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八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました
令和6年2月16日(金)に八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。
今日は校外学習ということで、強風の中、30分くらい歩いて郷土資料館まで来てくれました!
約60年ほど前の生活から現在に至るまでの「くらしのうつりかわり」についての学習がメインということで、今企画展示室の「くらしのうつりかわり~なつかしの暮らしの道具~」展の解説とともに、資料館内にある模型を中心とした解説も併せて行いました。
まずは竪穴式住居の模型を見ながら、約5000年前の縄文時代の生活について解説です。
郷土資料館に入ると目に飛び込んでくるのが、縄文時代の竪穴式住居!子どもたちからも「リアルだ・・・」という声が漏れてきます(笑)
竪穴式住居の中には、「木の実」「魚」「貝」などの当時食べていたものや、「炉(ろ)」「土器」など生活道具が見て取れます。ちなみにこの土器の中で煮られているのは「かき」です。現在でも食卓に並ぶものが5000年前も食べられていることは大きな発見だったようです!
続いては日光道中粕壁宿の模型を見ながら、約200年前の春日部について解説です。
日光道中は江戸時代に日本橋から日光に向かうために作られた道です。その宿場の一つとして作られたのが粕壁宿。おかげで春日部に“まち”ができたんですね!
そして企画展示室では、約60年前の生活についての解説をしました。
洗濯板やアイロンなど、現在は電気で動くものも、当時は手作業であったり、電気以外の動力(炭など)を使用していました。
手作業の一つとして、千歯扱き(せんばこき)を使った脱穀の体験もしてもらいました!
自由見学の時間には、たくさんの展示と遊べるおもちゃなどで、存分に資料館を満喫している様子!
今日はたくさんの“昔”を学ぶことができましたね♪
今日は風が強くて歩いてくるのが大変だったかもしれませんが、郷土資料館は土日も開館しています(祝日は休館)ので天気のいい日にまた遊びに来てください!
歴史文化講演会 「奥の細道」~旅立ちの風景~ を開催しました!
11月11日(土)、郷土資料館歴史文化講演会を開催しました。
元禄2年(1689)の3月27日(旧暦)に、「奥の細道」の旅程で日光道中粕壁宿に松尾芭蕉が宿泊しました。
本市は芭蕉ゆかりの地であることから、「『奥の細道』~旅立ちの風景~」と題し、國學院大學栃木短期大学教授の塚越義幸(つかごし よしゆき)先生にお話しいただきました。
塚越先生は、俳文学・漢文学がご専門で、芭蕉の人となり、『奥の細道』にちりばめられた古典文学・漢文学の素養、しゃれについて、著名な冒頭と旅立ちの文章を読み進めながら、わかりやすくお話しいただきました。
松尾芭蕉と奥の細道の旅については、不詳な点も多く残っており様々な想像がかきたれてられますが、講演では、紀行文学としての「奥の細道」と松尾芭蕉の作風を中心に解説いただき、文学作品としての「奥の細道」の奥深さ、楽しさを実感することができました。
講演会には50名近い方々に受講いただき、「奥の細道」を読み進めていきたいとの声も多くいただきました。
講演後は、先生に持参いただいた参考資料や郷土資料館所蔵の芭蕉肖像画などについても、解説していただきました。
熱心に質問される方もいらっしゃて、大変盛況でした。
今後も、本市の歴史文化の魅力を多くの皆様に伝えていけるよう、努めてまいります。
#家康 と春日部
#徳川家康 と春日部の関わりを紹介する春季展示は7月2日(日)まで。展示では家康が実は春日部に来ていたかも!?と紹介しています。 #かすかべプラスワン
展示も終盤なので、ネタバレで紹介します。家康が春日部に在陣することを示すのは、江戸幕府による官撰の系譜「寛政重修諸家譜」。戦国期には古河公方足利家の家来だった一色氏の系譜の記事のなかに見出せます。下の画像はその部分(国立公文書館所蔵)。
戦国末からの当主一色義直の記事は、次の通りです。
(前略)五年会津に御発向のとき、粕壁の駅に至りて拝謁し、台駕にしたがひたてまつらむ事を請といへとも、年老たるをもつて許し給はす、男照直を俱せらる、関原凱旋のゝち、参府して御気色をうかかふのところ、御前にめされ、義直老年ながら会津御陣の供奉をこひし事健気なりとの御感ありて、養老の料として下総国和歌領にをいて、千石の地をたまふ(後略)
慶長5年(1600)、家康は会津の上杉景勝の征伐のため、江戸城を立ちました。その途次「粕壁の駅」で一色義直は家康に拝謁し、軍勢に加わりたいと請願しますが、老齢のため家康の許しを得ることができず、嫡男の照直が供奉することになりました。
一色氏は、かつて幸手領(幸手市域から杉戸町・春日部市域の一部)を所領にしていた在地領主です(後に下総国相馬郡に所領を替えられ、現在の野田市の木野崎村に居住)。家康が関東に入部した後は、幸手に知行地5160石余を与えられ、徳川家の旗下となりました。慶長5年当時、義直は隠居の身でしたが、おそらく家康の軍勢が自らの所領幸手領を通行する直前の「粕壁の駅」で、挨拶のため拝謁したものと考えられます。
家康は、会津に向かう途中、小山で江戸に引き返したといい(小山評定)、そのまま関ケ原に向かいました(関ケ原の戦い)。
「諸家譜」はさらに続けて、関ケ原の戦いの後、一色義直は江戸城で家康に拝謁し、老年ながら会津征討に供奉したいと請願を「健気なり」と褒賞され、隠居料として下総国和歌領(現茨城県八千代町)に1000石の知行所を与えられました。
一色義直の「粕壁の駅」での拝謁については、残念ながら同時代の史料は残されていません。「諸家譜」のほか、一色家諸系譜(幸手市史編さん室編『幸手一色氏』)にも記されており、家に伝来した出来事であったと考えられますが、当時いわゆる「日光道中」が成立していたかは疑義が残り、「粕壁の駅」の位置や実態について詳しくはわかりません(後述)。
上杉征伐~小山評定~関ケ原の戦いは、大変ドラマチックな展開であり、その途次に「粕壁の駅」が登場するわけですが、近年は「小山評定はなかった」説も唱えられており、江戸からの行程、江戸までの行程も詳しくはわかりません。このあたりが大河ドラマでがどのように描かれるのか、注目されるところでもあります。
さて、肝心の「粕壁の駅」とは、何か。先日の「みゅーじあむとーく」でも、「粕壁の駅」とはどこなのか、当時粕壁に宿場町があったのか、など観覧者から鋭い質問をいただいたところです。
粕壁宿の名主文書によれば、いわゆる「日光道中粕壁宿」(現在の春日部大通り)の町割りがされたのは、慶長16年(1611)のこととされています。一方、天正18年(1590)9月には、岩槻城主高力清長が「糟壁新宿」に人を集め年貢を納めることを命じています。「糟壁新宿」はのちに元新宿と呼ばれた地区(現南・緑町)であり、いわゆる「日光道中粕壁宿」の成立以前の馬継場は同所にあったと考えられています(詳しくは以前紹介記事参照)。会津征伐の慶長5年は、この間の出来事。果たしてどこに「粕壁の駅」があったのか。はたまた、「粕壁の駅」はそもそもこの時期に存在したのか、今後の検討が必要です。
結論はでませんが、そうした家康と春日部の関わりを紹介している春季展示「かすかべ人物誌」は7月2日(日)まで。家康の朱印状も展示していますので、お見逃しなく。
展示替の裏話
絶賛、市指定有形文化財「北条氏政の感状」を常設展示に出展中ですが、その裏話をちょこっと。 #かすかべプラスワン #博物館の裏話 #博物館の裏事情
展示のきっかけは、市の広報誌の「かすかべ今昔絵巻」の記事でした。入稿時の文章の末尾は「郷土資料館でもパネルで紹介しています」的な文章でしたが、せっかくだから「期間限定で」原本を出しちゃおう、というノリで今回の出品に至りました。こうして、郷土資料館は日々かわってゆくのです。
もう一つ。今回出品したものがあるということは、それと引替えに展示から撤収したものもあるということです。
北条氏政の感状を入れたケースには、もともと江戸時代の道中双六(レプリカ)が展示されていました。双六は残そうということになり、別のケースへ。双六を展示したケースに入っていた粕壁宿の絵図(レプリカ)が押し出されることになりました。粕壁宿の絵図(レプリカ)は、長く展示していたもので、粕壁宿の推定復元模型のジオラマと比較してみていただこうと、展示していたものです。日光道中粕壁宿を一見できる良質な資料なので惜しいのですが、仕方ありません。
ところで、資料(レプリカ)を回収したところ、うっすらと長方形の跡が!
展示では、くずし字の文字を解読したキャプションを資料の上においていたのですが、長い年月展示していたたため、キャプションのの跡がついてしまったようです。照明は紫外線カットのフィルター付きのもの、LEDライトを当てているのですが、レプリカとはいえ、印刷物の一種ですから、長い時間照明を当てていると色落ちしてしまうのですね。
資料館にいらっしゃるお客様から、たまに「展示室が暗い」「もっと明るくならないのか」とご意見をいただくこともあります。展示を見やすくすることは大事なのですが、私たちの努めは、資料を後世に伝えるということでもあります。今回の例で明らかなように、光に曝されると、目視できませんが資料は傷んでしまうのです。観覧される皆様もその旨、ご理解いただけると幸いです。
考古学講座の現地視察をおこないました
4月23日、令和4年度の考古学講座を受講していただいたみなさんと、郷土資料館から浜川戸遺跡周辺まで、地形などを確認しながら歩いてみました。
もともと3月26日に実施する予定でしたが、雨天だったため、順延しての開催です。4月23日は、とても良い天気で、絶好のウォーキング日和でした。
朝は、郷土資料館に集合し、展示されている浜川戸遺跡の出土品を確認しました。郷土資料館の常設展示には、浜川戸遺跡に関係する資料が意外とたくさんあります。
粕壁東の日枝神社では、宿場に向かって標高が上がっていく地形を確認しました。粕壁宿から浜川戸地区は、古利根川などによって形成された広大な自然堤防が広がっています。
埼玉県指定天然記念物「碇神社のイヌグス」がある碇神社では、江戸時代の粕壁宿周辺の土地利用を、昔の地図と比較しながら確認しました。
梅田地区では、現在とは違う流路で、かつてこの辺りを流れたと考えられる古隅田川について確認しました。
最終目的地、浜川戸の八幡公園では、浜川戸遺跡の広がりや浜川戸砂丘、春日部稲荷神社や春日部八幡神社の成り立ちを確認しました。
全長約3㎞の行程でしたが、脱落者はなく、無事ゴールすることができました。
ご参加された皆様、ありがとうござました。
考古学講座は、今年度も9月から1月まで、毎月1回の連続講座を予定しています。ほごログでもご案内しますので、ご興味がある方はぜひご参加ください。