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レファレンスがレファレンスを生む

春日部市内の様々なことについて、郷土資料館にお問い合わせいただくことがあります。これに的確にお応えするのも郷土資料館の一つの役割。いわゆるレファレンス(情報探し)です。 #かすかべプラスワン

先日、春日部市内の小学校・中学校・義務教育学校の校歌について調べている方から、調べ方などについてお問い合わせいただきました。昔のことだけでなく、今・現在のことも尋ねられられることもしばしばあります。今のことを理解するためには、歴史を紐解く必要があるわけですから。今と歴史はつながっていると実感させられます。

実は、校歌について調べていらっしゃる方は、庄和地区市民大学のグループの自由課題に取り組まれている方で、市内の校歌にどのようなことが歌われているのか、を調査されているそうです。校歌には、地域の名所・旧跡や自然的な景観が詠みこまれていますが、とくに「富士山」に着目して、市内の浅間信仰にも派生して、様々なことを調べていらっしゃるそうです。そうした観点から校歌を捉えてみるということ、非常に興味深く感じました。

さて、今回は、資料の利用について相談のためご来館いただきました。「学校の校歌ができたころ、かつて校舎から富士山がみえたに違いない。それを証明するために、学校の周りに建物が少ないころの写真を提供してほしい」とのご相談でした。

思い当たるものはいくつかあるのですが、さしあたり、次の写真を提供させていただきました。いずれも昭和45年(1970)に撮影されたものです。

ほごログの読者の方から、画像が小さいというご意見もいただいているので、今回はめいいっぱい大きな画像で掲載します。拡大してご覧いただくのはスマホをスワイプしてください。ちなみ、右クリックでダウンロードもできます(利用は個人で楽しむ範囲でお願いします)。

まずは、豊春小学校。写真の上に横断する道は現在の県道2号(かつての国道16号)です。

写真:昭和45年豊春小

校舎はかつての木造校舎。道沿いに大きな池がみえます。古隅田川の旧流路沿いにあたるようです。これだけ大きな池なので名前もあることでしょう。ご存じの方がおられましたら教えてください。

次は、幸松小学校です。

写真:昭和45年幸松小学校

 こちらも、かつての木造校舎。円形の体育館は、今も幸松小のシンボルです。

もう一つの円形の体育館といえば、武里小学校。

 写真:昭和45年武里小学校

こちらも、かつての木造校舎がみえます。

いずれも、周辺がまだ住宅地として開発される直前であることがわかります。

白黒ですが、もう少し俯瞰した写真をみれば、さらにその状況がよくわかります。

写真:昭和45年武里小学校の周辺

写真の中央が武里小学校。左上には武里中学校がみえます。注目されたいのは、小学校の東側(右側)の敷地。Dの字を逆さにしたような形で田んぼが広がっています。いまや戸建て住宅が立ち並ぶ備後西の住宅街となっていますが、それは、この写真の少し後のことのようです。

いずれも本邦初公開の写真です。とくにカラー写真は当時はまだ少なかったのでとても貴重な写真となります。

ご来館いただいた方に、これらの写真を提供したところ、大変喜んでいただきました。

校歌・富士山・富士浅間信仰の調査は、記録としてまとめられると聞いています。成果がまとまりましたら、まとめたものを郷土資料館にご提供いただけますと幸いです。なぜなら、次のレファレンスにつながるからです。

そうして、レファレンスは次のレファレンスに続いていくのです。私たち学芸員は、資料と資料、そして資料や歴史と人をつなぐ「コンシェルジュ」といったところでしょうか。またのご利用をお待ちしております。

#民具 のクリーニングをしました

暑い盛りも過ぎたようなので、民具のクリーニングをしました。今回の民具は、今夏に寄贈を受けた桐下駄の製作用具です。 #かすかべプラスワン

写真:クリーニング

寄贈を受けた桐下駄製作道具は、埼玉県立民俗文化センター編『埼玉の桐細工』(1987年)に報告されているもので、桐下駄製作の職人さんが亡くなられた後、使用されず保管されていたものです。

寄贈されて直ぐに展示、というわけにはなかなかいきません。資料の活用の前に、一つ一つ調書をとって整理を進めることになりますが、さらに、その前にクリーニングを行います。

たとえば、このカンナ。

写真:カンナの写真

よってよくみると・・・

写真:白い斑点

白い斑点が。カビなのかもしれません。水洗いをして、よーく陰干しをして除去しました。

つぎは、木製の道具。

写真:木製の道具

おそらく、ゲタを製作するときのカタ(型)や作業の台なのだろうと思われます。

ゴキブリの卵の跡や埃もついていましたので、水洗いしましたが、裏をみると・・・

写真:木製の道具裏面

虫に喰われて、大きく破損しています。

こういった脆弱なものは丁寧にクリーニングをしました。

クリーニングをするなかで、大正時代の墨書のあるものがありましたので、古くは大正時代から桐下駄製造をされていたお宅であることがわかりました。

今後は、『埼玉の桐細工』などを参照しながら、調書をとっていくことになります。

 

それにしても、桐箪笥や桐箱のみならず、桐下駄製作まで。春日部は本当に「桐のまち」だったこと、実感いたしました。

9/27 #ハルカイト で #ミュージアムトーク 西宝珠花の歴史を学ぶ

8月にオープンした大凧文化交流センター「ハルカイト」でミュージアムトークを行います。

当日は、ハルカイトと郷土資料館の職員が、各展示室を解説します。

どうぞこの機会に、大凧文化交流センター「ハルカイト」にお越しください。

 

日時:令和6年9月27日金曜日 10:00から12:00

場所:大凧文化交流センター「ハルカイト」(春日部市西宝珠花593 宝珠花小学校跡地)*集合場所2階大凧文化継承室

定員:30名(お申し込み順)

講師:ハルカイト職員 春日部市郷土資料館学芸員

お申し込み:9月25日水曜日までに、下記へお電話でお申し込みください。

春日部市大凧文化交流センター「ハルカイト」 (048)748-1833

受付時間8:30~17:15 休館日:毎週火曜日

 

(過去のほごログより)

8月8日に行われたミュージアムトークの様子

#大凧文化交流センター 「 #ハルカイト 」オープン

大凧あげの背景 #ハルカイト 展示室より

【新発見!】見川喜蔵の文書(2)

前回紹介した安永3年の借金証文。差出人の安左衛門が郷土の偉人見川喜蔵であると紹介しました。

なぜ、安左衛門が見川喜蔵といえるのか。その秘密は、文書に捺されているハンコです。拡大してみましょう。

画像:安左衛門のハンコ

印文を見ると、右から「知擧」と彫られているようです。安左衛門の諱と考えられます。

「知擧」の名は、前回紹介した見川喜蔵と同じ諱です。粕壁・成就院の見川喜蔵の墓(市指定文化財)には、喜蔵の事績とともに彼の諱が「知擧」であったことが刻まれています。安左衛門という通り名は、喜蔵の息子も名乗っていますので、見川家当主が襲名する名前であったと考えられます。ですから、この安左衛門は見川氏、そして後に活躍して様々な事績を遺す見川喜蔵であると考えられるのです。

実は、これまでの調査で、見川喜蔵の名前が確認される最古の史料は、安永9年(1780)4月のもの。粕壁宿喜蔵が、捉飼場御用のため人馬を差し出す旨を藤塚村名主へ通知する古文書でした(慶応義塾大学文学部古文書室蔵「村鑑雑集 上」)。同年に喜蔵は粕壁宿の問屋(宿場役人)を勤めているので、おそらく問屋の職務として藤塚村名主へ通知したものと考えられます。

喜蔵の最古の古文書が安永9年なので、これ以前「喜蔵」は何と名乗っていたのか、わかりませんでした。そのため、他の記録の見川家に関する記事をどのように理解すればよいのかが課題となっていました。その記事の内容は次の通りです。

(安永8年)正月、名主・問屋八郎左衛門、家開発以来両役相勤、御検地帳預り居、帳元名主ニ有之、然所病身ニ付、伊奈半左衛門様御役所江休役願上、跡役見立候迄相名主鉄郎次壱人ニ而相勤、同人親安左衛門後見、二月御検地帳鉄郎次江引渡(「公用鑑 下」『春日部市史』近世史料編Ⅱp712)

意味は、安永8年正月、名主八郎左衛門(関根氏)が病身のため名主・問屋役の休役を願い、跡役が決まるまで相名主鉄郎次が1名で両役を勤めることにになった。鉄郎次の親安左衛門がこれを後見し、同年2月には関根家の検地帳が鉄郎次に引き渡された。粕壁宿では、安永7年まで関根氏と見川氏の両家が名主・問屋役を勤めていましたが、関根氏(八郎左衛門)が休役したため、鉄郎次(見川氏)が名主と問屋と勤めることになったのです。しかし、鉄郎次は、後の喜蔵と同一人物であるのか、はたまた親の安左衛門が、後の喜蔵と同一人物であるのかが、上の記事から読み取ることができません。

しかし、今回発見した安永3年の借金証文によれば、安左衛門が「知擧」(後の喜蔵)と名乗っていますので、のちの喜蔵は当時安左衛門と称していたことがわかりました。したがって、安永8年正月の名主鉄郎次は、喜蔵の息子(後の安左衛門)、後見人となった親の安左衛門が後の喜蔵であるということが、ほぼ確定されることになったのです。

ちなみに、喜蔵と名乗って以後は、今回の借金証文とは別のハンコが使われていますが、印文はやはり「知擧」。安左衛門を改め、喜蔵と名乗る時期がいつなのか、今後考えなければなりませんが、息子の鉄郎次が安左衛門を名乗ったタイミング、すなわち後見人が不要になった段階に、喜蔵と名乗ったのではないかと推察されます。喜蔵という名前は宿行政の前線を退いた後のいわば隠居的な名乗りだったのかもしれません。

長年、見川喜蔵を追いかけてきた担当者は、上の古文書のハンコが「知擧」であるとわかったとき、小躍りする気持ちになりましたよ。個人的には、見川喜蔵の「知擧」のハンコを来館記念スタンプにしてもよいかもと思っていますが、喜ぶのは担当者だけですね。

この発見は、日本の歴史にとっては小さな一歩ですが、春日部・粕壁宿の歴史にとっては偉大な飛躍です。

【新発見!】見川喜蔵の文書

見川喜蔵といえば、天明の飢饉前後、粕壁近辺で水害が多発した時、私財を投げうって堤防の修復や、地元の人たちを指揮し、地域を水害から守った郷土の偉人として知られています。喜蔵は、のちに江戸幕府から褒賞され、また地域の人々からも慕われ、粕壁の成就院の見川喜蔵の墓(市指定文化財)には供花が絶えなかったといわれています。

史料整理を見直していたところ、一通の借金証文に目がとまりました。今回はマニアックです。

写真:古文書

古文書は次のように記されています(画像は紙が折れて一部文字が読めませんが)

   借用申金子之事

 一、金壱両壱分也

右は当午ノ御年貢ニ差詰り、貴殿江

御無心仕、只今不残慥ニ請取申所

実正ニ御座候、然上ハ何様之義有

之候共、当暮迄之内急度返済

可仕候、為後日仍而如件

         粕壁町

  安永三年午七月  安左衛門(印)

       同所 半六殿

内容は、安永3年(1774)7月に、粕壁町の安左衛門が粕壁町の半六から金1両1分を借用した、いわゆる借金証文です。借金の理由としては、当午の年貢の支払いに支障があるから、というものですが、「御年貢差詰り」は江戸時代の借金証文の常套句ですから、実態はよくわからず、詳しい理由は不明です。7月なので、夏に支払う「夏成年貢」の年貢金に不足が生じたのでしょうか。今年の暮れまでに必ず返すとしています。

宛名の半六は、粕壁で塩問屋として商売を大成する山田半六です。

注目したいのは、差出人の安左衛門。実はこの安左衛門こそ、冒頭に紹介した見川喜蔵だと考えられるのです。

どうして喜蔵なのか? その理由は・・・(つづく)