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#かすかべ地名の話 (6)#武里 その2
前回、武里は明治22年に誕生する、それほど古くない地名であることを紹介しました。 #かすかべプラスワン
また、明治17年には、備後村に聯合戸長役場が置かれ、地域・行政の中心的位置にあったにもかかわらず、22年の合併の際には、備後村の地名が採用されず、むしろ反対運動が起こったことを紹介しました。
反対運動があったことは、合併直前の明治21年の大枝村の議定書から明らかになります(『春日部市史近現代資料編Ⅰ』№14)。当時の南埼玉郡長は、近隣の「大村」であるとの理由をして、備後村を合併後の新村の名称にすると想定していたようですが、これに対して、大枝村では次のように反発しています。
何ントナレバ従来一ケ村ニ名ケラレ、備後村ノ称ヲ以テ、数ケ村ヨリ成レル新制区画ニ被ラシムルノ実ハ、新ニ他ニ数ケ村ヲ併呑センカ如キノ名アレバナリ聞ク、或村ノ人民ハ郡長ノ仮定スル所ヲ是レ認シ、七ケ村ヲ己ガ村名ノ下ニ立タシメン事ヲ希望セバト、夫レ或村人民ノ希望ハ我々他村人民ノ彼カ村名ヲ頂ヲ欲セザル所以ノ情実ヲ徴スベキ反応的ノ現象ナリトス、苟モ如斯ンバ、彼我相睥睨スルノ原流ヲ今日開キ、長ク名義上ノ争ヲ以テ実際交渉ノ円滑ヲ害フノ結果ヲ生セン、是レ我々人民カ永久ニ迎フベキ幸福アル自治ノ新天地ニ惜ムナキ能ハザル所トス、
すでに村名として使われていた「備後村」を合併後の名称とするのは、他の村を併合する場合だと聞いている。ある村の人は「備後村」の案を認め、またある村の人は「備後村」となることをよく思わない状況になっている。新たな村の誕生にあたり、村名をめぐって、住民が見下したり、軽蔑したりすることは、今後の自治の弊害となってしまう、と。
したがって、新村は「新撰ノ村名」を用いなければならない、と議定書に記されています。
備後村以外の七か村(大畑村、市ノ割村、中野村、大枝村、薄谷村、増田新田、大場村)では、村名について協議する委員を設置し、議論を重ねたようです。がしかし、議論は暗礁に乗り上げたようです。
のちに埼玉県でまとめられた「町村編制理由書」には、武里村の村名の選定の理由として次のように記されています。
大村名若シクハ各村名ヲ参互折衷シテ新村名ヲ付セント欲スルモ、協議整ハス、而シテ各村皆武里村ト称センコトヲ切望シテ止マス、其文字ノ依ル所ナシト雖トモ、之ヲ採ラサレハ、合併シ能ハサルニ至ル故ニ之ヲ採ル(『春日部市史近現代資料編Ⅰ』№17)
大きな村であった備後村は旧来の地名であり避けられ、また、新村を構成する村名の文字なども取り入れない方針がとられた模様で、「武里」の案が推されました。「武里」とは「武蔵野里旧称」によるものとされています(大正2年「武里村郷土誌」)。かつて、武里の地は、武蔵国埼玉郡に属していたため「武蔵野」、「里」は田んぼやお社のある農村という意味でしょうか。「武里」は、のどかな田園地帯が広がる当時の風景が思い起こされます。
この「武里」という地名を発案したのは、備後村の医師・石井立敬という人だったといわれています(武里中学校創立50周年記念誌『三色旗』、1996年)。確たる古記録はなく、地元に伝わる口伝のようですが、はじめは「武野里」と命名されたが、中野村(現武里中野)の「野」と重ならないように最終的に「武里」になったそうです(『三色旗』)。旧村の地名に重ならないように「野」を取ったというあたりが、上述した新村の名称をめぐる動向ともマッチしています。
さて、石井立敬は、幕末から明治後期の人で、在村医としてのみならず、国学・漢学も嗜んだ在村知識人でした(石井敬三「東武地方武里の俳人石井文竜翁について」『武蔵野史談』1-2、1952年)。晩年は牡丹の栽培に傾倒し、自らを「牡丹老人」と称しました。立敬の牡丹園は、明治中頃に備後の石井の牡丹園として知られ、東京から千住馬車鉄道で観光客が多く来客したといわれています。
郷土資料館では、立敬の肖像を所蔵しています。備後村の人でありながら、他の村の人たちも納得させる「武里」という地名を生み出したのですから、立敬が知識人として、いかに頼りにされていたのかが想像されます。以前の展示では、立敬を「春日部の牡丹の父」として紹介したことがありましたが、「武里の生みの親」でもあるのです。
何気なく普段つかっている「武里」という地名は、旧村の序列することなく、8か村が納得して合併するために生み出された造語の地名であったといえるでしょう。
ちなみに、「武里」は確かに武蔵国であり、武蔵野ともいえますが、それは江戸時代のこと。戦国時代以前は下総国であったはずです(それは香取神社の分布からよく主張される)。明治期の在村知識人の郷土の歴史認識が窺える地名ともいえましょうか。明治の造語とはいえ、様々な歴史的な背景・経緯のなかで、当時の人たちが考えた地名ですから、地元の皆さんはこれからも誇りにして伝えていただきたいなぁ、と思う次第です。
#かすかべ地名の話 (5)#武里 その1
久しぶりの春日部市内の地名の話題。今回は武里について。 #かすかべプラスワン #地名の由来
「武里」(たけさと)という地名は、小学校・中学校、市民センター(公民館)、団地の名称、それから東武鉄道の駅名として使用されており、春日部市の南部を構成する地域名称として、今も幅広く、そして根強く使われている地名の一つです。しかし、実は「武里」という地名は、それほど古くはない、というと驚く方も多いかもしれません。
「武里」が生まれたのは、明治22年(1889)4月の市制・町村制の施行(江戸時代以来の町村の合併)に伴う武里村の誕生をきっかけとしています。武里村は、備後村、大畑村、市ノ割村、中野村、大枝村、薄谷村、増田新田、大場村の8か村が合併して成立しました。現在も武里地区内で、住居表示で用いられている備後東・備後西、大畑、一ノ割、武里中野、大枝、薄谷、増田新田、大場は、江戸時代以来の地名ということになります。
武里村の誕生する以前、明治17年(1884)には、備後村聯合戸長役場が設置されました。備後村聯合戸長役場が管轄する村は、備後村、大畑村、市ノ割村、中野村、大枝村、薄谷村、増田新田、大場村で、のちの武里村の範囲を同じくするものでした。このなかで、当時、戸数・人口が最も多かったのは備後村でした。備後村に聯合戸長役場が設置されたのは、周辺村の中心的な村であったのかもしれません。以下は、備後村聯合戸長役場の文書(明治18年1月地誌編修)。
そして、明治22年に武里村の誕生を迎えるわけですが、村名は聯合戸長役場時代に中心的な位置を占めた備後の地名が採用されると思いきや、そうはならなかったのです。合併し、備後村となる事を、反対する動きがみられました。
・・・少し、長くなりそうなので、続きは後日にすることにします。
#かすかべ地名の話 (4) 花のつく地名 #花積 #西宝珠花
市内の地名の話題。今回は企画展でも紹介している花のつく地名について。 #かすかべプラスワン #地名の由来
市内の「花」のつく地名は、住居表示でも使用されている「花積」「西宝珠花」です。
花積、西宝珠花はともに春日部市域の端っこにあたりますが、それぞれ大宮台地と下総台地の突端に位置しています。そのため、原始時代から先人たちの暮らしていた痕跡=遺跡が検出される地区であります。また、歴史時代において、特に中世の記録史料にも花積・宝珠花の地名が確認されます。中世の記録等に市域の地名が確認される例は、数えるほどしかありませんので、花積、宝珠花は中世の春日部市域を考える上でも重要です。
しかし、なぜ「花」という言葉が地名についているのでしょうか。花積・宝珠花の地名の由来については、様々な説があります。諸説については花積と西宝珠花の「地名のはなし」の回に譲ることにしますが、「はな」という言葉の語義を調べてみると、「突端」や「先端」を意味するそうです。それが転じて「はなわ(塙)」は台地などの高くなっている土地を指すそうです。顔の「鼻」も顔のなかで突起している部分、あるいは先端ですし、フラワーの「花」も植物の先端に付きます。つまり、「花」とは「突端」「先端」あるいは「台地」の上を意味すると解せます。
翻って、花積と宝珠花の地形をみると、台地の突端に位置しています。地名の由来の定説を決定づけることは難しいですが、おそらく春日部市の「花」は「突端」「先端」あるいは「台地」を意味するものと理解されます。
ちなみに、庄和地区の金崎には「字花輪下(あざ はなわした)」という地名があります。ちょうど国道16号のハンバーガーチェーン店のあたりとなり、南桜井駅周辺に張り出した台地の縁辺にあたります。おそらく、「花輪」はこの台地を指し、その「下」に位置するので「花輪下」と呼ばれたのでしょう。
なお、「花」の地名は、台地が張り出している市域のみならず、他所にもあります。「鼻」の漢字があてられる場合もあるようです。
西宝珠花では、5月3日、5日大凧揚げ祭りが開催されます。「花」の地形も意識しながら、西宝珠花を散策すると、より大凧揚げ祭りも楽しめるかもしれませんよ。
#かすかべ地名の話 (3) #粕壁 の #小名
忘れたことにやってくる、市内の地名の話題。今回は粕壁地区の小さな地名について。 #かすかべプラスワン #地名の由来
市内の場合、現在使用されている住居表示は、江戸時代の宿・村の地名であることが多いですが、普段つかっている地名のなかに小さな地名があります。そうした地名は、一般に、小名(こな)とか、小字(こあざ)と呼ばれています。
まずは、昭和11年(1936)に刊行された『粕壁町誌』の付図「粕壁町略図」をみてみましょう。
かつての粕壁町は、現在の粕壁、粕壁東だけでなく、中央、浜川戸、八木崎町、緑町、南、大沼(一部)、南栄町(一部)、豊町(一部)が含まれるエリアでした。上の地図をみると、浜川戸(はまかわど)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)、内出(うちで)、町並(まちなみ)、町裏(まちうら)、井戸棚居(いどたない)、川久保(かわくぼ)、川久保新田(かわくぼしんでん)、土井(どい)、草刈場(くさかりば)、新宿(しんじゅく)、内谷(うちや)、立沼(たてぬま)という地名がみえます。これらが昭和11年当時の粕壁の小字ということになるでしょう。
明治8~9年の「武蔵国郡村誌」には次のような小字が記載されています。
金山(かねやま)、内出(うちで)、寺町(てらまち)、横町、上町(かみまち)、中町(なかまち)、新宿組(しんじゅくぐみ)、三枚橋(さんまいばし)、新々田(しんしんでん)、下組(しもぐみ)、大砂組(だいすなぐみ)、川久保(かわくぼ)、元新宿(もとしんじゅく)、大池(おおいけ)、内谷(うちや)、太田(おおた)、松の木(まつのき)、裏町(うらまち)、前山中(まえやまなか)、上山中(かみやまなか)、陣屋(じんや)、八木崎(やぎさき)、浜川戸(はまかわど)、土井(どい)、井土棚居(いどだない)、草刈場(くさかりば)、馬草新田(ばぐさしんでん)
小字・小名には、①町・村のなかのコミュニティ(現在の町内会)を意味するもの、②土地を小分けした地名を意味するもの、③①と②の両方が混在しているもの、の3通りがあるようです。
粕壁でいえば、寺町、上町などの「町」の付くもの、新宿組や大砂組など「組」が付くものは、コミュニティの名称として使用されますが、草刈場、馬草新田などは、土地の地名として使われています。しかし、これらも人々の生活の移り変わりとともに、土地の名前がコミュニティの名前として使われるようになったり、あるいは、地名自体が消えてしまったりするものもあります。
粕壁は、江戸時代に日光道中が造られてから宿場町として古利根川縁辺の街道沿い(現在の春日部大通り)が町場となっていました。粕壁の人たちは、街道のことを「オーカン(往還)」などと呼んでいたようで、往還沿いは、古利根川境から、寺町、横町、上町(宿・組)、中町(宿・組)、新宿(組)、三枚橋、新々田、下(組)と称されていました。江戸時代後期には、上町・中町・新宿・三枚橋は「宿内四ケ町」とされ、宿場の業務と取り決めを行う町の中心の組となっていたように、これらの小名はコミュニティとしての名称でした。江戸時代の人々は街道沿いの土地を、昭和11年「粕壁町略図」にもみえる「町並」(まちなみ)と称していたようです。
時代を経て、粕壁の人々の生活領域が広がるなかで、最勝院をはじめ寺院が集まる地帯(寺町)、新町橋の手前の地帯(横町)、東陽寺や源徳寺の周辺(新々田)の往還沿い、さらには町並の裏や往還の脇道にも町場が広がっていきました。おそらく、「山中」「裏町」(現在の元町)「陣屋」「松の木」「大砂組」などの、町並のなか、あるいは町の場末にもあたるこれらの地名は、町場が広がり、新たなコミュニティがつくられていくなかで、徐々に小名として定着したものと考えられます。昭和初期ごろ(正確にはわかりません)には、「東町」「旭町」「富士見町」「宮本町」「本町(新宿組)」「一宮町」「春日町」「元町(裏町)」「幸町」などの町内会が成り立ち、住所として併記されることもありました(昭和の終わり頃までか)。
一方、江戸時代に粕壁地内の土地を示した絵図には次のような地名がみえます。
「川久保耕地」「井戸棚居耕地」「内出耕地」「内谷耕地」「八木崎耕地」「浜川戸耕地」「新宿前耕地」「草苅場耕地」「馬草新田」(「井戸棚居」は「井戸田苗」、「馬草新田」は「馬草場耕地」と記されるものもあります)。
これらの地名は、江戸時代の粕壁宿の土地台帳である元禄10年(1697)の検地帳にもみえる地名です(元禄の検地帳には、「内出」「井土棚居」「川窪」「浜川戸」「内屋」「草刈場」「八木崎」「新宿前」「馬草新田」「内田沼」「油戸沼」「立沼」の小名がみえます)。かつ昭和11年の粕壁町略図の農地が広がる地名にほぼ対応し、「耕地」とされることからも、主に土地の名称、とくに田畑・耕作地を指すものとして使われていた小名であるようです。
小字・小名について、どんな意味があるのか、はたまたいつ頃に生まれた地名なのかは、はっきりとわからないものが多いのですが、小さな地名は、土地に刻まれた歴史に思いをはせる糸口になるのではないかでしょうか。
#かすかべ地名の話 (2) #粕壁
#かすかべプラスワン #地名の由来
一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」
第2回目は「春日部」と「粕壁」の話です。
前回、ご紹介したように「春日部」(かすかべ)の地名の由来はいくつかの説がありますが、どれも決定打がなく、ナゾなのです。
市民の方ならばご存じのとおり、「かすかべ」という地名は、「春日部」と「粕壁」の二つの表記が用いられています。「春日部」と「粕壁」の違いは何なのでしょうか。
まずは、「春日部」と「粕壁」の違いを考えるため、古い文献から地名表記の変遷をたどってみましょう。
「かすかべ」の地名の初見は、南北朝時代。延元元年(1336)の後醍醐天皇の綸旨といわれています。この古文書は後醍醐天皇が春日部重行(かすかべ しげゆき)という武士に、「上総国山辺南北」と「下総国春日部郷」の地頭職(じとうしき)を認めるため発給されたものです。当時、春日部重行が「下総国春日部郷」を治めていたことを示すとともに、「春日部郷」(かすかべのごう)という集落が下総国に所在していたことが明らかになります。埼玉県は武蔵一国なんて言われることもありますが、実は埼玉県には下総国も含まれているのです。
次の画像は、延文6年(1361)ないし、応永22年(1415)に作成されたと考えられる「市場之祭文」という史料の一部です(国立公文書館所蔵「武州文書」より)
ここにも「下総州春日部郷可市祭成之」とみえます。
その後も様々な中世の文献に「春日部郷」が散見されます。
中世には「春日部」と表記される地域に、人々が定住していたことが明らかになるのです。「春日部郷」は現在の市域の浜川戸近辺を中心とする集落だったと考えられています。
というわけで、古い文献にみえる「かすかべ」の地名は「春日部」となるのです。
時代が下り、時は戦国時代。
元亀4年(1573)の北条氏繁感状(写)は、関根図書助(ずしょのすけ)の戦功を賞した古文書ですが、このなかに「糟ケ辺」(かすかべ)の地名がみえます。関宿(千葉県野田市)からの軍勢が北条家の軍勢と衝突したのが、この「糟ケ辺」の地だったようです。
さらに時代が少し下り、天正17年(1589)3月の北条氏房朱印状(写)には、「御領所糟壁」と地名がみえます。この古文書は、岩付城主北条氏房が所領である「糟壁」に対して、諸役(労働役)を免除する代わりに、人を集め、耕地の開発に励むよう命じたものです。当時、「糟壁」が岩付城の城付の所領であったことがうかがえるとともに、地名としては「糟壁」という表記が用いられていたことがわかります。
しかし、古くは「春日部」と表記されていた地名が、なぜ「糟ケ辺」や「糟壁」という字句が当てられるようになったのかは残念ながら不明です。
さらに、天正18年(1590)と比定されている高力清長印判状(写)には、「糟壁新宿」という地名がみえます。この古文書は、岩付城主となった徳川譜代家臣の高力清長が、「糟壁新宿」の図書・弾正に対して、諸役を免除するかわりに人を集め年貢を納めるよう命じたものです。
江戸時代には、地名の表記としてはもっぱら「糟壁」が用いられるようになり、17世紀後半以降は「粕壁」という表記が増えていくことになります。ですから、日光道中の宿場町としての「かすかべ」は「糟壁(町)」や「粕壁(宿)」と表記され、時代が下るにつれ、「粕壁(宿)」が定着していくようになりました。
なお「粕壁」の表記は、宿場町の土蔵が「荒壁」であったから、または造り酒屋の「酒粕」に由来するという説もありますが、実際のところはよくわかっていません。
ただ、江戸時代の記録を細かくみると、「粕壁」ではなく「春日部」「春日辺」と表記することもあったようです。戦国時代から江戸時代にかけてみられる「糟ケ辺」「糟壁」「粕壁」という表記は、「かすかべ」という音を、漢字に当て、読みやすくしたものだけであり、漢字の字義は関係ないのかもしれません。
さて、明治時代、町村制が施行されると「粕壁宿」は「粕壁町」となり、東武鉄道を利用して藤の町・麦わら帽子の町・桐たんすの町として賑わいました。
その後、昭和19年(1944)戦時下での町村合併により、粕壁町は隣村の内牧村と合併し、「春日部町」が誕生します。「春日部」は後醍醐天皇を支えた南朝方の武士春日部氏の苗字であったため「春日部」の表記が選択されたようです。
上述の表記の変遷でみてきた通り、地名としては最も古い表記「春日部」が再び使われることになりましたので、地名「春日部」が復活したともいえるでしょう。
そして、昭和29年(1954)春日部町と武里村・豊春村・幸松村・豊野村の1町4町が合併し、春日部市が誕生します。
春日部町・春日部市の成立によって、東武鉄道の粕壁駅は春日部駅、旧制粕壁中学校は春日部高校と、公共的な施設等には「春日部」という地名が使用されるようになりました。今でも春日部市域全体を指す場合は「春日部」という表記が用いられます。
「春日部」が市域を覆う一方、「粕壁」表記も併用されています。粕壁は、江戸時代の宿場町だった区域の地名として使用され、「粕壁地区」「粕壁東」などと表記されます。春日部市立粕壁小学校は、現在は春日部市が設置した粕壁地区の小学校で、両方の表記が併用される伝統の小学校です。
以上のように、表記の変遷としては、「春日部」が最も古く、紆余曲折をへて「粕壁」が生まれ、そして「春日部」が再び登場するという過程をたどり、現在の用法としては「春日部」は市や町全体を指す地名、「粕壁」は春日部のなかの粕壁地区を指す地名として併用されいる、とまとめられます。
長くなりましたので、次回は粕壁のなかの小さな地名について、紹介したいと考えています。不定期ですが、お付き合いください。
「かすかべ地名のはなし」バックナンバー
#かすかべ地名のはなし (1) #春日部 の由来
#かすかべプラスワン #地名の由来
一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」
第1回目は、地名「春日部」の由来の話です。
「春日部」という地名は、現在でも市の名称、駅の名称、県立高等学校の名称など、公共施設や民間業者の名称にも使われています。自動車のナンバープレートにも採用されているので、「春日部」の地名は県外の方にもお馴染みのようです。
「春日部」の字義や意味については、いくつかの説があります。
第一には、今から1400年以上前、大和時代の安閑天皇(あんかんてんのう)の皇后である「春日山田皇女」(かすがのやまだひめみこ)など、春日の名がつく皇后・皇女に仕える人々が所在した「御名代部」(みなしろべ)であったという説です。「春日」の「御名代部」であるから「春日部」となったというものです。この説は「春日部」という字義を説明している点では、有効ですが、いかんせん大和時代という資料が限られている時代に起源を求める説であるため、様々な疑義が残ります。また、「春日」の「御名代部」は、全国に数十か所あったといわれており、現に兵庫県丹波市(旧春日町)には、「春日部」という地名があり、「春日部小学校」という小学校もあります。埼玉県の春日部が本当に大和時代の「御名代部」だったのか、想像は膨らませられますが、証拠がなく、謎に包まれています。
「春日部」の意味の第二の説は、古くから大きな河川が流れこむ当地の地形や立地にその起源を求める説です。「カス」は水が浸った不毛な土地、「スカ」は川沿いに堆積した微高地、「カワベ」は川のほとり。そうした言葉が組み合わさり、当地が「かすかべ」と呼ばれるようになったというものです。この説は、読み方・音に着目した説となりますが、なぜ「春日部」(あるいは「粕壁」)と漢字で表記するのかは説明できません。ただし、古くから川とともに暮らしてきた当地の歴史的な特徴をとらえており、近隣にも「スカ」(須賀)や「カワベ」(川辺)、あるいは河川に由来する地名もあることから、説得力があるように思えます。
漢字に注目すれば「御名代部」説。読み方や音に注目すれば地形起源説。二者択一で決定づけることはできず、春日部の地名の由来は謎(定説はない)なのです。
さて、地名の由来として、よく言われる「春日部氏」説にも触れておきましょう。
当地には、平安時代末ごろから春日部氏という武士が住んでいました。そのことから、春日部氏を地名の由来に求める説が、かつては唱えられていました。春日部氏は、もともと京都の貴族である紀氏の流れをくむ一族で、大井氏、品川氏ほか、現在の東京都品川区・大田区付近に同族が土着していました。彼らは、その土地に土着するにあたり、自分たちの苗字を「大井」「品川」と名乗った一族でした。春日部氏も一時は「大井」を名乗り、その後「春日部」に苗字を改めたようです。したがって、春日部氏は、すでに「春日部」と呼ばれていた当地にやってきて、「春日部」と名乗ったと考えるべきでしょう。春日部氏を地名の由来とする説は成り立たないということになるのです。
が、いまでも「春日部氏地名起源説」が語られることも少なくありません。この説が根強いのは、老若男女に分かりやすいことと、春日部氏を英雄視する歴史の見方が背景にあるように思えます。また、「御名代部」説、地形起源説に決定力が欠けるということも原因なのかもしれません。
結論的にいえば、
「春日部の地名の由来は謎ですが、「春日部氏地名起源説」だけは違う」
このことだけ、強調しておきたいと思います。
少し長くなりましたので、続きは次回に。次回は、地名かすかべの表記について。
かすかべの地名は現在でも「春日部」「粕壁」の二つの表記が用いられています。
それはなぜでしょうか?
また表記として古いのは、「春日部」or「粕壁」?
そんな話を書きたいと思います。
春季展示「かすかべ人物誌」はじまります
週末5月20日(土)から春季展示が始まります。 #かすかべプラスワン
春日部ゆかりの人物に焦点をあて「かすかべ人物誌」展と題した新シリーズの第一弾。
今回は、大河ドラマの主人公で話題の徳川家康、近世前期の俳人松尾芭蕉を中心とした近世の人物に焦点をあて、ゆかりの資料を展示します。
初日の5月20日(土)と6月18日(日)には、学芸員による展示解説「みゅーじあむとーく」も開催します。
ご覧ください。
展示名:春日部市郷土資料館(第67回)春季展示「かすかべ人物誌」
会 期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日) 開館時間:9時~16時45分
会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)
休館日:会期中の月曜日
入場料:無料
関連事業:みゅーじあむとーく 5月20日(土)、6月18日(日)各日とも10時30分~、15時~
大凧会館ー7/3まで春季展示「宝珠花の歴史と大凧あげ」開催中です
5月17日より、春季展示「宝珠花の歴史と大凧あげ」を開催しています。会期は7月3日(日)までです。
展示では、「宝珠花の歴史」、「春日部の大凧」、「大凧会館」、「大凧の歴史」、「各地の凧」の4つテーマで資料を紹介しています。
資料の多くは、解体された大凧会館に展示されていた資料です。大凧制作模型や各地の大凧など、大凧会館の展示をご覧になったことがある方には、なつかしい資料と再会することができます。
大凧会館は大凧の常時展示と大凧文化の紹介を目的として、平成2年(1990)に開館した施設です。4階まで吹き抜けの大凧展示室では、15×11mの大凧4面を壁に展示でき、大凧あげ祭り前のシーズンには、床面を使用して大凧の制作をすることができました。建物2階には郷土資料室も設置され、庄和地区(旧庄和町)の郷土資料が展示されていました。
しかしながら、平成23年(2011)の東日本大震災(東北太平洋沖地震)で大きな被害を受け、平成26年(2014)に解体されました。
郷土資料館は、15m×11mの大凧はおろか、6m×4mの小凧でも展示することができません。今回の展示を通じ、大凧の大きさと大凧会館のスケールの大きさを改めて痛感しました。
竣工時の大凧会館
竣工時の大凧展示室
「宝珠花の歴史と大凧あげ」について、会期、関連イベントは下記のとおりです。
会期:令和4年5月17日(火)~7月3日(日)
休館日:毎週月曜日、6月18日(土)は臨時休館
開館時間:9時~16時45分
(会期中のイベント)
●展示解説講座「宝珠花の歴史と大凧あげ」
郷土資料館学芸員が宝珠花の歴史と大凧あげについて紹介します。
日時:6月19日(日)10時から12時
場所:教育センター
定員:30人(先着順)
申し込み:6月7日(火)より直接または電話で郷土資料館(048)763-2455へ、または下記より電子申請
●ミュージアムトーク
郷土資料館学芸員が企画展示室内で展示資料を解説します。
日時:5月22日(日)、7月3日(日)10時30分~、15時00分~(各回、同じ内容です)
場所:郷土資料館企画展示室内
*申し込み不要です。お時間に企画展示室にお集まりください。
【動画】「春日部市の昔と今」公開中!
郷土資料館ホームページの「かすかべデジタル写真館」の古写真が活用され、市の公式動画チャンネル「かすかべ動画チャンネル」に、動画「春日部市の昔と今」が公開されています。 #かすかべプラスワン
この動画は、令和3年度の敬老会の中止に伴い、高齢者支援課により制作・公開されたものです。古写真を現在のまちの様子と比較していて、さまざまな世代の皆さんがお楽しみいただけるものと思います。いよいよ、郷土資料館もyoutubeデビューです。出典元の「かすかべデジタル写真館」も合わせてご活用ください。
#ミュージアムトーク 展示解説をしました
7月31日(土)桐のまち春日部展のミュージアムトーク(展示解説)を実施しました。多くの皆さまにお集まりいただき、解説は30分を予定していましたが、約60分お付き合いいただきました。
午前の部には、お父さんが桐箪笥職人だった方がご来館され、板削りを手伝ったお話や、親戚の箪笥職人の方のお話を教えていただきました。展示準備の聞き取り調査では、桐箱職人が血縁関係から広がっていったことが明らかになりましたが、箪笥職人もまた、血縁関係のなかで広がりをみせていったことがうかがえる貴重なお話でした。
午後の部には、調査の折に大変お世話になった桐箪笥職人さんがご来館されました。
職人さんの前で桐箪笥の構造や鑑賞の仕方について解説をしました。まさに釈迦に説法。かなり緊張しました。解説の後、職人さんからは色々とアドバイスをいただき、「展示はよくまとまっている」とお褒めの言葉をいただきました。展示会が開催できてよかったと思えた瞬間でした。
また、午後には桐箪笥の元職人さんとご友人という方もおり、元職人さんにお取り次ぎいただきました。まだまだ調査を継続し、色々なお話を集めなければならない、と実感した一日でもありました。
皆さま、ご来館いただきありがとうございました。
次回のミュージアムトークは、8月4日(水)10:30~、15:00~となります。桐箪笥・桐小箱にゆかりのある方も、ぜひおいでください。
#顔ハメ はじめました
春日部市郷土資料館、オリジナルの #顔ハメ ( #顔はめ )、はじめました。春日部の特産品「 #押絵羽子板 」の弁慶や藤娘になって、記念撮影をしてみませんか?
導入にさきがけて、たまたま展示室に居合わせた幸松地区の子どもたちにモデルになってもらいました。大変好評でした。
また、昨年度の企画展の「成金鈴木久五郎」のポスターも喜んで持ち帰ってくれました。鈴木久五郎は、幸松の偉人なのを知っているかい?と聞きたいところでしたが、野暮なので尋ねるのはやめておきました。
なお、コロナウイルス感染拡大防止のため、常設はしていませんので、使ってみたい方は受付までお申し出ください。
【 #常設展 】#春日部を踏みしめよう! 【 #土足歓迎 】
#春日部市郷土資料館 の常設展示は日々替わっています。今回は「空から春日部をみてみた」を追加しました。
説明不要だと思いますが、要するに、春日部市域の航空写真を床に貼ってみました。手作りです。
写真は平成26年4月頃のものです。製作にあたっては、国土地理院の地理院地図を活用しました。
でも、ただ見るだけじゃ、つまらない。「見るんじゃない、感じるのだ」
ということで、郷土春日部を踏みしめましょう。「土足禁止」ならぬ、「土足歓迎」です。
ご自分のご自宅や学校・会社、市の施設がどこにあるか、目と足で感じ、探してみてくださいね~
春日部市の「へそ」をさぐる
春日部市の「へそ」はどこでしょうか。「へそ」とは、人の腹部にあるくぼみ(おへそ)のことですが、転じて、物の中央にあたる部分、物事の重要な部分の意でも使われます。春日部市の「へそ」を探る方法を思案すると、市域の中心地点(これを幾何的重心というそうです)が思い浮かびます。それを求めるのは複雑な数式を解かなければならないので、それは後考に期すとして、人文学的には次の二つのアプローチが思い浮かびます。
①仮説上の「へそ」
最近の国勢調査では、全国の市町村別の人口重心が公開されています。
人口重心とは、人口の1人1人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が全体として平衡を保つことができる点をいいます。
平成27年の国勢調査によれば、春日部市の人口重心は、東経139度45分55.14秒 北緯35度58分16.1秒ということがわかりました。地図におとすと、ゆりのき通と東武線が交差するアンダーパスの南側の付近(緑町1丁目14番地)に相当します。ちなみ、平成22年の国勢調査による人口重心は、東経139度45分55.10秒 北緯35度58分15.67秒となり、この5年間で約5m北西に移動したことがわかります。
②市政における「へそ」
春日部市には「中央」という住居表示があります。
春日部市の「中央」は、元は大字粕壁の一部、春日部駅西口に展開する商業地区および住宅地区にあたります。昭和43年(1968)9月の市議会で、大字粕壁字内出(うちで)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)を、中央一丁目、二丁目と定めることになり、昭和44年(1969)7月26日に誕生しました。
当時の春日部市は武里団地の造成をはじめとして、人口が急速に増加する傾向にありました。とりわけ現在の「中央」一帯は、昭和42年(1967)の国民体育大会に伴う整備以降、商業地区・官公庁が集約される地区として急速に発展を遂げていきました。昭和44年(1969)1月には市立病院が完成、同45年(1970)12月には市役所(現庁舎)が完成、同46年(1971)12月には駅西口改札が開設され、市の「中央」としての機能を備えいきました。
「中央」の住居表示を得た、春日部駅西口の付近の貴重な写真を紹介しましょう。いずれも当時としてはまだ珍しいカラー写真で市の刊行物に掲載されたものです。一枚目は昭和45年(1970)頃の春日部駅西口付近を空撮したものです(当時は西口改札はまだありませんでした)。
低地に広がる田圃が、直線・直角の街路で整然と区画されいったことがわかります。
次は、昭和46年(1971)ごろの市庁舎より春日部駅方面を眺めた写真。
駅のホームまで見通せます。東口には今はなきスーパーマーケット(尾張屋・ニチイ)が建っています。
ところで、春日部市のみならず、昭和40年代から50年代にかけて県内各市町で「中央」の住居表示が創られていきました。県内の「中央」を列記すると以下の通りです(『角川日本地名大辞典』11埼玉県、昭和55年)。
・草加市 昭和41年(1966)4月に草加駅付近を「中央」
・蕨市 昭和41年(1966)10月に市の中央部・蕨駅付近を「中央」
・加須市 昭和42年(1967)5月に加須駅付近を「中央」
・本庄市 昭和45年(1970)9月に市の中央部・官公庁が集約される地区を「中央」
・上福岡市 昭和47年(1972)4月に市の中央部・上福岡駅近くを「中央」(現ふじみ野市上福岡中央)
・北本市 昭和48年(1973)6月に北本駅付近を「中央」
・久喜市 昭和48年(1973)11月に市の中央部・久喜駅付近を「中央」
・行田市 昭和51年(1976)2月に市の中央部・行田市駅南口付近を「中央」
昭和55年以降、栗橋町にも「中央」(現久喜市栗橋中央)、鷲宮町にも「中央」(現久喜市鷲宮中央)が創られていったようです。最近の例では、お隣のさいたま市では、平成15年(2003)4月の政令指定都市施行に伴い、旧与野市域が「中央区」と命名されています。
高度経済成長期の行政は、官公庁や市街地の中心となる駅周辺部を町の中心として「中央」と名付けたがる傾向があるようです。町が「中央」を基点にして発展することは歓迎すべきことではありますが、「中央」と名付けられることによって、「馬草場」や「与野」といった先人たちがつけた地名が失われていく側面も見逃せません。
いずれにしても、昭和40~50年代、あるいは1960~70年代にかけて、春日部市をはじめ埼玉県下の市は、高度経済成長の波にのみこまれて、都市化を遂げ、現在の町に至っているといっても過言ではありません。
春日部市に「中央」という「へそ」がが生まれたのは1960年代。春日部の町がどのように変わっていったのか、詳しく知りたいなぁ~、と思う今日この頃です。
・・・今後の郷土資料館の活動にご期待ください。
#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(最終回)
前回まで5回にわたってお送りしてきた、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)の #おうちミュージアム 。今回は最終回。牛島のフジに訪れた歴史上の人物について紹介します。
観光案内のパンフレットなどで、牛島のフジに訪れた著名人として、もっぱら語られるのは、詩人の三好達治。「何をうし島千歳ふじ はんなりはんなり」と詠んだ「牛島古藤花」は牛島のフジを象徴する詩として紹介されています。三好達治は著名な詩人ですし、彼が牛島のフジを題材にして詩を遺したことは春日部の誇るべき文化遺産だと思います。しかし、前々回の記事で紹介したように、牛島のフジが「国指定」天然記念物とされて以降、指定以前の由来や歴史が捨象されていく傾向がみられます。三好達治が牛島に訪れたのは昭和36年(1961)の春。古いようで、実は50年前の出来事、しかし新しいわけでもない。詩の世界に疎い展示担当者は、「牛島古藤花を詠んだ三好達治」と初めて聞いたとき、「三好達治って??」と正直思ってしまいました。
ミニ企画展「藤のまち春日部」では、三好達治に劣らない歴史上の著名人が牛島のフジに訪れたことをパネルで紹介しました。
さて、どんな人物が訪れたのか(ハードルあがっちゃいました)。
古くは、江戸時代の大名諸侯、慶応年間には日光山輪王寺門跡(のちの北白川宮能久)が訪れました。これについては初回の記事で紹介したところです。大名諸侯とありますので、近世史料を丹念に調査すれば、〇〇藩の御殿様が牛島のフジに来ていた!なんてこともわかるかもしれません。ちなみに北白川宮能久は、日清戦争の時に台湾に近衛師団長として出征し、現地でマラリアに罹り急死する人です。皇居外苑の北の丸公園内に馬上の姿の銅像があることでも知られます。
明治以降では、現在判明する限りでは、明治19年(1886)5月に跡見花蹊(跡見学園創始者)、同33年(1900)5月に幸田露伴(小説家)、松原二十三階堂(小説家)同35年(1902)5月に徳川昭武(徳川慶喜実弟)、同45年4月に渋沢栄一(実業家)が訪れています。また、訪れた年代は未詳ですが、清浦奎吾(総理大臣)、大和田建樹(詩人)、徳富蘇峰(思想家)、田山花袋(小説家)、大町桂月(詩人)、中野三允(俳人)なども訪れています。
大和田建樹についてはその2の記事で、田山花袋・大町桂月・清浦圭吾についてはその3の記事で紹介しました。
今回は、新紙幣1万円札の肖像になる渋沢栄一について少し紹介しましょう。渋沢が牛島のフジに訪れたのは明治45年(1912)4月28日のこと。旧制粕壁中学校(現・県立春日部高等学校)の講演会に招かれ、粕壁駅から人力車に乗り、牛島のフジを見学しています。ちなみに、渋沢は大正7年(1918)5月11日にも、町内の某家の敷地内にある碑文の除幕式に出席するため、粕壁に訪れています。
上述の著名人のほかにも、数多の政治家・文化人が牛島のフジに訪れたはずです。訪問したかどうかはわかりませんが、昭和の小説家太宰治の作品「斜陽」にも牛島のフジが登場しますし、平塚らいてうは牛島のフジに訪れようとしていたことが手記に記されています。「天国に一番近い島」で知られる森村桂さんの父で、旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)卒業の純文学作家豊田三郎は、晩年夫人と牛島のフジを見に行こうと約束していていましたが、残念ながら果たせなかったそうです。余談ですが、昭和43年放送のNHK朝の連続テレビ小説「あしたこそ」は、森村桂さんの家族がモデルです。昭和以前の文化人にとって、牛島のフジは間違いなく藤の名所だったことがうかがえます。今後も調査をすすめていけば、牛島のフジを彩る歴史上の人物たちが見いだされることになるに違いありません。
計6回にわたりお送りしてきた#エア博物館「藤のまち春日部」展は、今回が最終回になります。コロナのおかげで誰も観ることなく、バラされた展示会も無事「成仏」することができました。展示担当者としては、資料の原物をご覧いただき、皆さまからご意見・ご感想・お叱りをいただきたかったのですが、こうした形でWEB上に爪痕を遺すのも悪くないかなとも思っています。
最後に、「藤のまち春日部」のリバイバル展示ができること、そして皆様が牛島のフジをはじめとする春日部の藤により一層の親しみ・愛着を抱いていただくことを願い、擱筆させていただきます。最後までお付き合いいただきありがとうございました。
#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その5)
引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、戦後そして現代に至る、春日部市のまちづくりとフジの関係について紹介します。
昭和30年(1955)8月22日、牛島のフジは、国の特別天然記念物に指定されます。今もなお、「特別」天然記念物のフジは唯一であり、牛島のフジは春日部を象徴するものとなります。春日部市では、現在にいたるまで牛島のフジを由来として、藤を活用したまちづくりを進めています。昭和48年(1973)10月、春日部市制20周年を記念して、フジを市の花と制定されました。
昭和54年(1979)には市の花フジ147本を植樹した街路「ふじ通り」が整備され、同57年5月以来、「ふじ通り」では「春日部藤まつり」が開催されました。記念すべき第一回藤まつりの写真が遺っています。
横断旗をもつ高校生の服装が時代を物語りますね。
また、第一回藤まつりの開催を記念して「藤音頭」が制作・制定され、レコードが頒布されました。「藤音頭」の作詞は国語学者金田一春彦、作曲は山本直純、歌い手は原田直之でした。藤音頭発表会の貴重な写真も遺っています。
金田一先生にもお越しいただきました(右から5番目の椅子に座ってらっしゃいます)。
平成4年(1992)には、全国の藤にゆかりのある市の代表者が集まり、都市づくりの会議「藤の都市サミット」が開催されました。平成4年の第1回サミットは、静岡県藤枝市において開催され、フジを市の花に定めている全国の市の代表者が集まり、都市づくりについて話し合うものでした。これも貴重な写真が遺っています。
前列左が三枝前市長です。平成6年(1994)には春日部市を会場として第二回藤の都市サミットが開催され、ふじ通り沿いで、谷原二丁目交差点付近にある公園「ふじ広場」に、参加した藤の都市の首長らによって、フジが植樹されました。藤の都市サミットは、残念ながらその後立ち消えとなってしまったようです。
平成17年(2005)、旧春日部市・旧庄和町合併後、同19年2月21日にはフジが新市の花として指定されます。ちなみに旧庄和町の花は「ショウブ」でした。新市においても、旧庄和町のシンボル「大凧あげ」と融合した大凧マラソンのイメージキャラクター「ふじだこくん」や「藤テラス」といった新たなイベントなども生まれています。春日部の特産品「押絵羽子板」でも「藤娘」が好まれて製作されています。
今年はコロナ禍により、藤まつり、藤テラス、牛島の藤の公開と藤に関するイベントが軒並み中止となってしまいました。しかし、藤の花の季節は過ぎましたが、季節を問わず、市の花フジを楽しませてくれるものがあります。その代表例といえるのがこれ。
マンホールです。粕壁地区の学校通りで撮影しました。これは彩色されていますが、色のないバージョンや少し小ぶりなものもあるようです。春日部市では、まちづくりのなかで市の花フジをモチーフにした制作物がとり入れられてきました。普段は見過ごしがちな日常の風景のなかにも、まだまだフジが隠れているかもしれませんよ。個人的にも、展示のためのマンホール捜し、結構楽しかったです。
余談ですが、先日、とあるテレビで、春日部親善大使のあるタレントさんが、巷で人気の漫画・アニメ「鬼滅の刃」の藤は春日部の藤(牛島の藤)だと話し、春日部をPRされていました。「鬼滅の刃」は架空の話でしょうし、根拠がないので「聖地」ではないようですが、春日部の代名詞である藤の花に再びスポットがあたるといいですね。
次回はいよいよ「藤のまち春日部」展の最終回。牛島の藤に訪れた著名人について紹介したいと思います。
#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その4)
引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、昭和初めに国の天然記念物に指定され、ますます有名になっていく「牛島のフジ」(国特別天然記念物)について蘊蓄(うんちく)を語ります。
昭和3年(1928)1月18日、「牛島のフジ」はに国指定天然紀念物に指定されました。当時、埼玉県の天然紀念物としては5つ目でした。国会図書館デジタルコレクションで当時の『官報』を御覧いただけます(2コマ目左下段)が、『官報』上の表記は「牛島ノ藤」だったのですね。
ところで、国指定の文化財といえば、先日、市内の西親野井地区の神明貝塚が国の史跡に指定されました。市内では「牛島のフジ」に次いで2例目の国指定となりました。神明貝塚の例のように、国の文化財の指定にあたっては綿密な調査・研究が積み重ねられ、学術的な評価・価値づけがされた上で指定となります。同様に「牛島のフジ」も、当時の国の調査団による調査が行われ、価値付けがなされています。
調査は指定を遡る数年前の大正末年、植物学の大家で、日本に天然記念物の概念を広めた三好学(理学博士)の指導のもと、内務省の名勝天然紀念物保存調査会により調査されました。当時の調査報告『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第35号(大正13年刊・98~99コマ目)によれば、「世ニ紫藤ノ大ナルモノナキニ非ザレドモ未本樹ノ如ク著シキモノアルヲ聞カズ、天然紀念物トシテ指定セラルベキモノト信ズ」と評価されています。つまり、藤の大木は無くはないが、「牛島のフジ」ほどものは未だに聞いたことがないので、天然紀念物に指定すべきだと評しています。同時に保存要件としては、根・幹・枝の損傷を防いで、適切な施肥をすることも指摘されています。
前にも触れた通り、明治時代には、花房を取ったり、和傘でさして藤花の下を(おそらく傘で花を痛めつけながら)くぐる観覧客がいました。天然紀念物に指定されることによって、「牛島のフジ」は国内有数の保存されるべき樹木として位置づけられることになったのです。
一方で、「牛島のフジ」の国指定は、結果として観光資源としての価値を高めていくことにも繋がりました。大正末の新聞紙上では内務省の調査団が訪れ、国指定に向けて期待する声が報じられていましたし、国天然紀念物の指定直後の5月には、関係諸氏を招き開催された祝賀会が開催されています(下の写真・かすかべデジタル写真館より)。
さらに、昭和5年(1930)には『世界一藤のかすかべ』と題された、「牛島のフジ」を中心とした粕壁町・幸松村の観光ガイドブックが発行されています(館蔵)。明治時代には「関東一」だった「牛島のフジ」は「世界一」へと成長を遂げていったのです。国天然紀念物指定以降、「牛島のフジ」は国に認められた古木として、ますます多くの人々に知られるようになり、のちに春日部のシンボルにもなっていきます。
しかし、国の天然紀念物指定の本旨は、観光資源化でなく、その保存です(そういえば昨年は「史蹟名勝天然紀念物保存法100周年」でした)。表向きには華やかに「国の天然紀念物」と騒ぎ立てることは結構なのですが、その裏側の保存・保全にも光をあてるべき、と文化財行政に携わる職員として思います。こんなことを書くと、「観光マインドがない」と揶揄されてしまいそうですね。
「牛島のフジ」に関していえば、国指定以降、適切に保存・保全され、さらに戦後に施行された文化財保護法のなかで、昭和30年(1955)8月22日に国の特別天然記念物に指定され、今日まで保存・保全されてきています。昭和3年の国指定が今日までの「牛島のフジ」の保存・保全の起源となったといえ、こうした保存・保全の経緯があってはじめて「牛島のフジ」は存在しえているのです。
また、指定後のブランディングにも問題があるようです。「国指定」の冠を前面に押し出した刊行物等をみると、指定以前の由来や歴史が捨象される傾向が読み取れます。「国指定」のブランド力が強いため、中身が伴わず、空虚な価値付けに終始するものが多いようです。牛島のフジに関する伝説は昭和5年(1930)刊『世界一藤のかすかべ』が初見だったりします。
ですから、この#エア博物館「藤のまち春日部」展では、「国指定」以前の、「国指定」に留まらない牛島のフジの魅力を歴史のなかに見いだそうとしてきました。
藤の花は、もうすっかり散ってしまいましたが、あと2回ほど「牛島のフジ」に関する#エア博物館#おうちミュージアムにお付き合いください。
#エア博物館 「藤のまち春日部」展の紹介(その3)
前回に引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、明治32年(1899)の東武鉄道開通以後の「牛島のフジ」(国特別天然記念物)についての蘊蓄(うんちく)。
前回ご紹介したように、千住馬車鉄道の開通もあり、「牛島のフジ」は東京の人々にも徐々に知られていきましたが、どうやら、東京近郊の名所として多くの人々に知られるのは東武鉄道開通後のようです。どうしてそのように考えられるのか。理由の一つとして、「牛島のフジ」に関する文献・資料は、明治32年以前のものは極端に少なく、鉄道開通以降、増えるということが挙げられます。新聞や著名人の紀行文だけでなく、地元粕壁でも、明治33年(1900)5月に『粕壁藤の紫折(しおり)』(当館所蔵)という観光パンフレットが発行されています。こうした刊行物・新聞や前回紹介したような絵葉書などによって、「牛島のフジ」はより多くの人々に知られるようになり、汽車を利用して、気軽に日帰りで訪れる東京近郊の名所地として確立されていきました。
また、5月には東武鉄道沿線では、牛島のフジとならんで、館林のツツジも花盛りを迎えます。東武鉄道では、フジの花盛りの季節に粕壁までの鉄道運賃を割引とし、東京の観光客を取り込もうとし、沿線に花の名所を位置づけていくことで、鉄道利用者を増やそうとしていったようです。例えば、田山花袋と牛島のフジを観覧した大町桂月は、東京から東武鉄道を利用して館林のツツジを観覧した後、田山と牛島のフジに訪れています(『東京遊行記』)。藤の花が満開を迎えるころには、一日の乗客が3000人に及んだといいます(『東武鉄道線路案内記』)。当時、最寄りの停車場である粕壁駅前には汽車や人力車の待合茶屋が設けられいた(『埼玉県営業便覧』)ことも考えると、藤のシーズンには粕壁は観光客で大変賑わったことでしょう。
さて、今回紹介する資料は、東武鉄道開通以後の明治40年(1907)の紫雲館の領収書です。
紫雲館とは、牛島のフジの所在する庭園「藤花園」内にあった料亭です。紫雲館については、『東武鉄道線路案内記』(明治37年刊行)に「曽(かつ)て清浦法相観覧の砌(みぎり)、当園を紫雲館と命名せられり、今其遍(ママ)額を掲けあり、園内には紫雲館と称する賃席料理店あり、閑雅にして客室清浄川魚の名物なり」(32コマ)とあります。
清浦法相とは、当時司法大臣で、のちに総理大臣となる清浦奎吾(1850~1942)のこと。清浦奎吾は、若い頃に埼玉県の官吏でもあり、埼玉県東部地域とゆかりが深い人物です。紫雲館という名は、この清浦が命名したといい、能筆家でもあった清浦の扁額もあったと記されています。園内の紫雲館は静かで趣が深く清潔な賃席料理店であり、川魚料理が名物だったといいます。
さて。この紫雲館の領収書は、明治40年5月13日のもの。粕壁町の篤志家であった山口万蔵が利用したときのものです。料理代・席料として2円95銭が計上され、そのほか「大和弐ツ」の代金として14銭を領収しています。「大和」とは酒か何か品物の銘柄なのでしょうか、詳細は不明です。あるいは「大和」と読んでいいものか微妙な字なのですが。いずれにしても、『東武鉄道線路案内記』が紹介しているように料理を出す施設であったことがうかがえます。
そして、学芸員一押しなのが、この領収書のハンコです。展示会ではココを皆さんにご覧いただきたかった!
ハンコの部分を少し拡大して撮影した写真が下のものです。
薄くてよくみえないのかもしれませんが、原物も薄いのでご了承ください。
ハンコには「藤花園章」と刻まれています。一押しは紫の朱肉です。藤ですから、藤色と言うべきでしょうか。なんとも洒落ているではありませんか!
この藤色の朱肉から、「閑雅」な紫雲館の情景が読み取れる(のではないかと個人的には思う)とてもいい資料だと思います。収蔵庫から(偶然)見いだした時、結構感動したんですよ。
なお、今年は、牛島のフジの公開は中止となりました。4月30日、花盛はちょうど最高の状態だそうです。残念ですが、藤の花も、フジをみながら語る蘊蓄も、来年まで楽しみにしておきましょう。
次回も#おうちミュージアム 牛島のフジの蘊蓄にご期待ください。
【教えます】休館中は何をしているんですか?
#春日部市郷土資料館 は4月4日から臨時休館ですが、休館中も開館を期して準備を進めています。今回は #休館中 の資料館の #裏側 をご紹介します。
広報誌などでお知らせしていたように、新年度4月から、「クレヨンしんちゃん」や市の花「藤」の展示などを予定していたところですが、コロナウイルスの感染拡大を防止するため休館となり、中止・延期となってしまいました。
例年、今の時期には春季・夏季の企画展示に向けた調査に専念しているところですが、現在コロナウイルスの感染の終息に見通しが立たないことから、対面での資料調査・聞き取り調査等も自粛せざるをえず、企画展示の準備もままならない状況にあります。
郷土資料館の展示室はそんなに広くないので、展示物もほどほどといったところですが、実は地下にある資料収蔵庫には、普段は展示しきれないほどの資料が眠っています。教育委員会の職員も意外と知りません。今年度、郷土資料館に異動してきた職員もその数の膨大さに驚いていました!
収蔵庫を覗くと、こんな感じです。資料の劣化を防ぐための中性紙の箱で保管している古文書や歴史資料のほか、昔の生活道具・用具など多種多様な資料が棚に並んでいます。上の写真は収まりのよい部分を撮影したものですが、収蔵庫内は溢れんばかりの資料で、もう大変なことになっています。
以上のような状況にありますので、現在郷土資料館では将来への準備として、普段はなかなか落ち着いてできない収蔵資料の整理を進めています。休館中、何をしているのか。その答えは、資料の整理です。
資料の整理とは、資料の点検をはじめ、未整理資料の確認・整理、写真の撮影などなど。職員総出で日々格闘しています。
恥ずかしい話ですが、「こんなのあったのか!」とか「久しぶりにみた」とか、なかには「(他所からわざわざ借りてきたけど)ウチ(=当館)にもあったのか!」など、地味ですが、発見に次ぐ発見の毎日です。この発見をすぐにでも、皆さんに実物を通じてお伝えしたいところですが、来るべき時まで温めておきたいと思います。一部はこのブログで「エア博物館」として紹介していきます。
エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その2)
中止となった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展について、前回に引き続き #エア博物館 #おうちでミュージアム として紹介します。牛島のフジ(国特別天然記念物)は、明治時代半ば以降、東京近郊の名所として急速に認知されるようになっていきました。
今回紹介する資料は、「牛島のフジ」の手描き彩色写真絵葉書です。
絵葉書には「粕壁の藤花」「M44」と記されています。「M44」は明治44年(1911)と考えられます。明治時代後期の文献では、「牛島の藤」と現地の「牛島」を冠して紹介されるものは少なく、「粕壁の藤」と紹介されるものが多くみられます。ですから、絵葉書の「粕壁の藤花」とは牛島のフジを撮影したものと考えられます。
明治初めの記録には「都下ニ遠キヲ以テ知ルモノ稀ナリ」、つまり、東京から遠いため牛島のフジを知る者はあまりいない、と評されています(「大日本国誌」)。牛島のフジが「粕壁の藤」として広く知られるようになるのは、春日部に鉄道が開設されて以降のことのようで、その嚆矢は、明治26年(1893)に千住と粕壁を結ぶ千住馬車鉄道の開通に求められます。
明治28年(1895)5月10日には、幸堂得知が、友人の俳人稲見悟友とともに千住茶釜橋より鉄道馬車に乗り、「粕壁の藤花」を観覧した紀行文を新聞紙上に掲載しています(朝日新聞・明治28年5月16・19・22日号)。幸堂の紀行文は、千住馬車鉄道の利用実態を具体的に記したものとしても貴重で、越ケ谷から乗車してきた旅籠屋の女性2名も藤を見に行くといい、「大門」(東八幡神社の参道の入口付近)で下車して、古利根川の橋(八幡橋か)では橋銭を徴収されたことなどが記録されています。同行した稲見悟友は、牛島の園内で「乗出して馬車の早さに引かへて めつそう長き牛じまの藤」と短歌を詠みました。この歌は早い(短い)馬車と花房の長い牛島の藤を対比した歌であり、馬車鉄道は、千住―粕壁間を片道3時間半で運行しましたが、当時の人たちにとって、東京郊外に早くアクセスできる手段だったことがわかります。
幸堂らと同様に馬車鉄道を利用して牛島のフジを訪れた著名人に大和田建樹(1857~1910)がいます。大和田は詩人で、「♪汽笛一声新橋を~」の鉄道唱歌の作詞家として知られています。大和田が牛島のフジを訪れた日時は明らかでありませんが、彼の著書『雪月花』(明治30年刊)のなかで、「粕壁の藤」に馬車で訪れ、藤花を「氷柱の如き滝波の如く」と描写しています。また、「客は花を二房三房づゝ請ひ取りて。傘を挿しなどしつゝゆく。さながら藤娘のさまよなど笑ふもあり。」と記しています。現在は国の特別天然記念物に指定され、保存すべき樹木とされていますので、何人たりとも花房を痛めることは許されませんが、当時、訪れた客は、花房を取り、あるいは和傘をさし、藤花の下をくぐりながら観藤する情景がうかがえます。なお、大和田の『雪月花』は国立国会図書館のデジタルコレクションでご覧になれます(粕壁の藤は76コマ~)。
明治44年の彩色写真絵葉書にも、池の向こう岸に和傘をさす和装の女性が写っており、大和田の描写を借りれば「さながら藤娘」のようです。
ちなみに、この絵葉書は職員がインターネットオークションで購入したものです。インターネットオークションで「粕壁」と検索すると、牛島のフジの絵葉書がたくさんヒットします。こうした絵葉書が土産物として広まり、さらに多くの人々に「粕壁の藤」は知られるようになっていったのでしょう。展示会では、いくつかの絵葉書を陳列していました。皆さんにご覧いただけず、無念です。
千住馬車鉄道の廃止後、明治32年(1899)東武鉄道が開通すると、「粕壁の藤」はさらに多くの人々に知られるようになっていきますが、その話は、次回の#エア博物館で。
なお、今年度の牛島のフジの観覧は、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、休園となりました。歴史ある牛島のフジは来年度までお預けとなってしまいましたが、藤花の様子は牛島のフジを管理されている藤花園さんのホームページで紹介されるようです。
エア博物館 郷土資料館収蔵の指定文化財を紹介しました
4月4日から臨時休館中の「エア博物館」第二弾として、春日部市郷土資料館で収蔵する指定文化財を紹介しました。収蔵資料の紹介ページを充実させましたので、#エア博物館#おうちでミュージアムとしてご活用ください。
担当者のおすすめは、「西金野井香取神社領朱印状」(寄託資料)です。歴代の徳川将軍が発給した歴代の朱印状がそろっており、市域の神社では唯一です。実物の料紙は大髙檀紙(おおたかだんし)という厚手のしわしわな和紙で、当時の将軍の権威を体現しているかのような立派な文書です。リンク先の写真は享保3年(1718)に発給された徳川吉宗朱印状です。8代将軍吉宗は、テレビでは暴れん坊将軍としておなじみですね。
常設展示で常時ご覧いただけるもののほか、普段は収蔵庫で大切に保管されている資料もありますので、おうちでしかご覧いただけないものもありますので、お見逃しなく。指定文化財だけでなく、ほかの収蔵資料もおすすめです!
臨時休館のお知らせ
新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年4月4日(土)から5月15日(金)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。
臨時休館に伴い、常設展示、および令和2年4月7日(火)から5月2日(土)まで開催予定だったミニ企画展示「藤のまち春日部」展は中止します。また、4月7日(火)から展示予定の常設展示「クレヨンしんちゃんと春日部」も延期します。
なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。
・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ
藤の開花の季節にあわせて開催する予定だった、ミニ企画展示「藤のまち春日部」については、本ブログでも展示の内容や資料を紹介する予定です。さながら、今流行の「#エア博物館」「#おうちでミュージアム」として、お楽しみいただければ幸いです。
【春日部版】古記録にみる感染症への対応の歴史
昨今、新型肺炎の対応・対策をめぐり、日本だけでなく、世界中の人たちが動揺しています。皆さんの日常生活でもさまざまな影響がでているのではないでしょうか。
職業柄、こうした出来事があると「はて、昔の人たちはどうだったのかな?」と気になってしまいます。
今回は、春日部市域に伝わる感染症の流行をめぐる古記録から、先人たちがどのように「病」と対峙していたのかを紹介してみたいと思います。
「長久記」には、「麻疹流行記」と題される幕末の文久2年(1862)の記事があります。内容は次の通りです。
文久2年4~5月、江戸で麻疹(はしか)が流行し、西宝珠花では7月上旬からはやり始め、流行当初よりこれまでの麻疹とは異なり、症状が極めて強いものだった。
堺屋では、7月17日に家人が患い、はじめは寒気を感じ、次いで発熱、嘔吐、下痢の症状がつづき、食事は3~4日間、まったくとれなかった。
久喜町に遣いに出していた家人も麻疹に罹ったため、当主の堺屋安右衛門は夫婦で看病に訪れ、薬を与え、便の世話もした。また、快方を願って、「御嶽講」(みたけこう)を信心し、久喜町の講中にも頼み、水行(すいぎょう)をした。
世間では、麻疹のあと皮膚病になったり、吹き出物ができることが多かったが、家人たちは翌年の春には徐々に回復した。
麻疹が流行していた期間には、薬種問屋であった堺屋では薬は品切れになるものもあり、江戸から薬をたびたび取り寄せました。薬が不足したため町の若衆たちは麻疹で臥せてしまった。
9月下旬になると、ようやく麻疹は鎮まったが、閏8月には「コロリン」(コレラ)が流行し、18~23歳くらいの男女が多く亡くなった。特に妊婦が多く亡くなり、江戸川対岸の木間ケ瀬村(現野田市)辺りでは、夥しい人たちが亡くなった。西宝珠花では、町で牛頭天王を出し、氏子一同で信心し、厄を払った。
以上が「長久記」の記述です。薬種問屋による記述であるため、症状等が細かく記されるとともに、西宝珠花で治療薬が不足したこと、疫病の鎮静を願って、地域の神仏を信仰したことなどが記録されています。
春日部市域では、町場として人口が密集していた粕壁宿、西宝珠花に疫病の神である牛頭天王が祭られていました。また、疫病退散のために舞ったともされる獅子舞が各地に伝わっています。身を清め、神仏を信心することが、前近代の人々の疫病を防ぐ一つの対策だったのかもしれません。
先人たちの感染症への対策をみると、正体不明の病が流行し、様々な噂や情報が飛び交うなかでも、病人の看病に努めたり、薬を取り寄せたり、神仏にお願いをしたりと、当時の生活習俗のなかで「やるべきことはやる」強かな姿勢が貫かれていたことがわかります。
ひるがえって、こんにちにおいても、生活者を不安に陥らせるようなデマや流言飛語が飛び交い、先行きが見通せない日々が続いています。先人に学び、私たちも、病やデマに対して毅然とした態度をとり、集団感染を防ぐ日常の予防に努めたり、咳エチケットを守ったり、不要不急の外出は避けたりと、「やるべきことはやる」を徹底すべきではないでしょうか。そうした日々の積み重ねが、流行病の終息につながるのかもしれません。