ほごログ(文化財保護課ブログ)

タグ:桐のまち春日部

夏季展示が遺したもの

夏季展示「桐のまち春日部」展も終わり、ただいま資料返却の旅の最中です。資料をお貸しいただいた方々から、「いい展示だったね」「お役に立ててよかった」と感謝のお言葉をいただき、本当によかったなと思う毎日です。 #かすかべプラスワン

様々な方に巡り合い、お話しが聞けて、春日部の桐産業の理解が深まったこと、あるいはこれから深めていくきっかけになったことが、資料館として何よりの財産になったわけですが、ほかにも目に見える形で夏季展示を活かしていきます。今日は2点ほど、夏季展示を継承する成果を紹介します。

第一 桐箪笥のリーフレットを一新しました。

画像:新しくなった桐箪笥のリーフレット

今回の調査を受けて、より見やすく充実した内容に一新しました。まだ前の範の残部がありますので、在庫がなくなり次第配布します。小学校の地域学習の課題などにお役立てください。表紙には、桐箪笥から登場する郷土資料館あんない人の「うめわかくん」が!「うめかわくん」でなく「うめわかくん」です。

 

第二 桐箪笥のカンナくずを活用した体験講座の開発に着手しています。

桐箪笥屋さんから廃材となるカンナくずをご提供いただき、これを活かして何かできないかなと、展示期間中、職員一同頭をひねっていました。そして、たどり着いたのがカンナくずでつくったバラのブーケです。

 画像:カンナくずでつくったバラのブーケ

以前、実習生がしれっと紹介していましたが、もっと注目されてもいいモノだと思いますので、紹介させてください。

カンナくずを丁寧に折って花びらにし、これを組み合わせて「バラの花」に仕立てました。教育センターの清掃員の方からも大変好評です。先日、箪笥職人さんにもご披露したところ、大変喜んでくださいました。

春日部の象徴である「桐」の廃材を再利用して、美しいバラにする、まさにSDGs未来都市に相応しいといえましょうか。今はどのように事業化すればよいか思案しているところです。

これからも、展示の成果を郷土資料館の活動に活かしていきたいと思います。

明日 #ミュージアムトーク やります

令和3年9月5日(日)をもって、夏季展示「桐のまち春日部」展もいよいよ最終日。最終日は、展示担当学芸員によりミュージアムトーク( #展示解説 )を開催します。 #かすかべプラスワン

時間は10時30分~と15時~の2回。「語り出したらキリがない」ので60分ほどになるかと思います。解説を聞きたい方、ご自分の体験談を聞いてほしい方、お付き合いいただける方をお待ちしています。もちろん予約不要、費用はかかりません。

元・桐材屋さんから資料を寄贈いただきました

おかげさまで「桐のまち春日部」展もたくさんの方にご覧いただき、なかには関係者の方もちらほら。先日、夏季展示「桐のまち春日部」展をご覧いただいた、市民の方から資料を寄贈いただきました。

お話をうかがったところ、以前、粕壁で桐材店を営んでいた方でした。

その昔、郷土資料館にも、桐材店に関連する道具を寄贈いただき、その一部は「桐のまち春日部」展でも展示しています。展示をご案内したところ、ご来館いただきました。ご来館された方は、桐材店の娘さんでしたので、直接ご家業に携わっていたわけではなかったようですが、展示資料をご覧いただき、「懐かしい」「○○さんという名前聞いたことがある」とお話しいただきました。

ご来館の折、ご持参いただいたのが今回ご紹介する資料です。資料は、昭和50年ごろに夏休みの自由研究の成果(模造紙)です。自由研究のテーマは「春日部桐箪笥のできるまで」。当時、小学生だった桐材店のご子息が家業の仕事の風景を写真で記録し、模造紙に貼り付けまとめたものです。桐材店のご子息が調べた内容もさることながら、とりわけ貴重なのは写真です。そこで、今回その写真を紹介します。

写真:桐の丸太

まずは、桐の丸太の写真です。工場には、大量の丸太が山積されていたそうです。

桐は丸太のまま乾燥させ、そのあと、製材・製板していくことになるようです。

写真:製板された桐材

次は、製板された桐材です。屋根が映り込んでいるので長い板であることがうかがえます。

板を乾燥させているところのようです。桐は雨ざらしにしてアク(シブ)を抜かないと製品になった後に変色してしまうそうです。板を斜めに立て掛ける干し方は、面積をとるため、広い敷地がないとできないと聞いたことがあります。

写真:木取り

つづいて、工場内部の写真。木取りをしている場面のようです。

丸鋸盤で板材を必要な寸法に切ります。木取りが箪笥を製造する上で重要なことは以前紹介しました。

写真:箪笥の枠組み

つづいても工場の中。箪笥のワクを組んでいるところです。

職人さんは、「アツイタ」とよばれる作業台の上で生地を組んでいきます。

ホゾを組むときや、木釘をうちつけるときには、木槌やトンカチ(ゲンノウ)が使用されます。

「トントントン」と、リズミカルで心地よい音が聞こえてくるようです。

ところで、最近の箪笥屋さんは、「箪笥屋さん、儲かるかい?」「トントントントン、トントンのカミ」というそうです。意味は、箪笥を一生懸命「トントン」と組んでも、儲けは「トントン」(差し引きゼロ)だということです。

かつては、「箪笥屋さんかい?神様かい?天皇陛下のオジサマかい?」といったほど、春日部の箪笥産業は盛んでしたが、近年は手間賃が安く箪笥屋さんの景気もあまりよくないとか。聞き取り調査の折に、こんな話をうかがったこともあります。

話は脱線しましたが、「桐のまち春日部」展は9月5日まで。あとわずかですが、春日部の桐産業について、まだまだ、わからないことが沢山ありますので、関係者の方、ぜひ教えてください。

小渕・観音院の聖徳太子立像

夏季展示「桐のまち春日部」展で展示中の聖徳太子立像(小渕・観音院所蔵)は、同展の目玉資料の一つです。今回は春日部の桐細工との関わりについて、ご紹介します。 #かすかべプラスワン

 写真:聖徳太子立像

小渕の観音院は、正式には小淵山正賢寺観音院といい、市内では現存する唯一の本山修験宗の寺院です。鎌倉時代中頃の正嘉2年(1258)建立とされ、市内最多の7躯の円空仏(小渕観音院円空仏群・県指定有形文化財)、元禄年間(1688-1704)建立と伝えられる小渕山観音院仁王門(市指定有形文化財)など、春日部のあゆみを理解する上で貴重な文化財を伝えています。イボ・コブ・アザなどにご利益のある「イボトリ観音」として古くから信仰され、5月の大型連休中に円空仏を開帳する「円空仏祭」や「四万六千日祭」(8月10日)などの年中行事に加え、近年はさまざまな催し物を織り交ぜたイベント「寺フェス」などを催し、寺院の新たな役割を模索しています。 

小渕の観音院に伝わる聖徳太子立像は、木造で厨子におさめられ、普段は本堂に安置されています。太子像は、髪を角髪(みずら)に結い、鳳凰丸紋(ほうおうまるもん)の朱華(はねず)の袍衣(ほうい)に袈裟(けさ)をかけ、柄香炉(えごうろ)を持っています。これは、父の用明天皇の病気平癒を祈った16歳の姿といわれ、孝養太子と呼ばれています。

観音院には、江戸時代、境内に太子堂があり、この中に安置されていたものと考えられます。

天保13年(1842)「小渕太子堂奉加帳」(市指定文化財)によれば、観音院の太子堂は、もともと宝暦5年(1755)に近隣の職人が講銭を集め、粕壁の八幡宮の宝殿に造営されたもののようです。経緯は不明ですが、その後、観音院に太子堂が移されたようです。天保13年、観音院と小渕村の職人たちは、この太子堂を修復するために近隣の職人などに寄付を募りました。この寄付台帳が「小渕太子堂奉加帳」です。奉加帳には、大工・木挽・建具屋など、市域周辺の250名余りの職人の名前が記録されています。このなかに、春日部の桐細工の起源とも考えられる、指物屋・箱屋の署名がみられます。箱屋と指物屋の区別は明確ではありませんが、いずれも木組みをして箱・長持・箪笥類を細工・製造した職人と考えられます。市域では、粕壁宿に箱屋9名、小渕村に箱屋1名・指物屋2名、樋籠村に指物屋1名、牛島村に指物屋3名、藤塚村に箱屋2名、指物屋1名、銚子口村に箱屋2名、備後村に箱屋1名が確認され、広範に職人が存在していたことがわかります。

写真:小渕太子堂奉加帳

聖徳太子は、四天王寺などを建立した事績から、各地で建築や木工の祖として崇められていました。春日部市域では残念ながらたどれませんが、県内では箪笥職人などが「太子講」という聖徳太子を信仰する講が組織される例があります。この「小渕太子堂奉加帳」により、観音院の聖徳太子像は、春日部の桐細工職人らに信仰されていたと考えられ、「講銭」が集められたという記述から、市域でも「太子講」に近い組織が存在していたことがうかがえます。

そういうわけで、観音院の聖徳太子立像は、春日部の桐細工の歴史に深く関わる資料といえます。桐細工の歴史を物語る資料は、紙の資料が大半を占めてしまいますが、数少ない立体の展示資料として、鮮やかな彩色も伴い、展示に華を添えています。

写真:聖徳太子

今回、観音院の「聖徳太子立像」と「小渕太子堂奉加帳」が初めて一同に会しています。展示室の照明の都合から、厨子から出した状態で「聖徳太子立像」を展示しています。像を単体で鑑賞いただけるのは、9月5日まで。あとわずかです。この機会に、ぜひともご覧ください。そういえば、今年は聖徳太子御遠忌1400年だそうです。

春日部の桐細工の起源と伝承について(その2)

気が付けば、夏季展示「桐のまち春日部」展の会期も最後の一週間です。引き続き、春日部の桐細工の起源と伝承について第二弾にして最終回。 #かすかべプラスワン

前回、紹介した通り、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播していきました

こうしたことは展示の企画段階から何となく把握していましたが、調査を進めるなかで新たな資料を見出すことになりました。それが、大正13年(1924)に発表された論文、緑川禄「埼玉の桐箱」です。この論文は、大日本山林会の会誌『大日本山林会報』498号に収載されるものです。ちなみに大日本山林会の会誌のバックナンバーはデジタル化されています。

緑川には『確実なる副業 檪、竹、桐、杞柳の実際的経営』という著書もあり、埼玉県技師であったことがわかっています。会誌『大日本山林会報』には、埼玉県内の林業・林政に関する緑川氏の文章がいくつも収載されており、緑川は埼玉県の林業に深く携わっていた人物であると考えられます。緑川のいう「桐箱」とは、いわゆる桐小箱だけではなく、大型の箱である桐箪笥や長持なども含んだ桐製の指物のことを指しており、関東大震災直後の埼玉の桐産業の状況を伝える貴重な文献です。埼玉の桐箱の起源についても次のように言及されています。表記は原文のママ。誤字は( )で注記した。

桐箱製造の起源は遠く後陽成帝の御宇慶長年間徳川家康江戸に開幕と共に、爾来家具の工匠を武州川越に住ましめ、将軍家の御用を仰付け、其後霊元帝の御代天和年間、に至り桐材を以て家具類を製作せしめたるに創るので、其当時は僅か十数人の工匠が大箱即ち箪笥、刀箪笥累の製作を主とし、尚ほ枕及硯箱をも工作したのであつた。

其後中御門帝の御宇正徳年間、北葛飾郡幸松村の人某川越に於て技術を習得し、自村に帰つて創業せるが、是粕壁地方に於ける桐箱製造の元祖である。(中略)幸松村に於て一般の需要に満たすべく製作を開始せるに、会々(津?)仙台公日光崇拝の途次粕壁町に於て御納戸硯箱を献じて技工の優秀なるを認められ、公儀御用商人住吉屋をして納入せし以来諸大名、家老近卿(郷か)々士にまで供給する様になつたのである。(以下略)

すなわち、埼玉の桐箱づくりは、徳川家康の入部とともに、城下町川越に移住させられた職人が直接の起源であり、春日部の桐細工の起源は、正徳年間に幸松村(明治22年以降の地名)の某氏が川越で技術を習得し、幸松村で創業したことに求められています。その後、諸大名の東照宮参詣などで日光道中の粕壁宿にて硯箱が大名に献上され、幕府の御用商人の住吉屋(おそらく江戸の箪笥問屋)に納入され、江戸の諸大名や武家らが用いるようになったと記されています。

緑川「埼玉の桐箱」は、春日部の桐細工の起源について言及した文献として、現在わかる範囲では最古のものです。最古であるからだけではなく、幸松村や住吉屋といった具体的な固有名詞が出て記述が、大変興味深いものとなっています。幸松村は、現在判明する範囲で最古の箪笥屋が所在する小渕も含まれた地域です。現在の箪笥屋の系譜では天明年間(1781-1788)までしか遡れませんが、幸松はそれよりも古くまで遡れる桐細工産業の発祥の地なのかもしれません。また、日光道中を利用した諸大名の目にとまり、住吉屋に卸されるようになったとの記事も大変興味深いです。住吉屋とは、近世の史料にも登場する江戸の京橋の箪笥商、明治初頭まであった実在する箪笥卸商であったようです。

こうした具体的な記述から、春日部の桐細工が、日光道中を起点にし、巨大都市江戸と関係を結びつきながら、歴史的に展開していったことが想像されます。日光道中沿いにあることから、いつのまにか「日光東照宮の工匠」に関する伝承が生まれていったのかもしれません。

しかし、残念なことに、緑川は明確な典拠を示していません。川越に技術を習いにいった人物も「某」とされており、よくわかりません。しかし、ほかの記事では、農商務省山林局編『木材ノ工芸的利用』(明治45年刊)にも近似する県内の桐箱製造者数のデータも掲載されており、緑川「埼玉の桐箱」は、なんらかの調査や資料に基づいて執筆されたと推察されます。担当者としては、緑川説は、「東照宮の工匠伝説」より、やや具体的であり、執筆者の立場からしても、歴史により桐産業を権威化する意図は感じられないので、信ぴょう性が高いのではないと考えています。

 

このように説明すると、「「東照宮の工匠伝説」は間違っているのか!?」「結局、どっちが正しいのか」「どちらも証拠がないのでは?」「起源なんてどうでもいいのでは?」と叱責されてしまいそうです。いずれも「伝承」「伝説」であり、担当者としては、どちらが正しい、間違っているのかを裁定するつもりは固よりありません。桐細工の起源説の検討から、強調しておきたいことは、以下のことです。

「伝説」「伝承」はさておき、今回の調査では、証拠のある具体的な歴史としては、春日部の桐細工は、古文書により、江戸時代半ばまで遡れる地場産業であること。そして、明治時代後期以降、産業として大きく飛躍し、その頃に、現代に伝統産業として継承される礎が築かれてきたことがわかりました。

今回わかってきた具体的な桐産業の歴史は、「東照宮の工匠伝説」のような華やかで箔をつけたかのような「起源」に比べれば、一見地味かもしれません。ただ、農間余業として始まり、その後に専業化し、春日部を「桐のまち」として支えていった一つ一つの歩みは、現代の私たちから見れば地味かもしれませんが、歴史の当事者や関係者たちにとって決して地味なものではなかったはずです。具体的な歴史をとらえ、それを一つ一つ見つめ直し、理解することこそが、先人たちや関係者の方々に敬意を表すことになる。展示担当者は、様々な資料や関係者への聞き取り調査のなかで、春日部の桐産業は、尚もまちの特徴であり、今後のまちの行く末を考えていく上でも、桐産業の具体的な歴史を考えることは重要だと改めて思いました。

皆様にも、雲をつかむような「東照宮の工匠伝説」ではなく、より具体的な春日部の桐産業の歴史を今一度見つめ直していただきたいと思います。そんな、春日部の桐産業の歴史を具体的に紹介する「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。