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小渕・観音院の聖徳太子立像

夏季展示「桐のまち春日部」展で展示中の聖徳太子立像(小渕・観音院所蔵)は、同展の目玉資料の一つです。今回は春日部の桐細工との関わりについて、ご紹介します。 #かすかべプラスワン

 写真:聖徳太子立像

小渕の観音院は、正式には小淵山正賢寺観音院といい、市内では現存する唯一の本山修験宗の寺院です。鎌倉時代中頃の正嘉2年(1258)建立とされ、市内最多の7躯の円空仏(小渕観音院円空仏群・県指定有形文化財)、元禄年間(1688-1704)建立と伝えられる小渕山観音院仁王門(市指定有形文化財)など、春日部のあゆみを理解する上で貴重な文化財を伝えています。イボ・コブ・アザなどにご利益のある「イボトリ観音」として古くから信仰され、5月の大型連休中に円空仏を開帳する「円空仏祭」や「四万六千日祭」(8月10日)などの年中行事に加え、近年はさまざまな催し物を織り交ぜたイベント「寺フェス」などを催し、寺院の新たな役割を模索しています。 

小渕の観音院に伝わる聖徳太子立像は、木造で厨子におさめられ、普段は本堂に安置されています。太子像は、髪を角髪(みずら)に結い、鳳凰丸紋(ほうおうまるもん)の朱華(はねず)の袍衣(ほうい)に袈裟(けさ)をかけ、柄香炉(えごうろ)を持っています。これは、父の用明天皇の病気平癒を祈った16歳の姿といわれ、孝養太子と呼ばれています。

観音院には、江戸時代、境内に太子堂があり、この中に安置されていたものと考えられます。

天保13年(1842)「小渕太子堂奉加帳」(市指定文化財)によれば、観音院の太子堂は、もともと宝暦5年(1755)に近隣の職人が講銭を集め、粕壁の八幡宮の宝殿に造営されたもののようです。経緯は不明ですが、その後、観音院に太子堂が移されたようです。天保13年、観音院と小渕村の職人たちは、この太子堂を修復するために近隣の職人などに寄付を募りました。この寄付台帳が「小渕太子堂奉加帳」です。奉加帳には、大工・木挽・建具屋など、市域周辺の250名余りの職人の名前が記録されています。このなかに、春日部の桐細工の起源とも考えられる、指物屋・箱屋の署名がみられます。箱屋と指物屋の区別は明確ではありませんが、いずれも木組みをして箱・長持・箪笥類を細工・製造した職人と考えられます。市域では、粕壁宿に箱屋9名、小渕村に箱屋1名・指物屋2名、樋籠村に指物屋1名、牛島村に指物屋3名、藤塚村に箱屋2名、指物屋1名、銚子口村に箱屋2名、備後村に箱屋1名が確認され、広範に職人が存在していたことがわかります。

写真:小渕太子堂奉加帳

聖徳太子は、四天王寺などを建立した事績から、各地で建築や木工の祖として崇められていました。春日部市域では残念ながらたどれませんが、県内では箪笥職人などが「太子講」という聖徳太子を信仰する講が組織される例があります。この「小渕太子堂奉加帳」により、観音院の聖徳太子像は、春日部の桐細工職人らに信仰されていたと考えられ、「講銭」が集められたという記述から、市域でも「太子講」に近い組織が存在していたことがうかがえます。

そういうわけで、観音院の聖徳太子立像は、春日部の桐細工の歴史に深く関わる資料といえます。桐細工の歴史を物語る資料は、紙の資料が大半を占めてしまいますが、数少ない立体の展示資料として、鮮やかな彩色も伴い、展示に華を添えています。

写真:聖徳太子

今回、観音院の「聖徳太子立像」と「小渕太子堂奉加帳」が初めて一同に会しています。展示室の照明の都合から、厨子から出した状態で「聖徳太子立像」を展示しています。像を単体で鑑賞いただけるのは、9月5日まで。あとわずかです。この機会に、ぜひともご覧ください。そういえば、今年は聖徳太子御遠忌1400年だそうです。

桐のまち春日部展に野原ひろし登場!

「語りだしたらキリがない!桐のまち春日部」展の開催を期して、 #クレヨンしんちゃん でお馴染みの #野原ひろし の限定記念スタンプをご用意しています。

画像:野原ひろしのスタンプ

浴衣姿のひろし(しんちゃんのお父さん)と春日部の特産品「桐タンス」「桐箱」とをデザインした郷土資料館オリジナルのスタンプです。先日、来館してくれた市内在住の小学生は、「ひろしのスタンプだー!かっこいい」と喜んでたくさん押してくれていました。春日部市民にとって、野原一家は誰もが知っているまちの有名人です。

ところで、「桐のまち春日部」展は、桐タンス・桐箱の製造、産業のあゆみを紹介する企画展示で、内容はちょっと大人向き。けれども、お子様向けに体験コーナー「キリに親しむ」も用意しています。木材を見て、さわって、臭いをかいで桐材を探すものや、春日部産の桐箱と中国産の桐箱を見極める体験です。また、桐タンス・桐箱の製造工程をご覧いただける映像コーナーも用意しています。

小さなお子様も、みて・きいて・さわって・かいで「桐のまち春日部」を楽しみいただけると思います。そして、お子様に決め手は、やはり「野原ひろし」のスタンプ。「ひろし」を介して春日部の特産品を知ってもらえれば、担当者としてこんなに幸せなことはありません(実は担当者の名もひろしだったりします)。このほかに、しんちゃんやみさえのオリジナルスタンプもあります。ご家族で夏の思い出にどうぞ。

#春日部の桐箱 あなどるなかれ!

8月4日(水)、桐のまち春日部展の #ミュージアムトーク (展示解説)を行いました。うだるような暑さの平日にも関わらず、ご関心をお持ちの皆さまにお集まりいただきました。 #かすかべプラスワン

写真:桐箱の説明 

写真は、春日部の桐箱の品質について解説しているところです。春日部の桐箱をあなどるなかれ。一般の桐箱と比べると、春日部の桐箱の品質のよさは一目瞭然です。箱を比べるコーナーも用意していますので、ぜひお手に取ってご覧ください。ひとつひとつ職人さんの技術で丁寧につくっている春日部の桐箱。これからは大切なものは春日部の桐箱にしまうことにいたしましょう。

展示解説の後、参加者の方から様々なご質問をいただきました。今日もおじいさん・お父さんが桐箱職人だったという方がいらっしゃいました。へその緒の箱やにんべんの鰹節の箱を作っていたそうです。来館者の方に新たな情報を教えていただくこともミュージアムトークのだいご味だったりもします。

 写真:展示解説

次回の、ミュージアムトークは残すところあと1回。展示会の最終日9月5日(日)です。

イベントはともかく、この夏、桐細工の展示をお見逃しなく。

夏季展示はじまりました。展示解説講座も

#かすかべプラスワン 7月20日より夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまっています。ご来館いただいた方には展示パンフレットを差し上げています。ぜひご来館ください。

写真:展示室風景

7月25日には、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」も開催しました。

写真:展示解説講座の様子

展示担当の学芸員による今回の解説講座では、近世から現代の春日部の桐産業に関する史料を読み解きました。これまでの春日部の桐産業の歴史は、どちらかといえばあいまいにされてきた部分も多くありましたので、今回は史料に基づいて、近世から近代の桐産業の展開をたどってみました。史料とは文献・文字資料のことで、上の写真のスライドにもみえるように、くずし字の古文書も含まれます。ちょっと小難しかったかもしれませんが、受講者も講師もレジュメと終始にらめっこ。一言一句解説をしながら、受講者の皆さまと史料を解釈しました。

内容については夏季展示でも紹介しているところですが、少しだけ講座の内容を紹介。

春日部の桐産業の起源は、史料的には、天明元年(1781)までしか遡れません。天明元年の銚子口村年貢割付状(埼玉県立文書館収蔵銚子口区有文書)に、「一、戌新規 永百文 箱指冥加永」(ひとつ いぬしんき えいひゃくもん はこさしみょうがえい)とある記事が、現在判明する限りで最も古い桐産業の起源を示すものとなります。

「戌新規」とは、安永7年(1778)の戌年から新規にという意味。銚子口村では安永7年から「箱指冥加永」を「永百文」を毎年幕府に上納しているという記述です。「冥加永」とは、営業税の一種で、「箱指」とは箱・指物づくりをする職人のことを指しています。「箱指冥加永」を別の史料では「箱屋運上」と言い換えている史料もあります。同様に「箱指冥加永」を支払っている市内の村は、粕壁宿・備後村(当初は藤塚村も)であったこともわかっており、粕壁宿では、「永五十文」を毎年幕府に上納していたことが、市指定有形文化財の粕壁宿文書(埼玉県立文書館収蔵)から判明します。また、粕壁宿・備後村・銚子口村の箱指(箱差)はいずれも「農間箱指」「農業之間指物細工」などと表現された農業の合間の生業として、箱・指物づくりに従事していたこともわかります。

 実は桐細工であるかどうかはわからないのですが、このように桐箪笥・桐箱づくりの起源は、史料的には天明元年(1781)のものが最古で、安永7年(1778)より以前、市域において「箱指」がどのように存在していたのか、わからないのです。

となると、よくいわれている「江戸時代の日光東照宮に加わった工匠たちが春日部に移り住んで桐箪笥や桐箱の製造をはじめた」という起源の話は、いったいどうなるのでしょうか。解説講座では、この東照宮の工匠伝説についても言及しました。この点については夏季展示でも紹介しいるところですし、ミュージアムトーク(展示解説)でもお話する予定です。

気になる方は、ぜひ展示を見に来てください。

#牛島のフジ がスゴイ件(2)

牛島のフジ(藤花園)の開園日でもあった令和3年4月17日(土) #春日部市郷土資料館 でミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展のミュージアムトークを開催しました。 #かすかべプラスワン

 写真:ミュージアムトークのようす

天気は雨の予報でしたが、多くの方にお集まりいただきました。ソーシャルディスタンス・感染症対策を十分にとった上で、渋沢栄一のこと、牛島のフジのことについての展示解説を聞いていただきました。参加された方からは「藤のトークめっちゃ面白かった!」「来てよかったです」などの感想をいただきました。「特別天然記念物」という冠だけでは語り切れない、牛島のフジの歴史文化について、ご理解を深めていただけたようでした。午後には、市内在住の歴史少年が「徳川昭武知っている!」と話し、熱心に牛島のフジで記念撮影をした写真をみていました。未来の学芸員を目指してほしいものです。トークの後、熱心に質問される方も多く、担当者として充実した一日となりました!

 

さて、一部では好評!?の、牛島のフジがスゴイ件のパート2です。

今日のミュージアムトークでも「これ考えたんですか!?」とお誉めいただきました。今回は、うしじまのふじの、「じ」「ま」について。

 

「じ」人力車・待合茶屋に、お土産でうるおう観光産業

東武鉄道の開通により、一躍有名になった牛島のフジ。最寄り駅が粕壁駅(現春日部駅)であったことから、当時は「粕壁の藤」と呼ばれることが多く、駅から藤花園まで観光客を運ぶ人力車が営業されていました。駅前には、汽車をまつ待合茶屋もありました。お土産は、「藤羊羹」「塩せんべい」。現在でも「かすかべフードセレクション」にも、藤をモチーフにした商品もありますね。その元祖といってもよいかもしれません。

大正12年の粕壁町の旭町を主体として開かれた句会の句集には、次のような句があります。

 付く汽車も又付く汽車も藤見哉 

 新道の普請成り立つ藤の花

花の盛りには、汽車でやってくる客が絶えなかったこと、観光客のため、藤の周辺に「新道」が整備されていったことがうかがえます。多くの方がやってくることで、町のインフラ整備もすすんでいったことがうかがえます。

 

「ま」まちづくりの中核に かすかべisフジ

牛島のフジが有名になる明治も、大正も、昭和も、そして春日部市がまちづくりに活用されはじめる高度経済成長期から現在に至るまで、フジと春日部は切っても切り離せない関係にあります。昭和48年には、市の花にフジが制定され、以後、日本一の規模の藤の街路樹ともいわれる藤通り、藤まつり、藤テラス、藤音頭、マンホールや文化会館の緞帳、市役所の立体駐車場の壁面…

まちのシンボルとして、まちの景観、住民どうしをつなぐイベントのなかに、常に「藤」「フジ」「ふじ」があります。

これも牛島のフジが天然記念物として知られ、明治時代からかすかべの観光産業・町のくらしを支え、町を代表する象徴的な樹木だからです。牛島のフジが春日部のくらし・行政に与えた影響は計り知れないものがあります。まだまだ思わぬところに「フジ」があるかもしれません。まちにある「フジ」の情報をぜひお寄せください。

 

本日より牛島のフジが(藤花園)が開園されました。ミュージアムトークでも「牛島のフジの開花状況は?」と質問され、答えられませんでしたが、開花状況は藤花園のホームページをご覧ください。展示と合わせて牛島のフジもお楽しみください!

(つづく)

再開初日。常設展プチ展示替

令和3年3月23日より、 #春日部市郷土資料館 が再開しました。 #かすかべプラスワン

再開初日、さっそく団体見学のお客様がお見えになり、約3か月ぶりに展示室がにぎわいました。

写真:団体見学の様子

 

再開初日から常設展示もプチ展示替。

テーマは「遺らなかったかもしれない歴史~襖下張り文書の世界」と題して、収蔵資料の襖下張り文書(ふすましたばりもんじょ)を紹介しています。

昨年10月に福島県いわき市の方から電話をいただいたことが、この展示替のきかっけです。その方によれば、いわき市内の親戚の家を解体した際、襖の下から古文書が出てきたといいます。字は筆で書かれていてよく読めないが、「粕壁町」と書いてあるものが多いので、春日部市の郷土資料館に寄贈したいと申し出ていただきました。郵便で送付いただいたところ、粕壁町の公印や、町役場の罫紙を使用したものが多く、大半は明治時代の粕壁町役場の文書であることが判明しました。

紙が貴重だった時代、屏風や襖は、元の役割を終えた書類を再利用した反故紙(ほごし)が下張りに使用されました。下張りに使用されなければ、この世には存在しない「遺らなかったかもしれない歴史」だったかもしれません。

寄贈していただいた襖の下張りには、粕壁町の文書のほか、須賀村(現宮代町)役場のものや、福島県内の文書も混じっていました。おそらく、粕壁町や埼玉県内のくず紙が福島県方面に流通し、福島県の経師屋(きょうじや)によって襖が仕立てられたものと考えられます。寄贈していただいた方は、下張りをみて「貴重な史料だ」と思い、一枚一枚丁寧にはがしたそうです。「郷土の歴史のために地元で役立ててほしい」とメッセージをいただきました。

今回のプチ展示替は、福島県から届いた熱い想いをみなさんにご披露するものです。下張り文書は断片的で、ちょっとマニアックですが、これまでわからなかった歴史の一端を確実に伝える貴重な資料です。

写真:展示の様子

暖かくなり、古利根川や粕壁宿の町並みを散策される方も増えてきているようです。町並みを散策される前に、郷土資料館にお立ちよりいただければ、まちの歴史や文化を知ってプラスワンな散歩になるのではないでしょうか。ぜひご覧ください。

武里のオリジナルソング(広報補足・その8・最終回)

いよいよ、広報かすかべ10月特集号の補足も最終回です。今回は、 #武里 の #オリジナルソング #たけさと音頭 について。 #かすかべプラスワン

今年はコロナウィルスの影響で軒並み中止になってしまいましたが、近年、春日部市では「かすかべ音楽祭」や「ブラスジャンボリー」など、音楽のイベントが定着しつつあり、「音楽のまち春日部」とも称されています。しかし、そうした「歌や音楽で盛り上がろう!地域で一つになろう!」という取り組みは、実は最近の始まったものではありません。

「春日部のご当地ソング」ともいえる歌は、世に知られているだけでも19曲もあります(『春日部の歌と歩み』による)。以下、曲名・発表年を時代順に列挙します。

粕壁小唄 昭和7年(1932)以前/和楽音頭 昭和13年(1938)以前/春日部音頭 昭和25年(1950)/幸松音頭 昭和29年(1954)/新春日部音頭 昭和31年(1956)/古利根しぐれ 昭和31年(1956)/大凧音頭 昭和36年(1961)/たけさと音頭 昭和50年(1975)/小渕音頭 昭和52年(1977)/小渕小唄 昭和52年(1977)/庄和音頭 昭和55年(1980)/春日部藤音頭 昭和57年(1982)/春日部踊り 昭和60年(1985)/庄和町・町民憲章の歌 昭和61年(1986)/新大凧音頭 昭和61年(1986)/春日部サンバ 平成元年(1998)/庄和大凧ばやし 平成2年(1990)/心の空 平成27年(2015)

以前紹介した「春日部藤音頭」、大凧あげ祭りで流れる「新大凧音頭」、チェリッシュでおなじみの「春日部サンバ」、夏祭りで披露される「新春日部音頭」「古利根しぐれ」、夕刻のチャイムで流れる「心の空」など、おなじみの歌も多い一方、今では音源を入手できない歌もあります。それぞれの歌や制作の経緯や背景については、ふれあい大学34期生桐組6班の皆さんが執筆・編集された『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)に詳しく述べられています。

さて、このなかで、ひと際異彩を放つのが「たけさと音頭」です。「たけさと音頭」は、昭和50年(1975)武里団地入居10周年を記念して「団地の子どもたちに、ふるさと感覚を」としてつくられました(※広報では昭和52年としましたが、正しくは昭和50年のようです)。歌詞の作詞は、団地の住民に募りました。十数篇の応募があり、入選したのは文筆家の高木圀夫氏。氏は著書『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)のなかで次のように述懐しています。

「私の地元が子供たちにふるさと感覚を持たせる一つのアイデアとして祭り用の音頭を募集していたのであった。(略)なにげなしに原稿用紙の端に言葉を並べてみた。それが入選したのだ。考えられなかった。」

高木氏によれば、詞は決まったものの、作曲が問題となり、高木氏が高木東六の甥であることから、地元の人たちに取り次ぎを懇願され、高木東六が作曲をすることになったそうです。高木東六は、高名なピアニスト・作曲家で、TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてもおなじみでした。「たけさと音頭」は、オペラの作曲家がつくった唯一の民謡として生まれたのです。お披露目となったのは昭和50年(1975)8月1日、大場小学校体育館でたけさと音頭発表会が開催されました。当時の県知事も招待されたそうです。貴重な写真が武里団地の自治会報「たけさと」111号に掲載されています。

 写真:たけさと音頭発表会

異彩を放つのは、高木東六作曲だからではありません。上にあげた春日部のご当地ソングには、古利根川・江戸川・藤の花・大凧揚げなど、春日部を象徴する風景などが歌詞に織り込まれています。しかし、「たけさと音頭」には「郷土」を感じられるワードはわずかに「藤の花びら」だけです。『春日部の歌と歩み』では「「春日部」や「武里」といった地名が一切出てこず、「ふるさと音頭」とうたっているのが地域の歌としてはとてもユニークです」と的確に評しています。

曲ができた当時、春日部市はベッドタウンして人口が激増していた時代でした。武里団地は市のベッドタウン化の先駆けともなった地区です。そうした武里団地発の「たけさと音頭」の歌詞は、子どもたちになじみやすい言葉でつづられ、よく言えば「ユニーク」ですが、土臭さ、泥臭ささのような「郷土」的な個性がないように感じます。その理由はおそらく、それぞれ異なる「郷土」をもつ住民(親世代)たちが、新たな「ふるさと」を想像し、制作されたからではないでしょうか。「武里団地夏祭り」、そしてその場で流されてきた「たけさと音頭」(盆踊り)は、ベッドタウン化した春日部らしいイベント・ご当地ソングといえるのかもしれません。 

昭和49年武里団地夏祭り

ただ、残念なことに、郷土資料館では「たけさと音頭」のレコードを入手できておりません。春日部の現代史資料として極めて貴重だと思います。お持ちの方はご一報いただけると幸いです。

 

以上、市制15周年を機に、8回にわたり市内八地区の身近な歴史ネタを紹介させていただきました。それぞれの歴史はそれぞれ人の思いやさまざまな経緯が折り重なり、紡がれてきたものです。そうしたことをもう一度顧みることで、新たな「春日部らしさ」=まちの良さに気付き、そして春日部が歩む未来がみえてくるのではないでしょうか。

参考文献 ふれあい大学34期生桐組6班『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)、高木圀夫『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)

軍需工場・時計工場のまち南桜井(広報補足その7)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #南桜井駅 北側にあった #軍需工場 について。 #かすかべプラスワン

庄和地域の玄関口、南桜井駅。現在は市街地化され、駅前はにぎわっています。実は、南桜井駅周辺の市街地化のきっかけは、昭和戦中の軍需工場の疎開に求められます。
昭和18年夏ごろ、精工舎は東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう、伝達を受け、同19年3月より東京太平町の工場の一部の疎開を開始します。精工舎とは、東洋の時計王ともよばれた服部金太郎が創業した服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の製造・開発部門です。
昭和18年12月までに、南桜井村大字金野井、大字大衾、川辺村大字米島、大字新宿新田に、約6万坪の工場、約9万坪の厚生施設の敷地が強制買収されました。
当時の南桜井駅近辺はうっそうとした森で、松林などが生い茂り、「大衾山」、あるいは「オバケの森」とよばれていたそうです。こうした森林を敷地にするため、南桜井や周辺の青年団や粕壁中学校(現県立春日部高校)の生徒などが勤労奉仕として木の根堀りや建材の運搬作業に動員されました。なかには、大きな木は素人になかなか切れないので、シャリキとよばれる職人が大勢雇われ、木を切ったそうです。

この軍需工場は、服部時計店南桜井工場と命名され、昭和18年11月6日に資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅に貨物専用の米島仮停車場が設置され、その北側隣接地に工場・男子寄宿舎、南側に女子寄宿舎、武州川辺駅の南側に社宅が建設されました。当時、南桜井村の人口は3625人、川辺村は2424人(いずれも昭和15年国勢調査)でしたが、南桜井工場の疎開によって、3000人以上ともいわれる人が移住してきましたので、敷地内には医務室(診療所・病棟)や学校(私立服部南桜井青年学校)両村は景観も住民構成も大きくかわることになりました。

南桜井工場で製造されたのは、高射砲の弾丸の頭につけ爆発を誘発する部品で、45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管でした。高スピード、高回転のなかで正確に動かなければならないので時計製作よりも高い技術が必要だったといわれています。工場がフルに操業を開始したのは昭和19年10月で、最初の製品が完成したのは昭和20年1月のことといわれています。

また、昭和20年5月には、同年3月・4月の東京大空襲で被害を受けた東京第一陸軍造兵廠の第三製造所が、南桜井工場の北部の未利用地に疎開しました。精工舎の南桜井工場と混同を防ぐため江戸川工場と名付けられました。江戸川工場は軍直属の官営工場で、風船爆弾の信管を製造しました。

終戦となり、軍需工場は操業をとりやめ、閉鎖されます。南桜井工場はおよそ1年弱、江戸川工場は3か月半で幕を閉じることになりました。その後、工場の建物25万坪、機械2000台は大蔵省の管理下におかれましたが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと全国農業会の支援を後ろ盾に施設設備は転用され、昭和21年3月28日に株式会社農村時計製作所が発足します。農村時計では、目覚まし時計などを製造していましたが、品質はあまり良くなかったといわれます。経営難のためからバリカンや地震計の製造もしたこともありました。しかし、戦後の経済政策もあり、農村時計は昭和25年10月に事業を停止します。
農村時計の末期、順調な売れ行きをみせていた「リズム」という商標の時計がありました。昭和25年11月3日、この商標を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足し、農村時計の事業は継承されることになります。南桜井駅周辺は、平成9年(1997)年9月に工場が東京都墨田区に移転するまで、リズム時計の南桜井工場とともに戦後を歩んでいくことになりました。
リズム時計の工場はご記憶がある方も多いのではないでしょうか。写真も残っています。

写真:昭和49年南桜井駅と北側のリズム時計工場

昭和49年(1974)南桜井駅と北側のリズム時計工場

写真:昭和49年南桜井駅南側

昭和49年(1974)リズム時計工場からみた南桜井駅の南側

南桜井駅周辺は、その後ショッピングモールや住宅地として再開発され、軍需工場や時計工場の面影はほとんど残っていません。しかし、青年学校の跡地には葛飾中学校(のち移転。現桜川小学校)、医務室の跡地には子供の町として利用されるなど、道路・住宅の区画などは軍需工場以来の名残りがあります。また、ショッピングモールの敷地内に、リズム時計の創業地の記念時計塔が立てられています(シティーセールス広報課撮影)。

写真:南桜井の時計塔

昭和時代の南桜井駅周辺は軍需工場・時計工場とともに歩んできたといっても過言ではありません。ですが、終戦のときに関係資料が廃棄されてしまったため、戦中の軍需工場・時計工場については資料が少なく、詳しくわからない部分が多いのです。今回、気の利いた図版がないのもそのためです。

平成のはじめ、県立庄和高校地理歴史研究部は、資料が少ないなかで、地域住民の方々、関係者の方々に聞き取りをするなど丹念に調査をし、上述したことを明らかにしています。その成果は『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』という私家版にまとめられています。今から30年前だから聞けた話がふんだんに詰め込まれ、南桜井の歴史を知るうえで必読の書です。

長文になってしまいましたが、庄和高校のみなさんが明らかにされたことは、上のことにとどまりません。入手困難な図書なのですが、『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』も合わせてご覧いただけると幸いです。

次回は最終回です。クライマックスは、武里地区の「たけさと音頭」について。

参考文献 庄和高等学校地理歴史研究部『むかし庄和町に軍需工場があった』(1991年)、同『賀川豊彦と農村時計』(1991年)、同『南桜井村戦後史』(1989年)、『春日部市史 庄和地域 近代・現代』(春日部市、2013年)
     

豊野・藤塚橋は歴史ある橋(広報補足その6)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #古利根川 に架かる #藤塚橋 について。 #かすかべプラスワン

藤塚橋の架橋が計画されたのは、昭和6年(1931)11月のこと。大正15年(1926・昭和元年)10月に一ノ割駅が開業し、駅と豊野村を結ぶ架橋の要望が高まったことが直接の背景でした。昭和8年(1933)5月8日に架設されます。

藤塚橋は、木造の橋で、幅は3.63mしかなく、当然大型の車両は通行できませんでした。当時の貴重な写真が伝わっています(藤塚小郷土資料室所蔵)。

 写真:昭和17~18年藤塚橋

昭和17~18年藤塚橋

写真:昭和25年ごろ藤塚橋

昭和25年ごろ藤塚橋

 

藤塚橋は当時、賃取橋(ちんとりばし)といって、有料の橋でした。現代的な感覚では、橋を渡るのに、なぜお金がかかるのか、と思いますが、当時は橋は地元の人たちが私費を投じて架橋した公共物でないものが多く、橋の維持管理費を賄うため、通行料を徴収する必要がありました。

その後、藤塚橋は、昭和29年(1954)の市制施行のときに春日部市に買収され、公共物となり、無料で渡れる橋となり、昭和40年(1965)にコンクリート製の橋に架け替えられ、現在に至ります。昭和40年の渡り初めの時の写真がこちらです。ちなみに、藤塚橋のたもとには、昭和40年の架け替えを記念し、橋の由来を刻んだ石碑が建てられています。

写真:藤塚橋開通

橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。

市内を見渡すと、江戸川・庄内古川・古利根川・古隅田川のいずれにも、もともとは渡船場で、その後継として橋が架けられる例が散見されます。以前紹介した、江戸川の宝橋(西宝珠花ー東宝珠花・宝珠花の渡し)のほか、古隅田川の十文橋(粕壁ー梅田・十文渡し)、古利根川の八幡橋(粕壁ー八丁目)、古利根川橋(赤沼ー平方・戸崎の渡し)、庄内古川の永沼橋(藤塚ー永沼・永沼の渡し)、倉田橋(赤沼ー赤崎・倉田の渡し)などです。このほか、古くからの橋も元々渡河点だった可能性があります。

車優先社会の現代にあっては、交通渋滞を緩和させるため、幹線道路が整備され、いとも簡単に新たな橋が架けられ、私たちは橋に対してありがたみをあまり感じることが少なくなっています。藤塚橋を含め、現在も残る歴史ある橋は、河川で地理的に隔てられた両岸の人々の交流の結節点=渡船場の後継として架橋されたものといえるでしょう。地元の方々が架橋や維持に苦心され、両岸の人々をつないできた歴史ある橋であることを知れば、少々渋滞してもイライラしないかもしれません。

次回は、南桜井の時計工場について紹介します。

参考文献 『歴史の道調査報告書 利根川の水運』(埼玉県教育委員会、1989年)

粕壁・大池のひみつ(広報補足その5)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #釣り堀 だった #粕壁 地区の #大池 について。 #かすかべプラスワン

広報誌では次のように紹介しました。

大池に観光客が殺到!?

昭和34年、東武鉄道株式会社に粕壁の大池(現大池親水公園)を貸し出し、つりの家が新築されました。つりの家は、その名の通り、東武鉄道が運営する釣り堀で、池には桟橋が架けられ、釣り客でにぎわいました。

 

大池は、記録の上では、少なくとも江戸時代から存在していた池です。大池の東側を南北に通る「大池通り」は、江戸時代には「蝦夷堤」(「江曽堤」・えそつつみ・えぞつつみ)と呼ばれた堤防と認識され、古来の古利根川の堤防と考えられています。大池の起源は、洪水時にこの堤防が切れ、できた水たまり(押堀・オッポリ)であると考えられ、古利根川が現在の河道になる以前(近世以前)に成立したと考えられます。次の江戸時代中期、安永3年(1774)の絵図写は、大池を描いた最古の資料です。

画像:大池 安永絵図

粕壁(宿)には、大池のほかに、赤堀池(現コミュニティーセンター敷地内)、二ツ池(浜川戸の鹿島池・金池、現存しない)と呼ばれた池がありました。大池は、これらの池のなかでもひときわ大きな池だったので「大池」と名付けられたのでしょう。天明6年(1786)の大洪水のときには、岸の柳に大蛇がいた、という逸話もあり、池のほとりには水神様が祀られています。

大池は、昭和8年(1932)「粕壁町地図」などにも、池沼として描かれています。池の周囲に水路があり、排水や遊水地として利用されていたものとみられます。

写真:昭和8年大池

 

戦後の空中写真(昭和24年。空中写真は国土地理院提供、以下同じ)でも、なんの変哲もない池であることがみてとれます。

写真:昭和24年空中写真

しかし、大池史上、大きな転機となったのが、冒頭に触れた、東武鉄道による大池つりの家建設。池のほとりに「つりの家」を建設し、大池は釣り堀施設として利用されることになりました。昭和41年(1966)のつりの家の写真がこちらです。

写真:昭和41年つりの家 写真:昭和50年空中写真

池のなかに桟橋をかけ、釣り客が釣りを楽しめるようにしていたようです(昭和50年空中写真)。

昭和40年ごろ製作されたと考えられる春日部市のパンフレットにも「観光」スポットとして大池つりの家が紹介されています。

画像:パンフ表紙写真:春日部市パンフレット

このパンフレットをみると、古利根川の花火大会、市内の神社仏閣に並んで大池つりの家が紹介されています。パンフレットの表紙も、藤、桐箪笥、麦わら帽子にならんで、釣りのイメージが描かれています。東武鉄道は、鉄道利用者を増やすために沿線に観光スポットを造り、大池を釣り堀として整備したのでしょう。当時、釣りは春日部市を代表する観光の目玉として押し上げられていったと考えられます。

画像:パンフレット拡大

写真:大池つりの家

その後、春日部市では宅地化がすすみ、人口が増えていきました。昭和50年ごろから、釣り堀以前は大池に落とされていた排水が、線路沿いや大池のまわりに溜まり、悪臭をはなっていると問題視されるようになっていきました。また、昭和50年代後半には、つりの家の管理者が不在になり、荒廃していると報告され、東武鉄道から早期に返還して、市民憩いの場にとの声が高まっていきました。

昭和63年の空中写真をみると、

写真:昭和63年空中写真

昭和末年には桟橋が取り外され、現状復帰されていったものとみられます。

そして、平成2年(1990)4月、大池憩いの家がオープンします。現在は、珍しい野鳥も訪れる市民憩いの場として利用されています。池での釣りは禁止されています。 

詳しい資料がなく、釣りの家の時代・市に返還されるまでの過程がよくわかりませんが、釣り客でにぎわったのは、昭和30~40年代にかけての短い期間だったと考えられます。おそらく、春日部のベッドタウン化・宅地開発の波にのみこまれていったのではないでしょうか。

次回は、豊野・藤塚橋の話題です。