かすかべの人物史

かすかべの人物史

人名 豊田 三郎
事績 小説家。旧制粕壁中学に入学し作家を志望、卒業後、旧制静岡高校、東京帝国大学文学部に進み、作家となる。雑誌『行動』の編集長を務め行動主義文学の旗手として157編の作品を残した。妻は歌人の森村浅香。作家・森村桂は子。
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人名 見川 喜蔵
事績 粕壁宿の宿役人。諱は知挙。粕壁宿名主の家に生まれ、天明3年(1783)浅間山の噴火による降灰で生活に困り飢えた人々に粥を煮て施したり、宿内の地主を説いて雑穀を提供させた。また、寛政3年(1791)古利根川が決壊したため自費で古堤の上に盛り土をして堤を増築。この堤は喜蔵堤といわれる。
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人名 栗原 伝三郎
事績 独学で和算を学び「近道流算術師」と名乗り、近隣の子供たちに算術を教える。明治初期に行われた地租改正では、土地の測量にあたり、測量図面3部16冊を作成。
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人名 岩井 弥一郎
事績 洋画家。床屋を営みながら独学で大正12年(1923)の新光洋画会展に初入選。帝展審査委員の牧野虎雄に師事し、帝展にもたびたび入選し「理髪師の画家」として知られる。昭和21年(1946)には旺玄会を起こし、昭和26年(1951)には一線美術会を設立し、門人の指導にあたる。概ね自然な写実描法で、静物画を得意とし、日展の審査委員や評議員を務めた。
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人名 小島 正重
事績 江戸幕府の「関東郡代」伊奈忠治の親戚にして家臣。通称庄右衛門。埼玉県東部地域の天領を治めていた伊奈忠治は、三代将軍徳川家光に江戸川の開削を奏上し、寛永17年正月、農閑期の農民を動員し、開削工事を実施した。これにより、近隣の耕地開発が可能となったため、正重は、主君伊奈忠治に進言し、下総国葛飾郡庄内領(現幸手市・杉戸町・春日部市・松伏町)の新田開発を主導した。晩年は現在の春日部市上吉妻の地に小流寺を建て閑居し寛文8年(1668)死亡。小流寺に墓がある。
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