師による手記

タイトルの「増産だ 意気で耕せ 汗でとれ」は当時、戦意高揚のための国策標語です。

1945年(昭和20年)は戦争が激化したため、国は高等科の授業を無期限で停止とした。

「1944年(昭和19年)4月、太平洋戦争が激しくなった頃私は、再びこの白浜国民学校に勤務することになった。(中略)この年の秋ごろから昭和20年に入ると戦争はますます苛烈になり、九十九里浜からB29や艦載機が何十機という編隊で来襲し、我々の頭上で戦闘が展開され、火だるまになって墜落してくるというありさまで学校も機銃掃射されて隣家の人が死んだことがあった。こうなってくると学校も授業どころではなくなり「高等科は、授業全面停止して、食糧増産に邁進(まいしん)せよ」との県の通達に従って生徒も先生がたも朝早くから夕方遅くまで増産のため田畑に汗と泥にまみれて働いたのである。

授業どころではなく、毎日が勤労生産という厳しい労働の毎日だった。

(中略)当時、出征したための不耕作地を学校が引き受けて耕作した面積は広大で、今のような耕うん機がない時代であったので、その全部をわずか50名あまりの高等科男子の手で一鍬一鍬起こし、それを女子が助けて耕作したのであるから、その労苦たるや推して知るべきである。こうした涙ぐましい努力によって秋には、学校の広い運動場も稲で埋まり、また、甘藷の山が築かれた。

▼食糧増産に励む生徒たち(1944年(昭和19年))

視察に来た県教育委員会にこの増産教育は匝瑳郡内、県下でも屈指であると激励された。(中略)この年、甘藷は八千貫(1貫は3.75㌔)米も百俵以上、小麦四十俵も収穫し、これを供出し、残りは敬老会や学校給食に利用したのである。食糧不足で学校に弁当を持ってこられなくなった時、学校で甘藷やおにぎりで給食したので父兄からも大変喜ばれた。(中略)毎日クタクタになるまで働いて、おいもをごちそうになり、大きな月を眺めながら子供たちと一緒に帰ることが度々あった。こんな苦労の中にもみんなお国のため、という心が通じ合っていたか、誰も不平ひとつ言わずいつも明るく元気で頑張った。それにもかかわらず日本は敗戦となった。そして戦後混乱の中から、今日の日本の繁栄を築いたのは、この子供たちこの世代の人々であると思うとき、感無量なものがある。」

 

校長ブログNo126  シリーズ白浜小学校はあのとき②国民学校学童が見た戦争(後編)

ブログNo125(前編:2024年8月8日掲載)のつづきから

「国民学校へ6年間通ったのは私たちだけです。そして現在の6・3制義務教育になるかどうかわらない頃なので、課外勉強をしていました。秋、夕方五時頃だったと思います。前日からの雨で校庭はかなり水たまりがあり、それを避けるように歩き出しました。その時です。大音響とともに教室の窓が爆風で飛び、そばにいた生徒2人が大声で泣きだしました。これは一大事と友人と2人で教室へ飛び込みました。そこで見たものはまさに地獄絵です。生徒2人が倒れていました。それを先生は一生懸命抱き起そうとしていました。「あっ、先生手がない」私は叫びました。先生の右手は爆発でないのです。肉や血は天井に突き刺さっていました。爆発の音を聞き、他の先生がかけてきました。応急手当をし、リヤカーで近くの医院に行ったのです。それから大きな病院に入院。そのとき生徒4人が重軽傷を負い、先生は右手首を失ったのです。戦争が終わり、弾薬を海に捨てたものが海岸に打ち上げられ、直径1mくらいの機雷も数個ありました。そういう中にこの爆発物もあったのです。戦争中は、爆発や大砲の音も耳に慣れましたが、この爆発音はいまだに記憶にあります。それから28年経って、昭和48年、ベトナム、サイゴンへ行く機会があり、ホテルに宿泊中に遠くで撃つ大砲の音を聞いたとき、今日本は平和な国だとしみじみ思い、これからも永遠に、この平和が続くことを願わずにはいられません。

▼1941年(昭和16年)この年の12月8日、日本は太平洋戦争へと突入する。

▼1941年(昭和16年)当時の白浜小学校運動会

こちらも参考に視聴してみよう

NHK fo rSchool  10minボックス 「戦争と国民生活 日中戦争・太平洋戦争」

https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005120318_00000

校長ブログNo125 シリーズ白浜小学校はあのとき①国民学校学童が見た戦争(前編)

甲子園球場100年の歩みと戦争の歴史

昨日8月7日(水)「第106回全国高等学校野球選手権大会」が開幕しました。大会会場となる兵庫県西宮市の阪神甲子園球場は、開場してから100年目の記念すべき年になります。

選手宣誓をした智弁和歌山高等学校野球部主将の言葉「宣誓、僕たちには夢があります。ここ、甲子園で日本一になることです。100年前、この地に甲子園球場が誕生し、それ以来、全国の球児がここでプレーすることを夢見てきました。(中略)あれからちょうど100年経った今、僕たちはここに立っています。僕たちには夢があります。この先の100年も、ここ甲子園が聖地であり続けること。そして、僕たち球児のあこがれの地であり続けることです。(後略)」

大会ができることは奇跡であるそんなことを感じながら、中継放送の冒頭「100年の歩みを振り返る」ドキュメントを見ていました。それは次のような歴史があるからです。第二次世界大戦の影響により1941年(昭和16年)夏の大会~1945年(昭和20年)の5年間中断されます。その後、みなさんのご記憶にも新しい、2020年(令和2年)新型コロナウイルス感染症による大会中止がありました。2022年大会で優勝した仙台育英高校の監督の言葉「(前略)入学どころか、たぶん、おそらく、中学校の卒業式もちゃんとできなくて、高校生活っていうのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とは全く違うんですね。青春って、すごく密なので、でもそういうことは全部『だめだ、だめだ』と言われて、活動していても、どこかでストップがかかって、どこかでいつも止まってしまうような苦しい中で、でも本当に諦めないでやってくれたこと。(後略)」

近年の猛暑により高校野球の在り方も議論され、甲子園球場内野席を覆う「銀傘」がアルプス席まで拡張される計画(完成予定は2028年)ですが、戦前の甲子園球場は開業当初から「大鉄傘」と呼ばれた鉄製の大屋根を内野席に備えていました。1931年(昭和6年)にアルプス席に広げ、1943年(昭和18年)戦時中の金属供出で取り外された悲劇の歴史があります。そのため、終戦翌年の1946年(昭和21年)夏の大会から再開された映像には「大鉄傘」が確かにありませんでした。その後、1951年(昭和26年)に復活し、2009年(平成19年)に現在の姿に架け替え、内野席両端まで広げられた歴史があります。

シリーズ白浜小学校はあのとき が始まります。

白浜小学校の沿革を見ると、小学校の名前が4回変わっていることに気づきます。

「白濱尋常小学校」(1889年(明治22年)~1895年(明治28年))、「白濱尋常高等小学校」(1896年(明治29年)~1940年(昭和15年))、「白浜国民学校」(1941年(昭和16年)~1946年(昭和21年))「白浜小学校」(1947年(昭和22年)~現在)です。

(※それぞれの教育制度の用語の意味については記事最後の欄を参照)

1945年(昭和20年)8月15日の終戦から79年が経ちます。今回からシリーズ「白浜小学校はあのとき」と題して、合計8回にわたり当時の学校の様子が分かる手記や、校長が調べてわかったことなどお伝えしていきます。お読みになられる方はこの機会にぜひ、戦争と平和について感じていただけたら幸いです。

第1回は国民学校に通った学童(小学生)の回想です。(前編・後編に分けて掲載します。)

「私たちが国民学校へ入学したのは昭和16年でした。尋常小学校から国民学校と名前が変わり、軍国主義増々色濃くなりつつ第1回目の入学です。その年の12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾攻撃を決行、世界大戦になったのであります。そして日本軍は破竹の勢いで戦果を挙げ、南太平洋の島々を日本のモノにしていったのです。そして、シンガポール陥落のニュースに躍り、生徒全員による旗行列で喜んだのです。しかし戦争は3年生後半から変わり始め、男の先生方も兵隊へ行き、授業も思うようにできなくなり、白浜村からも戦死者が続出してきました。

▼1941年(昭和16年)国民学校当時の教職員(男性・女性の割合は半々だが、やがて男性は徴兵された)

村長さんはじめ数多くの人たちと生徒全員による村葬も数多くなり、都会からの生徒も多く、教室へ入りきれないほどでした。親たちは農作業に追われ休む暇もなく働き、子供たちは弟や妹を学校に連れて行き、子守をしながら勉強していた人もありました。 校庭は全部芋畑に変わり、水田もかなりの面積を作って食糧生産に励んだのです。その頃から教科書も少なくなり、上級生からもらったり、先生が黒板に書いたものをザラ半紙に書き取りながらの勉強でした。

▼記念誌には昭和7年(1932年)受持児童と開墾作業とある。この年、中国東北部に満州国が建国された。文中にある「都会からの生徒も多く」とは、都市部から地方への「縁故疎開」と考えられる。

戦争はますます不利な展開となり、南太平洋の島々は玉砕のニュースに変わり、ついには沖縄まで米軍は上陸してきたのです。お弁当は梅干し1個の日の丸弁当、サツマイモ等弁当検査があり、良いおかずを持っていくと注意されました。そして、ついに米軍による本土爆撃という事態になり、生徒は防空頭巾をかぶって通学、学校では防空壕への避難訓練、国防婦人会は竹やり訓練の日々です。学校にも家庭にも、軍隊が駐留、時おり戦車が砂煙をあげて走っていました。「警戒警報発令、敵B29編隊は相模湾上空を北に向け飛行中」ラジオから流れます。それは現在の天気予報みたいなものでした。警戒警報が空襲警報に変わり半鐘が鳴り渡っていました。昭和20年3月東京大空襲。東京方面を爆撃したB29の爆撃機は、悠々と我々の上空を飛び去って行きました。ある朝早くから高射砲の演習だなあと思い、学校へ行こうと家を出た途端、上空には日本軍と米軍の飛行機数十機が空中戦、見ていると日本の飛行機は胴体と翼がバラバラになり、胴体は尾垂下根地先に墜落、翼は尾垂浜に落下。私は、その飛行機の車輪をずいぶん探し、28年ぶりに見つけました。昭和20年8月15日戦争は終わったのです。(後編へつづく) 

【用語について】 

鉛筆尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関の名称。明治の学制発布当初は4年間の義務教育だったが、1907年(明治40年)から6年間になった。

鉛筆尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)国民学校令(1941年/昭和16年)が施行される前の学校のうち、尋常小学校の課程と高等小学校の課程を一つの学校に併置した小学校のことである。国民学校令の施行とともに、国民学校の初等科・高等科に改組された。

鉛筆国民学校(こくみんがっこう)日中戦争勃発後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校。尋常小学校を国民学校初等科(修業年限6年)、初等科を終了した者が進学できる高等小学校を国民学校高等科(修業年限2年間)とする。

鉛筆小学校(しょうがっこう)1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに新しい学校制度ができ、それまでの国民学校は、現行の小学校に移行した。

校長ブログNo124 「立秋」景色は黄金色へ

早いもので、8月に入り1週間が過ぎました。今日、8月7日は二十四節気「立秋」です。暦の上では「秋」。ですが…「この猛暑ではまだまだ秋なんて気分じゃない」とみんなの声が聞こえてきそうです。でもこちらはどうでしょう。七十二候 「大雨時行(たいうときどきおこなう)」(8月2日~6日)7月下旬から夕方天気が急変し、激しい雷雨と共に夕立が降る(最近ではゲリラ雷雨ともいいます)ことが多くなりました。

▼8月6日 昼撮影

▼8月7日 夕方撮影

本ブログでたびたび取り上げる「七十二候」は6世紀末ごろ(歴史上の人物でいえば、聖徳太子(厩戸皇子うまやどのおうじ)が活躍した時代です。)仏教とともに中国から日本に伝わり、その後、長い歴史の中で私たちの生活になじむように変わってきましたが、人々の生活経験に基づいた知恵はピッタリで驚かされます。この記事を書き始めた先週末の予報では、この先、少しお湿りもあるようでしたが、最新の天気予報では、ガンガンに晴れてギラギラ太陽が照りつけ、ゲリラ雷雨の恐れありといった不安定な日が続くようです。(恐ろしや~)今年は梅雨入りも例年と比べ遅く、梅雨明け以降猛暑日続き、雨も降らない、台風も来ない千葉ですが、豪雨により甚大な被害を受けたことを考えると、これ以上災害が起きないことを願うばかりです。

そして次の七十二候は「涼風至(すずかぜいたる)」(8月7日~8月11日)です。猛暑の続くある朝、ふと涼しさを感じたときが、秋の訪れです。今朝は、昨日と違い、雲まみれの朝となりました。ごみ捨てに外に出たら...あっ!風も涼しい。

今月に入り、日に日に田んぼの景色が黄金色に色づいてきました。先週の休日、近所の田んぼでは、例年より早く稲刈りが行われていました。刈り取った残りの草はさらにロール状にして(「稲発酵粗飼料」または「稲ホールクロップサイレージ」と呼ばれ,簡単にすると「稲WCS」~WCS=Whole Crop Silage)」と呼ぶそうです。)近くの牧場へ。ここでもSDGs。稲刈りとともに「稲WCS」がゴロゴロ増えています。全然雨が降らないので、実が固くならないか心配ですが、今年も豊作が期待できそうです。セミの合唱をBGMに、里山風景の残る道を歩き始めたとき、最初はヘビに出くわしたりオニヤンマが正面からアタックしてきたりと驚かされましたが、途中からは、トンボが私の歩くペースに合わせて行ったり来たり、水路では鯉が、そして大空にはトンビが悠々と飛び交っていました。田園風景と総武本線の組み合わせは何とも似合います。電車に乗っている人はどこへ出かけたのでしょう。どこへ出かけるのでしょう。稲刈りが始まった田んぼの中をビュービューと快走していきました。

 

校長ブログNo123 私たちの研修③ 「没頭!!」フラワーアレンジメント

前回のモラールアップ研修の第2弾として、校内で行われた研修です。今日はなんと、「フラワーアレンジメント」にチャレンジ!!第1弾は「熱~い 筋トレ!」と「動」の時間でしたが、第2弾は「没頭!!」というキーワードが職員から出ました。「静」の時間になったのです。美しい写真と共にご覧ください。

一昨年、昨年に引き続き、学区の「伊藤園芸」様にご指導をお願いしました。家庭教育学級等のクリスマスリースづくりでも大好評の実習です。講師の先生の見本を見せていただきました。プレゼントでいただいたらとてもうれしいですよね。花は言葉をしゃべりませんが、わたしたちの心にきちんと訴えてくれる。私たちは花と向き合いどのようなフラワーアレンジメントを作っていくのでしょう。写真でご覧ください。

▼講師の見本(写真左上)を参考につくっていきます。

 配られた材料を箱に収まるように調整しながら各自アレンジしていきます。

開始後、10分もたたないうちにソワソワしてきて、このまま続けられるだろうかと一瞬感じたのですが、頭で配置を考えながら次の材料の長さをハサミで切って調整しているうちにそんな気持ちは瞬く間に消え、気づいたときには周りの教師がいることも忘れ、黙々とアレンジメントを進めていました。やがてのめりこみ没頭。アドレナリンがかなり出ていたと思います。あっという間の1時間30分でした。

▼ 完成した本校職員のアレンジメント

同じ材料が配られたのに、作る人によってアレンジメントが異なり面白いですねぇ。講師の先生はほめ上手で、みなさんの作品売れますよ!!とうれしいお言葉を頂戴いたしました!!職員玄関には講師の先生のフラワーアレンジメントを飾らせていただきました。お忙しい中、暑い午後にご指導いただきました「伊藤園芸 様」たいへんありがとうございました。

校長ブログNo122-3 広島原爆の日と平和への誓い

校長ブログNo122-2でも掲載したように、79年前の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。原子爆弾(原爆)は1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられました。厚生労働省調べによると、全国で今なお約10万人の方々が被爆の苦しみを受け、被爆者の平均年齢は85歳となっています。

広島では、被爆50周年(平成7年)の平和記念式典における広島市長の平和宣言に続いて、初めてこども代表が「平和への誓い」を述べました。これは、「こども平和のつどい」で世界のこどもたちが話し合った結果を平和への決意として述べたもので、翌年以降もこの成果を引き継ぐ「こどもピースサミット」を開催し、「平和への誓い」を発信しています。

3日後は長崎原爆の日、そして8月15日は終戦の日と戦争と平和について改めて心に思う日です。ここに、今年の「平和への誓い」を全文掲載します。

 

「平和への誓い」

目を閉じて想像してください。

緑豊かで美しいまち。人でにぎわう商店街。まちにあふれるたくさんの笑顔。

79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。 

昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。

「ドーン!」という鼓膜が破れるほどの大きな音。

立ち昇る黒味がかった朱色の雲。

人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。

ある被爆者は言います。あの時の広島は「地獄」だったと。

原子爆弾は、色鮮やかな日常を奪い、広島を灰色の世界へと変えてしまったのです。 

被爆者である私の曾祖母は、当時の様子を語ろうとはしませんでした。

言葉にすることさえつらく悲しい記憶は、79年経った今でも多くの被爆者を苦しめ続けています。 

今もなお、世界では戦争が続いています。

79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、

明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです。

本当にこのままでよいのでしょうか。 

願うだけでは、平和はおとずれません。

色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。

一人一人が相手の話をよく聞くこと。

「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。

仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。

私たちにもできる平和への一歩です。

さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。

平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。

そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。

世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。


令和6年(2024年)8月6日 こども代表 小学校6年児童2名による「平和への誓い」

 

校長ブログNo122‐2 私たちの研修② 全体研修の内容から

 

前編(No122-1)に続き、この夏、教職員全体で受けた研修と内容について主なものをお伝えします。

1 教職員の不祥事根絶研修

報道で見受けられる教職員の不祥事を、絶対に私たちは起こしてはならない。自分の学校から絶対に出さない。という強い気持ちをもち、ふだんは学校独自の計画に基づき「不祥事根絶研修」を行っています。今回、特に問題となっている「飲酒運転」と「わいせつセクハラ」について町内全校合同研修を受けました。

飲酒運転の根絶

そもそも、酒気帯び運転や飲酒運転は法で禁止されています。(過去ブログでも掲載した)2021年(令和3年)6月28日の八街市における「飲酒運転による児童の交通死傷事故」を契機に、「千葉県飲酒運転の根絶を実現するための条例」についての理解や、この条例に基づき今年度からスタートした「千葉県飲酒雨天根絶計画」については校内で管理職が中心となり教職員への研修の実施をするとともに、関連動画の視聴やチェックシートの記入、レポートの提出等を行い、より強い自覚をもつにいたりました。まずは私たち教職員が率先して「飲酒運転は絶対しない、させない、許さない」という強い意志をもつととともに、信頼ある教職員でありたいと思います。

わいせつセクハラ

令和4年に「教育職員等による児童生徒性暴力等の防止等に関する法律」が施行されました。教職員等による児童生徒性暴力等は、「魂の殺人」ともいわれ、児童生徒の権利を著しく侵害し、児童生徒に対し生涯にわたって回復し難い心理的外傷その他の心身に対する重大な影響を与えるものです。学校にかかわるすべての人たちが、笑顔で日々の生活を送ることができるように、わいせつな行為の根絶への決意が必要です。

2 教育講演会

歌手の木山裕策(きやま ゆうさく)さんの講演を聞きました。講演のタイトルは『今あらためて見直す家族の絆・感謝の想い』です。甲状腺がんの手術を行た際、医師から「手術後に声が出なくなる危険があること」を告げられ、長年の夢だった歌手への挑戦を決意。日本テレビ系オーディション番組『歌スタ!!』に出演し、一度は不合格になったものの、「子供たちに最後まであきらめない姿を見せたい」と再挑戦し、2006年家族をテーマとした『home』でメジャーデビューした方です。講演の中では4人のお子さんを育てながら仕事との両立、家族への感謝の気持ちを綴った曲をリリースし、現在は歌手活動と講演活動を中心とした様子についてお話をうかがいました。わたしたちも教育現場では児童生徒や保護者、地域の方と人とのつながりを大切にするとともに、教師も1人の人間として家族との絆を大切にしながら日々仕事をしています。最後には木山さんの魅力的な歌をたくさん聴かせていただきました。一時は命に関わる大病を患い、乗り越え、「あきらめない」という強い意志を持ち続けた木山さん。木山さんでしか分からない「つらさ」があり、その「つらさ」をご家族をはじめ、いろいろな人の支えと、ご本人の懸命な努力により乗り越えれらたのだと思います。だからこそ木山さんにしか表現できない、あたたかくて心に響く歌であるとともに、元気が出てくる歌ばかりでした。会場の拍手が鳴りやまなかったです。人とのつながりの他、ウェルビーイングの観点から私たちの仕事を見直し充実させていく大切さについても改めて感じました。

3 原爆の日に...終戦記念日を前に...改めて平和について考える

今日、6日(火)で学校における前半の勤務が終了となり、18日(日)までは空直期間となります。(詳細は「夏休みのしおり」を参照)8月15日は「終戦記念日」です。先日(ブログNo120(8月5日号))お伝えしたように、お盆期間中は特集として、シリーズ「白浜小学校はあのとき」と題して「創立100年誌」に掲載されている戦争当時の児童や教員の手記を掲載します。今年もテレビや新聞等のマスメディアでは「戦争と平和」についての特集番組をいくつか放送予定です。また、NHKでは以下のような小学生から大人まで知識や理解を深めることのできるアーカイブがあります。ぜひ、ご覧になり考える機会もよいと思います。

【参考】

NHK アニメで知る戦争(NHKアーカイブス)

https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0060931

NHKforSchool 「戦争について考えてみよう」(2020年制作)

https://www.nhk.or.jp/school/sensou/

書籍の紹介 国語科の教科書(光村図書)に出てくる平和教材

小学校3年生『ちいちゃんのかげおくり』

https://m.media-amazon.com/images/I/514E7NDKV4L._SY342_.jpg

小学校4年生『一つの花』

https://m.media-amazon.com/images/I/710ho9uvbfL._SY466_.jpg 

小学校5年生教科書に出てくる『たずねびと』は、この『かげふみ』に収録されています。

https://m.media-amazon.com/images/I/71BRVIdlyQL._SY466_.jpg 

小学校6年生 付録『平和のとりでを築く』は書籍はありませんが、検索で音読用の動画がヒット(教科書の文章も掲載されています。)します。

 

校長ブログNo122‐1 私たちの研修② 「研修」ってなあに?

「先生たちの研修(けんしゅう)ってなあに?どんなことをするの?」と思われる方も多いでしょう。これまでのブログでも夏休み中の研修について取り上げましたが、今日は、おおざっぱですが、少し具体的に説明したいと思います。長くなるので、2回に分けてお伝えします。テーマの特性上、内容が固くなりますのでお時間があるときにお読みください。少しでも伝われば幸いです。

夏季休業中の私たち教職員の研修は、学校を離れた場所で、町内の教職員が合同で研修をしたり、山武地区や千葉県など広域の教職員が同じ場所に集まって合同で研修をしています。また、まとまった時間を利用して校内施設の点検や備品の整理整頓と点検の他、2学期の校外学習の実地調査や行事の企画などを立てています。

ところで、仕事に携わっているひとであれば「研修」という言葉はなじみのある言葉だと思います。少し、硬い内容から始まりますが、私たち教育公務員は次のように法律で定められています。

鉛筆教育基本法鉛筆

【第九条】法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職務の遂行に努めなければならない。

この文中に登場する「研究」と「修養(しゅうよう)」の言葉を合わせて「研修」と呼んでいます。「修養(しゅうよう)」という言葉は聞き慣れない言葉ですよね。

【研究(けんきゅう)】物事を深く考えたり、詳しく調べたりして、真理、理論、事実などを明らかにすること。研鑽(けんさん)。(日本国語大辞典)

【修養(しゅうよう)】学問をおさめ、徳性をやしない、より高い人格形成に努めること。精神を練磨し、品性をやしない、人格を高めること。(日本国語大辞典)

▼映画やドラマにもなった『二十四の瞳』(壷井栄・作)の銅像をモチーフに描いてみました。教師である私が、これまで何度も読み返した本の1つです。

子供たちに「確かな学力」「豊かな人間性」「健康・体力」の調和のとれた「生きる力」を育成するためには、質の高い学校教育の実現が求められます。教職員自らが使命感や責任感をもつとともに、学習指導・生徒指導等に関する実践的指導力、学校運営に参画する力が必要となります。千葉県教育委員会では、養成・採用・研修を通して、求める教員等の姿を「信頼される質の高い教員」としています。

では、具体的にはどのような研修があるのでしょうか。例えば児童生徒が学習する教科や領域の指導法研修、技能教科の実技研修の他、学力向上のための方策やGIGAスクール構想においてICT機器の有効活用を図る理論研修や実技研修などをはじめ、教職員の服務や身分に関する研修(不祥事根絶研修、ミドルリーダー研修、管理職研修など)、児童生徒や保護者との教育相談研修、カウンセリング研修、社会的な要請を受け、学校現場が担う教育(人権、薬物乱用防止等)の他に、教養を深め視野を広げる教育講演会や公開講座などの受講があり、参加対面式、オンラインによるミーティングなど形態はさまざまです。先ほどの育成指標に基づき各自課題をもってキャリアに応じた研修を受けています。各自受講した研修の内容を整理し、レポートを書き提出することもあります。8月の下旬には各自が受けた研修を教職員間で伝達・共有する時間を設定しています。

(続きは 次のブログNo122-2へ)

 

校長ブログNo121 シリーズ「先生からの夏だより(暑中見舞い)」②

前回に引き続き、シリーズ「先生からの夏だより(暑中見舞い)」

今日は2人の先生方からお届けします。

C先生からのなつだより

暑中お見舞い申し上げます

毎日、とても暑いですね!みなさん、お元気ですか。世界では、オリンピックがやっていますね!わたしは、ついついオリンピックを見てしまい、寝るのが遅くなるときがありました。応援も、それから「早寝・早起き」もがんばります。

 今は、夏休みです。夏休みだからこそ、できることにぜひチャレンジしてほしいと思います。2学期にみなさんと会えるのをとても楽しみにしています。

(ひらがな文)

しょちゅうおみまいもうしあげます

 まいにち、とても あついですね!みなさん おげんきですか。せかいでは、オリンピック をやっていますね!わたしは、 ついつい オリンピックを みてしまい、ねるのが おそくなるときが ありました。おうえんも、それから 「はやね・はやおき」も がんばります。

 いまは、なつやすみです。なつやすみだからこそ、できることに ぜひ ちゃれんじ してほしいと おもいます。 2がっきに みなさんと あえるのを とても たのしみにしています。

 D先生からのなつだより

暑中お見舞い申し上げます

白浜小学校の皆さん、夏休みいかがおすごしですか。毎日とても暑いですね。

この夏、私は川柳を趣味にしています。楽しいこと、悲しいこと、心の中でこっそりおもしろいと思っていることを五七五になるように言葉を選ぶのが楽しいです。季語を入れなくてよいので気軽にできますよ。

 みなさんもぜひ作ってみてください。2学期は川柳コンテストもやってみようかな。

 では、残りの夏休み、楽しく安全にお過ごしください。

(ひらがな文)

しょちゅうおみまいもうしあげます

 しらはましょうがっこうの みなさん、なつやすみ いかが おすごしですか。まいにち とても あついですね。

 このなつ、わたしは せんりゅうを しゅみに しています。たのしいこと、かなしいこと、こころのなかで こっそり おもしろいと おもっていることを 五七五(ご・しち・ご)に なるように ことばを えらぶのが たのしいです。きごを いれなくて よいので、きがるに できますよ。 みなさんも ぜひ、つくってみて ください。 2がっきは 「せんりゅうコンテスト」も やってみようかな。 

では、のこりの なつやすみ、たのしく あんぜんに おすごしください。

オリンピックを見ながら応援している人、感動して泣いている人、きっかけに何か新しいことをはじめようと思っている人もいる一方で、オリンピックを十分見る時間がないほど何かに打ち込んでいる人もいるかもしれませんね。 そんな夏休み、毎日起きるドラマを日記ではなく川柳で表現するのも粋(いき)でいいいですねぇ。では、また先生方からおたよりをあずかったらお伝えしますね。

校長ブログNo120 2枚の絵から感じた戦争と平和

引き出しを整理していたら、ポストカードが数枚出てきました。昨年、都内の美術館で開催された展覧会「生誕100年山下清展 百年目の大回想」で買ったものです。

▼美術館入口の広告バナー

今回はその中から記事に関連して2枚紹介します。

まずは、「長岡の花火」です。日本三大花火である「長岡まつり大花火大会」は8月2日(金)・3日(土)に開催されました。特に8月3日(土)は千葉県内でも多くの地域で花火大会が開催されました。(残念ながら全国的に見ると、さまざまな理由で中止になっているところもあるようですね。)久しぶりに目にしたポストカードから、戦争と平和について感じました。花火には、鎮魂(レクイエム)の気持ちが込められています。

山下清さんといえば映画「裸の大将」(主演・小林桂樹)のモデルで知られていますが、私は山下清氏を画家だと知っていても、映画を見たことがなく詳しいことはほとんど知りませんでした。学生時代、新潟県佐渡で泊まった宿に大きな絵が何枚も飾られており、その素晴らしさが心に残っているくらいでした。この展覧会で千葉県にもゆかりのある人物であることを初めて知りました。

鉛筆山下清鉛筆(参考 ウイキペディア)

やましたきよし 1922年(大正11年)現在の東京都台東区出身)

幼少期の風邪からの消化不良により重篤に陥り、言語障害、知的障害が後遺症として患う。少年期に現・千葉県市川市八幡の八幡学園の生活の中、「ちぎり紙細工」に出会い、素質を学園の顧問医師の目に留まり、指導を受けながら才能を開花させていった。その後、各地で展覧会で絶賛され、日本のゴッホとも呼ばれた。戦後は全国巡回展も各地で開かれた。1971年(昭和46年)逝去)

▼ 長岡の花火(貼り絵 1950年(昭和25年))

原画は、たて約50㎝×よこ約70㎝くらいだったでしょうか。現在の長岡の花火大会は1945年(昭和20年)8月1日の長岡空襲からの復興を願い、戦後1946年(昭和21年)に開催されました。長岡の花火を見た山下清は、次のように述べています。「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんか起きなかったんだな」この言葉が重く心に残りました。漆黒の夜空と信濃川の水面に輝く華やかな長岡花火の一瞬を心に捉えた名作です。 山下氏は他にも花火を題材とした絵をたくさん描いているとのことです。初めて原画を目にして驚いたのが、なんと紙をこよりにして1枚1枚貼り合わせた貼り絵でできていたこと。真っ暗な会場で描いたわけでもなく、今の時代のように写真や動画などの映像に撮ってとったわけでもなくどのようにこの絵を描いたのでしょう。山下氏は、自身がもつ「瞬間記憶能力」を活かし、学園に戻ってから制作に取り組んだそうです。どれだけの年月をかけて作ったのでしょう。山下氏の想いが花火の大輪を構成する一つ一つの紙に込められていることが伝わり、絵画は鑑賞する人たちをくぎ付けにしました。

そしてもう1枚

メダルラッシュが続く日本勢パリ2024オリンピック大会のシンボルタワー「パリのエッフェル塔」

▼ パリのエッフェル塔(水彩画 1961年(昭和36年))

最初、なぜこのポストカードを買ったのだろうと思い返しました。去年からパリオリンピックのことを思って買ったとは思えず、おそらく、エッフェル塔の鉄骨の細部まで緻密に描かれていることや、道路の真ん中で指揮(交通整理ですが)をしているかのような警官を中心とした対称的な構図と時代を感じさせないデザインや色合いに惹かれて買ったのだと思います。今、まさしくパリでオリンピックが開かれていますが、開会式でIOC会長が「戦争や紛争によって分断された世界において、選手たちが一つになる。私たちは世界の平和をつなぐ大会の一員なのだ」と挨拶し、オリンピック大会が「平和の祭典」であることを考えると、前作の「長岡の花火」と共に、戦争と平和についても改めて感じることになります。また、パリは近代五輪を創設したクーベルタン男爵の出身地で、100年ぶり3度目の舞台ということですから、山下清が生誕した当時以来の開催となります。山下氏が生きていた時代の日本は、東京1964オリンピック大会に向けて日本が大変貌を遂げていく時代でしたが、今生きていたら東京2020大会やパリ2024大会をどのような気持ちで見てどのような絵画が生まれていたでしょうね。

参考までに、今年は新潟県立近代美術館で8月18日(日)まで開催されているそうです。

https://kinbi.pref.niigata.lg.jp/tenran/kikakuten/kkk_kaisaichu/

今年で、日本は戦後79年が経ちます。あさって8月6日は、世界で初めて原子爆弾が投下された広島の「平和記念日」です。その3日後の8月9日は、2回目に原子爆弾が投下された長崎の「平和の日」です。白浜小学校は戦争当時どのような状況だったのか「創立100年誌」に戦争当時勤務していた教員による寄稿文がありましたので、後日お伝えしたいと思います。

校長ブログNo119 私たちの研修①(暑い夏に熱~いトレーニング)

児童にとっての夏休み中、私たち教職員は学校での勤務の他に、各所に出張し研修に参加しています。研修は講義、演習、実技、研究会、講演会、オンライン、資料を読むなど内容や形態はさまざまです。研修の模様を少し紹介したいと思います。

7月22日(月)夏季休業中の出勤日1日目、「校内モラールアップ研修」を行いました。

鉛筆モラールアップ研修鉛筆

「モラールアップ」とは「やる気」や「志気」を高める研修という意味。研修を通して職場の親睦と同僚性を高め、労働性や生産性を高めるメリットにもつながります。また、リラックスした雰囲気でコミュニケーションを取ることができることから、職員のチーム力向上にもつながる効果が期待されます。

今年のテーマは「夏だからこそ、体をきたえよう! 簡単筋トレ研修」でした。

講師は、ご自身がバレーボーラーであり、オリンピック日本代表を想起させるような実力ある本校の体育主任です。パーソナルトレーナーのように、自身の経験から導いた効果的なトレーニング法を私たちに教えてくれました。(昨年度は同じくバレーボール経験者である当時の校長とタッグを組み、熱血な研修が繰り広げられたそうです。アタックナンバーワンの世界だったかも?!)

さっそく、1人1枚マットを用意して真剣にトレーニング開始。今回は筋トレの中でも体幹を鍛えることを目標に腹筋の強化に特化して行いました。「プランク」、「サイドエルボーブリッジ」そして究極は1日1回30秒のトレーニングで激ヤセ!!ポッコリお腹を凹ませる魔法のトレーニング「ヒンズープッシュアップ」(これはきつかったです汗・焦る)「魔法」という言葉に飛びつきましたが、「魔法」とは、努力した人にだけ与えられるものだとやってみて感じました。実技は個人で取り組みましたが、横並びで向きを変えながら他の職員の様子を見ることもできました。また、質問や感想を交流させることでトレーニングに関心をもつことができました。今回教わったトレーニングも知識としては知っていても継続することの大切さを感じ取りました。

ここでいったん休憩...

学校教育目標は「知・徳・体」を柱とし、バランスよく児童を育成する目標となっていますが、私たち教職員も同じです。健全な精神と健康な体を大切にすることを今回の研修を通して改めて意識しました。夏季休業を利用して教職員は健康診断や人間ドック等を受けます。2学期もベストな状態で指導できるようコンディションを整えたいと思います。

休憩をはさみ、後半は、「プロテイン」についての正しい知識をもつという話です。今やブームとなり、コンビニエンスストアでも手軽に購入できる「プロテイン」について。私が大きな勘違いしていたのは、「プロテイン」は筋肉をつけるために飲むものだと思っていたこと。「プロテイン」=日本語で「たんぱく質」。そうです!「たんぱく質」は三大栄養素(炭水化物・脂質・たんぱく質)でもあり、疲労回復、良質な睡眠、良質な爪・髪・肌をつくることにも効果があるのです。人の体は7割が水分で、2割が「たんぱく質」で構成されていることを考えると、筋肉のことを考える前に、まずは大切な栄養素であることを意識しなければいけませんね。そして大切にしたいのがバランスのとれた食事です。休み中は学校給食が食べられませんが、当ブログでも常時掲載している学校給食のありがたみを感じます。食事だけでは足りない栄養を補うための「プロテイン(たんぱく質)」と考え、自分に合った「プロテイン」の種類を補給することがいいようです。(奥が深い。)昨年の夏、食品メーカーの味の素「CookDo」が大人気漫画「ハイキュー!!」とコラボして、「食え。そして、強くなれ。」という名言をコピーした広告を出していました。また、味の素は「あなたのカラダはあなたの食べたものでできている」をキャッチコピーとして学校にも出前授業を展開しています。暑い夏だからこそ運動も大切。食事も大切。いろいろと学ぶことの多い研修でした。

この日のモラールアップ研修午前の部は「動」の研修でしたが、午後の部は「静」の研修でした。何をしたのかは、後日お伝えしますのでお楽しみに...。

【後日談】

研修の次の日。床に落としたモノを拾ったら「イテテ...」今日はやけに腹筋が痛い。なぜ?思い当たる節は、昨日の「筋トレ」研修によるものでした。体に効いています。私は参加者の中で最年長でしたが、若い教職員に負けないよう、年齢のことも考えて無理せずコツコツと取り組んでいきたいと思います。3日坊主どころか口だけで終わらないように(苦笑) 

校長ブログNo118 シリーズ「先生からの夏だより(暑中見舞い)」①

今日は、みなさんに白浜小学校の先生からの暑中見舞いをお届けします。今回紹介するのは2名の先生からの手紙です。(先生の名前は、ブログ掲載順に、A先生というように、アルファベット順に書きますので、みなさんはどの先生からの手紙か想像しながら読んでくださいね。)

それでは、まず1枚目

A先生からの暑中見舞い(しょちゅうみまい)です。

暑中お見舞い申し上げます。

「なつやすみスイッチ」を守って夏休みをすごせていますか。毎日暑い日が続いていますが、今年の夏は、今しかありません。楽しいこと、おもしろいことをたくさん経験してください。2学期にみなさんから思い出話を聞くのを楽しみにしています。

9月2日に元気な顔を見せてくださいね!

(ひらがなぶん)

しょちゅうおみまい もうしあげます

「なつやすみスイッチ」を まもって なつやすみを すごせていますか。まいにち あついひが つづいていますが、ことしのなつは、いま しかありません。たのしいこと、おもしろいことを たくさん けいけんしてください。2がっきに みなさんから おもいでばなしを きくことを たのしみにしています。

9がつ2にちに げんきな かおを みせてくださいね! 

 

つづいて 2枚目

B先生からの暑中見舞い(しょちゅうみまい)です。

暑中お見舞い申し上げます

これから暑さが厳しくなる一方ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。夏休みが始まってまだ2週間ですが、私はみなさんに会えないこと、元気で明るい声が聞こえてこないことにさびしさを覚えています。夏休み中に事故やけがなく、皆さんが無事に新学期登校できることを祈っています!夏バテに気をつけて夏休みをお過ごしください。

令和6年盛夏

(ひらがなぶん)

しょちゅうおみまいもうしあげます

これから あつさが きびしくなる いっぽうですが、みなさま いかがおすごしでしょうか。なつやすみが はじまって まだ 2しゅうかん ですが、わたしは みなさんに あえないこと、げんきで あかるいこえが きこえてこないことに さびしさを おぼえています。なつやすみちゅうに じこやけがなく、みなさんが ぶじに しんがっき とうこうできること を いのっています! なつバテに きをつけて なつやすみを おすごしください。

れいわ6ねんせいか

いかがでしたか?せんせいがたも みなさんと ながいこと あっていないので さみしく戸惑う・えっなっているようです。でも、げんきで すごしていれば せんせいたちも ニッコリ興奮・ヤッター!それが いちばんです!!花丸 また ほかのせんせいから おたよりをあずかったら おとどけしますねピース 

校長ブログNo117 本で楽しむ夏

今日もギラギラと容赦なく照りつける太陽。暦の上では「大暑」の真っ只中で、七十二候「土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)」(7月28日~8月1日)と、「猛暑」どころか「酷暑」いや「炎暑」といったほうがいい。読むだけでもジリジリと焦げそうな暑さです。昨日、気象庁から「7月の日本の月平均気温は、統計を開始した1898年(明治31年)以降の7月として最も高くなりました。向こう1か月も引き続き全国的に厳しい暑さになる見込みです。」と発表がありました。晴れ暑くなければ夏ではないのですがどこまで気温が上がり続けるのか汗・焦る昨日の話は雲でしめくくりましたが、今日も天気の話にお付き合いください。

炎暑の夏。暑さにとろけそうになり、くじけそうになってもその中にどこか楽しみを見つけたくなるようです。毎日空を見上げてうんざりではもったいない。白浜小学校に勤務してから往復の通勤時、雄大な空を見て癒されることが多くなりました。そんなこともあり、かつてから読みたいと思っていた、気象学者である荒木健太郎さんのベストセラー本を購入し、少しずつ読み進めています。他にもたくさんシリーズ化されているのでぜひ読んでみてください。

空を見上げると雲たちものびのびと自由自在に自分たちを表現しているかのようです。あまりのまぶしさにほとんどあてずっぽうでシャッターをきって改めて見てみたら、偶然にも飛行機が映りこんでいました。(飛行機に気づいていたらもう少し構図を考えていたかもしれません。)が、暑さに負けてそんな余裕はこれっぽっちもありませんでした。

同じ日の夕方、西には怪しげな雲が...最近、夕方になると雷雨が多くなってきました。目に飛び込んできた美しい空の景色はその瞬間瞬間で、刻々と変化していきます。

別の場所から同じ雲をもう一枚。先ほどまで出ていた太陽が、わりと低めの積雲の上に隠れ、その上から「ぼくはここだよ~また明日ね~」といった感じで光を放っていました。

フランスの夏 日本の夏

花の都・芸術の都 パリはどんな天候なのでしょう。オリンピックパリ大会の開催国フランスは緯度が48度です。日本の最北端である稚内(わっかない)の緯度が45度であることを考えるとそれよりもさらに北に位置します。千葉県横芝光町の緯度は35度ですからだいぶ北になります。理論上、夏でもカラッとしていて過ごしやすいはずなのですが、今年の現地は熱波で最高気温が35度以上と猛暑とのこと。選手村は、環境保護の観点からエアコンを設置せず、代わりに地熱冷却システムを導入しているとのことですが、選手のコンディションを考えると心配ですね。がんばれニッポン!!

真夏におすすめの絵本

そんな真夏に読みたい本の紹介。昔、私も子供へ読み聞かせたこともあり、夏になると再び読みたくなる本です。どこかノスタルジックな雰囲気が漂い、千葉の里山風景にぴったりの大好きな絵本です。人気のある絵本ですので読まれた方やお子さまへ読み聞かせをされた方もいらっしゃることでしょう。先日お知らせした「クーリングシェルター」や「涼み処」になっている図書館でゆっくり読まれてみてはいかがでしょうか。

校長ブログNo116 おうい雲よ!

7月26日に開幕したパリ2024オリンピック大会も今日で1週間を迎えます。序盤からメダルラッシュに沸く日本。歴史的競技の馬術では92年ぶりのメダル獲得。そして東京2020大会から始まった新種目スケートボードでは男女共に金メダルを獲得。幅広い種目で各国の選手が全力で取り組む姿に目を見張るとともに、アスリートならではのたくさんの汗と涙に感動させられます。「今年の夏は特別です。」と過去ブログでも書きましたが、月替わりでカレンダーをめくるとき、「7月が終わり今日から8月だ!」と時の流れをはっきりと意識させられます。オリンピックは4年に1度ですが、各地では伝統的な夏祭りや盆踊り、花火大会などが繰り広げられています。まさに日本の夏、世界の夏です。さて、8月のカレンダーには、異名月で「葉月(はづき)」、8月1日の欄には「八朔(はっさく)」と書かれています。

鉛筆葉月鉛筆(ウェザーニューズ2021年8月1日付より引用)

一般的には、木の葉の紅葉が進み、葉が落ちる月、「葉落ち月(はおちづき)」が略されたものといわれています。 また、稲の穂を張る月、すなわち「穂張り月(ほはりづき)」が略されたという説、初めて雁が渡ってくる月であることから「初来月(はつきづき)」を略して「葉月」と呼んだ説などがあります。

▼横芝光町図書館の花壇(芙蓉(ふよう)をはじめとする夏の花が美しく咲いています。)

また、同図書館2階ギャラリーでは企画展が催されています。

https://www.library.yokoshibahikari.chiba.jp/gallery.html#gal01

児童の作品から 夏の風情を感じる俳句をいくつか紹介します。

夏まつり 大きなおみこし おどってる

夏まつり ぼうしをかぶった チョコバナナ

りんごあめ おこりんぼうの おじょうさん

網やぶれ 金魚すくいの 落としあな

夏の夜 空に咲いた 花畑

めんつゆで 泳ぐそうめん 上手だな

セミたちが声を合わせて歌ってる

鉛筆八朔(はっさく)鉛筆

「八朔」とは「八月の朔日(ついたちのこと)」に行われる風習をさします。「朔(さく)」という言葉は日常生活ではほとんど使いませんが、「朔日(さくじつ)」は「朔日(ついたち)」とも読みます。

1 果物の名前

「はっさく」と聞いてまず思い浮かぶのはあの丸い黄色いミカンのようなものですが、旧暦の8月1日は、現在の暦では2024年の9月3日にあたるそうです。ちょうどその頃から「はっさく」が食べられるようになる頃といったことで名付けられたとあります。(明治19年頃)現代では冬の旬の食べ物ですが、夏の終わりに食べられるようになるとはどんな味覚だったのでしょうね。

2 朔(さく)とは

つまり「朔(さく)」は、月の最初の日を表し、「物事の始まり」を意味します。そのため、人名(読み方として「さく」や「はじめ」)でも使われることが多く、特に「令和」=「新しい時代の始まり」にちなみ名付ける人も増えているそうです。

3 豊作祈願の願いを込めて

9月上旬頃、ちょうど稲がたわわに実り収穫を迎える頃。収穫できる喜び、そして無事に実りをいただけるようにと、田の神様に、「田の実」の豊作祈願をする日となりました。

▼写真は7月初めに2年生生活科学習「学区探検」(学校からしおさい公園方面へ)で一緒に歩いたときの風景。シラサギも飛び交っていました。 

4 徳川家康の江戸入府 

歴史上では、八朔(8月1日)は、1590年(天正18年)に初めて徳川家康が江戸に入府した日とされ、江戸幕府にとって重要な日とされていました。

7月の終わり頃から夕方になると雷雨が増えてきました。空を見上げると今日もいろいろな雲が浮かんでいます。夏というとモクモクとわく入道雲(積乱雲)が思い浮かびますが、こんな雲もあるんですねぇ。ひつじ雲でしょうか。雲の高さによって形や色も異なるなんておもしろいですね。

昔、学校で習った『雲』山村暮鳥(群馬県出身の詩人・児童文学者 1884(明治17年)‐1924(大正13年))の詩を思い出します。(この詩は山村氏が逝去した翌年出版された詩集『雲』に収められています。)冒頭の「雲」の詩の中から一部を紹介。

雲 丘の上で としよりと こどもと うっとりと雲を ながめている

おなじく おうい雲よ ゆうゆうと 馬鹿にのんきそうじゃないか どこまでゆくんだ ずっと磐城平(いわきだいら)の方までゆくんか

ある時 雲もまた自分のようだ 自分のように すっかり途方にくれているのだ あまりにあまりにひろすぎる涯のない蒼空なので おう老子よ こんなときだ にこにことして ひょっこりとでてきませんか