関宿

関宿地区

関宿MAP


関宿地区紹介
流頭部 関宿城博物館 三軒家の鬼門除稲荷
流頭部 関宿城博物館 三軒家の鬼門除稲荷
画像のみ。画像は流頭部全景。 野田市最北端の江戸川・利根川の分岐点近くにあり、かつての関宿城天守閣部分を記録に基づいて再現した博物館。「河川とそれにかかわる産業」をテーマに様々な資料が展示されています。 関宿城の鬼門の方角にあたるところから、鬼門除稲荷として建立されたものであると伝えられていて、すぐ隣には、千葉県最北端の地点を示す三角点があります。関宿には稲荷社が多く、稲作とともに稲荷信仰が盛んであったようです。藩主が城内に祭ったことで各地区に分社ができたとも考えられ、関宿城と深い関係があったようです。
関宿城跡 光岳寺
関宿城跡 光岳寺 牧野家の供養塔
牧野家の供養塔
足利成氏が古河城に入城したときその場所は確定されていま、その重臣簗田満助が前線ラインとして配置されたのが始まり、1455年頃とされていますが、せん。江戸期に家康の弟、松平康元が関宿城に入り2万石の城下として栄えました。 慶長七年(1602)家康の異父弟松平康元がその母伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定追孝(於大の方)のために創建した浄土宗の寺院、はじめ弘経寺(ぐぎょうじ)と称しましたが、家康の命によって光岳寺となりました。寺の紋は三つ葉葵。寺域には関宿城主牧野家の供養塔や勤皇家杉山対軒の顕彰碑などがあります。於大の方は、松平広忠との間に家康を生み、織田と今川との関係の中で、やむを得ず離縁、後、久松佐渡守俊勝に嫁して康元を生むという、戦国の世に翻弄された女性の一人です。山門のそばの金大仏は、於大の方を偲んで康元が建立したもので、於大の方の遺髪が像内に入れられていると伝えられています。
鈴木貫太郎記念館 昌福寺不動堂 関宿関所跡
鈴木貫太郎記念館 昌福寺不動堂 関宿関所跡
関宿藩飛地である泉州の代官であった父の任地、大阪和泉国に生まれた翁は、廃藩置県後関宿に戻り、久世小学校に入学、その後群馬中学、海軍大学に進みドイツ駐在武官、海軍大将、総理大臣となり、太平洋戦争の終結に奔走、昭和23年に関宿で永眠した。館は翁の遺徳を偲び昭和38年に開館。 天長五年(825)の創設で、茨城県水海村から簗田河内守が移地築した真言宗の寺院。明治26年の火災で多くの寺宝を失っていますが、弘法大師の「松虫の鈴」など名宝が残されています。不動堂の周囲にある木彫も見応えのあるものです。 関宿橋の上流五百メートルがその辺りとされています。天正二年の二見文書に「関宿の渡の法度」が残されていて水運交通の関所のようなものが当時設けられたようです。水運が盛んになると、関所周辺は民家が立ち並び、元禄から享保にかけて、旧関宿周辺だけでもおよそ5万人の人口の町人の文化が華開いた町でした。
納谷の首切り塚 宗英寺 実相寺
納谷の首切り塚 宗英寺 実相寺客殿
実相寺客殿
江戸時代の刑場跡で、南無妙法蓮華経と刻まれた石碑がたっています。碑には、享和元年(1801)とあり久世家五代城主広誉(ひろやす)の時の建碑のようですが刑場ができたのがこの時であったのか、以前からその地にあって、後で石碑ができたのかは判明しません。また、ここは刑場ではなく、ここより西の利根川の河原が刑場であって首だけをここに葬ったと言う話も伝えられています。 開山は、道元の名を借りて松平康元がつとめている、釈迦牟尼如来が本尊で本堂に道元の木像が安置されている。山門の葉彫りは貴重なもの。足利晴氏の五輪の塔、勤皇家で経済学者、土木事業家の船橋随庵の墓碑、また裏手には康元の墓、足利晴氏足利公方の墓がある。 日英上人の開山になる日蓮宗の寺院で応永16年(1409)の創建。その後、長禄3年(1457)、簗田河内守成助が関宿入りした時に茨城県水海村より移転したとされ、久世氏代々の位牌がある。客殿は関宿城の一部で新御殿と呼ばれ、中雀門は唐破風づくり。太平洋戦争終戦に奔走した鈴木貫太郎翁の墓がある。また、寺の藤だなの左には、このあたりでは珍しい芭蕉の句碑が残されている。
台町庚申塔 雲国寺 吉祥寺
台町庚申塔 雲国寺 吉祥寺
千葉県で最も古い庚申塔で文化的な価値がきわめて高いものです。もともとこの地にあった寺の境内にあったものですが、今はこの庚申塔数体と古いお堂が残るのみとなっています。 下河辺荘領主佐竹刑部太夫義経によって寛政五年(1464)の創建と伝えられている。寺の前の通りは関宿城の大手門からの通りで、藩政時代の面影を今に残している。本堂の格天井には、百人一首や花の絵が極彩色で描かれており、見る者の目を釘付けにする。 吉祥寺は本町唯一の時宗の寺院で永仁三年(1295)真教上人が創建。関宿藩の時代に城鐘正午時を報ずる任を負い千石を与えられていた。寺鐘は近在で吉祥寺の割れ鐘と呼ばれていたが、太平洋戦争の時に他の寺院の鐘や光岳寺の金仏等と共に国に供出させられた。
福寿院 金龍院 内町貝塚
福寿院 金龍院
内町貝塚
真言宗の寺院で安政五年(1858)、約五百年前、法印永池の開山と伝えられている。昭和30年に江戸川の改修工事により台町に移転しており、江戸期には城主の信仰も厚く江戸町にある頃水害にあう事のないよう土盛りがなされ水塚づくりの上に本堂や観音堂が建てられていた。本堂左手の観音堂は坂東札所の第一番である。本尊の観音仏は御丈三寸五分の古銅半身座像で芸術品としての評価も高いもので、江戸町香取神社に合祀されていたのを明治40年に福寿院に奉安したものである。 鉄山林説上人の開基になる曹洞宗の禅寺で、天正11年(1583)の創設で釈迦牟尼仏を本尊としている。別院に観世音仏が祀られ安産祈願の参拝者も多い。33年毎に開帳の法要が盛大に営まれる。堂内には33体の仏像が一体となった観音像が祀られ、33箇所参りが一度にできるとして、参拝者を集めている。本尊の釈迦牟尼仏は関宿藩藩士の木村政右ヱ門の家にあったもので、多くの人に功徳を分かつためにと金龍院に奉安したものと伝えられている。 江戸川・利根川にはさまれた微高地にあり、古東京湾の入江にあったようで、江戸川が増水すると、貝塚よりも川の水位がたかくなります。貝塚は南北130メートル・東西60メートルの馬蹄形の大規模なもので、縄文期の遺物が出土していて、前期から後期の複合遺跡です。縄文式土器なども出土していますが、いままでも、陶片や貝など当時の生活の様子をうかがい知る物を見ることができます。