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年末の風物詩・粕壁の酉の市

12月14日、粕壁の神明社で酉の市が開かれました。 #かすかべプラスワン #学芸員の胸熱

帰り道に遠くのほうから聞こえるお囃子の音色が。

仲町の皆さんがお囃子を演奏されていました。音色につられて集まる人も多くいたのではないでしょうか。

写真:お囃子

神明通りには、屋台が並び、すれ違うのが大変なほど、中高生や親子連れでにぎわっていました。

夏祭りでは屋台が出ませんでしたから、若者たちは屋台が楽しみなのでしょう。

写真:神明通りの屋台

屋台がどんな流行を取り入れているか、興味もあるところですが、学芸員はたこ焼きを横目に境内に向かいました。

境内には、酉の市恒例の、縁起物の熊手の屋台が並んでいました。熊手の屋台は、その高さに圧倒されます。

写真:熊手の屋台

お社には、獅子頭がお祀りされていました。

写真:獅子頭

獅子頭は、角がある獅子(左)と頭に宝珠を載せる獅子(右)の二頭です。現在まで続く東部地区の獅子舞は、三頭の獅子で舞われるもの主流ですので、この獅子頭は獅子舞に使ったものなのかどうか不明です。

本殿は、扉が開かれて、ご内陣を開帳していました。中にはご神像が。普段の神明社の風景とは異なり、まさに「ハレ」の空間でした。学芸員的には、このあたりが胸熱です。

参詣された皆さんは、「今年もありがとうございました」とつぶやきながら参拝されていました。もう、年の瀬ですね。

さて、粕壁の神明社、そして酉の市は古くから続く神社・祭礼です。そこで、粕壁の神明社について、ヤホーではなく、諸資料で調べてみました。

神明社の起源については、記録等がなく詳しくは不明です。ただ、伝承によれば、天明年間(1781-89)に九法四郎兵衛という人がこの地を開墾したところ、地中からご神体と鏡が出てきたので祠を祀ったといわれています(『春日部市の神社』)。神明社については、長らく、この伝承が語られるのみでしたが、最近、収蔵庫から神明社に関する史料を見出しました。

写真:勧化帳

表紙には、「神明宮御本社建立 勧化幉 粕壁宿世話人」とあります。神明社の本殿を建てたときに寄付を募った帳簿です。「寅九月」とあるのは文政13年(1830)9月のこと。

本文には、次のようにつづられています。古くより鎮座している神明宮は、いまだ仮宮殿であり、今回壊れてしまったので、新規に本社を建てることになった。ただし、自力では難しいので、近郷隣村の助成を請いたい、と。

勧進の世話人(発起人)は次のように記されています。

写真:勧化の世話人

「綿屋市兵衛」(鹿間市兵衛か)、「笊屋半蔵」、「伊勢や市左衛門」(練木市左衛門)、「油屋勘六」(永田勘六)、「八百屋藤七」(小林藤七)、「同重右衛門」、「肴屋権八」、「青木屋清次郎」。

名前がわかる商人は、いずれも粕壁の上町(かみまち)の人たちですので、神明社が上町の人々に信仰されていたものと考えられます。実際にどんな人たちから寄付金が集められたのかは不明です。

また、天保3年(1832)には、神明宮の道が潰地になっており、不便なので、屋敷地を道の敷地にするという取り決めもされています(春日部市史近世史料編Ⅲの2、986ページ)。

これらの史料には、名だたる粕壁の商人の名が!ここも学芸員の胸熱です。

肝心の酉の市がいつから始まったのかは残念ながらわからないのですが、地元の方によれば、神明様の酉の市は、八坂神社の祭礼(春日部夏祭り)よりも賑やかだったそうです。

粕壁の宿場町とともに、神明社、そして酉の市も歩んできたのですね。屋台で楽しむ若者たちも、そんなことを思いながら、大判焼きを食べてくれるといいのになぁと思いました。

収蔵資料の紹介、更新しました

郷土資料館の収蔵資料を紹介しています。今回は、3点の資料を追加。昨年度の博物館実習生が解説を執筆してくれたものです。そして、現在の春日部を語る上で、重要な資料ばかりです。 #かすかべプラスワン

一つ目は「総桐二つ重ね面箪笥

粕壁の老舗の商家からご寄贈いただいたもので、現在も絶賛展示中です。桐箪笥の部位や素材の解説を詳しく書いてくれています。

二つ目は「春日部市庁舎落成記念手ぬぐい

現在の市役所が完成したときに記念に配られた手ぬぐいです。この図柄を拝借して、オリジナルのスタンプも作りました。絶賛捺印できます。

三つ目は「大正十年七月十五日粕壁町八坂神社祭典記念絵葉書

現在の春日部夏祭りの原型でもある、粕壁の八坂神社祭礼の写真絵葉書です。祭礼の写真としては、わかっている限りでは一番古い写真です。本当は10枚あるのですが、画像では一部のみ紹介しています。夏祭りの季節にでも、展示、あるいは「ほごログ」で紹介したいと思っています。

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【歴史文化講演会募集開始】11/28昭和五輪のころの粕壁と粕壁の駄菓子屋

以前お知らせしました11/28(日)開催の歴史文化講演会「昭和五輪のころの粕壁と粕壁の駄菓子屋」の参加応募受付を開始しております。

お申し込みは郷土資料館に、直接、またはお電話のほか、市役所の電子申請システムでもお申込みいただけます。電子申請の利用は定員(50名)に達するまで、申込期間内24時間可能です。ぜひご利用ください。なお、11/16現在、20名程度のお申し込みを頂いております。

春日部市郷土資料館歴史文化講演会「昭和五輪のころの粕壁と粕壁の駄菓子屋」
講師:大川明弘氏 山口俊一氏
日時:令和3年11月28日(日)10時~12時
会場:春日部市教育センター2F視聴覚ホール
定員:50名(申込順)
申込受付:11月16日(火)8:30~(定員になり次第受付を終了します。)

ご来場の際はマスクの着用をお願いいたします。また発熱などの風邪症状があるときは、ご来場をご遠慮ください。今後のコロナウイルス感染症の状況により、予定が変更されることもあります。

11/28に歴史文化講演会を開催します

春日部駅東口(昭和32年)

春日部駅東口(昭和37年・1962年、広報かすかべ古写真・かすかべデジタル写真館

 11月28日(日)午前10時から、歴史文化講演会を開催します。

講師は、粕壁出身の大川明弘先生、山口俊一先生です。今回は「昭和五輪のころの粕壁と粕壁の駄菓子屋」と題し、大川先生には、昭和39年東京オリンピックのころを中心とした粕壁の様子を写真とともに、山口俊一先生には、かつてたくさんあった粕壁地区の駄菓子屋について、イラストともにご紹介いただきます。

山口先生の駄菓子屋のイラストは、現在開催中のくらしのうつりかわり展で展示しています。くらしのうつりかわり展は、少し昔の町やくらしを紹介しています。

大川先生、山口先生は、ここ数年、近現代の粕壁地区の調査を継続的に進められています。調査の成果は、先日開催した桐に関する展示など、郷土資料館の活動に大いに役立っています。

粕壁のなつかしい、楽しいお話になると思います。ご参加をお待ちしております。

 

春日部市郷土資料館歴史文化講演会「昭和五輪のころの粕壁と粕壁の駄菓子屋」
講師:大川明弘氏 山口俊一氏
日時:令和3年11月28日(日)10時~12時
会場:春日部市教育センター2F視聴覚ホール
定員:50名(申込順)
申込受付:11月16日(火)8:30~(定員になり次第受付を終了します)

お申し込みは郷土資料館に、直接、またはお電話か、市役所の電子申請システムでもお申込みいただけます。

ご来場の際はマスクの着用をお願いいたします。また発熱などの風邪症状があるときは、ご来場をご遠慮ください。今後のコロナウイルス感染症の状況により、予定が変更されることもあります。

 

夏季展示はじまりました。展示解説講座も

#かすかべプラスワン 7月20日より夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまっています。ご来館いただいた方には展示パンフレットを差し上げています。ぜひご来館ください。

写真:展示室風景

7月25日には、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」も開催しました。

写真:展示解説講座の様子

展示担当の学芸員による今回の解説講座では、近世から現代の春日部の桐産業に関する史料を読み解きました。これまでの春日部の桐産業の歴史は、どちらかといえばあいまいにされてきた部分も多くありましたので、今回は史料に基づいて、近世から近代の桐産業の展開をたどってみました。史料とは文献・文字資料のことで、上の写真のスライドにもみえるように、くずし字の古文書も含まれます。ちょっと小難しかったかもしれませんが、受講者も講師もレジュメと終始にらめっこ。一言一句解説をしながら、受講者の皆さまと史料を解釈しました。

内容については夏季展示でも紹介しているところですが、少しだけ講座の内容を紹介。

春日部の桐産業の起源は、史料的には、天明元年(1781)までしか遡れません。天明元年の銚子口村年貢割付状(埼玉県立文書館収蔵銚子口区有文書)に、「一、戌新規 永百文 箱指冥加永」(ひとつ いぬしんき えいひゃくもん はこさしみょうがえい)とある記事が、現在判明する限りで最も古い桐産業の起源を示すものとなります。

「戌新規」とは、安永7年(1778)の戌年から新規にという意味。銚子口村では安永7年から「箱指冥加永」を「永百文」を毎年幕府に上納しているという記述です。「冥加永」とは、営業税の一種で、「箱指」とは箱・指物づくりをする職人のことを指しています。「箱指冥加永」を別の史料では「箱屋運上」と言い換えている史料もあります。同様に「箱指冥加永」を支払っている市内の村は、粕壁宿・備後村(当初は藤塚村も)であったこともわかっており、粕壁宿では、「永五十文」を毎年幕府に上納していたことが、市指定有形文化財の粕壁宿文書(埼玉県立文書館収蔵)から判明します。また、粕壁宿・備後村・銚子口村の箱指(箱差)はいずれも「農間箱指」「農業之間指物細工」などと表現された農業の合間の生業として、箱・指物づくりに従事していたこともわかります。

 実は桐細工であるかどうかはわからないのですが、このように桐箪笥・桐箱づくりの起源は、史料的には天明元年(1781)のものが最古で、安永7年(1778)より以前、市域において「箱指」がどのように存在していたのか、わからないのです。

となると、よくいわれている「江戸時代の日光東照宮に加わった工匠たちが春日部に移り住んで桐箪笥や桐箱の製造をはじめた」という起源の話は、いったいどうなるのでしょうか。解説講座では、この東照宮の工匠伝説についても言及しました。この点については夏季展示でも紹介しいるところですし、ミュージアムトーク(展示解説)でもお話する予定です。

気になる方は、ぜひ展示を見に来てください。