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麦稈真田からはじまった。。。麦わら帽子の産業の歴史について調べています

今夏の企画展のテーマは、春日部の特産品「麦わら帽子」をテーマにします。

題して、「麦わらの春日部~帽都いま・むかし」展です。

市内の麦わら帽子は、明治時代から続く、伝統の地場産業です。昨今は麦わら帽子だけなく、製帽産業自体も厳しく、平成初めには8つほどあった帽子製造所ですが、市内には2つほど。かつては、帽子製造や帽子の材料となる真田紐を集荷・製造する業者が67者もありました(大正4年)。かすかべは、帽子の都、すなわち「帽都」(ぼうと)とも称されました。「帽都」の語は、戦前の地理教育学系の雑誌『デルタ』1-2(1937年)の執筆者による造語のようですが、帽子産業に彩られた「かすかべ」を形容しており、副題として採用してみました。

郷土資料館にも、かつて帽子製造所からご提供いただいた、麦わら帽子・経木帽子・ストローバックを特産品として常設展示しております。がしかし、これだけでは企画展示になりませんので、市内の製造所の皆さん、かつて帽子製造に携わっておられた方にご協力いただき、帽子の作り方をはじめ、産業の盛衰について取材させていただき、麦わら帽子のあゆみを調査しています。

今日は、調査で得たことを少しだけご紹介。といっても、初歩の初歩の話。

そもそも、麦わら帽子って、何で出来ているか知っていますか?

「麦わら」と答えた方は、惜しい。

単なる「麦わら」からは、麦わら帽子は作れない。「麦づくりをしているから、麦わら帽子ができる」という言い方は少し飛躍しています。

改めて、麦わら帽子をよく見ていただくとわかります。下の写真は帽子のてっぺんのところ。

麦わら帽子のウズ

よくみると、麦わら帽子は、ウズ状の構造をしていることがわかります。たしかに、麦の茎=麦わらが素材(原料)ではあるのですが、ウズの元になっているのは、数本の麦わらを編んだ紐です。この紐は、麦稈真田(ばっかんさなだ)と呼ばれています。麦稈とは、麦わらの意ですから、平易に麦わら真田という場合もあります。

麦稈真田は、原料の麦わらの太さや本数によって、様々な太さ・形状のものがあります。

写真:麦稈真田(見本)

職人さんは、麦稈真田のことを「ブレード」と呼びます。「ブレード」は、太さ・編み方・色合いが多様で、帽子にあった「ブレード」を選び、あるいは組み合わせて、それを縫製することで麦わら帽子ができるのです。

 現在の「ブレード」は、ほぼ中国製です。麦稈真田は、機械で編むことはできないため、中国では今も手作業で真田を編んでるそう。麦わらは、自然素材ですから、わらの出来具合によって、色合いが違ったり、切れやすくなってしまう部分もでてくるそうです。職人さんに教えていただきましたが、「ブレード」にも表と裏があるそうで、わらの茎の継ぎはじめがみえる側が裏、比較的綺麗な編みの側が表になるそう。当然、表側が帽子の表面になるように縫製していくそうです。

色がついている真田は、中国から輸入された真田を晒や染色専門の業者に一旦預け、染色してもらったものです。どんな業者でも染色ができるわけではなく、麦稈真田特有の染め方の技術があるそうです。上の写真は青色ですが、色は色々です。

帽子の素材はこの麦稈真田如何で決まってくるわけです。

日本で麦稈真田が作られるようになるのは、明治4年(1871)のことといわれています。帽子は、洋装とともに広まっていった、極めて近代的なアイテムですが、その原料となる国産の麦稈真田も明治以降のこと。ですから、日本における麦わら帽子の歴史は、どう遡っても明治時代からです。 

市内に一次史料は残されていませんが、どうやら、春日部の麦わら帽子製造の起源は、明治時代に「麦稈真田」づくりから。かつては、市域周辺の農家の女性たちが、副業として麦稈真田を編んでいたのです。そして、この「ブレード」と呼ばれる材料をめぐって、市内の帽子産業の歴史はうねりをみせていくのですが、そのあたりのことは、次の機会に。

麦わら帽子、麦稈真田について、情報がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

「麦わらのかすかべ」展、ご期待ください。