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【講演会中止】館蔵資料にみる #台風

9月1日に開催予定だった「考古学から埼玉県東部地区の奈良時代・平安時代を考える」は、台風接近・影響を鑑みて、中止となりました。担当者・職員一同、皆さんにお会いすること、最新の成果が紹介されることを楽しみにしていたので、大変残念です。

今回の台風10号により、市内では「春日部コミュニティ夏まつり」をはじめ、各種イベントが軒並み中止となっています。一種の喪失感を感じ、やるせない思いが募るばかりですね。

しかし、台風を侮るなかれ。春日部の歴史においても、台風は様々な被害をもたらしてきました。今回は、相次ぐイベント中止によるやるせない感情を穴埋めすべく、春日部における台風の歴史を館蔵資料から瞥見してみましょう。

台風に関する館蔵資料は、江戸時代の古文書などもありますが、多くは現代になってからのもの。特筆すべき台風としては、やはり昭和22年(1947)のカスリン台風でしょう。被害の写真も残っていますし、カスリン台風については、以前紹介したことがありますので、今回は割愛します(知らない方はぜひご覧ください)。

今回は、この資料から。

 写真:出資証券

資料は、昭和23年9月に発行された「春日部町六三制教育施設組合出資証券」。当時、国内では、六三制の義務教育制度が実施されましたが、新制中学校の校舎や教室が不足し、社会問題となっていました。春日部町も同様で、中学校の校舎建設が渇望されましたが、戦後財政状況が困難を極めるなかでの資金の工面が課題となっていました。そこで、春日部町では、中学校校舎建築のための資金調達として、町民に資金の出資を募りました。出資者には、この証券が発行されることになったのです。出資証券は、旧春日部町域(粕壁地区・内牧地区)の旧家の方からご寄贈いただくことが多く、総額1000万円を集金したといいますから、かなり広範に出資・発行されたものとみられます。

この資金などを元手に、粕壁浜川戸の地に新制中学校の校舎が建設されましたが、完成目前の昭和24年(1949)8月にキティ台風により北校舎が倒壊してしまい、その後の復旧工事を経て、昭和26年(1951)8月にようやく落成式を迎えたそうです。実は、建設途中にキティ台風の被害があったこと、資料寄贈者の聞き取り調査で教えていただきました。

 

このほか、広報誌の古写真のなかにも台風被害の様子を撮影したものがみられます。下は、昭和34年(1959)9月の写真。

写真:昭和34年9月の被害

当時の広報誌(昭和34年10月・33号)には、「台風のツメあと」「今月もゆだんできない」の記事が掲載されています。広報誌によれば、台風15号の被害により、水稲被害により収穫量が1割減、秋ナスは全滅に近く、市内の屋根・看板や瓦は吹き飛ばされ、トタンぶき屋根、塀の被害は無数で、新築中の家屋が1棟倒れた、と報告されています。写真は、この時に撮影されたものと思われます。奥の木造校舎は粕壁小学校でしょうか。校庭の木々が根元からなぎ倒されています。

 次の写真は、昭和47年(1972)8月の広報誌(187号)に掲載された写真ネガから。

写真:昭和47年

奥にみえる建物には「中屋クリーニング」の看板がみえます。当時、同店は、現在の春日部郵便局付近にありましたので、写真は現在の市役所通り、ちょうど旧庁舎の前のあたりを撮影した写真とみられます。台風によるものかは不明ですが、雨により道路が冠水してしまっています。この辺りは、かつて馬草場と呼ばれた後背湿地でしたので、急激な都市化が進み、排水機能が不十分だとこのような状況になってしまいました。現在は、首都圏外郭放水路や「新方川、会之堀川流域における浸水被害軽減プラン」などによって、排水環境が向上し、市役所通りの冠水は見かけなくなりました。

館蔵資料により、台風は、たびたびこの春日部の地に爪痕を遺してきたことがわかります。台風が接近してきたら、風水害に備え、予定していた楽しみも少し我慢して、災害を未然に防ぐ必要があること、いま一度、再確認する機会となれば幸いです。

【9月16日】 #今日は何の日? in春日部

今から74年前の9月16日は、カスリン台風による水害が発生した日です。 #かすかべプラスワン

昭和22年(1947)9月14日朝から降り出した雨は、15日には強くなりました。いわゆるカスリン台風(カスリーン・キャサリンとも)による豪雨です。台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつありましたが、台風の接近に先立って秋雨前線が活発化し、豪雨がもたらされました。この間の雨量は秩父で県内最高611ミリメートルを記録しました。

16日0時20分ごろには利根川流域の栗橋(久喜市)で水位が9メートル以上に達し、その10分後、埼玉県東村(現加須市)の新川通地先で、堤防が350メートルにわたり決壊、洪水は古利根川筋を南下しながら、埼玉県東部(中川低地)を飲み込み、東京都江東区まで進行しました。

当時の状況は『昭和22年9月埼玉県水害誌』(以下、『水害誌』)に詳しくまとめられています。

これによれば、春日部市内に利根川の洪水が実際に達したのは、9月16日の午後から夕方ごろのようです。東村の堤防決壊から半日あまり時間が経過していました。とはいえ、幸松村では、洪水が達する以前、午後2時頃から新倉松落や旧倉松落などの水路が相次いで決壊するなど、大雨による河川の逆流などもあり、被害が出ていたようです。

16日の夕刻を過ぎると、南桜井村・幸松村で浸水がはじまり、午後11時には春日部町境の隼人堀が氾濫し、内牧・梅田でも浸水が始まります。17日午前0時には宝珠花村の水田が濁流で浸水、午前5時には春日部町の川久保地先で古利根川が決壊し、町域の南部・町並の一部が浸水しました。午前10時には古利根川の春日橋が流失、午前11時には豊野村に幸松村方面から押し寄せた濁流により、全村浸水。同刻には武里村の字備後で古利根川が越水(午後1時決壊)。正午には川辺村の字水角・赤崎・飯沼・米崎、米島・中野(現東中野)の一部が濁流に覆われました。

利根川の洪水(濁流)の進行の経過は、『水害誌』所収の図に図示されています。古利根川や庄内古川を画して、濁流の進行状況が異なったことがうかがえます。赤い実線は16日、赤い破線は17日の洪水進行状況を示しています。読み取りづらい部分もありますが、市域では古利根川以東の地域の濁流進行が早く、豊春村・武里村では徐々に浸水が進行していったようです。また、台地や発達した自然堤防などの高台は浸水を免れたこともわかります。

 画像:浸水図

『水害誌』の付録である『附録写真帳』には当時の貴重な写真が掲載されています。下の写真は武里村で撮影されたものです。武里村の水防団が警戒する様子がみえます。このほかの市内の写真は「かすかべデジタル写真館」で紹介しています。

写真:武里村の状況

浸水位(深さ)は幸松村で「床上六尺以上」(床から約180cm)と報告されています。市内では6日以上湛水(水がひかない)地域もあり、高台や水塚(土盛りした建物)の上で生活する方も多く、1か月もの間避難する方もいました。農作物や橋の被害、家屋の浸水、流失・半壊する家も多くあり、大変な被害をもたらす災害となりました。また、水が引いた後の掃除も大変だったとの聞き取り記録もあります。

カスリン台風の発生から70数年が経過し、災害を経験した方も少なくなってきています。カスリン台風時には、明治43年(1910)の水害を経験した方がまだご存命で、その経験で助かった命も少なくないと聞いています。先人の経験をきちんと知り、伝え、それを学ぶことで、私たちやみなさんの暮らしの「備え」にきっとなるのではないかと思います。

春日部市では、最近「災害ハザードマップ」をリニューアルしました。こちらもぜひお目通しください。

 

参考文献 『昭和22年9月埼玉県水害誌』(埼玉県、1950年)、『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会、2013年)、カスリーン台風70年特集サイト(カスリーン台風70年実行委員会)

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