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古文書勉強会の成果(その12)

平成31年3月23日(土)に古文書勉強会を開催しました。市民の方々が主体的に市内神間地区ゆかりの江戸時代の古文書=神間村文書(春日部市郷土資料館所蔵)を解読しています。これまでの成果はこちらからさかのぼって御覧になれます。
今回は、神間村文書のほか、現在開催中のミニ企画展示「幕末・明治維新と春日部」展での陳列資料を解読しました。
写真:勉強会の様子
 まずは、神間村文書から。
【史料番号35】

    質物ニ相渡シ申田地証文之事

 一中畑壱反六歩        茨田耕地

 一下畑四反壱畝拾歩      右同断

 一屋鋪弐反八畝弐拾四歩

   田畑屋敷合八反拾歩 御水帳面六左衛門名前

右は当卯御年貢其外払方ニ差詰リ申候ニ付、右

田地貴殿江質物ニ相渡シ金子弐拾三両弐分・永七文借用仕、

只今慥ニ受取申所実正也、但シ返済之儀ハ来辰ノ十二月ニ

相成申候ハヽ本金不残返済可致候間、右田地不残御戻シ

可被下候、若其節金子調達相成兼請返シ申義不罷

成候ハヽ流シ可申候間、 御年貢諸入用貴殿方ニ御勤

被成、此証文を以貴殿御所持可成候、又ハ御勝手ニ

而何方へ何程之質物ニ御渡シ被成候とも、われ等加判之

者致印形質物ニ為入替可申候、此田地ニ付横合より

故障申もの無御座候、万一何様之六ケ鋪義出来

いたし候共、加判之者何方迄も罷出、急度埒明貴

殿質物ニ可致候、為其五人組加判質地証文相渡シ申候

所如件

              神間村

   文化四卯十二月     地主

                藤右衛門㊞

               五人組

                佐助㊞

               同

                重右衛門㊞

               与頭

                太兵衛㊞

         同村名主

           源右衛門殿
(ひとことメモ)
文化4年(1807)の質地証文。地主藤右衛門が名主源右衛門に田畑屋敷8反余を23両余で質入れした証文。


続いて、樋籠の古文書を読みました。
写真:樋籠田中家文書
【樋籠・田中家文書№642】
(包紙)

「          薩州
           陣営より
 大急達書          
  武州粕壁宿在
              廣尾村名主方へ」      
       武州粕壁宿在
        廣尾村名主
         又兵衛

右は急御用談之趣有之間
村役人差添早々江戸小川町
陣営へ可罷出、若同所陣替
之節は芝本営へ可相届
可申、於不参は急度可申付
者也
      薩州陣営
 辰四月廿四日 器械掛
 

       右村
        役人中へ


【樋籠・田中家文書№643】

別紙急御用向粕壁宿
在廣尾村名主迄申達間
千住宿宿継早々可相届事

  辰四月廿四日 薩州陣営

        千住より粕壁迄
         宿々
           役人中へ


(ひとことメモ)
慶応4(1868)辰年4月24日、薩摩藩陣営の器械掛より樋籠村名主又兵衛に対して、「急御用談」があるので、村役人を付添えて、江戸小川町の陣営に出頭するようにと命じた書付。№642は、包紙に包まれて回送された。№643はその添え状で、千住宿から粕壁宿に書付(№642)の宿継を命じたもの。当時は戊辰戦争の最中で、江戸から北関東や東北地方に新政府軍が派兵されていた。薩摩藩は軍資金の調達のために市域屈指の地主樋籠村の名主又兵衛を召還したものと考えられる。地名の樋籠(ひろう)を「廣尾」(ひろお)という字を当て書いていることから、薩摩藩と又兵衛の面識はなかったと考えられます。

写真:展示風景
田中家文書については、現在ミニ企画展で展示中です。ぜひ皆さんの解読の成果をご覧ください。

次回の勉強会は、4月27日(土)に開催予定です。

講演会「戊辰戦争と埼玉東部地域」とミニ企画展

平成31年3月30日(土)春日部市郷土資料館歴史文化講演会を開催しました。また、ミニ企画展示「幕末・明治維新と春日部」もオープンしました。

歴史文化講演会では、東京大学史料編纂所の箱石 大(はこいし ひろし)先生をお招きして、「戊辰戦争と埼玉東部地域―東山道総督府の鎮撫活動期間を中心に」と題して、ご講演いただきました。

写真:講演会の様子
関東地方にやってきた新政府軍(東山道総督府)の組織や進軍の動向、埼玉東部地域における鎮部活動や軍政の実態について、豊富な史料を背景にして詳しくお話しいただきました。埼玉県東部地域は、下野梁田戦争や羽生領の打ちこわし、あるいは官軍通行による人馬負担の増加など、地域の支配行政や治安が不安定になりました。市域は、東山道総督府の軍政下に置かれ、県内に所在する岩槻藩や忍藩が局地的に治安を取締まっていましたが、戊辰戦争の戦局が推移するなかで、武蔵知県事などの知県事支配体制が確立されていきました。箱石先生は、武蔵知県事に任命される山田一太夫が忍藩士であったことや、東山道総督府の軍政が知県事支配に引き継がれていったことを指摘されました。
写真:箱石先生
新政府軍の組織や統治の過程について、最先端の成果がうかがて、勉強になりました。

ところで、質疑応答の時間には、受講者から「地域の実態について、教えてほしい」との質問がありました。実は、戊辰戦争期の市域の実態については、ほとんど明らかにされていません。
郷土資料館では、箱石先生のご講演にあわせて、戊辰戦争期の地元春日部の様子をうかがえる古文書を展示するミニ企画展「幕末・明治維新と春日部」展を開催しています。
所蔵資料のみ、かつ展示室の半分という限界はありますが、古文書から新たに明らかになったことなどを詳しく・細かく解説し、読み応えのあるパネルを並べています。
箱石先生の講演のなかでも、「貴重な地元の史料が展示されている」と紹介していただき、講演後には展示室がにぎわいました。
写真:展示室の様子
展示は4月28日(日)まで(月曜日休館)開催しています。ぜひ、ご覧ください。
今後、ブログでも展示資料について紹介したいとおもいます。

上喜蔵河岸場跡『新編図録春日部の歴史』ーその81

古利根川にかかる新町橋のたもとには、江戸時代、上喜蔵河岸(かみきぞうがし)という河岸場がありました。現在も長方形に整形された石を積む「切込みハギ」という工法による石垣が2~3段、現地でみることができます。
河岸場はこのほかに、碇神社(いかりじんじゃ)付近に下喜蔵河岸(しもきぞうがし)があったといわれ、いずれも江戸時代中ごろに粕壁宿の名主であった見川喜蔵(みかわきぞう)の名前が由来とされています。

粕壁宿は、このような河岸場を利用して、日光道中の陸路と古利根川の舟運の結節地として発達しました。

幕府により江戸川が開削、整備されると、江戸への物資の輸送には江戸川が使われるようになりました。古利根川は、流域の新田開発が進み、途中に溜井(ためい)などの利水施設が設けられたため、江戸へ直接、荷物を運ぶことが難しくなり、地域間の舟運路として使われました。

「春日部の河川と水上交通」『新編図録 春日部の歴史』102ページ
上喜蔵河岸
上喜蔵河岸跡(左側は新町橋)

上喜蔵河岸の石垣
石垣(新町橋の粕壁側のたもとに石垣が残る。表面は長方形、裏面は先細りに整形されている)

武里村の矯正会規約『新編図録春日部の歴史』ーその80

戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は明治41年(1908)、明治天皇の名で、第2次桂太郎内閣により発布されました。国民に勤勉と節約を説き、国家主義的な道徳の標準を国民に示しました。これとともに、町村の財政基盤の強化や風俗改良などを目標とした地方改良運動が、当時の内務省で進められました。
これらの一環で、武里村大字大枝では、大正4年(1915)9月、農村自治の発達、土地風習の矯正などを掲げて矯正会(きょうせいかい)を結成し、37名が加盟しました。具体的な会員の仕事には、出兵、帰郷の送迎、道路、用排水路の改修などがありました。
大正8年(1919)には、粕壁町でも矯正会が結成されました。


春日部市教育委員会1991『春日部市史 第4巻 近現代資料編I』280ページ
春日部市教育委員会1995『春日部市史 第6巻 通史II』
「第一次世界大戦前後の社会」『新編図録 春日部の歴史』173ページ

武里村矯正会規約

郷土資料館体験ワークショップを開催しました

平成31年3月23日(土)、郷土資料館で「体験ワークショップ」が開催されました。
春日部の伝説をもとにした紙芝居や、蓄音機によるレコード鑑賞を楽しんだあと、昔のおもちゃ「紙てっぽう」を作りました。


ワークショップの様子

初めて見る蓄音機にはワークショップに参加した子供たちは興味津々でしたよ。

ワークショップの様子

最後は、自分で作った紙てっぽうを振り下ろし、”ぱんっ!!”とういう音を響かせ遊びました。
新聞紙でも作ることができるので、家でも作ってみてくださいね。