校長ブログNo130‐1 シリーズ白浜小学校はあのとき⑤国が第一 私は第二
白浜小学校はあのとき⑤ 国民学校の男性教師による手記
タイトルの「国が第一 私は第二」は国策標語((株)日本カレンダー1941年(昭和16年)
「戦時中、男子職員はズボンの上からゲートルを巻き戦闘帽を着用。女子職員は、手縫いのモンペの上下で、だれもが防空頭巾と、救急袋を肩からかけているのが、日常の姿であり、通勤着でした。日曜日の日直も宿直も、二人ずつの勤務に強化され、警戒警報が発令されると、夜中でも職員は出勤し、御真影奉安所の警護と、重要書類の持ち出し、校舎の警備にあたったものです。」
平日だけでなく、休日までお国のために奉公した当時の教職員は自分たちの家庭は二の次で大変な思いだったと思います。この文章に出てくる「御真影奉安所」については8月15日付の記事で触れます。
「校庭の周囲には、いくつもの防空壕が掘ってありました。最初の頃B29は、はるか上空を編隊で、都市や軍需施設をめがけて通り過ぎるので、さほど怖さを抱かず、木陰や、防空壕の入口から眺めていたものでした。しかしその後、艦載機がくるようになってからは、何度かゾッとするような恐ろしい思いをしました。爆音がしたかと思うと、黒っぽい機影が頭上に襲いかかり、ごく低空でバリバリという不気味な音と共に銃撃するという、むごさでした。」
「当時6年生の担任で、その日も授業中で、警戒警報発令という知らせがあったかと思うと、たて続けに空襲警報となり、素足で校庭を横切り、防空壕に飛び込んだと同時に、ダダダダキュンという耳元での銃声に、思わず全員が抱き合ってしまいました。解除になり教室に帰ってきて驚いたことには、校舎の何か所かに銃撃を受け、その中の一発が私たちの教室を、廊下から黒板の左上の壁を射抜いていたことです。背筋の凍る思いをしました。」
▼撮影年不明 (当時の校長の在職期間(2年間)を手がかりに、1944年(昭和19年)か1945年(昭和20年)のものと思われる。