2022年1月の記事一覧
【近隣館の紹介】 #白岡市 生涯学習センター #歴史資料展示室
先日、他市町との打ち合わせのため、白岡市生涯学習センター歴史資料展示室にお邪魔しました。繰り返しいいますが、当館のような小さな館は、近隣の博物館さんと助け合い、支え合いながら日々運営しています。今回は近隣館の白岡市生涯学習センター歴史資料展示室さんを紹介してみたいと思います。
白岡市生涯学習センター歴史資料展示室は、生涯学習や地域コミュニティ・文化創造の拠点として、図書館機能、生涯学習機能、そして資料館機能を備える複合施設・白岡市生涯学習センター(愛称「こもれびの森」)内に平成30年10月に開館した施設です。
歴史資料展示室では、地域文化財の調査・研究に基づく収集・保存・管理・活用を包括的に行い、さらに白岡市の歴史や伝統文化を発信、次代へ継承するため、旧石器時代から現代までの白岡のあゆみを常時展示しています。
展示室は小さいながらも、各時代を象徴する重要な資料が展示されています。資料保存の観点から、複製品も多いのですが、複製と言われなければ気づかないほど精巧なレプリカが多く、見劣りはしません。むしろ、見栄えのする立体物が多いので見応えがあります。
近世史を専門とする紹介者が気になるのは、新井白石ゆかりの資料。新井白石といえば、江戸時代6代将軍家宣のもとで侍講として辣腕をふるった歴史上著名な学者です。
彼は、はじめ甲府藩主徳川綱豊(のちの6代将軍家宣)の侍講でしたが、綱豊が将軍綱吉の養子となるや、幕府の直臣に取り立てられ、宝永6年(1709)7月に武蔵国埼玉郡野牛村(現白岡市野牛地区)などを知行所として与えられました。その後、加増をうけ、新たな知行地を与えられる一方、当初の領地であった武蔵国比企郡の地を返上し、その代わりに相給支配(他の領主と分割支配)されていた野牛村の全てを領することになりました。著書「折りたく柴の記」には「ここにおいて、野牛一村の地ことごとく我領となりたり」と綴っていることから、白石の野牛村への強い思いがうかがえます。新井家は以後、野牛村を知行としたため、地域とゆかりが深く、白石の肖像画をはじめ、ゆかりの品が地元に伝わっています。また、新田開発のために掘削した堀を地元では「殿様堀」とか「白石(様)堀」と呼び、領地である野牛村の発展に力を注いだ白石の事蹟を伝えています。近代には白石公顕彰会が組織され、白石の命日にあたる5月19日には毎年、白石の肖像画を掲げ、報恩供養が営まれたそうです。
白石は、犬公方こと5代将軍綱吉時代の悪政を粛正した優れた政治家と評価されます。将軍の側用人間部詮房のもと、白石が政治のブレーンとなって提言した一連の政策は「正徳の治」と称され、白石の思想性に特色づけられています。武家諸法度を全文改定したり、朝鮮からの国書に将軍を「日本国王」と記すようにさせてたり、個人的には一癖ある人のイメージです。
少し春日部の話題に引き付けて言えば、正徳6年(1716)4月15日、日光海道・甲州海道を「海」がないから、日光道中・甲州道中と表記すべきというが法令が令達されました。理にはかなっているのですが、いちゃもんです。以後、公式には「日光道中」の表記が使用されますが、実際は地域に伝わる古文書では「日光海道」と表記する文書も散見されます。この「海道」表記に関する法令については、詳しい政策決定過程は明らかにされておりませんが、文書の表記などにこだわった、当時の政治のブレーン白石が関わっていた可能性が想像されます。知識や能力もあり、体系的で理にかなってはいるのですが、ちょっとうるさい感じ。でも、野牛の地を豊かにするために熱意をもって領民を統治したことが、後世に伝えられ、今も白岡ゆかりの偉人とされていますので、この考え改めなければなりませんかね。彼の著書「折りたく柴の記」を読み直してみようと思わせる展示です。
展示室には、「新井白石の肖像画」をモチーフにした来館記念スタンプが用意されています。ありがたい「白石様」をお持ち帰りいただけます。人物の肖像画があるってうらやましいです!
毎月第3土曜日には、「ハンズオン・デー」として学芸員による解説をまじえながら、実際に資料に触れるイベントが開催されているそうです。展示室目当てでなくとも、図書館などの利用者も訪れ、大変にぎわうとか。
展示や普及事業のみならず、見習いたい点がもう一つあります。それは、研究紀要を年次刊行していること。学芸員や有識者の方が、白岡の資料に向き合って調査研究した成果が満載です。調査研究があって、はじめて展示・活用ができるお手本のような取り組みです。当館を含め、『紀要』を発行していない県内の地域博物館も見習わなければなりません。
そうした重厚な調査研究に裏打ちされた歴史資料展示室、ぜひ刮目ください。
郷土資料館体験ワークショップを開催しました
令和4年1月23日(日)に、郷土資料館体験ワークショップ「からくり屏風を作ろう」を開催しました。
新型コロナウイルスが気になるところですが、先日、郷土資料館に設置した空間除菌装置にも活躍してもらい、感染拡大防止対策を強化しての開催です。
空間除菌装置稼働中!
まずは蓄音機でのレコード鑑賞です。
こちらの蓄音機は電気を使わず、ゼンマイで動く仕組みになっています。音の出口となる開口部を開閉することで、音量を大きくしたり小さくしたりすることも可能なんですよ!
本来であればここで紙芝居の時間なのですが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、滞在時間を短くし感染リスクを低減するために本日はカットしました。
おもちゃ作りは「からくり屏風」です。
2枚の板をくるくる回すと、4枚の絵が現れる不思議なおもちゃです!
からくりの仕組みも、覚えてしまえば意外と簡単にできるのでオススメです♪
上手にできましたね♪喜んでもらえたようで何よりです!
最後はお土産にオリジナル缶バッジ作りです。
今回のバッジはからくり屏風で遊ぶ“ぐうすけ”です!
からくり屏風の絵が“うめわかくん”になっているのもポイント♪
次回の体験ワークショップは令和4年2月20日(日)に開催予定です。詳しくは広報誌等でご確認ください。おもちゃは「ペーパーローリング」を作るのでお楽しみに!
郷土資料館は適宜換気や消毒を行っております。また新型コロナウイルス感染拡大防止のため、場合によっては人数制限や、時間帯をずらして開催するなどの対応を行いますのでご了承ください。次回もお待ちしております!
西金野井の花蔵院で”文化財防火デー防災訓練”を実施しました
本日1月22日(土)に市内の江戸時代を代表する建造物、『花蔵院の四脚門』(県指定有形文化財)を対象に防災訓練を行いました。
昭和24年1月26日に発生した国内最古の木造建造物であった奈良県斑鳩町の法隆寺金堂が火災により焼失したことを受けて、毎年この日を中心に全国各地で文化遺産を対象に防災訓練が実施されてます。
花蔵院の住職をはじめ、役員、ご近所の皆様が参加され、消防本部への火災発生の通報、文化財の搬出、バケツリレーによる初期消火を機敏に確実に行い、不時の災害への備えとして取り組んでいただきました。
また、消防本部予防課と庄和消防署の協力により、通報訓練や水消火器を用いた消火訓練、煙体験と、実際の火災や災害に備えた訓練も体験いただきました。
参加された皆様からは、「煙が充満した時の怖さを身をもって体験した」、「消火器を実際に取り扱ってみると噴射時間が短く効率的に操作しなければ」との感想が聞かれ、訓練の体験をとおして災害への備えを改めて考える機会となったようです。
花蔵院住職、役員の皆様、そして庄和消防署、消防本部予防課のみなさま、寒い中、参加いただきありがとうございました。これからも所有者と地域の皆様との連携・協働をとおして貴重な文化遺産を未来に確実に残し伝えられるよう、ご協力をお願いいたします!!
初春の獅子舞の公開ー銚子口の獅子舞ー
穏やかな新春の陽ざしの中、1月16日(日)の午前に銚子口香取神社で市無形民俗文化財「銚子口の獅子舞」が2年ぶりに公開されました。
『家内安全』『疫病退散』『五穀豊穣』を祈願し、例年、新春の舞では5演目以上が披露されますが、このコロナ渦での祭礼のため、三匹獅子による地区内の安泰祈願を祈る「幣掛り(へいがかり)の舞」の1演目となりました。当日は獅子からのご加護をと、多くの皆さまが足を運んでいただき、獅子舞を継承する保存会の皆さまも「多くの演目を披露したいが、感染防止の観点から1演目とした。しかし少しでも地区内のコミュニティに貢献できればと、この機会を設けて良かった」と感想いただきました。
多くの方々に見守っていただいている”獅子舞”はやはり「地域の宝」であることを保存会のみなさまと共に改めて認識しました。
今後も文化財を継承する皆さまへの温かい応援、よろしくお願いします!!
いつも目にする路傍の石仏なんて書いてあるの!?
先日、市民の方よりお問合せいただきました。割と「あるある」なレファレンスなのですが、春日部市では、残念ながら石造物の悉皆的調査ができておりません。即答できるか、内心いつもドキドキしています。 #かすかべプラスワン
問題の石仏は、最近開園した「県営春日部夢の森公園」のすぐそば。下大増新田地区に所在します。
この石造物、以前紹介した『埼葛の道しるべ』に辛うじて収録されており、道しるべとして機能していたことがわかりました。ただ、『埼葛の道しるべ』では道しるべとしての文字を解読するのみであり、石造物の全容がよくわかりません。お問合せも、道しるべではない部分について解読できないというものでした。
館では調べる手立てがないので、現地へ見に行ってきました。
交通量もそこそこある交差点にたたずんでいます(赤矢印)。
正面からみるとこのような感じです。
上の部分には仏さまがあしらわれています。摩滅して委細わかりませんが、おそらく地蔵菩薩ではないかと考えられます。問題の文字は下段の方形部分の正面と両側面に、以下の通り刻まれていました。
(正面)
文化三寅[ ]四日
観壽妙見信女 南 のじま
こしがや
秩父
奉納 西国 供養塔
坂東
紅月妙童信女 北 かすかべ
享和三亥[ ]廿二日
(左側面)
文化三寅四月廿四日
智玉童女 東 よこて
幻夢童女 のミち
文化三寅五月七日
(右側面)
文化四卯三月吉日
下大増邑
[(施主)]木村氏
以上から次のことがわかります。
- この石造物は、文化4年(1807)3月、下大増村(下大増新田)の木村氏により造立されたものである。
- 基本的な性格は、秩父33か所・西国34か所・坂東33か所の巡礼の供養塔である。
- 享和3年(1803)には紅月妙童信女、文化3年(1806)には観壽妙見信女、智玉童女、幻夢童女が亡くなっている。いずれも女性で、「童女」は女児であり、造立者木村氏の縁戚者とみられる。
- おそらく、相次いで縁戚者が亡くなったため、木村氏は諸国巡礼をし、供養塔を建てたと考えられる。
- 供養塔は村の辻に建てられたため、道しるべも兼ねた。正面には「北 かすかべ」(北方は粕壁宿)、「南 のじま こしがや」(南方は野島村・越ケ谷宿)、左側面には「東 よこて のミち」と方角が刻まれています。
石造物が方位を示す南北の道は、上大増新田、下大増新田のメインストリートで今も旧家が並んでいます。粕壁や越ヶ谷といった町場へ続く道でもありました。
ただ、よくわからなかったのが「東 よこて のミち」です。「よこて」とは、漢字では横手と書くのでしょうか。いろいろ調べましたが大増の周辺には横手という地名を見出せませんでした。「のミち」も「野道」なのか、「横手の道」と読むのか、わかりません。横手は「横の方」という意味があるようですので、村から横の方向へ行く(野)道というような意味になりましょうか。お分かりの方がいらっしゃいましたら、そっと教えてください。
今回の石造物からは、縁者の女性、女児が立て続けに亡くなるなかで、当時は命がけでもあった諸国巡礼をして彼らを供養しようとする下大増村(下大増新田)の先人の暮らしが読み取れました。「よこてのミチ」については謎ものこりましたが、現在もそこそこ交通量のある道が江戸時代の大増のメインストリートだったことを示しています。
何気なくたたずむ、路傍の石仏ですが、地域の歴史や庶民の暮らしを物語る貴重な資料です。見慣れた風景でも、石造物を丁寧に読み解くことで、また違って見えてくるのではないでしょうか。
市内の石造物を網羅しているわけではありませんが、路傍の石造物を調べる手はずとなる資料は以下の通りです。『埼葛の道しるべ』以外は市の図書館に架蔵されています。
- 『春日部の庚申塔』(春日部市教育委員会、昭和51年刊)
- 『春日部の板碑』(春日部市教育委員会、昭和53年刊)
- 『埼葛の道しるべ』(埼葛地区文化財担当者会、平成8年刊)
- 『春日部市の神社(上巻・下巻)』(春日部市教育員会、平成14・15年刊)
- 『庄和町史編さん資料十一 石造物Ⅰ』(庄和町教育員会、平成16年刊)
- 『庄和町史編さん資料十七 石造物Ⅱ』(春日部市教育員会、平成22年刊)
- 『庄和の百神~石仏伝説編』『同~石仏信仰編』(庄和高等学校地理歴史研究部、平成4年刊)
新しいおもちゃが増えました♪
郷土資料館には皆さんに遊んでいただける昔のおもちゃコーナーがあります。
新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から数を減らしていますが、紙でっぽうや、ぶんぶんゴマ、万華鏡など懐かしのおもちゃが揃っています。
そんなおもちゃたちの中に、本日新たな仲間が加わりました!
それがこちら
ビー玉転がしです!
お菓子の空き箱や使用済みの段ボールなどを利用して、手づくりしてみました。
「こんなのあったな~」なんて思い出してくださる方も多いのではないでしょうか。
実際に遊んでみると、実に難しい!大人でも簡単にはクリアできません!
でもその難しさがクセになるんです♪集中して、ゆっくり箱を傾けてビー玉を転がすのがコツですよ。
私も小さい頃、初めてビー玉転がしを遊んだ時には全くクリアできず、悔しい思いをしたものです。今の子にもそんな悔しさや、クリアした時の達成感を味わってもらえたらうれしく思います。
おもちゃを使ったあとは消毒をしますので、使用済みおもちゃのカゴに入れておいてくださいね。
外は寒く、コロナの状況もあり、外出を控えていらっしゃる方も多いかと思います。十分に注意していただいた上で、よろしければ新作のおもちゃを遊びにきてください。
【体験ワークショップ】からくり屏風をつくろう!
1月23日(日)に体験ワークショップを開催します。
体験ワークショップでは、紙芝居、蓄音機の上演、昔のおもちゃづくりをします。
今回つくる昔のおもちゃは「からくり屏風」です。
2枚の板に貼られたかわいらしいパンダの絵♪
折りたたんで・・・
開いてみると・・・
ニャンと!ネコの絵になりました!
さらにはペンギン、ヒツジの絵にもなっちゃいます!
2枚の板から4枚の絵が現れる不思議な“からくり屏風”!みんなで一緒に作ってみましょう♪
申し込み不要、おもちゃの材料も資料館で用意しております!
当日の午前10時30分と午後2時からの計2回開催しますので、お時間までに郷土資料館にお越しください!
【体験ワークショップ】
日時:令和4年1月23日(日)午前10時30分~・午後2時~
場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)
内容:紙芝居と蓄音機の上演
昔のおもちゃづくり(からくり屏風)
費用:無料
申込:不要(開催時間までに郷土資料館におこしください)
※参加者多数の場合、人数制限をさせていただく場合がございます。当日はマスクを着用いただき、体調が優れない場合は参加をお控えください。
【謹賀新年】 #寅年 の古文書
新年あけましておめでとうございます。今年も「ほごログ」春日部市郷土資料館をどうぞご贔屓に。新年一発目は、縁起担ぎに「 #寅 」ゆかりの資料を紹介。 #日光道中 #粕壁宿 の成立を考える上で興味深い資料です。 #初詣 #寝正月 の暇つぶしにどうぞ。
この古文書は「武州文書」(国立公文書館の内閣文庫蔵)に収録されているものです。「武州文書」とは、文化年間(1804-18)「新編武蔵風土記稿」の編纂資料として、江戸幕府の役人が調査・模写した中世から近世初期の文書約1400通が収録されている資料です。
「新編武蔵風土記稿」や「武州文書」によれば、この古文書は粕壁宿の九左衛門家に伝来したものであるといいます。現在、判が押されている原本は残念ながら散逸してしまったようですが、郷土資料館では九左衛門家の末裔の方から写しをお預かりして大切に保管させていただいています。
さて、前置きが長くなりましたが、古文書には次のように記されています。
糟壁新宿
任先判故ハ、早々
自前々居住之
者共相集、定
成ケ之儀厳密ニ
可致沙汰者也
寅九月十二日 高力(印影)
図書
弾正
(本文読み)かすかべしんじゅく、せんぱんにまかすゆえは、そうそうまえまえよりきょじゅうのものどもあいあつめ、さだめなりかのぎ、げんみつにさたいたすべきものなり(古文書の読みについては『春日部市史古代・中世史料編』による)
この文書は、岩槻城主の高力清長(こうりききよなが)が、寅年九月十二日に図書(ずしょ)と弾正(だんじょう)という人物に宛てたものです。高力は徳川家康が関東に入部した直後の岩槻城主でした。文面から、高力が戦国期に戦災で疲弊した糟壁新宿の再建するため、離散した住民を集め、年貢(定成ケ)を納めるように命じたものと解釈できます。宛名の図書は、元新宿に拠点をもった土豪関根図書助(ずしょのすけ)。弾正は『新編武蔵風土記稿』によれば、市野割(一ノ割)に拠点をもった土豪大熊弾正であると考えられます。すなわち、両名に「糟壁新宿」の復興を命じていることから、当時、人馬を継立する宿駅は、元新宿・一ノ割近辺(現・大池通り)に所在したものと推測されています。
さて、今回の焦点は「寅年」です。古文書の年代の部分を抜き出すと、
「九月十二日」の肩にカタカナの「ア」のような字(「刁」)が書かれていますが、これが「寅」(異体字。別の書き方)です。
字は「寅」で間違いないのですが、寅とあるだけで、いつの寅年なのでしょうか。これまで、①天正18寅年(1590)説、②慶長7寅年(1602)説が唱えられ、意見が分かれるところでした。
ただ、高力清長は、所領を慶長4年(1599)に嫡孫の忠房へ譲っていることから、天正18年説が有力であると考えられます。郷土資料館では天正18年説を推しているのですが、未だに慶長7年説だとおっしゃる方もいます。
しかし、最近、粕壁の九左衛門家に伝来する系図に接する機会がありました。系図によれば、戦国期から近世初頭の関根図書助と比定される人物は慶長5年(1600)3月没と記されています。したがって、②慶長7年(1602)説は成り立たず、①天正18寅年(1590)説が最有力であるといえるでしょう。
ちなみに、私たちが粕壁宿と呼んでいる現在の春日部駅東口(春日部大通り)の町並みは、慶長16年(1611)に町割りがされ、六斎市が立てられたとの記録が残っています(『春日部市史近世史料編Ⅱ』p702)。関根図書助の後裔は、おそらく慶長16年以降に元新宿から粕壁宿の新宿に移住し、東八幡神社と真蔵院を現在地に移したと考えられます。ですから、粕壁宿は江戸時代に成立した宿場であり、戦国期には、元新宿や一ノ割に中世的な宿場「糟壁新宿」があったと想像できるのです。
わずか12年の違いですが、「糟壁新宿」が成立した「寅年」を①家康入部直後、②関ケ原戦い以後のどちらかで理解するかは、春日部の歴史にとって大変意義深いことなのです。
思い返せば、昨年はおととしに引き続く新型コロナウイルスの猛威もあり、大変な一年となりました。上の古文書をみれば、春日部にとって「寅年」は復興・再建元年といえるでしょうか。
今寅年が皆様にとって、実りのある一年でありますように。令和4寅年 元旦