春日部市の概要

春日部市は、埼玉県の東部、さいたま市や越谷市の北に位置しています。江戸時代当時は粕壁宿という名で日光道中の宿場町として賑わい、古利根川を利用した船での荷物運搬も盛んに行われるなどして栄えていました。市域を国道4号線(日光街道)と16号線、鉄道では東武伊勢崎線(地下鉄日比谷線乗り入れ)や野田線などが通る良好な交通条件を持ち、古くから伝わる桐たんす・桐小箱・押絵羽子板・麦ワラ帽子などの伝統産業のまちとして知られ、後継者の育成に注力しています。


▲粕壁宿                


▲桐たんすの図面

かつて春日部周辺の地は内牧や花積の台地を残し、低地に海が入り込んでいました。紀元前3世紀ごろには海岸線は後退し、人々は農耕を中心として古隅田川や古利根川沿いに形成された自然堤防の上で生活をするようになりました。その頃の暮らしを示すものとして、内牧地区から南埼玉郡地域で最も大きな群集墳、塚内古墳群が見つかっています。古墳時代から奈良時代にかけては、市域を流れる古隅田川を境に、下総国と武蔵国に分かれていました。川沿いには古道も通っていたことから、古隅田川にまつわる在原業平の東下り伝承や梅若伝説も伝わっています。


▲業平橋(県道大宮春日部線 豊春小学校前)

平安時代、市域では春日部氏一族が台頭し、徐々に勢力を強めていきます。有力氏族だった春日部氏の館跡とされる浜川戸遺跡では、館の堀跡や建物の柱跡の他、多くの磁器・陶器が見付かっています。戦国時代には、市域は岩付太田氏の支配下にあり、その後は岩付領に組み込まれました。しかし、天正18年、豊臣秀吉の関東攻略によって岩付城は落城し、春日部周辺も戦乱で荒廃しました。


▲東鑑(吾妻鏡)寛永本 文治3年3月10日には、春日部兵衛尉が壇ノ浦の合戦における土佐国の夜須行宗の軍功の証人として鎌倉に出頭したことが記されている。これが春日部氏に関する最も古い記録。

江戸時代になり、江戸を中心に五街道が整備されると、日光道中が通っていた市域では粕壁宿が置かれ、発展していきました。粕壁宿は奥羽方面と江戸を結ぶ日光道中の宿場町として賑わい、東北地方の大名や旅人、松尾芭蕉をはじめとする文人や学者などが立ち寄ったといわれています。また、大規模な新田開発や、古利根川の堤防の整備も行われたことなどから、粕壁にある喜蔵河岸も水運の拠点として栄えました。


▲上喜蔵河岸跡現況

明治時代に入ると廃藩置県が行われ、市域は埼玉県の管轄下に入りました。江戸時代に数多く見られた旅館もわずか3軒になり、代わって織物関係、穀物商、麦ワラ帽子製造業などが現れ、商業のまちへと変遷していきます。やがて北千住から久喜まで鉄道が敷かれ、粕壁駅が誕生すると、粕壁町を南北に走る東武鉄道が重要な交通機関になり、さらに東西に総武鉄道(現在の東武野田線)も通ったことで、春日部は経済的に大きく飛躍しました。

1944年、粕壁町と内牧村が合併し「春日部町」となり、終戦後の1954年、春日部町・豊春村・武里村・幸松村・豊野村の1町4村が合併して「春日部市」が誕生しました。それから1971年には武里団地ができ、地下鉄が北春日部駅まで伸びて、東京への行き来も便利になりました。また、国道16号が開通し、内牧地区に工業団地もできるなど、現在に至るまで県東部地域の中心都市として成長を遂げました。

春日部の名前の由来は、諸説さまざまですが、この地は新田義貞の家臣であった春日部氏の領地だったことに由来するという説が有力とされています。(春日部タウンより一部引用)