2020年12月の記事一覧
12/26(土)「考古学講座ー権現山遺跡を探る」
12月号の広報かすかべでお知らせしました「考古学講座ー権現山遺跡を探る」につきましては、多くの方にご応募いただき、本日で当初定員の24名に達してしまいましたので、会場を変更し、定員を増やします。日程等については下記のとおりです。
日時:令和2年12月26日(土)10時から12時
場所:春日部市教育センター(粕壁東3-2-15)2階視聴覚ホール
内容:東中野の古墳時代の遺跡「権現山遺跡」について埋蔵文化財発掘調査報告書などを使って学ぶ
定員:54名(申込順)
申込:春日部市郷土資料館に直接、またはお電話(048-763-2455)でお申し込みください。
*12月10日から申込を受け付け、11日午前11:00現在、26名の方にお申し込みいただいております。
権現山遺跡出土底部穿孔壺形土器
(埼玉県指定文化財、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で常設展示中)
権現山遺跡については、こちらの記事もご参照ください。
権現山遺跡の底部穿孔壺形土器『新編図録春日部の歴史』からーその8
暮れの押し迫った時期の開催ですが、大掃除の合間などにぜひご来館いただければ幸いです。
【12/8~12/12武里地区公民館出張展示】一ノ割から武里の流路跡と自然堤防
12月8日(火)~12日(土)、武里地区公民館の会場をお借りして「武里のむかし・春日部のむかし」と題し、出張展示を行います。
概要は以下の通りです。
郷土資料館出張展示「武里のむかし・春日部のむかし」
日時:令和2年12月8日(火)~12日(土)9時~17時
*最終日の12日(土)は14時まで
会場:武里地区公民館3階研修室2
*12月10日(木)、10時と15時から、資料館学芸員が展示解説を行います。(先着15名様)
◎期間中、武里地区公民館は「たけさとBunkaウィーク」が開催され、各種行事が行われます。
武里地区公民館ブログ から、パンフレットなどをご確認ください。
さて、出張展示の会場となる武里地区公民館の北西側の道は、一ノ割駅南側から武里駅北側まで続く自然堤防に沿って走っています。
武里地区公民館北西の道路
国土地理院発行の治水地形分類図をみると、この道の西~南側には、古利根川がかつて大きくカーブしながら流れた流路跡の存在がわかります。
国土地理院発行の治水地形分類図(更新版)に加筆
青の斜線部分が流路跡、黄色の部分が自然堤防
(*治水地形分類図は、「地理院地図(https://maps.gsi.go.jp)」からインターネット上で確認できます。)
一ノ割から武里に続く流路跡や自然堤防は、実際にその地形の現地を歩いてみると、道路がわずかな坂道となっていたりすることでわかります。今回の武里地区公民館の展示では、この流路跡と自然堤防についてのパネルも用意して、皆様にご紹介します。
どうぞ、ご来場ください。
武里地区公民館西側の道路(写真中央が流路で武里地区公民館方面へ向かってわずかな坂になっている)
豊野・藤塚橋は歴史ある橋(広報補足その6)
引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #古利根川 に架かる #藤塚橋 について。 #かすかべプラスワン
藤塚橋の架橋が計画されたのは、昭和6年(1931)11月のこと。大正15年(1926・昭和元年)10月に一ノ割駅が開業し、駅と豊野村を結ぶ架橋の要望が高まったことが直接の背景でした。昭和8年(1933)5月8日に架設されます。
藤塚橋は、木造の橋で、幅は3.63mしかなく、当然大型の車両は通行できませんでした。当時の貴重な写真が伝わっています(藤塚小郷土資料室所蔵)。
昭和17~18年藤塚橋
昭和25年ごろ藤塚橋
藤塚橋は当時、賃取橋(ちんとりばし)といって、有料の橋でした。現代的な感覚では、橋を渡るのに、なぜお金がかかるのか、と思いますが、当時は橋は地元の人たちが私費を投じて架橋した公共物でないものが多く、橋の維持管理費を賄うため、通行料を徴収する必要がありました。
その後、藤塚橋は、昭和29年(1954)の市制施行のときに春日部市に買収され、公共物となり、無料で渡れる橋となり、昭和40年(1965)にコンクリート製の橋に架け替えられ、現在に至ります。昭和40年の渡り初めの時の写真がこちらです。ちなみに、藤塚橋のたもとには、昭和40年の架け替えを記念し、橋の由来を刻んだ石碑が建てられています。
橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。
市内を見渡すと、江戸川・庄内古川・古利根川・古隅田川のいずれにも、もともとは渡船場で、その後継として橋が架けられる例が散見されます。以前紹介した、江戸川の宝橋(西宝珠花ー東宝珠花・宝珠花の渡し)のほか、古隅田川の十文橋(粕壁ー梅田・十文渡し)、古利根川の八幡橋(粕壁ー八丁目)、古利根川橋(赤沼ー平方・戸崎の渡し)、庄内古川の永沼橋(藤塚ー永沼・永沼の渡し)、倉田橋(赤沼ー赤崎・倉田の渡し)などです。このほか、古くからの橋も元々渡河点だった可能性があります。
車優先社会の現代にあっては、交通渋滞を緩和させるため、幹線道路が整備され、いとも簡単に新たな橋が架けられ、私たちは橋に対してありがたみをあまり感じることが少なくなっています。藤塚橋を含め、現在も残る歴史ある橋は、河川で地理的に隔てられた両岸の人々の交流の結節点=渡船場の後継として架橋されたものといえるでしょう。地元の方々が架橋や維持に苦心され、両岸の人々をつないできた歴史ある橋であることを知れば、少々渋滞してもイライラしないかもしれません。
次回は、南桜井の時計工場について紹介します。
参考文献 『歴史の道調査報告書 利根川の水運』(埼玉県教育委員会、1989年)