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☆ 8月17日(日)がんばれ!!陸上部!!
本日から沖縄県総合運動公園陸上競技場にて始まった「第52回 全日本中学校陸上競技選手権大会」。(→「全中陸上 沖縄大会ライブ配信決定!!」の告知動画はこちら:全中陸上LIVEチャンネルより)
本校からは、県通信の男子200mで全国大会参加標準記録を突破した高松悠斗さん(3年)が本日、午後3時30分頃からの予選7組第5レーンに出場します。
また、明日は県通信・県総体の共通男子4×100mRで共に1位を獲得した、古平光汰さん、飯田悠莉さん、高松悠斗さん、木村亮介さん(いずれも3年)の4名が、午前11時頃からの予選4組6レーンに登場します。
がんばる陸上部への熱い応援、よろしくお願いします!!
☆ 8月16日(土)アートの卵たちの見事な作品がいっぱい!!
8月6日(水)から森の美術館にて行われている「第4回アートの卵展」。
本校美術部員や卒業生の活躍については、既に本HPにてご紹介いたしました(→詳細はこちら)が、その展覧会初日、入賞者への賞状及び記念品の授賞式が行われました。
▼受賞者一人一人に賞状が手渡されます。
▼森の美術館の森忠行館長からのお話、さらに昨年度の南流中卒業生、美術部OBの北林さくらさんから受賞者代表の挨拶がありました。
▼受賞者の皆さん
▼受賞作品の前では受賞者本人からの解説に加え、本展覧会の事務局長でもある石原重人先生から、その作品のどんな点が素晴らしいのかについて具体的なお話がありました。
▼石原重人先生の作品や現在育休中の安井華先生の作品も、子ども達の作品を見守るように飾られていました。
▲「第4回アートの卵展」には本校美術部員の作品だけでなく、市内美術部員たちの見事な作品72点が所狭しと展示されています。この展覧会は今月末8月31日まで。なお、森の美術館の公式サイトには展示作品が動画で公開されています。どうぞご覧ください!!(→詳細はこちら:森の美術館公式サイトより)
☆ 8月15日(金)終戦の日
本日80回目の終戦の日を迎えました。この日、遠い過去に起きた戦争という出来事に思いを馳せ、平和な世界に暮らせる尊さを改めてかみしめたいと思います。
多くの尊い命を奪い、人々の暮らしを破壊し、深い悲しみと苦しみをもたらした太平洋戦争。私たちは、二度とこのような過ちを繰り返してはならない。この誓いは、過去から未来へと受け継いでいくべき私たちの責任です。
そして平和とは、単に争いがない状態を指すのではありません。それは、互いの違いを認め、尊重し、ともに支え合いながら生きる中で築かれていくもの。今を生きる子ども達にとっては、日々の学校生活もその平和を育む大切な場所だと思います。友だちと笑い合い、学びを深め、時には意見をぶつけ合いながら、互いを理解しようと努めること。これら一つひとつの積み重ねが、平和な世界をつくる第一歩となるのではないでしょうか。
戦争の悲惨さを語り継ぎ、命の尊さ、平和の尊さを心に刻むこと。未来を担う私たちは、自分たちの手で平和な世界を築いていく責任があります。この決意を胸に、明日へと歩んでいきたいと思います。
☆ 8月14日(木)陸前高田市「奇跡の一本松」を訪ねて
岩手県各地でも甚大な被害をもたらした東日本大震災。リアス海岸で入り組んだ地形の岩手県沿岸は、津波の勢いが強まり、各地で大きな被害が出ました。なかでも岩手県南東部に位置する陸前高田市は、死者1,881人、行方不明者72人と、県内で最も多くの犠牲者を出しました。
当時、流山市消防本部からも2部隊8名が「緊急消防援助隊千葉県隊」の一員として陸前高田市に派遣されていました。(→派遣当時の状況はこちら)(→派遣後の市長への報告の様子はこちら)~いずれも流山市HP「ぐるっと流山」より
▼震災前、沿岸線には2㎞にわたる松林と砂浜が広がり、夏は県内外からの海水浴客で賑わいを見せていました。7万本あったとされる松林は一本を残し津波に飲み込まれ、町は一瞬にして姿を変えました。
▼この地で震災からの復興の象徴としてそびえる「奇跡の一本松」。
▼東日本大震災津波伝承館。震災の悲劇を二度と繰り返さないために、津波の脅威や被害の様子、そして命を守るための教訓を国内外の人々に伝えます。特に「津波てんでんこ」に代表される、各自が主体的に避難することの重要性を強調しています。
被災した実物や映像、被災者の声などを展示することで、震災の事実を「自分ごと」として捉え、防災意識を高めることを目指しています。
▼東日本大震災だけでなく、古くから津波被害に見舞われてきた三陸地域の歴史や、自然と共に生きる文化も紹介。これにより、自然災害に対する知恵や技術を共有し、より災害に強い社会づくりを目指しています。
▼そもそも津波とはなぜ起こるのか。こうした説明は日本語だけでなく英語でも書かれ、国内外を問わず世界へ向け発信していきたいという、この施設の気概を感じます。
▼この地では、これまでも数多くの津波被害に遭っていたことがわかります。
▼地震発生のメカニズムを伝える映像資料。
▼東日本大震災津波の被害状況や時間経過について詳しく解説してくれます。
▼被災物がそのまま展示されています。
▼被災した消防車。消防団員の方々がまさに命懸けで救助活動などにあたってくださっていました。
▼施設の窓から見える震災遺構「タピック45」
▼高さや構造、その形状などから、巨大津波を想定して建てられていたことがわかります。
▼様々な被災物。鍵盤ハーモニカやトランペットなど、使っていた方々の心がそのまま残っているようです。
▼日本の自然災害対策について解説するコーナー、
▼国内外から寄せられた支援への感謝を伝えるとともに、震災を乗り越え、力強く復興へと歩み続ける被災地の姿を発信しているこの「東日本大震災津波伝承館]。復興への希望を共有し、社会全体の防災力向上に貢献したいというメッセージが力強く書かれています。
▼「災害と水ー水道のない避難生活を生き抜くためにー」をテーマに解説したコーナー。
▼「奇跡の一本松」も含めて、この辺り一帯が「高田松原復興記念公園」とされ、東日本大震災の犠牲者への追悼と鎮魂、震災の記憶と教訓の伝承、そして復興への強い意志を国内外に明確に示しています。この公園は、国、岩手県、陸前高田市が連携して整備。被災地全体の復興の象徴となっています。
▼海側へ向かって歩くと、大規模な堤防が整備されています。
▼東日本大震災伝承館が後ろに見えます。
▼タピック45。
▼津波で、かつて7万本あった高田松原のほとんどが流失。しかし、この美しい海岸を取り戻し、未来に津波の教訓を伝えるために、大規模な植林事業が進められました。岩手県や陸前高田市だけでなく、市民やボランティア、企業などの協力で行われたこの再生プロジェクト。2021年4月〜5月には、岩手県と合わせて合計約4万本の松の苗の植樹が完了しました。
現在は、植樹された松の木を健全に育てるための育樹(いくじゅ)の段階に入っています。草刈りや枝打ちといった手入れが継続して行われており、美しい松原の再生を目指しています。
▼震災遺構の一つ「陸前高田ユースホステル」
▼これも震災遺構の一つ「旧気仙中学校」。
▼奇跡の一本松の周辺エリア。現在と見比べると、当然のことながら大きく変化しています。
☆ 8月14日(木)南三陸町「旧防災対策庁舎」を訪ねて
東日本大震災で、大きな被害を受けた宮城県の南三陸町。当時の人口17,600人あまりのうち、死者は620 名(関連死含む)、行方不明者は221名。 住居などの損壊は4,700戸を超えました。
▼甚大な被害を被った南三陸町にある「南三陸町震災復興記念公園」。震災によって亡くなった方々の追悼・鎮魂の場として整備されています。また、震災の記憶を風化させないための施設も併設されており、さらには、震災からの復興を目指す場にもなっています。
▼この「震災復興記念公園」に、赤い鉄骨だけを残して建っているのは「南三陸町庁舎」の一つ、震災遺構である「旧防災対策庁舎」です。
▼12mほどの建物の屋上まで津波にのまれ、最後まで防災無線で避難を呼びかけた24歳の町の女性職員ら、43人が犠牲となった場所です。
▼旧防災対策庁舎は一時、遺族への配慮や管理費用の問題から解体される予定でした。その後、被災した事実と歴史を震災を知らない世代へ確実に伝えていこうと「震災遺構」として町が所有、維持管理していくことに決定。未来の命を守るために被災地の歩みは今も続いています。
▼「震災復興記念公園」の横には、たくさんの飲食店やお土産物店が軒を並べる「南三陸さんさん商店街」。そして、この地での被害状況をまとめて展示し、震災伝承の拠点となる「南三陸311メモリアル」が建てられていました。
▼「南三陸311メモリアル」には、様々な資料が展示されており、東日本大震災の被害状況を知ることができます。この震災を絶対に忘れないこと、次の世代へと受け継いでいくことの重要性が伝わってきます。
▼南三陸町の方々の復興への強い思いが伝わってくる写真
☆ 8月13日(水)震災遺構大川小学校を訪ねて
2011年(平成23年)3月11日14時46分に発生した「東日本大震災」。この未曾有の大地震に伴う津波によって、多くの児童・教職員の命が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校を見学する機会を得ました。
本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある北上川を遡上してきた津波は、河口から直線で約3.7kmの距離にあった大川小学校を襲います。当時校庭に避難していた児童78名中70名が亡くなり、4名がいまだに行方不明。また、教職員11名のうち10名が亡くなるという大惨事に見舞われました。
同じ学校に勤務する者として、子ども達の命をどう守っていったらよいのか。
この大惨事から学び、どんな時であっても、どんな場所であっても、未来ある子ども達の命を守る最善の方法を想定しておくこと。そして、それを素早く実践できるよう準備しておくこと。亡くなった方々の命を無駄にしないためにも、我々は絶対にこれらをやり遂げなければなりません。
▼現在、大川小学校は閉校。「石巻市震災遺構大川小学校」として、この悲惨な出来事を風化させないための施設になっていました。
▼正門付近。「石巻市立大川小学校」の文字が見えます。
▼校舎内部の損壊は著しく、コンクリート内部の鉄筋まで剥き出しになっています。
▼校庭。ここをたくさんの子ども達が元気に駆け回っていました。
▼大川小学校の閉校記念碑。校歌「未来をひらく」が刻まれています。命を落とした子ども達ひとりひとりにも、輝かしい未来があったはずです。
▼校庭に向かっているスピーカーは、2台とも形がゆがんでいます。きっと運動会では、このスピーカーから弾むような明るい音楽や、子ども達のアナウンスの声が聞こえていたことでしょう。
▼「地震発生から津波到達まで」の時間の流れが書かれた表示。海側からではなく、川側からの津波に襲われたことがわかります。
▼教職員・児童が避難しようとしていた三角地帯の方向から津波に遭遇しました。
▼黒板や机が見えます。「 月 日 曜日 日直 」の文字。子ども達の教室での平和な日常がそこにありました。
▼津波で亡くなった子どもたちへの追悼と鎮魂の思いが込められた「ひまわり」が様々なところに植えられています。
遺族や地元住民、ボランティアの方々によって大切に育てられているこの「ひまわり」。太陽に向かってまっすぐに伸びる力強さから、未来に希望を抱きながらも津波に命を奪われてしまった子ども達の「命」を象徴しています。また、震災で大きな被害を受けたこの場所に「ひまわり」が咲くことで、悲しみの中でも未来に向かって進んでいこうという希望や、この土地の再生を願う気持ちが表されています。
▼校舎はモダンな外観と機能的な作りであったことが説明されています。
▼「学校では、川からと陸からの津波が校庭でぶつかり渦を巻きました。(中略)想像を絶する凄まじい力が加わった事が分かります」の文字。
▼教室棟とプール棟を繋いでいたブリッジは、津波の水圧を受けて校舎側のジョイント部分で切れて倒壊しています。いかに津波の威力が凄まじいものだったか。
▼北上川河口から直線で約3.7㎞の大川小学校。学校だけでなく、周辺の町をものみ込んでいったことが説明されています。
▼体育館の床はもちろん、天井部分も見当たりません。
▼体育館のあった場所にも追悼と鎮魂の「ひまわり」が咲いていました。
▼野外ステージには、卒業制作で子ども達が描いた楽しい壁画が残されていました。
▼壁画の中には宮沢賢治の詩も書かれています。「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない・・・・・」。
▼「銀河鉄道の夜」を彷彿とする絵や有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩も。宮沢賢治の言葉の一つ一つが胸に迫ります。
▼グラウンドから校舎を眺めたところ。
▼野外ステージも激しく損壊しています。
▼プール。子ども達の明るい笑い声が聞こえてきそうです。
▼先ほどの教室棟とプール棟を繋いでいたブリッジを裏から見たところ。
▼「家庭科室」「6-1」の教室表示が見えます。
▼併設された「大川震災伝承館」。ここで起きた出来事を決して忘れないように未来永劫語り継ぐための施設です。
▼校庭の片隅には震災の慰霊碑が佇んでいました。
☆ 8月12日(火)南流中がCMに登場!!
テレビドラマや映画、ミュージックビデオなど、様々な映像メディアの撮影舞台にもなっている南流山中。今度はCM撮影も行われ、YouTube上で公開されています。
元大学の施設だけあって、大学に見立てた設定での撮影が行われました。
C棟の3階教室や昇降口、E棟の昇降口、中庭などが使用されています。どうぞご覧ください!!
☆ 8月11日(月)陸上の関東大会が動画公開されています!!
8月7日(木)と8日(金)に栃木県宇都宮市のカンセキスタジアム栃木にて行われた「第53回関東中学校陸上競技大会」。
本校陸上部員が出場した3種目(共通男子200m・1年男子100m・4×100mリレー)の予選と決勝の様子が、YouTube上の「陸上 Track & Field」にて動画公開されています。どうぞご覧ください。
◆共通男子200m(→予選:3組5レーンの高松さん出場シーンは3分47秒~/決勝はその後すぐ:高松さんは5レーン)
◆1年男子100m(→予選:3組5レーンの樋渡さん出場シーンは3分13秒~)(→決勝はこちら:樋渡さんは1レーン)
◆4×100mリレー(→予選:2組3レーンの南流中出場シーンは2分47秒~)(→決勝はこちら:南流中は8レーン)
☆ 8月10日(日)臼井さん、関東大会7位入賞!!
8月7日(木)から9日(土)までの3日間、新習志野の千葉県国際総合水泳場にて「第49回関東中学校水泳競技大会」が開催されました。
本校からは臼井さん、嶋さん、國本さんの3名が予選を勝ち抜き出場。100m平泳ぎに出場した臼井さんは7位入賞を果たすなど、大活躍!! また、嶋さんと國本さんも、入賞こそ叶わなかったものの、全力を出し切り見事な泳ぎを披露してくれました。これからの3人の活躍にもますます期待がかかります!!
なお、結果は次の通り。
◆臼井 秀さん(3年)・・・50m自由形14位/100m平泳ぎ7位 ◆嶋 羽海さん(3年)・・・400m自由形28位/100m自由形43位 ◆國本杏珠さん(2年)・・・200m個人メドレー50位/400m個人メドレー26位
▼臼井さん
▼嶋さん
▼國本さん
▼本当によく頑張った特設水泳部の3名
☆ 8月 9日(土)長崎を最後の被爆地に
第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、今から80年前、1945年(昭和20年)の今日、8月9日午前11時02分、長崎市に原爆が投下されました。
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、1945年12月末までに73,884人の尊い命が失われ、74,909人が負傷。また、原爆の熱線・爆風・放射線による病気(原爆症)がその後も人々から平穏な生活を奪います。生き残った方々の中には、今なお苦しんでいる方々がいらっしゃいます。
本日、午前10時40分から行われた「被爆80周年 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」。
永遠に「長崎を最後の被爆地に」。平和宣言の中でもそう謳われています。そのために我々はどんな行動をしていくのか。
原爆投下当時、南流中生と同じ中学生だった被爆者代表、西岡洋さんの「平和への誓い」をかみしめたいと思います。
平和への誓い(全文)
1945年8月9日、私は爆心地から3.3kmの県立長崎中学校の校舎内で被爆しました。13歳の時でした。
「敵大型2機、島原半島を西進中」という西部軍管区の放送を生徒が大声で職員室に向かって報告しているのを聞いてから、何分も経たないうちに敵機の爆音が聞こえてきたかと思うと、その音が急に大きくなりました。次の瞬間、身体がすごい光に包まれ、私は「学校のテニスコートに爆弾が落とされた」と思い、小学生の時から訓練されていたとおり、目と耳を塞いだ姿勢を取り、床に伏せました。
爆発の瞬間は、オレンジ色と黄色が混じったような光の海の中に一瞬全身が埋もれたような感覚でした。続いて、すさまじい爆風で窓ガラスが破壊され、私は部屋の隅に頭を抱えて転がり込みました。その上に級友が折り重なってきたため、その体重で息もできない有様でした。しかし私は級友たちの下敷きになったおかげで、無傷で済んだのです。級友たちはナイフのように尖った割れた窓ガラスが体に刺さり、血だらけになっていました。
さらに外を見渡すと、家々は壊れているのに火災は全く起きておらず、煙すら上がっていないのに、浦上地区には大きな火柱が上がっている。一発の爆弾だったはずなのに広範囲に被害が及んでいるのはどうしてかと、不思議に思いました。
その後、学校の防空壕に二時間ほど避難していたでしょうか。もう大丈夫だろうと、帰宅の途についた道は避難してくる人たちであふれかえっていました。
火傷か切り傷なのかわからない血まみれの男性。顔から血を流している赤ちゃんを抱いて歩く母親。腕が切れて垂れ下がっているのではないかと思われる人。こういう人々が中川町から蛍茶屋の方向に群れをなして歩いてくるのです。薄暗い雲が長崎の空一面を覆い、辺りは夏の真昼だというのに、あたかも日食のようでした。
こうして8月9日が過ぎ、戦争が終わりました。この爆弾が原子爆弾というものだと知らされたのは戦争終結後のことでしたが、原爆の恐怖はさらに続きました。それは原爆による後遺症です。爆心地付近にいたけれども、頑丈な塀で守られ、軽傷で済んだ人や、地下工場で仕事をしていて無傷で帰宅した人たちもいました。ところが、それらの幸運な人たちも、次第に歯茎から出血し、髪の毛が抜け落ちて次々に亡くなっていったのです。薬もなく、治療方法も分からず、戦争が終わったというのに原爆は目に見えない恐怖をもたらしたのです。
昨年、私が所属する「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞しました。これは私たちの活動が世界平和の確立に寄与していることが評価されたということに他なりません。そして、この受賞を契機として、世界中の人々が私たちを見てくれていることに大きな意義を感じました。
平和に繋がるこの動きを絶対に止めてはいけない、さらに前進させよう、そして、仲間を増やしていくことが、私たちが目標とするところです。
絶対に核兵器を使ってはならない、使ったらすべてがおしまいです。
皆さん、この美しい地球を守りましょう。
令和7年8月9日 被爆者代表 西岡 洋
▲南流中生の活躍を、その成長を目の当たりにできるのも、「平和な世の中」があってこそ。全ての大前提となる「平和な世の中」を次の世代、その次の世代へと、未来永劫受け渡していくことは、今を生きる我々の義務ではないでしょうか。