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伝統芸能の公開にむけて-やったり踊りの練習にうかがいました!!

 いよいよ夏季の例祭が各地で催されますが、7月8日(土)は埼玉県無形民俗文化財に指定されている”やったり踊り”の練習にうかがいました。

 

令和元年の公開以降、3年ぶりに小若の元気な舞と若衆による伝統を継承する勇壮な舞が戻ってきました。

 

 この日は本番同様、練り込みと呼ばれる西光寺から奉納舞を行う大畑香取神社境内まで、道中の所作をはじめ、小若低学年、高学年、若衆の順で「扇子踊り」と「手踊り」の仕上げが行われました。

 

 小若の低学年(小学生1~3年生)は初めての参加、さらに高学年の皆さんも3年のブランクを取り戻そうと、低学年時の経験を一生懸命に思い起こしています。境内での練習は本日が初めてで当初は戸惑いもみられましたが、若衆みなさんのアドバイスや励ましにより、低学年を引っ張ろう、舞を合わせようと、頑張ってくれました。

 この練習時には、小若は揃いの半被ですが、若衆は白地に鮮やかな青の染め抜きの浴衣、赤の鉢巻き、赤の鼻緒の草履という、特徴的な装束も見どころの「念仏踊り」とされる県内でも希少な無形民俗文化財です。

 全国的にもコロナ渦で中断が余儀なくされていた伝統芸能の再興にご苦労されています。是非、この夏の祭礼に足を運んで地域の伝統芸能を応援ください!

※やったり踊りの公開は、次週土曜日、7月15日(土)午後8時に西光寺を出発、約20分の練り込みにより大畑香取神社へ。午後8時30分ごろから奉納舞が公開されます。

 7月16日(日)は、西金野井の獅子舞、赤沼の獅子舞、銚子口の獅子舞、榎の囃子神楽も公開されます。詳しくは市公式ホームページをご覧ください。

展示替はじまっています

7月2日までの企画展の資料を撤収しました。素丸書の松尾芭蕉の肖像画の軸を巻き、まさにしまおうとしたところ、軸の表紙に目がとまりました。

軸の表紙

墨書や蔵書印があるのですが、注目は次の蔵書印です。

画像:蔵書印

鼎(かなえ)を模している印なのでしょうか。やかんでしょうか。形はよくわかりませんが、文字はちょっと読みづらいかもしれませんが、印には「宜春園(ぎしゅんえん)」と印刻されているようです。

宜春園とは、江戸中期の備後の文人・石井文龍が、師匠の溝口素丸から与えられた号です。素丸も宜春園を名乗っていたといい、文龍にとっては誉れ高き名跡だったはず。その後、宜春園の名跡は、地元の文人に継承されていきました。

詳しくは、松尾芭蕉の肖像が春日部に伝来した理由を参照してください。

つまり、芭蕉の肖像の軸に「宜春園」の蔵書印が捺されているということは、まぎれもなく石井文龍の持ち物だったといえるわけです。今後、「宜春園」の蔵書印に注目しながら、他の資料を検討していけば、何か新たな発見があるかもしれません。撤収のさなか気づいた今後の課題です。終わりは始まりなのです。

さて、撤収後、次の企画展示「あなのあいた壺」展の設営が始まりました。

写真:展示の設営

前の展示は、紙ものばかりでしたが、今度はうってかわって立体的な土器が並びます。資料の種別や特性によって、取り扱い方も全く違います。倒れないように、土器専用の台やテグスなどでしっかり固定しています。立体的な資料なのでどの部分を見せたいのか、担当の学芸員の個性が出るところでしょう。

終わりは始まり、ですが、展示の設営が始まったということは、これもいつか終わりを迎えるのです。

終わりは始まり、始まりは終わりなのです。

企画展示は期間限定ですので、お見逃しなく。

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その4】権現山遺跡の縄文時代晩期の土器

権現山遺跡晩期土器

 

権現山遺跡から出土した縄文時代晩期の土器(土器の高さ48.2㎝)

 

権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代晩期の土器を紹介します。

縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6時期に区分されていますが、春日部市域でもっとも遺跡数が多いのが縄文時代前期です。東京湾が北に広がった縄文海進がもっとも進んだ時期で、低地は海となり、陸地であった台地で人々は生活し、貝塚を残しました。縄文時代中期の遺跡も比較的多くみられます。縄文時代後期になると、遺跡数は少なくなりますが、神明貝塚のような大きな遺跡が確認されています。

縄文時代晩期は今から約3,300~2,500年前で、市内では今回ご紹介する権現山遺跡の深鉢形土器が、ほぼ唯一の資料です。

この土器は、昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査で、古墳時代前期までに埋まったとみられる埋没谷から発見されました。縄文時代晩期後半、中部地方から東北地方にみられる浮線文系土器群に属するものと考えられています。

口径(復元)34.5㎝、推定の高さ48.2㎝の大型のもので、口縁には、2個1組と1個の山形の突起を交互に5個つけています。浮線文系土器の文様は、網状文(あみじょうもん)とよばれる網目のような模様がよく見られますが、権現山の土器は、竹などの工具で平行に線が引かれる平行沈線(へいこうちんせん)が描かれており、浮線文系土器群のなかでも新しい特徴とみられています。

縄文時代早期の土器に続き、この晩期の土器も大変貴重な資料です。 

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

 

海外の方にも大人気! #クレヨンしんちゃん スタンプ

4月ごろから、郷土資料館に海外からのお客さんが見受けられるようになりました。「クレヨンしんちゃん 春日部スタンプ巡り」に参加されている皆さんです。

実は、4月16日(日)から2か月以上連続で海外の方の来館が続いており、ある日は来館者の半数以上が海外の方ということもありました。

春日部市郷土資料館で提供するしんちゃんのスタンプは、国指定特別天然記念物である牛島のフジ、国選択無形民俗文化財である大凧あげ、日光道中の宿場町、伝統工芸である桐ダンス・桐小箱をデザインした、春日部の魅力が詰まっているオリジナルスタンプです。

 

思いがけない反響に、資料館では、外国の方向けに多言語の案内表示を掲示しました。

画像:多言語化案内

また、常設展示のクレヨンしんちゃんの展示コーナーには、感謝の言葉も表示しました。

画像:感謝の多言語

これをきっかけに、江戸時代の宿場町や縄文人の家の模型を見学して、クレヨンしんちゃんが住む春日部の歴史文化に触れていただき、春日部市の魅力を知っていただきたいと、願うところです。

#家康 と春日部

#徳川家康 と春日部の関わりを紹介する春季展示は7月2日(日)まで。展示では家康が実は春日部に来ていたかも!?と紹介しています。 #かすかべプラスワン

展示も終盤なので、ネタバレで紹介します。家康が春日部に在陣することを示すのは、江戸幕府による官撰の系譜「寛政重修諸家譜」。戦国期には古河公方足利家の家来だった一色氏の系譜の記事のなかに見出せます。下の画像はその部分(国立公文書館所蔵)。

画像:寛政重修諸家譜

戦国末からの当主一色義直の記事は、次の通りです。

(前略)五年会津に御発向のとき、粕壁の駅に至りて拝謁し、台駕にしたがひたてまつらむ事を請といへとも、年老たるをもつて許し給はす、男照直を俱せらる、関原凱旋のゝち、参府して御気色をうかかふのところ、御前にめされ、義直老年ながら会津御陣の供奉をこひし事健気なりとの御感ありて、養老の料として下総国和歌領にをいて、千石の地をたまふ(後略)

慶長5年(1600)、家康は会津の上杉景勝の征伐のため、江戸城を立ちました。その途次「粕壁の駅」で一色義直は家康に拝謁し、軍勢に加わりたいと請願しますが、老齢のため家康の許しを得ることができず、嫡男の照直が供奉することになりました。

一色氏は、かつて幸手領(幸手市域から杉戸町・春日部市域の一部)を所領にしていた在地領主です(後に下総国相馬郡に所領を替えられ、現在の野田市の木野崎村に居住)。家康が関東に入部した後は、幸手に知行地5160石余を与えられ、徳川家の旗下となりました。慶長5年当時、義直は隠居の身でしたが、おそらく家康の軍勢が自らの所領幸手領を通行する直前の「粕壁の駅」で、挨拶のため拝謁したものと考えられます。

家康は、会津に向かう途中、小山で江戸に引き返したといい(小山評定)、そのまま関ケ原に向かいました(関ケ原の戦い)。

「諸家譜」はさらに続けて、関ケ原の戦いの後、一色義直は江戸城で家康に拝謁し、老年ながら会津征討に供奉したいと請願を「健気なり」と褒賞され、隠居料として下総国和歌領(現茨城県八千代町)に1000石の知行所を与えられました。

一色義直の「粕壁の駅」での拝謁については、残念ながら同時代の史料は残されていません。「諸家譜」のほか、一色家諸系譜(幸手市史編さん室編『幸手一色氏』)にも記されており、家に伝来した出来事であったと考えられますが、当時いわゆる「日光道中」が成立していたかは疑義が残り、「粕壁の駅」の位置や実態について詳しくはわかりません(後述)。

上杉征伐~小山評定~関ケ原の戦いは、大変ドラマチックな展開であり、その途次に「粕壁の駅」が登場するわけですが、近年は「小山評定はなかった」説も唱えられており、江戸からの行程、江戸までの行程も詳しくはわかりません。このあたりが大河ドラマでがどのように描かれるのか、注目されるところでもあります。

さて、肝心の「粕壁の駅」とは、何か。先日の「みゅーじあむとーく」でも、「粕壁の駅」とはどこなのか、当時粕壁に宿場町があったのか、など観覧者から鋭い質問をいただいたところです。

粕壁宿の名主文書によれば、いわゆる「日光道中粕壁宿」(現在の春日部大通り)の町割りがされたのは、慶長16年(1611)のこととされています。一方、天正18年(1590)9月には、岩槻城主高力清長が「糟壁新宿」に人を集め年貢を納めることを命じています。「糟壁新宿」はのちに元新宿と呼ばれた地区(現南・緑町)であり、いわゆる「日光道中粕壁宿」の成立以前の馬継場は同所にあったと考えられています(詳しくは以前紹介記事参照)。会津征伐の慶長5年は、この間の出来事。果たしてどこに「粕壁の駅」があったのか。はたまた、「粕壁の駅」はそもそもこの時期に存在したのか、今後の検討が必要です。

結論はでませんが、そうした家康と春日部の関わりを紹介している春季展示「かすかべ人物誌」は7月2日(日)まで。家康の朱印状も展示していますので、お見逃しなく。

 

出張授業in川辺小学校 その2

6月28日(水)は再び川辺小学校に行きました。

前回の6月9日は3年生の「総合的な学習の時間」でしたが、今回は6年生2クラス、社会科の授業です。

6年生は歴史の授業で弥生~古墳時代を勉強中だと教えてくれました。

3年生の授業とは内容が少し変わって、国史跡「神明貝塚」について具体的に学んだあとに、春日部市や川辺小学校周辺の縄文時代について発掘調査の成果を素材に学習に取組みました。

 

その後は「石器」「貝」「土器」に分かれての縄文体験です。

貝コーナーでは、遺跡から出土した貝を実際に触ってもらいました。

授業の冒頭に紹介した神明貝塚では、川や河口付近に生息するヤマトシジミがほとんで貝塚が作られたことが特徴です。

 

一方、学校周辺の貝塚はアサリやハマグリなど、海に生息する貝であり、神明貝塚の貝とを比べてみると、その違いがよく理解してもらえました。「縄文人は採集をしていた」ことを目に見えて実感してもらえたのではないでしょうか。

 

最初は縄文なんてよく分からないと言っていた子どもたちも、

終わってみると、楽しかった、おもしろかったと教えてくれました。

体験に使われる土器や石、貝は春日部市内の遺跡から見つかったものになります。

自分の住んでいる地域にも教科書で学んだことが起きていたということを、楽しかった記憶とともに覚えてもらえたら嬉しいです。

 

今月の出張授業は一区切りとなります。

川辺小学校のみなさん、ありがとうございました!引き続き、市内の子供たちに縄文時代の学習を深めてもらえるよう出張授業に取組みます!!

郷土資料館の顔~その2 怒っている!?人物埴輪

郷土資料館の顔の第二回目は、常設展示の内牧の塚内4号墳の人物埴輪です。

写真:人物埴輪

人物埴輪の出土事例として、顔・かたちがわかるものは、市内ほぼ唯一のもののようです。また、人の顔のある考古遺物としても、市内でも稀有な資料。

人物埴輪の解説については、前に博物館実習生に記述してもらったことがあります。詳しくはこちらをご覧ください。

解説にもあるように、完全な形はとどめていませんが、この埴輪は男性をかたどったものです。首には玉の首飾り、髪型はかけていますが耳の横に美豆良(みずら)を下げています。顔には赤い模様も施されており、春日部に住んでいた(?)古代人の姿がうかがえます。

顔の表情をみると、目と口は直線状の穴で表現されています。鼻筋も通っており、切れ長の目で東洋人的な「しょうゆ顔」でしょうか。

そんなこの人物埴輪、面白いのが角度を替えて鑑賞すると全く違う表情を見せてくれるところです。

写真:上からみた人物埴輪

写真のように上から見ると、切れ長の目がつりあがり怒っている表情に見えます。ケースを下から見あげると、目が垂て悲しんでいる表情の様。あたかも、千円札を折って表情を変える野口英世のようです。

記述者が最初にみた写真は少し上から撮っていた写真だったようで、目がつりあがって怒っているイメージをもっていました。ところが、カメラの角度を替えると全く違う表情。埴輪に怒っているのかと語りかければ、「キレてないですよ」「俺をキレさせたらたいしたもんだ」と言われてしまいそうです。

人物埴輪を制作した人は、どういう表情を思い浮かべ、制作したのでしょうか。そんなことに思いを巡らせると、お馴染みの資料でも、まだ十分に楽しめる余地が生まれてきますし、資料にとっての正面とは何か、を考えさせる一品でもあります。

ぜひ原物の人物埴輪に会いに来て、さまざまな角度からお楽しみいただければと思います。

市内の指定文化財については、本ページのメニューからもご覧いただけます。

・市指定史跡・内牧塚内古墳群についてはこちら

・市指定有形文化財・塚内4号墳出土遺物についてはこちら

出張授業in桜川小学校

6月27日(火)、今年度3校目の出張授業として桜川小学校にうかがいました。

今回は6年生を対象にした「学校付近に暮らした縄文人の生活」の授業です。

3クラスへの授業は今年度初となるため、職員も気合が入ります。

縄文時代の印象を聞くと「竪穴」「狩りや採集で食料を取った」と、きちんと覚えてくれているようです。でも、縄文時代の人びとが春日部にいたのかなと聞かれると、頭をひねる皆さん。中には「春日部にはいなかった」と答えてくれる子もいました。いやいや実は…と始まった今回の授業では、学校付近での縄文時代の遺跡を交えながら史跡神明貝塚と学校付近の縄文人の暮らしを説明しました。

 

桜川小学校は台地の上にあるため、縄文時代に海進がおよんでも陸地であった場所です。休み時間には目の前の海に泳ぎに行けたかもしれない、なんてわくわくする話です。

神明貝塚のビデオ、そして学校付近の縄文時代の生活について話を聞いたあとは、3班に分かれて体験の時間です。

 

1コーナー5分ほど、実際に石や貝、土器に触れる時間を設けています。

今回は土器コーナーの紹介です。土器の名前の由来となった「縄文」に触り、土器の煤など縄文人の実生活に際してついた痕跡を一緒に探します。

また、土器クイズも開催しました。一人一つ土器片を選んでもらい、自分の土器が何時代のものかを考えてもらいます。ヒントを見ながら、「縄文土器」「土師器」「須恵器」「埴輪」を当てる4択問題です。実は正解者が多いこの問題、土器に違いがあることを実感してもらう良い機会になりました。

さて、今月の出張授業も残すところ1校となりました。

教科書の文章をより身近なものに感じてもらえるよう工夫を続けていきます。

 

桜川小学校のみなさん、ありがとうございました!

郷土資料館の顔~その1 石井文龍

春日部市郷土資料館の展示室は、とってもせま~いのですが、展示を見渡すと様々な「顔」があることに気づきました。絵やイラストでも、顔と認識されるモノは、人間の本能なのか目を引くようです。そんな郷土資料館の顔を紹介する新シリーズ。 #かすかべプラスワン

第一回目は、現在、春季展示「かすかべ人物誌」で展示中の、江戸時代の地域文人石井文龍の「顔」です。

画像:石井文龍の顔

石井文龍については、先日紹介しましたので、それに譲ります。

描かれた文龍は、74歳、晩年の時のもの。享年が74歳なので、亡くなる直前か、生前の姿を描いたもののようです。

文龍は、医者であり、若い時分から俳諧に傾倒してきた地域の文化人でもありました。白髪で穏やかなお顔付きで、やさしい眼差しをしています。好きなことを追究され、穏やかな晩年を過ごしたのではないか、そんなことが想像される「顔」です。

不定期ですが、郷土資料館の「顔」シリーズ。次回をお楽しみに。

#松尾芭蕉 の肖像画が #春日部 に伝来した理由

松尾芭蕉の肖像画などを展示する春季展示「かすかべ人物誌」も残すところあと1週間になりました。 #かすかべプラスワン

写真:展示風景

芭蕉の肖像画が、なぜ春日部に伝わったのか、前の記述では来てのお楽しみとしていましたが、ここで少し解説します。ネタバレですので、楽しみにされている方はご注意ください。

今回展示している松尾芭蕉の肖像の掛け軸は、備後の旧家と八丁目の仲蔵院に伝わったものです。

備後の旧家とは、代々在村医をつとめてきた石井家です。江戸時代中頃の石井家の当主文龍は、葛飾蕉門という江戸を中心とする俳諧の一派に加わり、当時の宗匠溝口素丸(幕臣)に師事し、俳諧に傾倒しました。葛飾蕉門は芭蕉の高弟山口素堂の系統を引く一派です。文龍の居住した備後村や周辺の村々では、18世紀半ばごろには地域の俳諧が盛んであり、この環境で幼少期・青年期を過ごした文龍が俳諧に傾倒したのは必然的であったのかもしれません。

文龍は素丸や兄弟子筋にあたる地域の俳人から俳諧を学び、師匠素丸の別号「宜春園」を継承して宗匠となり、地域の俳人に師事しました。その門人は数百人いたといわれています(石井敬三「東武地方武里の俳人石井文龍翁について」『武蔵野史談』1-2)。

前に紹介した芭蕉の肖像は、石井家に伝来したものです。文龍の師匠にあたる素丸自筆の芭蕉の句が書き込まれています。詳しい史料がなく、想像ですが、この肖像は、おそらく点取り俳諧などでよい成績を残した文龍に、師匠素丸が与えたものなのかもしれません。

文龍の生きた時代は、松尾芭蕉が「俳聖」として神格化される時代であり、「蕉風」を自称する俳諧サークルの活動が各地で活発になる時代でもありました。地域の文人たちは、芭蕉の命日を「芭蕉忌」として俳諧の場とし、これを俳題にもしながら、俳諧を創作したそうです。文龍の俳諧一派葛飾蕉門も「蕉門」と称しているように、芭蕉を敬慕し、その俳諧を継承していることを自負していました。文龍自身も西国巡礼の旅の途次に芭蕉の墓のある近江・義仲寺に立ち寄っていることから、「俳聖」芭蕉を敬慕していたものと考えられます。

文龍の肖像も遺されています(展示中です)。

画像:文龍肖像

晩年の文龍の姿ですが、茶人帽に頭陀袋。芭蕉に似せて描かれているようです。肖像の上には「散る柳 紅葉をねたむ 色もなし」は辞世の句です。彼の墓石にも彫られていました。この句は、師匠素丸から秀作と評されたもののようです。このように、文龍は、芭蕉を敬い、師匠からおそらく与えられたであろう芭蕉の肖像を大切に保管し、これが現代に伝わったのです。

実は、 八丁目の仲蔵院に伝来した芭蕉の肖像も同様です。時代は下りますが、明治から大正期にかけて、仲蔵院の住職平原寛圓は、雪中庵という俳諧一派に加わっていました。雪中庵は芭蕉の高弟服部嵐雪の系統を引く俳諧サークルです。詳しい履歴は調査が必要ですが、寛圓は竹堂凡子と号し、地域俳諧の宗匠であったようです。また、仲蔵院には近代の雪中庵歴代の宗匠が訪れていたことも分かっています(増田竜雨『竜雨俳話』昭和8年)。近代の地域の俳諧の拠点となった仲蔵院、そして竹堂の元に芭蕉の肖像が遺され、今に伝わったと考えられるのです。

江戸時代中頃以降、地域の俳諧・文人の交流のなかで芭蕉の肖像が生まれ、伝えられてきたこと。展示の担当者は、この点を強調しておきたいのです。

 展示では、芭蕉の肖像画のみならず、石井文龍の作品などを一堂に会しています。文龍は俳諧のみならず詩や画も遺しました。下の画像はその一つ。

写真:文龍の俳画

左手には猿回しの画とともに「世の中は つなてかなしも 猿回し」と詠んでいます。おそらく文龍の作品でしょう。

世の中は綱に繋がれた猿回しのようだ、という意味でしょうか。身分を超え俳諧に親しみながらも、身分制社会の桎梏を詠んでいるのでしょうか。本展の目玉資料の一つです。

展示はあと1週間。お見逃しなく。

【令和5年夏季展示予告その3】権現山遺跡の縄文時代早期の土器

権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代早期の土器を紹介します。

昭和63年(1988)に行われた第2次調査では、縄文時代早期(7,000~12,000年前)の屋外で煮炊きをしたと推定される炉穴(ろあな・ファイヤーピットとも言う)が10基発見され、全体の形がわかる深鉢(ふかばち)が出土しています。貝殻で土器の表面を調整した条痕文(じょうこんもん)と呼ばれる文様が見られ、条痕文系土器群とも呼ばれます。

土器の底部は非常に小さく、そのまま置いただけでは安定しないことから、炉穴などで底の先を土に埋めて使用したのではないかと考えられています。

縄文時代早期の条痕文系土器群は、破片では市内の遺跡から多く発見されますが、権現山遺跡で出土しているような、全体形がわかる個体は少なく、大変貴重な資料です。 

 

茅山上層式の土器1茅山上層式の土器2茅山上層式の土器3茅山上層式の土器4

権現山遺跡から出土した縄文時代早期の土器(土器の高さ28~45㎝)

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓で使われた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

 【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

 

出張授業in小渕小学校

6月23日(金)は小渕小学校へ出張授業にうかがいました。

今回は6年生の2クラスを対象にした「春日部に暮らした縄文人の生活」の授業です。

 

社会科の学習ではすでに古墳時代まで進んでいるため、6年生にとっては復習になりますが、

はじめに縄文時代がどんな時代か聞くと、「狩り!」「採集!」と元気に答えてくれました。

出張授業では、国指定史跡となった”神明貝塚”の紹介動画をみたあと、小渕小学校周辺の遺跡の存在と縄文時代の様子を画像を交えて紹介しました。

学校周辺には縄文時代の遺跡は確認されていません。縄文時代の6,000年前、縄文海進の頃は、小渕小学校付近は海原にあり、貝塚の調査によると春日部の海の様子はイルカやウミガメが泳いでいた…という話を興味津々で聞いてくれました。

小渕では古墳時代以降に人々が暮らしたことがわかっています。

近くにある砂丘の砂の中から大きな須恵器の甕が発見された話では、驚きの声が上がっていました。

 

その後は班ごとに分かれて「石器の用途」「貝の種別をはじめ縄文の食糧」「いろいろな土器」に実際に触れる体験をしました。

   黒曜石で段ボールを切る    食料となったイノシシの骨      縄文土器をさわる

  

 教科書でみた歴史が自分の住んでいる地域でもあったことを実感してくれたようです。

同じ春日部市内でも地域によって人が住んだ時期に違いがあることも、面白さの一つだと思います。

小渕小学校のみなさん、ありがとうございました!

みゅーじあむとーく開催しました

6月18日(日)に春季展示「かすかべ人物誌」のみゅーじあむとーく(展示解説)を開催しました。 #かすかべプラスワン

午前の部、午後の部ともに、郷土の歴史に高い関心をお持ちの皆さんにお集まりいただき、質問を交えながら展示解説をしました。

西金野井香取神社に伝わる天正19年(1591)の徳川家康の朱印状については、実物を見ながら史料の内容や形状を解説。写真では家康の朱印が見づらいのですが、実物では家康の朱印が確かに捺されていることがわかります。皆さんには、2代将軍の徳川秀忠の朱印状(の写真)と比べて、家康の朱印状と何が違うのかを考えていただきました。

写真:みゅーじあむとーくの様子

「色が違う!」と答える方がいらっしゃいましたが、写真の色が悪かったようで・・・すみません。

大きく異なる点は、家康の朱印状は、料紙を横半分に折った「折紙」という形態であるのに対し、秀忠のそれは、料紙全体を使用した「竪紙」という形態です。また、写真ではわかりにくいのですが、秀忠の朱印状は大高檀紙(おおたかだんし)とよばれる皴(しわ)の入った料紙を使っています。

一般的に「竪紙」という形態は「折紙」よりも厚礼な書式といわれています。天正19年の家康の寺社宛の朱印状は、①家康の花押が捺された竪紙のものと、②西金野井香取神社の例と同じ折紙で朱印が捺されるものの二通りに分けられます。①の例は領地100石を超える寺院宛のもので、より有力な寺社には厚礼な①の形式で朱印状を発給したようです。西金野井香取神社は、朱印状の形式から考えれば、広い地域まで勢力を及ぼす大きな寺社ではないが、北条氏の時代からの地域の有力な神社であったといえることができましょう。

天正19年(1591)、朱印状を発給した家康は、まだ豊臣政権下で関東地方の一大名にすぎませんでしたが、家康は、地域の有力な中小規模の寺社にも朱印状を与え、関東地方の地域支配を盤石なものにしていったのでしょう。

一方、秀忠の朱印状で使用される大高檀紙(おおたかだんし)は、豊臣秀吉が自らの朱印状で採用した料紙であり、天下人を象徴する料紙でした。秀忠の朱印状は、先代家康が寄進した領地を安堵(保障)する継目安堵の意味を持ちましたが、有力な寺院とともに西金野井香取神社のような地域の有力神社にも、竪紙の大高檀紙が使用されました。秀忠が朱印状を発給した元和3年(1617)は、豊臣氏は滅び、秀忠はすでに征夷大将軍となっていましたが、各地には有力な大名もあり、徳川政権を盤石なものにしていく過渡期でもありました。将軍の発給する文書の形式を整えて、政権・領国支配を安定させていく時期にあったので、継目の安堵もより厚礼なものにしていったのでしょう。

西金野井香取神社に伝わる家康の朱印状からは、当時の家康の政治的な立場を読み取ることができるのです。

本当は、秀忠の朱印状と並べて展示しようかと構想していたのですが、スペースの都合でお披露目は見送りました。またの機会をお楽しみに。とはいえ、家康の朱印状が見られるのも7月2日(日)まで。お見逃しなく。

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

令和5年の夏季展示についてお知らせします。

春日部市東中野の権現山遺跡で、昭和38年(1963)に発掘調査が行われ、方形周溝墓から底部穿孔土器が出土しました。これらは「権現山遺跡方形周溝墓出土底部穿孔土器」の名称で埼玉県の有形文化財に指定されています。

今回の展示は、発掘調査60周年を記念し、普段は埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示されている権現山遺跡の底部穿孔土器を中心に墓から出土した土器を展示します。

*埼玉県立歴史と民俗の博物館は、施設改修工事のため秋まで休館中です。

  

夏季展示チラシ

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓で使われた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

 

(関連イベント)

●記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」

権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。

講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)

日時:9月2日(土)14:00から16:00

場所:教育センター視聴覚ホール

対象:定員100人(申込順)

費用:無料

申し込み:7月11日(火)から電話(048-763-2455)、直接、電子申請

 

●展示解説講座

古墳時代の権現山遺跡出土底部穿孔土器を中心に、弥生時代の須釜遺跡の資料などについて、郷土資料館学芸員が解説します。

講師:郷土資料館学芸員

日時:7月29日(土)10:00から12:00

場所:教育センター視聴覚ホール

対象:定員50人(申込順)

費用:無料

申し込み:7月11日(火)から電話(048-763-2455)、直接、電子申請

 

●ミュージアムトーク

企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。

日時:7月22日(土)、8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)

場所:郷土資料館企画展示室

費用:無料

申し込み:不要

 

権現山遺跡の底部穿孔土器については下記の記事もご覧ください。

【令和5年夏季展示予告その1】底にあながあけられた壺

 

春日部に伝来した #松尾芭蕉 の肖像

元禄2年(1689)3月27日、奥州の歌枕を訪ねる「奥の細道」の旅に出立した芭蕉は、その夜、弟子の曽良とともに「カスカヘ」に泊まりました。 #かすかべプラスワン

現在開催中の春季展示「かすかべ人物誌」では、春日部ゆかりの歴史上の人物として、徳川家康・松尾芭蕉について展示紹介しています。展示は7月2日(日)まで。6月18日(日)には展示解説(みゅーじあむとーく)を開催します。

今回は、展示中の松尾芭蕉ゆかりの資料を紹介します。松尾芭蕉と粕壁の関係についてはこちら

画像:松尾芭蕉肖像

上の画幅は、市内に伝来した松尾芭蕉肖像です。肖像自体は、芭蕉の墓所・近江の義仲寺で刷られたものです。近世中期ごろから、芭蕉を偲ぶ「芭蕉忌」という句会が芭蕉の命日に各地で開かれるようになりました。この肖像画も「芭蕉忌」に際して義仲寺で刷られたものなのかもしれませんが、担当者が調べる限りでは同じ肖像の資料は見つかってなさそうですので、詳しくは不明です。

注目されるのは画像の上の墨書です。「稲つまに悟らぬ人のたうとさよ」と芭蕉の著名な句が記されています。署名は「素丸書」とあります。墨書は、溝口素丸という人物が書いたものであることがわかります。

この素丸、近世中期にそこそこ名の知れた俳諧の宗匠。葛飾蕉門と呼ばれる江戸周辺の俳諧の一派のドン、其日庵(三世)の名跡を名乗ります。彼の自筆の芭蕉の句が記された芭蕉の肖像の軸がなぜ春日部に伝来したのでしょうか。

 

6月18日(日)の「みゅーじあむとーく」では、その事情について詳しく解説する予定です。上の写真の資料のほかにも芭蕉の肖像が2幅と1冊並んでいます。展示は7月2日(日)まで。お見逃しなく。

 

展示名:春日部市郷土資料館(第67回)春季展示「かすかべ人物誌」

会 期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日) 開館時間:9時~16時45分

会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)

休館日:会期中の月曜日

入場料:無料

関連事業:みゅーじあむとーく 6月18日(日)10時30分~、15時~

出張授業in川辺小学校

6月9日(金)は川辺小学校へ出張授業にうかがいました。

3年生みなさんの「総合的な学習の時間」をつかって、学校付近の歴史をテーマに”縄文体験”をチャレンジしてもらいました。

 

3年生ではまだ歴史の授業はまだ習っていないということで、

縄文時代小学校付近まで海があった話をするとあちこちから驚きの声が!

台地が入り組んだ地形で、坂が多い地区のみなさんだからこそ、地形と海の話もすぐ理解してくれたようです。

付近の発掘調査からみつかった縄文時代の貝塚や、人々が住んでいた竪穴住居の話も

クイズをしながら楽しく聞いてくれました。

 

その後は班ごとに「石器の用途」、「貝の種別をはじめ縄文の食糧」、「いろいろな土器」を実物に触れる体験をしました。

実際に重さや手触りを確かめてみたり、さらにはにおいを嗅いでみたり、発見したことをたくさん教えてくれました。

 

縄文人が食べた貝殻や実際に使った石器や土器などを観察する機会を得て、みなさんの住んでいる土地の歴史を身近に感じてもらえたようでとてもうれしいです。

今後もほかの小学校への出張授業を通して、春日部の良さを広めていきます。

川辺小学校のみなさんありがとうございました!

展示替の裏話

絶賛、市指定有形文化財「北条氏政の感状」を常設展示に出展中ですが、その裏話をちょこっと。 #かすかべプラスワン #博物館の裏話 #博物館の裏事情

展示のきっかけは、市の広報誌の「かすかべ今昔絵巻」の記事でした。入稿時の文章の末尾は「郷土資料館でもパネルで紹介しています」的な文章でしたが、せっかくだから「期間限定で」原本を出しちゃおう、というノリで今回の出品に至りました。こうして、郷土資料館は日々かわってゆくのです。

もう一つ。今回出品したものがあるということは、それと引替えに展示から撤収したものもあるということです。

北条氏政の感状を入れたケースには、もともと江戸時代の道中双六(レプリカ)が展示されていました。双六は残そうということになり、別のケースへ。双六を展示したケースに入っていた粕壁宿の絵図(レプリカ)が押し出されることになりました。粕壁宿の絵図(レプリカ)は、長く展示していたもので、粕壁宿の推定復元模型のジオラマと比較してみていただこうと、展示していたものです。日光道中粕壁宿を一見できる良質な資料なので惜しいのですが、仕方ありません。

ところで、資料(レプリカ)を回収したところ、うっすらと長方形の跡が!

 写真:レプリカの色落ち

展示では、くずし字の文字を解読したキャプションを資料の上においていたのですが、長い年月展示していたたため、キャプションのの跡がついてしまったようです。照明は紫外線カットのフィルター付きのもの、LEDライトを当てているのですが、レプリカとはいえ、印刷物の一種ですから、長い時間照明を当てていると色落ちしてしまうのですね。

資料館にいらっしゃるお客様から、たまに「展示室が暗い」「もっと明るくならないのか」とご意見をいただくこともあります。展示を見やすくすることは大事なのですが、私たちの努めは、資料を後世に伝えるということでもあります。今回の例で明らかなように、光に曝されると、目視できませんが資料は傷んでしまうのです。観覧される皆様もその旨、ご理解いただけると幸いです。

写真:照明をおとしています

 

【臨時休館のお知らせ】

令和5年6月10日(土)は教育センターの施設点検のため、郷土資料館は休館となります。

ご迷惑をおかけしますが、ご注意ください。

6月11日(日)は通常通り開館します。

常設展示にあの戦国大名が登場!?

市の広報紙に「北条氏政の感状」(市指定有形文化財)が紹介されたので、期間限定で常設展示に展示しています。 #かすかべプラスワン

写真:展示風景

市指定有形文化財「北条氏政の感状」は、永禄12年(1569)3月14日に多田新十郎に与えられたものです。古文書の中身については別に譲ることにしますが、春日部市としては、市内に伝わる数少ない中世(戦国時代)の古文書の原本の一つです。

おすすめは、氏政の花押(かおう)です。本文の文字は、おそらく大名の書記官にあたる家臣が書いている可能性が高いですが、花押は本人の自筆(のはず)です。

写真:氏政の花押

前近代の人たちにとって、文書に自署することは、自分自身を文書に投影させることを意味することもありました(ちょっと言い過ぎかもしれませんが)。北条氏政の感状は、まさに戦国大名北条氏政自身といえるわけです。写真では伝わらない古文書の風合いを、この機会に心ゆくまでご堪能ください。

展示期間は7月末までを予定しています。

北条氏政の感状については、こちらをご参照ください。

 

【 #6月2日 】 #今日は何の日?in春日部

今から378年前の正保2年(1645)6月2日(旧暦)は、江戸川が完成し通水をした日です。 #かすかべプラスワン

埼玉県と千葉県境を流れる江戸川は、江戸幕府による関東地方の河川改修の一環で開削された人工の河川です。

江戸川がいつ成立したのか。これは古くから学術的な見解がわかれる問題です。成立の年代の諸説として、寛永12年(1635)説(吉田東伍)、寛永17年(1640)説(根岸門蔵)、寛永18年(1641)説(清宮秀堅)、寛永12年起工・18年竣工説(栗原亮輔)が唱えられてきました。江戸時代前期の寛永時代の基本的な文献が少なく、参照する史料の性格の相違や、江戸川の上流と下流でも時期がずれることも説が分かれる理由の一つです。

ところで、市域の江戸川流域、かつて庄内領と呼ばれた地域には、開削当時の伝承を伝える江戸時代の記録が伝わっています。著名なものでは市指定有形文化財でもある「小流寺縁起」もその一つです。「小流寺縁起」は明暦3年(1657)に小流寺の開基・開山の由来について記した寺の縁起で、そのなかに寛永17年(1640)2月に幕府代官伊奈忠治の家来が利根川(江戸川)の改修工事のため川を見分したことが記されています。開削された時代のわずか十数年後に具体的な工事についての記述がされているため、歴史研究の世界ではよく知られた史料として扱われてきました。

また、同じく市指定有形文化財でもある元禄12年(1699)閏9月「西金野井香取神社領替地につき覚書」にも、寛永17年(1640)に「新利根川」(江戸川)の堀り替え工事が行われたことが記されています。

江戸時代の後期、地域の有力者(村役人)などに共有された手控え「庄内領三拾五ケ村高反別控帳」(郷土資料館所蔵)には、次のような記述がみえます。

庄内新田古来之事
右庄内新田之儀 寛永寅年より伊奈半重郎様御家来小嶌庄右衛門様御取立
寛永十七辰年より江戸川関宿より今上村堀迄、親野台辰より午迄三ヶ年、夫より正保二酉年六月二日新川村成就  水流し申候、正保元申年庄内領何村 名除いたし、草訳相成、戌亥慶安元子丑五ヶ年之間無年貢、其節之御役人左之通り(後略)

これによれば、庄内領の新田は、寛永15年(1638)に代官伊奈半十郎の家来小島庄右衛門によ
り取立られ、同17年(1640)から関宿から今上村(現野田市)まで江戸川が開削、「親野台」(現市内西親野井、野田市東親野井か)では開削に3か年を要した。

正保2年(1645)6月2日に江戸川が通水。同元年(1644)には「名除」(名附の誤写か)し、同3年(1646)から慶安2年(1649)の5年間(ママ)の年貢免除を経て、新田村が成立した、という。

本史料は文化年間(1804-1818)ごろに書写されたもので、記述に疑問が残る部分もありますが、他史料にも同様の記事もみえることから、19世紀の庄内領における開削・開発の記憶・伝承を記した記録といえます。江戸川の開削は、庄内領の人々にとって、自分たちが住む村の成り立ちとも関わる関心事でした。地元の人たちは、寛永17年(1640)に関宿から今上の開削が終わり、正保2年(1645)6月2日に通水をしたと考えていたようです。ほかの史料とも共通するのは寛永17年。おそらく、春日部近辺では、寛永17年ごろに江戸川が開削されたのでしょう。

そして興味深いのが、正保2年(1645)6月2日の通水。なぜこの年のこの日付なのか、十分な説明はできませんが、寛永17年の開削と同様、通水した出来事・日付を地元で脈々と伝えてきたのではないかと考えられます。別の史料では正保3年(1646)に舟渡しが命ぜられたとあるので、正保時代に江戸川は整えられたことになりましょう。

江戸川は、流通を支えた川として、自動車の物流が盛んになる戦後まで、人々の暮らしを支えてきました。

写真:昭和11~13年頃江戸川西金野井辺りポンポン船

写真は、昭和11~13年ごろの西金野井の河川敷で撮影されたもの。ポンポン船がはしっています。

郷土資料館では、現在、江戸川の開削を伝える資料を展示しています。ぜひご覧いただければと思います。

 

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版6月3日版6月10日版7月31日版9月16日版

【春季展示】みゅーじあむとーくを開催しました

5月20日(土)から始まった「かすかべ人物誌」展の初日、学芸員による展示解説(みゅーじあむとーく)を開催しました。 #かすかべプラスワン

午前、午後ともに多くの皆さまにお集まりいただき、徳川家康や松尾芭蕉など歴史的な著名人物の人気ぶりがうかがわれました。

写真:展示解説の様子

解説では、家康の朱印状の形式や、家康が粕壁に来ていたことを伝える後世の史料、松尾芭蕉の肖像画幅、葛飾蕉門とよばれる俳諧一派の活動について、重点的にお話しました。

とくに俳諧・文芸について紹介していることもあり、普段とはちがって、文化文芸に関心の高い皆さんにご参加いただけた模様です。

次回のみゅーじあむとーくは、6月18日(日)を予定しています。ご興味あれば、ご参集ください。

【事務職員は見た】展示はこうして作られる!

春日部市郷土資料館では、年間4回程度の企画展を開催しています。

今回は、その作業風景を少しご紹介したいと思います。

 

展示が開催されるまでには、実はたくさんの苦労があります。

テーマを決め、構成を考え、必要な資料を集め、他館に依頼してお借りする場合などは資料運搬に伴う各種事務作業、キャプションを作り、担当者は意図をもって展示品を並べます。また、パンフレット・チラシ・ポスターを作成し、期間中の各種講座の準備もしなければなりません。

ライティング作業

また、パンフレットやキャプションを作るには、当然ながら知識の集積・研鑽も欠かせません。

研究風景

 

正直、“展示ってただ物を並べてればいいんでしょ?”と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、展示テーマ・展示品の選定はもとより、展示品の数、使用するもののサイズ、レイアウトなど、実は展示は担当者の個性が映る発表会の場でもあるのです。当館だけでなく他館においてもきっとそうだと思います。

展示のテーマに興味を持たれてお越しくださる方も多いと思いますが、そういった個性の違いも味わってみてはいかがでしょうか!

 

春日部市郷土資料館春季展示『かすかべ人物誌』は7月2日(日)まで開催中!

7月下旬には弥生時代から古墳時代をテーマにした企画展を予定しています!

ぜひ、郷土資料館に足を運んでみてください!

 

春季展示「かすかべ人物誌」はじまります

週末5月20日(土)から春季展示が始まります。 #かすかべプラスワン

春日部ゆかりの人物に焦点をあて「かすかべ人物誌」展と題した新シリーズの第一弾。

今回は、大河ドラマの主人公で話題の徳川家康、近世前期の俳人松尾芭蕉を中心とした近世の人物に焦点をあて、ゆかりの資料を展示します。

初日の5月20日(土)と6月18日(日)には、学芸員による展示解説「みゅーじあむとーく」も開催します。

ご覧ください。

画像:ポスター

展示名:春日部市郷土資料館(第67回)春季展示「かすかべ人物誌」

会 期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日) 開館時間:9時~16時45分

会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)

休館日:会期中の月曜日

入場料:無料

関連事業:みゅーじあむとーく 5月20日(土)、6月18日(日)各日とも10時30分~、15時~

南桜井小学校伝統芸能クラブ“獅子舞”の練習が行われました

 5月17日(水)、南桜井小学校の6時間目の授業はクラブ活動。平成23年以降、このクラブ活動に地域の伝統芸能である、県指定無形民俗文化財『西金野井の獅子舞』を継承している西金野井獅子舞保存会から直接指導を受け、地域学習、伝承学習の機会になっています。

本日は練習2回目。4、5、6年生の計9名が伝統の舞いとササラの演奏に取組みました。特に5、6年生は前年からの経験と練習成果を生かし、早くも「辻切り」「芝舞い」の2演目を立派に舞えるようになってきました。

 

 

 

 

 

 

 

▲6年生による三匹獅子舞(辻斬り)と5年生の「芝舞い」

 今夏7月の獅子舞の祭礼、そして11月に開校150周年の式典でも舞の披露が予定されています。次世代へ着実に地域の伝統芸能が引き継がれおり、平日の貴重な時間に指導していただいている保存会の皆さまに感謝!!ありがとうございます。子供たちはクラブ活動の時間に加え、祭礼が近づく7月には香取神社拝殿で舞いを仕上げていきます。

 なお、本年は7月16日(日)に保存会の皆さまによる勇壮な三匹獅子舞と共に子供獅子が披露されますので、是非とも県指定を冠した伝統の舞いをご覧になってはいかがでしょうか。

【結果発表】春の花総選挙

5月2日で幕を閉じた「春の花*春日部」展において、ひっそりと開催していた春の花総選挙。集計作業が終わりましたので結果発表をします。 #かすかべプラスワン

画像:投票パネル

桜:20票

藤:43票

桃:15票

牡丹:8票

序盤は花見の王道「桜」勢が票を伸ばしましたが、桜が散るとともに藤が優勢になっていきました。藤のまち春日部では、市のシンボルでもある藤が根強い人気!小淵や藤塚にゆかりの深い「桃」は地元の根強い人気がありましたが、惜しくも落選(!?)。牡丹は知名度が劣り、票を伸ばすことはできませんでした。

市の公式ツイッターでも同様のアンケートをとっていましたが、そちらでは桃が最下位でした。リアル総選挙では、桃が善戦したので、展示をご覧いただき、春日部と桃の深いつながりをご理解いただけたのかもしれません。

健康ハイキングやスタンプラリーの効果もあって、例年よりも入館者は多かったのですが、投票率は伸び悩みました。投票を促す普及啓発も今後の課題です。

次回は来春の予定です。ぜひ、ご参加ください。

埼玉県指定有形文化財-小渕観音院円空仏群-公開

 初夏を感じさせる5月の連休も終盤となりましたが、5月3日から5日までの期間限定で埼玉県の有形文化財に指定されている”円空仏の特別公開が小淵山観音院で行われています。

  静寂な本堂では凛とした冷厳な雰囲気の中、江戸時代前期の約330年前に生涯12万体の木像を制作したと云われる修行僧円空作の「円空仏」を間近に拝観することができます。5月2日に新聞紙面で公開が報じられたこともあり、県内外から多くの方々が鉈彫りの素朴な木像を拝観しようと訪れていただいています。

 観音院では修験宗にまつわる蔵王権現像をはじめ7躯が伝わり、像高194㎝と一木造りでは関東地方でも指折りの大きさを誇る聖観音菩薩立像、頭上に大きな龍を抱く伝毘沙門天立像と、威風堂々した像が揃っています。一方、円空仏の特徴でもある鉈(なた)による一刀彫の鋭い表現に加え、口元に表現される微笑みの柔和さも人々を引き付ける魅力となっています。

 

▲像高194㎝の聖観音菩薩立像と像頭に龍を抱く伝毘沙門天立像

 年一度の公開も明日5月5日が最終日です。午前10時から午後5時まで、そして要予約の「ヨイノカイ」の特別公開も設けられています。円空仏と共に皐月のひと時をどうでしょうか。

 

 

 

考古学講座の現地視察をおこないました

4月23日、令和4年度の考古学講座を受講していただいたみなさんと、郷土資料館から浜川戸遺跡周辺まで、地形などを確認しながら歩いてみました。

もともと3月26日に実施する予定でしたが、雨天だったため、順延しての開催です。4月23日は、とても良い天気で、絶好のウォーキング日和でした。

 

郷土資料館見学

朝は、郷土資料館に集合し、展示されている浜川戸遺跡の出土品を確認しました。郷土資料館の常設展示には、浜川戸遺跡に関係する資料が意外とたくさんあります。

 

日枝神社横で自然堤防確認

粕壁東の日枝神社では、宿場に向かって標高が上がっていく地形を確認しました。粕壁宿から浜川戸地区は、古利根川などによって形成された広大な自然堤防が広がっています。

 

碇神社横で江戸時代の土地利用を確認

埼玉県指定天然記念物「碇神社のイヌグス」がある碇神社では、江戸時代の粕壁宿周辺の土地利用を、昔の地図と比較しながら確認しました。

 

梅田地区で過去の古隅田川流路を確認

梅田地区では、現在とは違う流路で、かつてこの辺りを流れたと考えられる古隅田川について確認しました。

八幡公園で浜川戸遺跡を体感

最終目的地、浜川戸の八幡公園では、浜川戸遺跡の広がりや浜川戸砂丘、春日部稲荷神社や春日部八幡神社の成り立ちを確認しました。

 

全長約3㎞の行程でしたが、脱落者はなく、無事ゴールすることができました。

ご参加された皆様、ありがとうござました。

 

考古学講座は、今年度も9月から1月まで、毎月1回の連続講座を予定しています。ほごログでもご案内しますので、ご興味がある方はぜひご参加ください。

最先端の技術で、神明貝塚の人骨が調査されました

先日、南山大学の中尾央准教授のもと、「神明貝塚」出土の人骨の調査が行われました。 #かすかべプラスワン

中尾准教授は、文部科学省科学研究費助成による「出ユーラシアの総合的人類史学」の研究の一環で、様々な時代の古人骨の三次元計測を進められているそうです。

今回、春日部市が世界に誇る文化遺産の一つ、「神明貝塚」出土の縄文人骨、常設展示で展示している江戸時代の人骨も計測されました。計測って、巻き尺を使ってやるのかと思いきや!

写真:三次元撮影

な、なんと!様々な角度から写真撮影をして、パソコン上で立体画像にするんだそうです。

写真は60コマ程度を角度をかえて撮影すれば、十分なんだそうです。

もともとは工業製品の生産にかかわる技術なんだとか。出来上がった立体画像はこんな感じだそうです。

写真:立体画像

もっと精密に撮るカメラ・機材もあるそうです。最新鋭の調査技術で、いとも簡単に計測ができて大変驚きました。

県内では、同じく国史跡指定の水子貝塚(富士見市)の縄文人骨も同様に計測調査されるそうです。

今回の調査によって、神明貝塚(の人骨)は、人類のルーツを明らかにする研究資料として活用されることでしょう。また、計測によって資料の現況を記録する大変有意義な機会となりました。

「神明貝塚って何!?」って思った、そこのあなたは、こちらの動画をご覧下さいね。

郷土資料館からみえる藤が咲いています。

#牛島のフジ も先日開園し、週末は4年ぶりの #春日部藤まつり 。 #春日部の藤 、今まさに満開です。 #かすかべプラスワン

写真:粕壁小のフジ

郷土資料館(教育センター)からみえる藤は、粕壁小学校に自生するものです。フジはツル性なので、他の樹木に巻き付いて、高いところに花をつけます。時折り、風にあおられ、ゆらゆらと花房を揺らします。万葉の人たちは、風で波のようにゆれる藤の花を「藤波」と形容しました。「藤波」、美しい言葉ですが、担当者はどうしても某プロレスラー、あるいは某メジャーリーガーを連想してしまいます。

昔の人たちがフジをどのように楽しんだか、親しんだのか。現在、郷土資料館では、春日部と藤の歴史を紹介し、春日部の藤をより楽しむための企画展を開催しています。

画像:春の花春日部展ポスター

ぜひ、牛島のフジ、藤まつり、そして、春日部の藤波と一緒にお楽しみください。クレヨンしんちゃんのお母さんみさえとフジのスタンプも用意していますよ。

顔ハメ、記念にどうぞ

クレヨンしんちゃんスタンプラリーの効果もあり、市外・県外からもお客さんが見えています。先日、県外からお越しのご家族も、しんちゃんのスタンプラリーを目当てにご来館。 #かすかべプラスワン #顔ハメ

スタンプついでに、館内をご見学いただきました。お子様は体験コーナー、大人の方は様々な展示を見て、楽しんでいただけたようです。

記念にオリジナルの押絵羽子板の顔ハメを兄妹でやってくれました。

写真:顔ハメパネルの兄妹

お兄ちゃんは、歌舞伎役者ばりの睨みのきいた顔でポーズ。撮影の前に「どんな顔すればいいの?」「笑顔がいいのかな?」と聞いてくれました。本物の弁慶の押絵羽子板(写真後方)を観てもらったところ、押絵の表情を真似してくれたようです。「本物と一緒に撮りたい」と話してくれたのでこちらで撮影。妹ちゃんも、かわいい藤娘になれました!

押絵羽子板の顔ハメは、春日部市郷土資料館だけ(たぶん)!

クレヨンしんちゃんのスタンプとともに、ぜひ記念に使ってください。

【令和5年夏季展示予告その1】底にあながあけられた壺

令和5年7月22日(土)から9月3日(日)まで開催する第68回夏季展示では、権現山遺跡(古墳時代前期)や須釜遺跡(弥生時代中期)の底にあながあけられた壺を紹介する予定です。

詳細が決まりましたら、ほごログでもお知らせします。

 

今回は、展示予定の権現山遺跡から出土した、底にあながあけられた土器を紹介します。

権現山遺跡については、過去の記事もご参照ください。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器『新編図録春日部の歴史』からーその8

 

権現山遺跡は、春日部市の南東、東中野地区の下総台地上にあります。昭和38年の発掘調査で、「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」と呼ばれる古墳時代のお墓から、底にあながあけられた土器が13点出土しました。これらの土器は、昭和62年に埼玉県指定文化財に指定され、普段はさいたま市にある埼玉県立歴史と民俗の博物館(令和5年秋まで休館)で展示されています。

「底部穿孔(ていぶせんこう)土器」と呼ばれています。

「孔」は”あな”とも読み、一般的な「穴」の字とほぼ同じ意味です。また「穿孔」とは「孔を穿つ(うがつ)」、すなわち「穴をあける」ということです。

 底部穿孔土器1

<底部穿孔土器(実測図番号1)>

底部穿孔壺1の底部(焼成前穿孔)

<底部穿孔土器(実測図番号1)の底>

 

底部穿孔土器13点のうち、12点は壺形の土器です。ほぼ同じ大きさ、形も似かよった12点が発見されています。

これらは骨などを収めた蔵骨器ではなく、葬儀を行ったり死者を埋葬する方形周溝墓を飾りたてるために設置されたと考えられています。

底の部分は穴があけられ、何かを入れても底から抜けてしまいます。死者に供える土器として、通常の使用ができないようにされたものと推測されています。

 

権現山遺跡底部穿孔壺実測図

<12点の壺形土器の実測図>

 

12点のうち11点の土器は、焼く前に底に穴があけられています。これを「焼成前穿孔(しょうせいぜん(まえ)せんこう)」と呼んでいます。

焼成前にあけられた穴は、まだ粘土のうちに、粘土を切り取るように穴をあけるので、縁が整えられています。

また、焼く前に底に穴をあけてしまうということは、お墓に使うためだけの土器をわざわざ作っているということです。古墳時代ごろには、こういった文化も芽生えたようです。

 

底部穿孔壺12

<底部穿孔土器(実測図番号12)>

底部穿孔壺12の底部

< 底部穿孔土器(実測図番号12)の底>

12点のうち、1点だけ、土器が焼かれたあとに穴をあけている「焼成後穿孔(しょうせいごせんこう)」の壺があります。大きさは他のものとほぼ同じなものの、この壺のみ全体が赤く塗られています。

底の穴の部分をよく見てみると、外側から硬いものでたたくように穴をあけている痕跡があります。

穴アップ

<底部穿孔土器(実測図番号12)の底の穴>

なぜ、1点だけ焼成後の穿孔なのか?、土器を焼いてすぐに穴をあけたのか、それとも亡くなった方のそばで、生前使われていた土器に穴をあけたのか?、疑問は尽きません。

 

権現山遺跡の底部穿孔土器は、近隣では類例が少なく、とても珍しいものであるとともに、とても丁寧に作られたきれいな土器です。

令和5年7月22日(土)から開催する第68回夏季展示で、ぜひ実物をご覧ください。

市指定無形民俗文化財”不動院野の神楽” 3年ぶりの開催

 令和5年4月9日(日)に不動院野(集会所)において大杉神社の春季例大祭で神楽が奉納され、五穀豊穣・家内安全が祈念されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【大杉神社とお神輿】

例大祭で「不動院野の神楽」が奉納されるのは、実に3年ぶりとなります。

当日は快晴にもかかわらず冷たい風が吹きつけていましたが、集会所の中に設けられたステージで「翁(おきな)の舞」「大黒天と獅子舞」など3演目が披露され、地域の皆さまを楽しませてくれました。

【神楽の奉納とにぎわいをみせる集会所の様子】

     

【寝てしまった獅子を起こす場面】          【お囃子の演奏】

  「大黒天と獅子舞」は大黒天が呼んだ獅子が福をもたらす様子を表しています。媼(おうな)が寝てしまった獅子を起こす場面では、一同が固唾を飲んで見つめていました。実はこの場面は今回即興で作られたストーリーであり、観客を楽しませるべく上演にあたって様々な趣向を凝らしていることが副会長さんからの解説で理解できました

保存会では、江戸時代から続く神楽を次世代へつなげる取り組みがなされています。今回は久しぶりの開催ということで初めて参加する子どもたちも多く、めずらしい光景に目を輝かせていました。また、幸松小学校の放課後子ども教室でお囃子に参加してくれた児童が、はや、高校3年生に。この日も堂々と篠笛を奏でてくれました。コロナ渦で練習や公開が思うように進まなかった3年間でしたが、地域の宝として保存会の皆さま、そして、活動を支える地域の皆さまの総意により、神楽の公開が実現できました。ありがとうございました。

はるばる大阪からお越し

先日、郷土資料館所蔵の資料(古文書)の調査のため、大阪在住の学生が調査に訪れました。 #かすかべプラスワン

この学生さん、戦国時代の後北条氏について調査研究されているそうで、各地にのこる後北条氏ゆかりの古文書を実見しているそうです。春日部でのお目当ては、当館所蔵の天正14年(1586)の金野井郷の検地書出の写しです。後北条氏の検地書出は全国に19点あるそうで、その内の1つがなんと春日部にあるのです。金野井郷とは、いうまでもなく、市内の西金野井、野田市の東金野井に相当します。

写しとはいえ、印判を丁寧に模写していたり、筆跡も原本を真似ている可能性もある文書です。『春日部市史』でも利用されてきましたが、史料を深く読み切れていない部分もあり、課題もありました。

学生さんは、検地書出を比較されているだけあって、細部の文言や表現を丁寧に検討しているようでした。金野井郷の検地書出は、ほかのものよりも詳しい記述なんだそうです。いろいろ教えていただき大変勉強になりました。何よりも、この一点をみるために大阪からいらした研究熱に関心させられました。

ご研究の発展を祈念しております。

写真:史料を調査する学生

【海外の方にも大人気!】 #クレヨンしんちゃん 春日部スタンプ巡り

春日部市観光協会の企画で「クレヨンしんちゃん春日部スタンプ巡り」を実施しています。郷土資料館を含む、市内施設にの「クレヨンしんちゃん」のスタンプを押して楽しむものです。 #かすかべプラスワン

写真:スタンプ巡りの台紙

郷土資料館では、これまで、企画展示などに合わせて、しんちゃん、しんちゃんの家族のオリジナルスタンプを作ってきたところでした。このような形で活用いただき、担当者としてうれしい限りです。

かわいらしいオリジナルの台紙をご用意いただいたので、これが好評の模様。はじまってから早速、市外の方、海外の方が大勢いらっしゃっています。みなさん、スタンプをおして喜んで、館を後にされました。先日はタイご出身の20代の女性グループがいらっしゃいました。通常の郷土資料館では、あまりない客層です。おそるべし「クレヨンしんちゃん」。

「クレヨンしんちゃん」は世界各国で翻訳されているそうで、とくに、中国、台湾、韓国で人気があるそうです。呼び方も様々で、中国語では「蜡笔小新」(ラービーシャオシン)、韓国語では「짱구는 못말려」(チャングヌン モンマルリョ)、タイ語では「เครยอนชินจัง」(クレヨンシンチャン)などなど。韓国版のしんちゃん一家は、ソウルに住んでいる設定なんだとか。日本人一般の「しんちゃんといえば春日部」というイメージは、作品がグローバル展開するなかで、ガラパゴス的思考に陥ってしまったともいえそうです。けれども、韓国の首都ソウルとして描かれても、春日部の風景は見劣りしないということでしょうか。なんとも複雑。いずれにしても、海外版のクレヨンしんちゃんのなかで「春日部」がどのように扱われているのか、今後検討する余地がありそうです。

オリジナルの台紙は、郷土資料館や、ぷらっとかすかべなどで配布しています。景品は今のところありませんが、スタンプを押した台紙が記念になること間違いなし。春日部にお越しの折、ぜひ記念に押して回ってください。

日光道中粕壁宿を語る墓石(粕壁・源徳寺より)

郷土資料館では、粕壁宿の商家や町並みについて調査をしています。先日、粕壁の源徳寺さんにうかがい、墓石の調査、お寺の由来などについて調査させていただきました。 #かすかべプラスワン

源徳寺さんには、棚倉藩士の石川弥五左衛門の娘のお墓があります。なぜ、陸奥国の棚倉藩(福島県棚倉町)の関係者のお墓があるのでしょうか。このお墓について、源徳寺さんには、次のようなエピソードが伝わっています。

 

安政6年(1859)11月、棚倉藩士の一行は、国元に帰るため、粕壁宿に宿泊しました。一行のなかには郡筑之進という藩士がおり、彼の妻サダこそ、家老の石川弥五左衛門の娘でした。11月5日、筑之進は、妻サダを粕壁宿の旅籠とも女郎屋ともいわれる「ミノヤ」で手討ちにしたといいます。理由は定かではありませんが「不義密通」であるとか。サダの亡骸は、ミノヤの近くの源徳寺に葬られました。

翌年、棚倉藩の石川弥五左衛門は、源徳寺に供養料を納め、さらに、円山応挙の門下生七名が描いた「七草の絵軸」をお寺に奉納したといいます。

源徳寺には、「棚倉藩石川弥五左衛門娘」と刻まれたサダの墓石、七草の絵軸(寺宝・非公開)が今に伝えられています。

写真:源徳寺にある棚倉藩士の妻のお墓

参勤交代制により大名は江戸と国元を行き来し、東北諸藩の大名が日光道中や粕壁宿を通行・宿休泊したことは、知られるところですが、粕壁宿の本陣史料は散逸しており、具体的なことは実はよくわかっていません。通行・宿休泊したのは、参勤交代の大名(お殿様)だけではありません。江戸と国元を常時行き来する人々、藩士や飛脚なども通行したことでしょう。そのことを物語る史料も少ないのです。

事件の真相や詳しい顛末は不明ですが、源徳寺に伝わるエピソードは、宿場町として賑わった粕壁宿の歴史を伝える貴重なお話です。往時の宿場町粕壁に思いをはせながら、訪ねてみてはいかがでしょうか。

※墓石の見学にあたっては、お寺、他の参拝者などの迷惑とならないようにお願いします。

「ほごログ」ぷちリニューアル

新年度の機構改革に伴い、部署の名称が文化財保護課から「文化財課」になりました。これにより、「ほごログ」もプチリニューアル。 #かすかべプラスワン

文化財「保護」課でないので、皆様に愛されてきた「ほごログ」の名称変更が危ぶまれましたが、「春日部市の文化財保護と活用・郷土資料館のブログ」の「ほごログ」となりました。

ページ上段のバナーを一新しましています。おすすめは、国指定史跡「神明貝塚」の調査風景。

画像:バナー

ほかにも数種類あるので、チェックしてみてくださいね。

圓福寺所蔵の文化財の公開~圓福寺祭~

 さわやかな春の陽射しが降り注ぐ4月2日(日)、一ノ割に所在する古刹圓福寺で3年ぶりに圓福寺祭が開催されました。

曼陀羅堂の公開

 

 

 

 

 

 

 

 

圓福寺本堂の左手、曼陀羅堂は毎年この日に限って市指定文化財が公開されます。

この圓福寺祭は圓福寺、社寺関係者に加え、一ノ割地区や商店街の皆さまのご協力で開催され、まさに地域一体となった文化財の継承と公開が実践されている機会です。

 

 

 

 

 

 

 

(左)木彫当麻曼陀羅図 (右)木彫釈迦涅槃図

 社寺所蔵の版木には、元禄年間に多数の文化財を製作した圓福寺第九世住職の光世上人の経緯や功績に加え、地元でのご開帳はもちろんのこと、宝永元年(1704年)、元文2年(1738年)、明和8年(1772年)に江戸へと出向き、ご開帳(公開)された記録が記されています。木彫当麻曼陀羅図をはじめ、木彫釈迦涅槃図などの木彫文化財は、今日でさえ移動が困難なほど大型で重量のある文化財ですが、交通手段も限られた江戸時代に江戸各所の社寺で公開された経緯からは数多くの人々の援助と労力があったことがうかがい知ることができます。文化財の継承、公開は「ひとから人へ」の原点が、この圓福寺祭での公開で改めて感じることができました。 

 令和6年もこの4月最初の日曜日に宗教美術の優品が公開されますので、ぜひ、お出かけしてみてはいかがでしょうか。

【休館のお知らせ】4月8日(土)午後、9日(日)

令和5年4月9日(日)は教育センターが埼玉県議会議員一般選挙の投票所として利用されます。そのため、準備を含め下記の日程で郷土資料館は休館となります。ご迷惑をおかけしますが、ご来館の際はご注意ください。

〈休館日〉

令和5年4月8日(土)午後

令和5年4月9日(日)終日

#桜咲くかすかべ #葉桜 だって楽しもう

#春日部市 内の #桜 は #満開 です。見ごろですが、天気が悪しく雨で花が散りつつあり、葉が芽吹いてきている木もあります。まちなみ公園の桜も葉桜になりつつあります。 #かすかべプラスワン

写真:まちなみ公園の桜

桜の花見というと、気象庁の開花予報や桜前線とかいう情報を週末の休みと重ね合わせながら、「今年は開花が早いから葉桜かなー」とか「屋台が出る前に桜散っちゃうなぁー」とか、毎年ヤキモキしている方も多いのではないでしょうか。

郷土資料館では、現在「春の花*春日部」展を開催しています。その準備で展示担当者も初めて知りましたが、現在の桜の開花予報や桜前線は、ソメイヨシノという品種を基準に情報発信をしているそうです。ソメイヨシノが普及する以前、江戸時代末期よりも昔の人たちは、様々な品種の桜が次々に咲き、散っていくのを長いスパンで楽しんだそうです。なかには、葉桜になる季節まで花見を楽しむ人もいて、長ければ開花から一か月くらいは桜の花見をしたそうです。

昔の人たちの精神性に倣い、雨で桜の花が散って、葉桜になっていても、桜の花見を楽しんでみる、というのはいかがでしょうか。 「春の花*春日部」展では、先人たちの春の花の楽しみ方を学び、私たちの花見のあり方を考えるきっかけになれば、と企画したものです。ご期待ください。参考文献:佐藤俊樹『桜が創った「日本」』(岩波新書、2005年)

 

さて、ついでに桜の植わるまちなみ公園の話をしましょう。

まちなみ公園は、かつて粕壁町役場が建っていたところ。役場の庁舎は、大正14年(1925)に建設され、春日部町、春日部市の時代にも使用されました。市役所が現在の庁舎に移転する昭和45年(1970)末まで、春日部市役所の庁舎として使用されていました。下は昭和11年(1936)ごろの粕壁町役場です。

写真:粕壁町役場

昭和46年(1971)6月からは、市立図書館として転用され、昭和58年(1983)5月まで使用されました。その後、公園として利用されるに至っています。下は昭和46年(1971)市立図書館時代の様子です。

写真:昭和46年春日部市立図書館

まちなみ公園という名称は、江戸時代以来の宿場町の通り沿いの字名(あざな)「字町並」に由来しているのでしょう。実は厳密にいえば、旧町役場の旧地番は粕壁町4392番で「字内出」になるので、なぜ「まちなみ」と名付けられたのかは謎です。

古写真をみると、何となく面影が残っていますね。かつては役場や図書館として賑わっていたことを桜の木は知っているのでしょうか。まちなみ公園に桜の木がいつから植えられたのかは、残念ながら不明です。一本一本の木や、木のある場所の歴史や背景を楽しむのも、また郷土資料館的な桜・花見の楽しみ方の一つとなりましょうか。

春の花*春日部展みゅーじあむとーく

3月19日(日)「春の花*春日部」展のみゅーじあむとーくを開催しました。 #かすかべプラスワン #春の花総選挙

午前中は少人数、午後はたくさんの方にお集まりいただきました。

花をテーマにした展示とあって、女性のみなさんが多かった印象です。

桜のみならず、藤、桃、牡丹の花で春日部の歴史が文字通り彩られてきたことを解説しました。

写真:午前のみゅーじあむとーく

写真:午後のミュージアムトーク

 特に評判だったのが、床面に貼り付けている市域の60年前の航空写真。ここに、明治前期の迅速図から読み取った桃林の分布を表示しています。みなさんが普段過ごしている身近な場所が桃林だったことに、驚かれた模様です。担当者も市域の桃林が意外に広かったことに少し驚きました。

写真:春の花*春日部総選挙

展示期間中、展示のテーマとなった4つの花の人気投票を実施しています。題して「春の花*春日部総選挙」。現在、藤が優勢です。ぜひイチオシの花に投票してみてくださいね。

次回のみゅーじあむとーくは、4月22日(土)10時30分~、15時~を予定しています。展示は5月2日(火)までです。

凧作り教室を開催しました

3月18日(土)、春日部市「庄和大凧文化保存会」の方々を講師にお招きし、今年度2回目の凧作り教室を開催しました。当日は、小学生を中心に15名に参加いただきました。

第1回目の様子はこちらをご覧ください。

5月3日と5日に行われる大凧あげまつりでは、5日の午前中に、会場で自分で作った凧をあげることができるそうです。11月に作った人も、今回作った人も、ぜひ5月5日の午前中に大凧あげ祭りの会場で凧をあげてみてください。

凧作り教室

今回は、先日、資料館を見学した粕壁小学校の子どもたちにも多く参加していただきました。

骨付け1

骨付け2

骨付け4

凧は和紙と骨(竹ひご)を使った約60㎝の本格的な角凧で、あらかじめ家で凧紙に絵や文字を描いてきてもらい、紙に骨を貼り付けるところから始めます。

骨には、あらかじめ両面テープが貼ってあり、また紙にも骨を貼る位置に鉛筆で線が引いてありますので、簡単に貼ることができます・・・ですが、意外と骨が長いので、お父さんやお母さんに手伝ってもらった子も多かったようです。

凧は、このあと糸目をつけて、上げ糸をつけて完成になります。

資料館の凧

今回は見本用に資料館でも、うめわかくんの凧を製作しました。

さっそく資料館に展示しましたので、ご来館の際はご覧ください。

 

凧作り教室は、また来年度も開催します。どうぞご参加ください。

 

#桜咲くかすかべ 郷土資料館にも #桜 咲きます

3月18日(土)より、春日部ハルのキカクテン「春の花*春日部」展が始まります。本展は春の花咲く春日部で春のお花をもっと楽しむための企画展示です。 #かすかべプラスワン

春日部のゆかりの春の花は、藤だけじゃない。春日部の歴史にとって、桃、藤、牡丹、そして桜は、縁の深い花です。今年も微力ながら「桜咲くかすかべ」を盛り上げんがため(むしろ便乗して)、「春の花*春日部」展から、桜の話題を一つ。

でばりぃ資料館小学校の団体見学で、市内の小学校の児童たちと触れ合うなかで、彼らの身に着ける名札や黄色い帽子に桜、藤があることに気づきました。なんと、桜や藤は、市内の学校の校章のモチーフに取り入れられていたのです。学校要覧や各校のブログ・学校だよりなどを手掛かりに桜と藤の校章をピックアップしたのが下の図です。

画像:桜と藤の校章

桜をモチーフとする校章は新旧合わせて6校、藤は3校見出しました(もしかすると武里南小は桔梗かもしれない説が浮上しています。要検討)。

桜の校章は、まず校名(地名)に「桜」がはいる学校、南桜井小・桜川小にありました。「南桜井村」は明治22年(1889)に成立します。桜川小は昭和50年(1975)に開校する新設校。校名は南桜井と川辺から「桜川」と名付けられました。他方、「桜」の校名ではないですが、粕壁小・幸松小・富多小(江戸川小中学校に統合)にも「桜」をモチーフとした校章が採用されています。3校はいずれも明治時代に開校した伝統校です。卒業・入学の時期に「桜」は学校のはじまりとおわりを象徴する花でもあり、校章にも取り入れやすい花だったということなのでしょうか。また、明治時代半ばに「桜」は「日本らしさ」をイメージするものとして普及しました。そうした時代のなかで桜の校章が創られた可能性もあります。いずれにしても、桜の校章が生まれるのは、古くても明治時代以降のことでしょう。

手元の資料では、校章制定の年次や理由・背景はわからないのですが、粕壁小については、昭和14年(1939)築の旧木造校舎(下の写真)に掲げられていた校章を郷土資料館で保管しています。これと現在の校章を比較すると若干デザインが異なっています。もしかすると、粕壁小の現在の校章は、実は比較的新しい(もしかすると戦後に制定された?)のかもしれません。

藤をモチーフとする学校は、牛島小(昭和50年開校)、藤塚小(昭和54年開校)、春日部南中(令和元年開校)で、いずれも新設校です。藤が校章に取り入れられたのは、おそらく市の花が藤(フジ)だからでしょう。市の花の制定は昭和48年のことです。学区内に牛島のフジがあること、藤のつく地名であること、また市の花が藤であることが制定の理由だと思われます。

校章にみる春の花は、古ければ明治時代までさかのぼれますが、もしかすると意外に新しいものなのかもしれません。校章の成り立ちや制定までの過程は、今後追跡調査したいと思っています。校章からみれば、桜と藤は春日部にとってゆかりのある春の花であるといえるでしょうか。

写真は解体前の粕壁小木造校舎。町のシンボル的な建物だったので、懐かしい方も多いのでは?

「春の花*春日部」展では、屋根付近の建物正面に掲げられている校章(実物)を展示して、郷土資料館に桜を咲かせます。ぜひお楽しみに。

3月19日(日)には、みゅーじあむとーくも開催しますので、ぜひ資料館の桜もお楽しみ下さい。10:30〜、15:00〜(30分程度)

写真:粕壁小学校の木造校舎

【出張授業】「でばりぃ資料館」in八木崎小学校

令和5年3月15日(水)に八木崎小学校へ出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

『でばりぃ資料館』は、郷土資料館での展示や体験をお届けする出張授業です。令和2年から始動して、今年で3年目。だんだんと学校の先生方にも浸透してきたでしょうか。

 

今回のでばりぃ資料館は、児童会室で「昔の家の道具」、多目的室で「昔の学校の様子」「60年前の春日部の様子」と3つのテーマを分け、3クラスが25分ずつ巡回する形式で開催しました。

 

昔の家庭の道具コーナー

昔の家の道具コーナーでは、昔の家庭で使われていた民具を展示し、さらに手作業での精米の方法にも触れました。

手回し洗濯機などの珍しいものに興味津々!どの児童も、気になったことや、わかったことをしっかりとプリントに書き記していて素晴らしかったです!

 

昔の学校の様子コーナー

昔の学校の様子コーナーでは、昭和30年代の給食の献立表に驚いたようです。それもそのはず、献立にはご飯があまりなく、パンがほとんどだったからです!今当たり前に食べている白いご飯が、昔は貴重なものだったんですね!

自由時間には昔の子供と背比べができるパネルなども人気がある様子でした♪

 

昔の春日部の様子コーナー(千歯扱き体験)

60年前の春日部の様子コーナーでは、八木崎周辺には当時何があったのかなどを学びました。

八木崎小学校が開校したのは1972年の約51年前ことです。今回は約60年前の空中写真を用意したので、八木崎小学校はまだ存在せず、周辺の多くは田んぼでした。

田んぼと関連して、稲の脱穀体験も今回はこちらのコーナーで行いました!

 

今回は各コーナー25分の時間があったため、説明だけでなく、自由見学の時間もしっかり確保でき、児童も満足度も高かったように思います♪

 

郷土資料館は八木崎小学校からさほど遠くないのですが、聞いてみると意外と資料館に来たことがある児童は少ない様子。今日のでばりぃ資料館で興味をもってもらえたでしょうか!土日も開館しているので、ぜひ遊びに来てくださいね♪

春日部「ハル」のキカクテン「春の花*春日部」展

令和5年3月18日(土)から、企画展示「春の花*春日部~もも*ふじ*ぼたん*さくら~」が始まります。おじさんが無理をしてチラシをポップに仕上げてみました。 #かすかべプラスワン

春日部は、春の花とゆかりの深いまちです。とくに、藤(フジ)は、国特別天然記念物「牛島のフジ」が所在することから、市のシンボルとして、広く知られているところです。これまで、藤(フジ)については、ここ数年、藤(フジ)の花咲くこの季節にミニ展示を開催し、ご好評をいただいてきたところです。

今回の展示は、少し欲張って、藤(フジ)を含む、春日部ゆかりの春の花で特徴的な桃(モモ)、牡丹(ボタン)、そしてお花見でおなじみの桜(サクラ)についても紹介します。去年のブログを見ていたら、それをにおわすような記事を書いていました「花のまち春日部」毎年春に恒例のイベント「桜咲くかすかべ」に引き寄せられたところもあります。

「春日部ハルのキカクテン」(春のパン祭りの言い方で)のキャッチコピーは「春の花咲く 春日部で 春のお花をもっと楽しむための 企画展示」

展示をご覧いただければ、春の花、お花見をもっと楽しめるかもしれません。

「春の花*春日部」展、目下、準備中。こうご期待。

写真:ポスター

展  示  名:春の花*春日部~もも*ふじ*ぼたん*さくら~

会  期:令和5年3月18日(火)~5月2日(日) 月曜・祝日休館

会  場:春日部市郷土資料館企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15)

関連事業:

①みゅーじあむとーく 3月19日(日)・4月22日(土)各日10:30~、15:00~ 予約不要。時間までに展示室へ。

②展示解説講座「もも*ふじ*ぼたん*ものがたり」4月30日(日)10:00~12:00 事前申し込み制(定員30名) 申込は4月12日(水)から。

粕壁小第3学年が郷土資料館を見学しました

令和5年3月1日(水)に粕壁小学校第3学年が郷土資料館を見学しました。

 

粕壁小学校第3学年は全部で4クラス。1~4校時を使って1クラスずつ見学に来てくれました。

 

企画展示室見学風景

企画展示室では、昔の家庭で使われていた道具や学校で使用していた勉強道具などについて職員から解説を聞きました。

昔の粕壁小学校は今の郷土資料館資料館の位置にあったことなどを伝えると、「え~!そうだったんだ!」と、いい反応です(笑)

たくさん見た道具の名前もしっかり覚えて帰ってくださいね。

 

千歯扱き体験

続いては千歯扱き(せんばこき)を使った脱穀体験です。

体験した児童はマスク越しでも楽しそうな表情がうかがえました♪それでも楽しさだけではなく、手作業の大変さも感じ取ってもらえたようです。

 

宿場説明風景

宿場の模型を見ながら江戸時代の春日部の様子も学びました。粕壁小は粕壁宿の近くに位置しており、児童も宿場の通りをイメージしやすかったようで、現在の様子と比較して驚いている様子でした!

 

館内自由見学①

館内自由見学②

職員の話を聞く姿勢や、反応の良さなど、メリハリのある姿が印象的な粕壁小第3学年の児童さんたち!

郷土資料館は土曜日、日曜日も開館しています。粕壁小のすぐ隣にあるので、お休みの日にぜひ遊びに来てくださいね♪

歴史文化講演会 「直木賞の歴史と作家三上於菟吉」を開催しました!

令和5年2月25日(土)、午後2時から4時まで、視聴覚ホールにおいて、歴史文化講演会を開催しました。

令和5年2月25日 歴史文化講演会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年度本館では、鎌倉武士春日部氏と江戸時代末期の粕壁宿の住民について、それぞれ講演会を開催いたしました。

今回は趣向を変えて、明治24年(1891)に本市木崎地区に生まれ、昭和19年(1944)に幸松地区八丁目で亡くなった、大正~昭和前期の大衆作家、三上於菟吉についてをテーマに講演していただきました。

三上於菟吉は、市民や愛好家の方々による顕彰活動が熱心に行われている郷土ゆかりの作家です。

令和5年2月25日 歴史文化講演会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

特に今回は、現代の文学賞の中でもっとも著名な賞と思われる直木賞と三上於菟吉との関係を、直木賞の由来となった直木三十五と三上於菟吉との親交を中心にお話ししていただきました。

講師にお迎えしたのは、ウェブサイト「直木賞のすべて」を運営し、『直木賞物語』(文春文庫)などのご著書もある、川口則弘先生です。先生には直木三十五と三上於菟吉の親交について、共同の出版事業や二人の個性などを説明されながら、詳しく解説していただきました。直木三十五の死後、三上於菟吉は菊池寛らとともに昭和10年の直木賞創設に関わり、初代の選考委員を務めました。

昭和9年 三上於菟吉・直木三十五との共著

 

 

 

 

 

 

当日は、50名近くの方々が熱心に受講され、市内のゆかりの場所などについての質疑がありました。

三上於菟吉顕彰会の方々による生誕130周年記念誌『三上於菟吉再発見』-会員のおひとりである川口先生のご寄稿もあります-の紹介もあり、たいへん実りある講演会となりました。

三上於菟吉顕彰会編集の本

郷土資料館では、今後も三上於菟吉をはじめ郷土ゆかりの人物について、展示や講演会を通じて皆様に紹介してまいります。

ぽぽらフェスティバルの展示で郷土資料館が紹介されています。

3月5日(日)まで、春日部市市民活動センター(ふれあいキューブ4階)で「春日部・?・クエスチョン」という展示がされています。この展示は、ぽぽらフェスティバル2022実行委員会が企画されたものです。 #かすかべプラスワン

わたしたちのまち「春日部」の現状や課題を多様な角度から見つめ、一緒に考える、参加型の展示です。

まちの現状や課題はさまざまですが、このなかで「かすかべ再発見」として、まちの歴史、移り変わりが紹介されています。郷土資料館に行けば、詳しくわかる!といったように、当館の配布物なども掲示いただいています。

写真:掲示物

この企画の面白いところは、掲示物が参加型になっているところ。自分が共感したり、面白いとおもったコト、話題に対して、ハンコをおしてイイネ!と投票する仕掛けになっています。

写真:まちと人の年表

上の写真は、春日部の歴史と自分の生涯を重ね合わせられる年表。自分がいつ生まれたのか、ハンコをおして表示できるようになっています。写真では伝わりにくいのでぜひ見てみてください。

写真:町のイイネ

この掲示物は、春日部の宝ものは何ですか?という問いかけに対する書き込みです。

あなたにとって、家族にとって、地域・春日部にとっての宝ものは?

いろいろな価値観があって、共感するものには、スタンプがたくさん押されています。

地域・春日部にとって、「文化財」が宝ものだと書いている方もいました。私はここにスタンプを押しました。

 

書き込みができるこの取り組みは、展示主催者が一方的に発信するのではなく、見ている観覧者も参加できる双方向型の展示になっていて、いわばアナログ型のツイッターといった感じです。SNSでバズったっといったような派手さはありませんが、手作りで、作った人、掲示した人や見ている人のぬくもりが感じられ、野心的な展示だと見受けました。個人的にインスパイアされましたので、この手法を郷土資料館の展示にも活かしたいと思案しています。

スペースが限られている展示にもかかわらず、郷土資料館を取り上げていただき、関係者の方には、感謝申し上げます。

ぜひお近くにお立ち寄りの際にはご覧ください。

【出張授業】「でばりぃ資料館」in藤塚小学校

令和5年2月16日(木)に藤塚小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

藤塚小学校でばりぃ資料館

今回のでばりぃ資料館は、図書室で「昔の家の道具」「昔の学校の様子」、視聴覚室で「昔の農業」と3つのテーマを分け、児童がグループ毎に巡回する形式で開催しました。

 

昔の家の道具コーナー

昔の家の道具コーナーでは、昔の家庭で使われていた民具を展示しました。

手回し洗濯機や黒電話が人気を集めていました!時間が足りず、もっと見たがる子もいた様子。ぜひ、郷土資料館に足を運んでみてくださいね♪

 

昔の学校の様子コーナー

昔の学校の様子コーナーでは、当時の教科書をはじめとした勉強道具や給食の食器などを展示しました。

第一回の藤塚小卒業式の写真も用意していったところ、子供たちは釘付け!先生方も興味深そうにご覧になられていました!

 

昔の農業コーナー

昔の農業コーナーでは、主に手作業での米作りの学習と体験を行いました。

手作業での脱穀、籾摺り、米つきなど、当時使っていた道具や、簡素化したものを利用して実際に体験してもらいました。

初めてやる作業に楽しさを覚えながらも、同時に手作業による苦労も味わってもらえたようです。

 

各コーナー15分満たない短い時間ではありましたが、その分体験を含め、ギュッと詰め込んだ内容となり、児童も飽きることなく学んでらえたかと思います!

 

でばりぃ資料館は継続して開催しておりますので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ご相談ください!

また、「くらしのうつりかわり」展も2月26日(日)まで開催しておりますので、団体見学のご依頼もお持ちしています!

 

古文書勉強会を開催しました。

2月12日(日)春日部市郷土資料館の収蔵史料(古文書)を、有志の市民の皆さんと読む会「古文書勉強会」を開催しました。 #かすかべプラスワン

写真:古文書勉強会

引き続き、「宝暦度より酒造用留」を講読しています。

皆さん、だんだんと慣れてこられたようで、読むスピードも上がってきています。

が、虫損も多く、読みづらい箇所もちらほら。

たとえば、次のよう。

写真:古文書

一行目は、「是ハ米壱石ニ付水九斗之割ヲ以仕込如斯」

「如斯」が虫損で読みづらいですが。

二行目は、「是ハ米糀之内より垂酒壱割出祖ニ付組込」とあります。

毎度毎度、解釈する時間がないのですが、「垂酒」とは今でいうアルコールのことであるとか。この記述から、この酒のアルコール度数は大体10%ということになります。

「如斯」はまだ読める範囲ですが、次のは手ごわいです。

写真:古文書

武州埼玉郡粕壁宿

  百姓勝之丞死去跡親

    酒造人 五郎兵衛

と書いてあるようです。

これも虫食いが重なって読みづらく、特に「去」「跡」が厳しいのですが、読んでこられた方がいらっしゃいました。

参加者には写真の紙焼きを配っているので、ここまで鮮明に字がみえません。前後の関係などを加味して字をお読みいただきました。ほかの参加者からは「よく読みましたね~」と感心する声が漏れました。

執念というか、皆さんの情熱を感じましたよ。

 

と、こんなふうに2時間みっちり古文書を読んでいます。

 

次回は、3月12日(日)14時~ です。

引き続き、よろしくお願いします。

 

郷土資料館体験講座「凧作り教室」を開催します

前回11月に開催し好評だった「凧作り教室」について、2回目を3月に開催します。

今回も、講師に春日部市「庄和大凧保存会」の方をお招きし、本格的な和凧を作ります。

  凧作り教室(紙に骨をつける)
凧作り教室(紙に骨をつける)

 

日程:令和5年3月18日(土曜日)午前10時~正午
講師:春日部市「庄和大凧文化保存会」の講師
募集人数:小学生 30人(申し込み順、保護者同伴、参加可)
材料費:一人500円
申し込み
令和5年2月8日(水曜日)より郷土資料館に直接、電話(電話:763-2455)、春日部市電子申請で申し込み

凧作り教室電子申請入口(別ウインドウで開く)

 

申し込み後、下記の期間内に郷土資料館にご来館いただき、材料費(500円)をお支払いの上、凧紙をお受け取りください。

凧紙配付期間:令和5年2月8日(水曜日)~3月17日(金曜日)

(月曜日・祝日を除く午前8時30分から午後5時15分)

講座当日までに好きな絵や文字を書いてきてください。講座会場では、骨組みと糸付けを行います。