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校長ブログNo132-1 シリーズ白浜小学校はあのとき⑥「校章」に寄せた思い

シリーズ白浜小学校はあのとき⑥ は過去ブログNo46 (5月23日)でも取り上げた「校章」の由来についてです。初めて校章を見たとき、ハマヒルガオの花をかたどったものかと思いました。別の職員は、星、ウミガメなどにも見えたと言っていました。いずれも違いました。

過去ブログの記事から一部再掲します。

「白浜小学校の「白」に片仮名で「ハマ」を図案化したもので、白浜小学校の「強く・たくましく・明るい」児童を象徴としたもの」です。

第5代校長 伊藤 貫 氏(在職期間1930年(昭和5年)~1943年(昭和18年))による考案です。

シリーズでお伝えしてきたとおり、1941年(昭和16年)は、白濱尋常高等小学校が白浜国民学校へと改称された年です。校章は、1941年(昭和16年)国民学校となったときに制定されました。(その前に校章があったかどうかは沿革史からははっきりしていません。)この1941年(昭和16年)は日本では歴史上大きな意味をもつ年です。

鉛筆紀元2600年鉛筆

「紀元(きげん)2600年は皇紀(こうき)2600年とも呼ばれる。太平洋戦争が始まる前年の1940年(昭和15年)が神武天皇が即位してから2600年に当たる節目の年を迎える。このことから、日本政府は1935年(昭和10年)10月1日に当時の内閣総理大臣岡田啓介(岡田内閣)を会長とする「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮(かしはらじんぐう)や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。」

当時の校長、伊藤 貫 氏について、当時在職した職員はつぎのように回顧しています。

「戦争もいよいよ激しさを増した昭和16年、学校は国民学校と改称された。校長は伊藤貫先生で、当時学校は心身ともに健全なる皇民の育成ということで体育が重視された。この時、白浜小が体育指導の県指定の研究学校に指定された。公開研究会当日は県下各学校の校長、体育主任が多数参加されて盛大な研究会であった。体育実演にさきだって、集合台に乗った伊藤校長の前を校旗は皇紀2600年を祝し、在満の斉藤隆司氏の寄贈によるものである。」

「伊藤校長は赤穂浪士の討入りの日、12月14日、全校児童を早朝召集し、校庭に大かがり火をたき、児童は学校で作った醤油のおにぎりをいただき先生のお話を聞いた。赤穂義士を愛した、明治生まれの気骨がうかがわれたなつかしい行事だった。」

今では想像もできない国家をあげての戦意高揚が叫ばれた時代でした。国策の標語「国は第一、私は第二」(日本カレンダー株式会社)が象徴するように、全ては戦争のための時代だったのです。

伊藤貫氏は、校長退職後、戦後、1947年(昭和22年)第25代 白浜村長となります。戦後の新しい日本の民主政治で行われた初の公選による初代村長でした。「戦後の社会的混乱、物資不足、食糧事情のきびしい環境の中で、校長時代からの幅広い人脈と人間関係によりよく村政を治めた功績は誠に大きい。」と回顧しています。