ほごログ
秋季例祭ー東中野の獅子舞ーが公開されました
木々がようやく色づきだした11月10日(日)には、市指定無形民俗文化財「東中野の獅子舞」の年一度の公開が行われました。
三週間前の10月20日(日)には、現在の越谷市下間久里が伝授された同じ系統の「銚子口の獅子舞」、「赤沼の獅子舞」の秋季例祭に続き、五穀豊穣の収穫を感謝し、無病息災、家内安全が祈願されました。
当日は境内鳥居から香取神社拝殿に天狗さまを先頭に場を清める「庭入り」から、「序の舞」「女獅子の舞」「中獅子の舞」、そして三匹獅子が威風堂々と舞う「太夫の舞」、さらに勇壮華麗な「千島の舞」が公開されました。また、終演後には太夫獅子のコウガケを頭に被せ無病息災を祈願する地域のみなさまが立ち並び盛況となりました。
そのほか、境内には地元中野小学校の第三学年の総合的な学習の時間に『獅子舞』を学び体験した児童みなさんの感想が掲示されていました。この後、12月には保存会の皆さんのご指導による出張授業を行い予定です。ひとりでも多くの児童が地域の伝統芸能に興味関心を抱いていただけるよう、楽しい授業をお願いいたします。
【 #常設展 ミニ展示】 #東武鉄道 開業前夜の #春日部駅 前
常設展示の近代のコーナーの展示替えをしました。 #かすかべプラスワン
テーマは、題して「東武鉄道ができる直前の春日部駅周辺」です。
現在、春日部駅周辺は鉄道高架工事の真っ最中。最近では、東武スカイツリーラインの古い登りホームの土台の解体工事が進み、さら地になってきています。おそらく、ホームの土台は、大谷石で築かれたもので、東武鉄道開業当初からのホームだったものとみられます。東武鉄道が明治32年(1899)に開業してから、駅周辺は駅前の市街地として開発されていきました。
下の画像は、昭和8年(1933)の粕壁町字内出の耕地図です。駅舎の所在する土地の名称は内出。線路が横断し、耕地を分断するかたちで鉄道が敷設され、駅の東側(現在の東口)は市街地化され、停車場道(現ブロンズ通り)をはじめとする駅と旧日光道中の町並みをつなぐ道が整然と区画されています。反対に、西口側は細長い土地割りの田畑ばかりで、道も細い畦道であったことがわかります。
その後、昭和46年(1971)12月には西口改札が開設され、農地が区画整備され、西口も市街地化していくことになり、今日に至ります。「鉄道で春日部の町(街)が分断されている」とよく言いますが、歴史的にとらえれば、そもそも町は東口側だけであり、高度経済成長期に東口の開発が飽和状態になり、西口側に市街地を広げていったため、「分断」されたようになってしまった、というように理解すべきでしょう。鉄道「分断」の問題は、現在の問題ではなく、高度経済成長期に生起していた、春日部市にとって古くて新しい問題なのです。
さて、駅が開設される以前の駅前の様子は、おそらく田んぼや畑であったことは、江戸時代の粕壁宿の時代の資料などで明らかですが、これまで街路や土地割りの様子などは、よくわかっていませんでした。
今回、展示した資料は、粕壁町の字内出の耕地絵図です。資料の年紀は明治35年(1902)ですが、描かれた内容は、東武鉄道が敷設される以前の状況のようです。最近、市民の方からご寄贈いただいた、近代の粕壁町の商家資料群から見出されたものです。
この絵図を先の昭和8年の絵図と比較してみると、私たちが当たり前にみている駅前もまた、当時は粕壁町のはずれにあり、街路や土地割りは、駅開業後に造成されたことが明らかになります。詳細は展示で。
駅ができ、駅前が造成され、西口ができ、西口に市街地が広がり、そして今「分断」を解消するための鉄道高架が始まる。粕壁の字内出の土地に刻まれた駅前の歴史を、ぜひ展示室でご覧ください。
郷土資料館【手作りおもちゃクラブ】を開催しました
令和6年11月10日(日)と14日(木)「県民の日」 の午前と午後各1回ずつ、郷土資料館手作りおもちゃクラブを開催しました。
今月の手作りおもちゃクラブは2回開催!
10日(日)は「発泡スチロール飛行機」、14日(木)は「からくり屛風」を作りました。
まずは恒例の蓄音機の上演です。10日と14日は連続してきてくれる子もいましたので、それぞれ別の曲をかけてみました。
10日は“口笛吹きと犬”、14日は“かっこうのワルツ”を選曲。どちらも一度は聞いたことがある有名な曲・・・だと思ったのですが、こども達からは「初めて聞く」との声が。。
大人は多くの人が聞いたことがあると思うのですが、いったい大人になるまでのどの段階で知ったのか、私は思い出せません(笑)
紙芝居は10日「火伏の龍」、14日「火事よけ天狗」を読みました。
どちらも、火事から家を守ってもらったという伝説のお話です。乾燥してくる季節になってきましたので、皆さんも火の元にはご注意を!
おもちゃ作りは10日「発泡スチロール飛行機」、14日「からくり屛風」を作りました。
今回で3度目となる発泡スチロール飛行機。毎回の反省点を踏まえ、実はちょっとずつアップグレードしています。
その甲斐あってか少し飛ばす練習をしたら、みんな上手に飛ばせていました。
こどもたちからも「見た目より飛ぶ!」という嬉しい感想を聞くことができました!
こちらはからくり屛風作りの風景。
発泡スチロール飛行機が動きの大きい“動”のおもちゃなら、からくり屛風は仕掛けを楽しむ“静”のおもちゃといったところでしょうか。
2枚の組み合わせた板をクルクル回すと、4枚の絵柄がでてくる不思議なおもちゃです!
そして、最後にお土産の缶バッジ作り!
こどもにとっては結構力のいる作業だったりします。何年か前はまだ小さくて自分の力ではできなかった子が、成長して自力でできるようになった姿をみると、なんだが感激してしまいます(笑)
皆さま今回もご参加ありがとうございました!
次回の手作りおもちゃクラブは12月8日(日)に開催予定です。
詳しくは広報紙等に掲載いたします。年内最後になりますので是非ご参加ください!
【講座ができるまで(前編)】体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」受付中です
郷土資料館では毎年12月に“しめ縄”を作る講座を開催しています。
令和6年度分は現在予約受付中です(12月22日(日)教育センター分は定員に達しましたので受付終了)
本年は12月15日(日)にハルカイトで、22日(日)に教育センターで開催します。15日(日)のハルカイト分はまだ僅かに空きがございますので参加希望の方はお急ぎください!
さて、今日はしめ縄作りの講座準備風景を紹介します。
こちらは9月末の稲わらの調達風景です(ごめんなさい、写真は去年のものです)。
8月中には農家さんに稲刈りの際に稲わらをいただくお願いをしています。これを忘れると講座そのものが開催できないので油断厳禁です!
いただいた稲わらは公用車に積んで持ち帰るのですが、後部座席がいっぱいになるほど(笑)
稲穂の香りを漂わせながら教育センターに戻ります。
続いては、稲わらを干す作業です。
教育センターに持ち帰った稲わらは適度な大きさにまとめて縛り、可能な限り天日で干します。
退庁前に建物内に取り込み、物干し竿に掛け、数週間かけて乾燥させます。青かった稲わらが乾燥して、少しずつ色が抜けていきます。
調達から乾燥のために干すまで、ほぼ一日がかりです。
今回のブログではここで一旦終了、後編では乾燥させた稲わらが講座当日の姿になるまでをご紹介します!
#古文書解読勉強会 #一ノ割 村の古文書を読んでいます #松伏溜井 付近の洗堰をめぐる出入
郷土資料館では、市民の方たちと郷土資料館所蔵の古文書を読む、古文書勉強会を開催しています。ほごログでの紹介はご無沙汰していますが、月に一度の頻度で、市民の皆さんが主体になって決まったテキストを講読するものです。
2022年5月から長らく翻刻をしてきた「宝暦度より酒造用留」が2024年6月に読み終わり(只今見直し中)、引き続き館蔵の一ノ割村関係の古文書を読み進めています。
一ノ割村の古文書は、古書店で購入された竪冊3点で、詳しい出所は不明ですが、館蔵資料として伝来しています。すでに、嘉永7年2月「頼一札(日光道中定助郷増惣代頼み証文)」、慶応2年9月「議定書(村役人跡役議定)」は読み終え、現在は天明期の出入(訴訟)一件留を講読しています。
史料によれば、出入りの内容は「悪水吐場切流諸入用并諸色代滞出入」、すなわち増林村(現越谷市増林)にあった「悪水吐場」(排水地点)の「字新違堤」の維持管理・訴願に関わる費用をめぐるものです。字新違堤とは、古利根川の堰である松伏溜井のそば(南西)にあった洗堰・堤防のことで、『明治以前日本土木史』によれば、寛保の大洪水後に「増林村新違堤へ水流十間・横十間竹洗堰を新設し、其上に〆切を為し、洪水の時に之を取払ひ、悪水吐の用意を為す」と記されています。松伏溜井の堰と同様に、下流の灌漑のための堰であるとともに、増水・洪水時には堰を取り払って、水を「切流」がして上流の湛水を防ぐ役割をもつ当該地域の用排水にとって重要な水利構造物だったようです。
新違堤と洗堰については、船橋市デジタルミュージアムで公開されている「江戸川筋の図」でご覧いただけます。
絵図をみると、「新違」「洗堰」はちょうど、松伏溜井の堰枠から南西に流れる「西葛西用水」沿いにあったことがわかります。「西葛西用水」は古利根川の流れを元荒川につないだ水路(鷺後〈さぎしろ〉用水)であり、現在「逆川(さかさがわ)」と呼ばれている水路です。逆川の呼び名からも明らかなように、普段は古利根川から元荒川へと水が流れていますが、時によっては元荒川から古利根川(松伏溜井)の方向へと逆流することもあったようです。かつ、新違堤の下流には、排水路の千間堀(現在の新方川に相当)が流れ込んでおり、逆川が逆流すると、千間堀の排水にも支障が生じたことが想像されます。
史料にみる天明5年の争論は、この「新違」「洗堰」をめぐる維持管理・訴願費用の割り当てをめぐるものであり、平方村・向畑村の村役人が、市野割(一ノ割)村の村役人を相手取って出訴したものです。増林村の「新違」「洗堰」は、一ノ割から遠く離れていますが、先の絵図からもわかるように千間堀や合野川を経て、「新違」「洗堰」付近まで水が落ちており、訴訟方は、この維持管理費用を負担を要求したようです。
この古文書は相手方(被告側)の一ノ割村の文書のみ書き留められているため、訴訟方の言い分やその背景がうかがえる記述は乏しく、出入の内容が掴みにくく皆さん解読・解釈に苦労されているようです。また、問題となる「新違」「洗堰」が市外(越谷市)にあるということもあり、土地勘がイメージしづらいのかもしれません。
古文書を読むなかで、参加者の方が松伏溜井周辺を散策されてきた、と周辺の写真を送ってきてくださいました。松伏溜井をはじめ、千間堀など、明治末から大正期にかけての耕地整理事業や現代の圃場整備などによって、景観が大きく変わっていますが、しかし、現地でないとわからないこともあります。フィールドワークは重要なのです。以下、いただいた写真を紹介しましょう。
松伏溜井の堰は、現在「古利根堰」と呼ばれています。かつての堰枠は「増林堰」または「大吉堰」と呼ばれ、土橋を兼ねた土堰で、猿島街道の往来道になっていました。その後の昭和期の増林村絵図や古写真をみても堰は橋にかなり近い位置に設置されていたことがわかります。現在の堰は、橋やかつての位置よりも上流に設置されており、毎年4月上旬から9月中旬までゲートを下げて、古利根川の水位を上げ、農業用水として灌漑されています。
「古利根堰」の上流は、今の季節は水位が下がっているものの、かつて松伏溜井と呼ばれた名残りがうかがえます。
続いて、逆川の写真。当時(近世)には掛かっていなかった橋から、元荒川方面をみた写真だそうです。
写真の右手がかつての弥十郎村・大吉村、左手がかつての増林村・花田村ということになります。現地でご覧になられて、右側のほうが土地(標高)が低くなっているそうです。であれば、千間堀が落ち込んでくる弥十郎村・大吉村の人々は、増水時の千間堀の排水や「新違」「洗堰」の取り払いに執心したのではないか、と想像されます。溜井の上郷(大吉村など)と下郷(増林村など)との対立は、実際に、安政6年の水害時に大吉村の人々が堤防の切割りを実力行使したことにはじまる「逆川切割り騒動」へと発展しています(『越谷市史通史編上』)。
読み始めた頃は「新違堤」が何なのか全く想像もできませんでしたが、関連資料や現地の写真・踏査などにより、段々とわかってきた(ような)気がします。今後も、実地の写真や関連資料を踏まえながら、古文書を解読・解釈していきたいと思います。
ちなみに、次回の古文書勉強会は11月17日(日)14時~を予定しています。ご関心がある方は見学でも構いませんのでお待ちしています。