ほごログ
武里村の矯正会規約『新編図録春日部の歴史』ーその80
戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は明治41年(1908)、明治天皇の名で、第2次桂太郎内閣により発布されました。国民に勤勉と節約を説き、国家主義的な道徳の標準を国民に示しました。これとともに、町村の財政基盤の強化や風俗改良などを目標とした地方改良運動が、当時の内務省で進められました。
これらの一環で、武里村大字大枝では、大正4年(1915)9月、農村自治の発達、土地風習の矯正などを掲げて矯正会(きょうせいかい)を結成し、37名が加盟しました。具体的な会員の仕事には、出兵、帰郷の送迎、道路、用排水路の改修などがありました。
大正8年(1919)には、粕壁町でも矯正会が結成されました。
春日部市教育委員会1991『春日部市史 第4巻 近現代資料編I』280ページ
春日部市教育委員会1995『春日部市史 第6巻 通史II』
「第一次世界大戦前後の社会」『新編図録 春日部の歴史』173ページ
郷土資料館体験ワークショップを開催しました
春日部の伝説をもとにした紙芝居や、蓄音機によるレコード鑑賞を楽しんだあと、昔のおもちゃ「紙てっぽう」を作りました。
初めて見る蓄音機にはワークショップに参加した子供たちは興味津々でしたよ。
最後は、自分で作った紙てっぽうを振り下ろし、”ぱんっ!!”とういう音を響かせ遊びました。
新聞紙でも作ることができるので、家でも作ってみてくださいね。
関宿道の追分と道しるべ『新編図録春日部の歴史』ーその79
関宿道は、粕壁宿から新町橋を渡り日光道中を進んだ小渕村の追分(おいわけ)から北東へ分岐します。
追分には現在も写真の道しるべが残ります。右は宝永6年(1709)に建てられた道標で、「左 あふしう(奥州)道、右せきやと(関宿)道」と記されます。左は宝暦4年(1754)に建てられた庚申塔(こうしんとう)ですが、「左 日光道」と側面に記されます。
関宿道は、その距離が約16㎞であることから、「四里八丁(よりはっちょう)」という通称もありました。
埼葛地区文化財担当者会 1996 『埼葛の道しるべ』
「城と宿とを結ぶ」『新編図録 春日部の歴史』96ページ
古墳時代前期の集落「尾ヶ崎遺跡」『新編図録春日部の歴史』ーその78
昭和52年(1977)に調査され、縄文時代前期(約6,000年前)の住居跡7軒、古墳時代前期(約1,600年前)の住居跡15軒、古墳時代後期(約1,400年前)の住居跡3軒(うち1軒は滑石製模造品(かっせきせいもぞうひん)の工房跡)が発見されています。
古墳時代前期の住居跡は15軒のうち、10軒に火災を受けた痕跡があります。火災を受けた住居跡に残された炭化した建築材を分析したところ、コナラやクヌギなどが使われていたことがわかりました。
「古墳時代の生活と文化」『新編図録 春日部の歴史』30ページ
昼間孝次ほか1984『尾ヶ崎遺跡』埼玉県庄和町・尾ヶ崎遺跡調査会
尾ヶ崎遺跡空撮写真
尾ヶ崎遺跡の古墳時代前期の住居跡
幕末維新期のミニ企画展開催します
展示会では、嘉永6年(1853)のペリー来航から、明治10年(1877)の西南戦争直前まで、資料館収蔵の幕末維新期の古文書・歴史資料を展示します。
主な展示資料としては、元治元年(1864)の水戸天狗党浪士の借金証文や関宿県や葛飾県など新政府の直轄県時代の古文書などのほか、新規収蔵品も展示します。
収蔵資料を改めて読み直すと、これまで知られていなかった記事が見いだされます。下のものは、八丁目村の御廻米(年貢米)を東京に回送する際に、菊の御紋の御用の建幟をたてるよう命じられたものです。
展示会では、古文書や歴史資料にみられる時代・世相を象徴するキーワードに着目して、幕末・明治維新の市域の歴史を紹介します。目下、準備中です。お楽しみに。
展示名:ミニ企画展示「幕末・明治維新と春日部」
会期:平成31年3月30日(土)~4月28日(日)
会場:春日部市郷土資料館企画展示室
粕壁小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました
昭和期に実際に粕壁小学校で使われていた机や椅子をさわったり、木造校舎の粕壁小の写真を見たりしました。
見学していて疑問に思ったことは、すぐに質問!!したり
昔の道具を手に取り実際に使ってみたりもしました。
”そろばん”を初めて見た児童もいて、人生初の”そろばん”体験をしていました。
郷土資料館では、3月24日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。
昭和47年(1972)3月 公害パトロールカー導入ー広報かすかべ182号
昭和46年(1971)、春日部市では公害パトロールカーを導入しました。排気ガスや騒音の測定器を常備した公害対策の専用車です。
この当時、公害は社会問題になっており、昭和42年(1967)に国は公害対策基本法を制定、春日部市でも昭和46年度より「安全対策課」という課を新設し、市内の公害の対応にあたりました。
広報紙では、昭和46年8月号から昭和47年1月号で「生活と公害」というシリーズが連載され、社会の関心の高さがうかがえます。
広報かすかべ182号(昭和47年3月号)
広報かすかべ176号(昭和46年9月号)
公害パトロールカー
「生活と公害」(広報かすかべ176号(昭和46年9月号))
豊春小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました
昭和期に実際に市内小学校で使われていた机や椅子をさわったり、お手玉・ゲームボーイ・リカちゃん人形などを見ながら、自分が日常遊んでいる物とは違う”おもちゃ”に興味津々でした。
方言のような、かすかべの郷土の言葉では、質問が提示してあり児童たちは一生懸命考えていました。
例えば「げいろ」は今の言葉で言うと何? 皆さん、わかりますか?
答えは「かえる(蛙)」です!! 難しいですね~
郷土資料館では、3月24日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。
武里団地入居者のしおり『新編図録春日部の歴史』ーその77
総工費100億円、60ヘクタールに7街区からなる180棟以上の日本最大の団地には、学校や保育所、診療所、ショッピングセンター、市役所の出張所も併設されました。
ご紹介するのは、「公団住宅の住いのしおり」です。入居説明会で配布され、入居までの手続きや入居後の約束事、団地生活の手引きが掲載されています。浴室の説明のページには、清掃方法をはじめ、点火方法、換気の際の注意などがイラストでわかりやすく説明されています。
「武里団地の誕生と住宅団地の開発」『新編図録 春日部の歴史』92ページ
「公団住宅の住いのしおり」表紙
「公団住宅の住いのしおり」ガス風呂の上手な使い方
庄和総合支所ロビーに「みに展示」
総合支所においでいただいた折に、ぜひご覧ください。
南桜井小学校伝統芸能クラブの皆さんが舞を披露しました。
4、5年生には、引き続き来年度もクラブ活動での活躍を期待しています。
▲3年生を前に堂々とした「芝舞」
▲部長さんを筆頭に「辻切」
昨日には3年生のクラブ活動の体験があり、7名が法被を着たり、活動の様子をDVDで観たそうです。4月からのクラブ活動では1人でも多くの生徒さんが参加してくれること、校長先生をはじめ、指導されている西金野井獅子舞保存会のみなさんも期待しています。
また、保存会会長さんをはじめ、保存会の皆様にはいつも熱心なご指導、誠にありがとうがざいました。
立野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました
少し前に使われていた学用品や、農具等についての説明を聞き、実際に千歯こきの体験をしました。
体験後には「すっきりした♪」「きれいに取れて気持ちいい」など感想をいただきました。
初めて見る一昔前の生活用品や、おもちゃなどの実物を見て今との生活の違いに児童たちは驚いていました。
郷土資料館では、3月24日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。
小学校3年生社会科の出張授業を行いました
今回、郷土資料館では、3年生の社会科単元に合わせて、「昔のくらしの道具」「昔の子どものくらし」の2つのテーマを用意し、実物の道具に触ってもらいながら、学習してもらいました。
「昔の子どものくらし」では、昔の小学校で使った教科書・学用品を見たり触ったり、70年前の小学3年生の漢字テストを解いてもらいました。「氣持」「樂しい」などのように、旧漢字で書かれた答案用紙をみて、「今よりも難しい」と驚いていました。また、昔の子どもはどんな遊びをしたのかについて、昔のおもちゃ遊び、紙でっぽうづくりを通じて、学習してもらいました。
「昔のくらしの道具」では、おじいさん・おばあさんが子どもだった時代に、家庭で使われていた道具について説明を聞き、郷土資料館ではケースのなかに入っている昔の道具を見たり、触ったり、使ったりしてもらいました。また、農家で使っていた千歯こき、唐箕(とうみ)の使い方を体験してもらいました。唐箕の羽根を回して、籾が選別されると、大きな歓声があがりました。
「昔の道具の使い方がよくわかった」「郷土資料館に遊びに行きたい」などと感想を話してくれました。
武里南小学校の皆さん、ぜひ遊びに来てくださいね。
幸松小学校の放課後子ども教室で双六をやりました
ユリカモメ、梅若くん、在原業平、ぐうすけ、などのチームを決めます
特製 巨大春日部サイコロを振ります。サイコロは、大凧など春日部ゆかりの物が、描かれています
途中、チャンスクイズや幸松チャンスなど、ポイントアップも可能。クイズの答えを考えているところです
クイズに正解して、ポイントが入ると盛り上がります
遊びながら、楽しく春日部のことを学びました。また、郷土カルタにも関心を持てたようです。
郷土資料館体験ワークショップを開催しました
春日部の伝説をもとにした紙芝居や、蓄音機によるレコード鑑賞を楽しんだあと、昔のおもちゃ「からくり屏風」を作りました。
裏と表の2面しかないように見えるのに、4種類の絵柄が出てくる不思議な屏風に、参加した子供たちは大変喜んでいました。
ワークショップは、小学生までを対象とした、昔の遊びを気軽に体験できるイベントです。事前申込み不要、当日の飛び込みも大歓迎です。
次回ワークショップは、平成31年3月23日(土)に「ぴょんぴょんカエル」や「紙てっぽう」を作ります。ご参加をお待ちしています♪♪♪
総武鉄道開業後の粕壁駅『新編図録春日部の歴史』ーその76
東武アーバンパークライン(野田線)は、明治44年(1911)に開通した柏駅と野田町駅間の千葉県営鉄道野田線を起源とします。北総(ほくそう)鉄道に払い下げられた後、埼玉県域では、昭和4年(1929)に大宮駅と粕壁駅(現在の春日部駅)間が、昭和5年(1930)には粕壁駅と清水公園駅間が開通し、大宮駅と柏駅間の直通電車の運転が開始されました。昭和4年には北総鉄道の社名が「総武(そうぶ)鉄道」に改められました。
ご紹介する写真は、総武鉄道が全線開業した後の粕壁駅の様子です。一番右側が東武鉄道の上りホーム、中央に東武鉄道の下りホーム、左に総武鉄道のホームがみえます。東武鉄道の下りホームには、蒸気機関車にひかれた貨物列車が入線しています。
さて、総武鉄道の経緯も詳しく触れている東部地区文化財担当者会発行の研究報告書『東部地区の交通』(1,500円)は、残部が10冊程度となっております。購入ご希望の方は、春日部市教育委員会文化財保護課(土日は郷土資料館)までお問い合わせください。
粕壁商工会『粕壁町誌』1936
「東武鉄道の電化」『新編図録 春日部の歴史』92ページ
総武鉄道開業後の粕壁駅
川辺小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました
学芸員から昔の春日部について説明を聞いたあと、資料館内を自由に見てまわりました。
用水路から田んぼに水をいれる農機具である「水車(水ぐるま)」に触れたり、
「千歯こき」で稲からモミを取ることもしました。
学芸員の説明には、メモを取りながら真剣に聞いてくれました。
昔の乗り物や、おもちゃで遊びながら昔の生活も体験しました。
郷土資料館では、3月24日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。
八木崎小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました
少し昔のくらしを展示した企画展示室では、
実際に日常で使われていた生活用品や学用品等を、見たり触れたりしました。
昔の春日部の写真を見て、春日部の移り変わりを実感したり
隣の常設展示室では、もっと昔である江戸時代の粕壁宿の模型を見たりして、昔を身近に感じていました。
※郷土資料館では、3月24日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。
鷹番廃止の高札『新編図録春日部の歴史』ーその75
江戸城の五里四方を、将軍自らが鷹狩りに行く御拳場(おこぶしば)、その外縁部に徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)が鷹狩りを行う拝領鷹場(はいりょうたかば)、さらにその外側には将軍の鷹を訓練する御捉飼場(おとらえかいば)が設けられ、現在の春日部市域は御捉飼場に属していました。
御捉飼場に住む人たちには様々な規則や役割が課せられました。写真の高札は、泊まり込みで鷹の見張りを行う鷹番(たかばん)という役割が、負担軽減のために享保6年(1721)に廃止される際に掲示されたものです。
『最後の将軍がみた春日部‐野鳥と御鷹場・御猟場』2013 春日部市郷土資料館
「鷹場と負担」『新編図録 春日部の歴史』92ページ
古文書勉強会の成果(その11)
平成31年2月2日(土)と古文書勉強会を開催しました。市民の方々が主体的に市内神間地区ゆかりの江戸時代の古文書=神間村文書(春日部市郷土資料館所蔵)を解読しています。これまでの成果はこちらからさかのぼって御覧になれます。
2月は4点の史料を解読しました。成果は以下の通りです。
【史料番号26】
質物ニ相渡申畑地証文之事
一上畑壱反壱畝弐歩 町田耕地
能勢十次郎様御知行所御水帳面利兵衛名前也
右は当巳御年貢金其外要用差詰リ申候ニ付
貴殿江御無心申、右之畑地壱反壱畝弐歩質物ニ
相渡金四両壱分借用仕只今慥ニ請取申処
実正也、但し年季儀之ハ当巳十二月より来申十二月迄
中三ケ年季ニ相定申候、此畑地ニ付諸新(親)類等不申及
横合より少も構無御座候、若何如様之六ケ敷儀出来
致候とも、我等加印之もの何方迄も罷出急度埒明、貴
殿之質物ニ可致候、聊御苦労ニ相掛ニ申間敷候
一御公儀様御年貢諸役之義ハ貴殿方ニ而御勤被成
べく候、尤年季目之申十二月中ニ罷成候ハヽ、本金四両
壱分急度返金致候ハヽ右之畑地不残御返し
可被下候、若受返し申儀不罷成候ハヽ、流可申候間、此証文
を以右之畑地貴殿所持被成べく候、自然御
縄入等御座候ハヽ、貴殿名前ニ御請可被成候、又は御勝
手ニ而何方へ何程之質物ニ御渡し被成候とも
我等儀ハ不及申右加印之もの印形致為質物ニ
入替可申候、其節違儀申間敷候、勿論此証文
を以貴殿御所持被成候内は、何年過候とも少も
違乱無御座候、為念組中印形致質物証文入
置申処如件
安政五年 下総国葛飾郡
午三月 神間村
出石地主
甚五兵衛㊞
五人組
兵左衛門㊞
同
源次郎㊞
同
林蔵㊞
名主
久左衛門㊞
同国同郡同村
源兵衛殿
(ひとことメモ)
安政5年(1858)の質地証文。地主甚五兵衛が、旗本能勢氏知行所の上畑1反余を質に入れ、金4両1分を借用したもの。
【史料番号28】
質物ニ相渡申畑地証文之事
一上畑三反歩 町田耕地
此分米三石
能勢十次郎様御知行所 御水帳利兵衛名前
右は当巳御年貢其外諸仏(払)方ニ差支貴殿迄無心
申右之畑地三反歩質物ニ相渡し金拾五両借用
仕、只今慥ニ請取申処実正也、但シ年季之儀は
当巳十一月より来ル申十一月迄中三ケ年季ニ相定メ申候、
此畑地ニ付諸新(親)類は不及申、横合より少も構無御座候、
若何方より何如様之六ケ敷儀出来致候とも、我等
加判之もの何方迄も罷出急度埒明、貴殿江質
物ニ可致候、聊御苦労相掛申間敷候
一御公儀様御年貢諸役之儀は貴殿方ニ而御勤可被成候、
尤年季月之申十一月ニ本金拾五両急度返金
致候ハヽ、右之畑地不残御返し可被下候、若請返し
申儀不罷成候ハヽ流可申候間、此証文ヲ以右畑地貴殿
所持可被成候、自然御縄入御座候ハヽ貴殿名前ニ御請
可被成候、又は御勝手ニ而何方江何程之質物ニ御渡し
被成候共、我等義ハ不及申ニ右加判之もの印形
致し為質物ニ入替可申候、其節違義申間敷候、勿論
此証文貴殿御所持被成候内は何年過候とも少も
違乱無御座候、為念組中印形致質物証文
入置申処依而如件
安政四年 下総国葛飾郡神間村
巳十一月 地主
甚五兵衛㊞
五人組
兵左衛門㊞
同
源次郎㊞
同
林蔵㊞
名主
久左衛門㊞
同国同郡
源兵衛殿
(ひとことメモ)
安政4年(1857)の質地証文。地主甚五兵衛が、旗本能勢氏知行所の上畑3反余を質に入れ、金15両を借用したもの。
【史料番号31】
質物相渡シ申田地証文之事
一上田五畝歩 八丁通り
一下田壱反五畝歩 同
一中畑九畝歩 同
一下畑弐反六畝歩 同
一屋敷五畝歩 同
此高四石五升八合 御水帳面新左衛門名前
一上田七畝拾歩 茨田耕地
一中田壱反壱畝歩 同
一下田壱反壱畝弐拾歩 同
一上畑七畝歩 同
一中畑五畝歩 同
一下畑壱反八畝歩 同
此分米五石九升弐合壱勺
御水帳面久松名前
右は当亥ノ御年貢其外払方差詰申候ニ付、
書面之田畑貴殿江質物ニ相渡シ金子三拾両
借用仕、只今慥ニ請取申候処実正也、但シ
年季之儀は当亥十二月より来ル寅ノ十二月迄
中三年ニ相定、田畑質物ニ入置申候間
一御年貢諸役之儀は貴殿方ニ而被成御勤作徳并
立木等貴殿近(進)退可被成候、年季明キ寅十二月ニ
相成候ハヽ、金子返済可仕間地所御返シ可被下候、
若其節請返兼候砌田畑無甲乙其時之相場ニ而
相渡シ可申候、此地所ニ付御年貢未進拝借等外江
借金書入等不仕、組合并親類相談之上質地相渡シ
候間、外より故障之筋無御座候間、流地以後御検地
入ニ相成候ハヽ何様御名前ヲ請被成候共申分無
御座候、依之為後証質地証文相渡シ申処
如件 下総国葛飾郡神間村
天保十年 地主
亥ノ十二月 源兵衛㊞
(切取抹消)[ ]
名主
兼右衛門(印墨抹消)
同国同郡同村
組頭
栄治郎殿
(ひとことメモ)
天保10年(1839)の質地証文。地主源兵衛のほか、二名が連署していたが一名は署名部分を切り取り、兼右衛門は印を墨で抹消している。金子が返済されて反故になったため、このような処置がなされたと考えられる。
【史料番号36】
差上申一札之事
御知行所豆州武州総州先年御先納金
被仰付、村々一同御請仕御上納奉差上候処
今般村々江深ク御憐察を以前書御
先納金不残御下ケ済被下置一同立会
慥ニ奉請取候、依之為後日一同連印之
一札奉差上候処仍如件
元次(治)二年丑二月 御知行所
(後筆) 豆州田方郡
「御知行所 間宮村
武総葛飾郡 名主
神間村 吉田隼太郎
名主 右後見名主
源兵衛 惣四郎㊞
芦橋村
利右衛門 下総国葛飾郡
千塚村 永沼村
孫右衛門 名主
永沼村 野口孝右衛門
名主
野口孝右衛門 神間村
豆州田方郡 名主
間宮村 源兵衛㊞
後見名主 芦橋村
間宮村 名主
吉田惣四郎 利右衛門㊞
名主 千塚村
吉田隼太郎 」 名主
孫右衛門㊞
御地頭所様御内
御役人中様
(ひとことメモ)
元治2年(1865)に旗本能勢氏の知行所(伊豆国・武蔵国・下総国)の村々が能勢氏に上納した先納金を残らず「御下ケ」(返金)とし、これを知行所村々の村役人らが受け取り、能勢家の下僚あてに提出した文書。差出人は下段に判を押しているが、提出する前に連署の順に支障があったらしく、上段に差出人を書き直している。実際に提出されたものではないようである。
次回は、3月23日(土)14時~を予定しています。