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考古学講座第3回を開催しました
11月26日(土)、考古学講座第3回を開催しました。
本日は、1.分類と型式学、2.春日部市の弥生時代の遺跡についてお話をしました。分類と型式については、遺跡から出土した遺物はまず分類されて評価されること、型式には装飾的要素と機能的要素が型式設定の基準となっており、機能的要素には技術革新により変化するものと、機能の実用性が喪失して生物の痕跡器官のように装飾などとして残る場合があるなどのお話をしました。
春日部市の弥生時代については、弥生時代という時代設定について簡単に触れたうえで、弥生時代の再葬墓(さいそうぼ)が営まれた倉常地区の須釜(すがま)遺跡についてお話ししました。
さて、今回もアンケートに多くの質問をいただきました。そのなかのいくつかをとりあげます。
●神明貝塚出土の人骨から検出されているDNA型、パブログループN9b2は、大陸のどこにみられるのか。
N9b2型は大陸にみられるということではなく、これまで発見されているDNA型のなかで珍しいものとのことです。安達登氏のご研究によると、近年、東北地方で発見された縄文時代の人骨から確認されているそうです。
(全国遺跡報告総覧『埼玉県春日部市 神明貝塚総括報告書』 P.214~216)
●型式名は誰が提唱して誰かが認定するのか?
型式名は、研究者が他の型式と分類できる一群の遺物を見出した時に提唱されます。提唱されても、さらに研究が深められ、細分されたりすることもあり、多くの研究者が使い始めるのには時間がかかります。生物学の学名のように型式名を「認定」するという公式な手続きはなく、通常は、研究者の支持の多い型式名が使われます。
●向ヶ丘弥生町貝塚ではなぜ、壺が完全な形で見つかったのか?現在、貝塚は消えてしまっているのか?
「完全な形」で見つかったのは、土器が埋まっていた深さまで、工事などの影響を受けなかったからです。ちなみに壺の首から口縁の部分は失われています。
1884年(明治17年)、有坂鉊蔵(しょうぞう)、坪井正五郎、白井光太郎が連れ立って、向ヶ丘弥生町の貝塚に出かけ、有坂が「弥生式土器第1号」を発見します。この5年後の1889年、坪井が「帝国大学の隣地に貝塚の痕跡有り」と題する報告を雑誌上で行いますが、この報告は周辺の地ならし工事が盛んになって貝塚が失われようとしていることへの危惧によるものでした。
(石川日出志2008『「弥生時代」の発見・弥生町遺跡』シリーズ「遺跡を学ぶ」050 新泉社)
東京大学構内など周辺地区は「本郷台遺跡群」として埋蔵文化財包蔵地、また国指定史跡「弥生二丁目遺跡」となっています。貝塚としての登録もあります。
●弥生時代の再葬墓について、福島県須賀川市牡丹平遺跡の再葬墓の人骨はなぜそろっていないのか?再葬される骨はどの部位が多いか?地域で残される骨に差はあるか?
牡丹平遺跡の再葬墓人骨は、解体・選別から壺に収納する過程で選別されたものと考えられます。設楽博己氏のご研究によると、東北地方の再葬墓では、全身の骨を部分ごとにくまなく選択して土器に納める傾向があり、関東から中部高地地方では、大腿骨など下半身の大きな骨や歯だけなど部分の骨を納めた例が多いようです。いずれにしても、二次葬の遺跡から発見される人骨は確認例が少ないので、遺跡の新発見により、この傾向が変わる可能性もあります。
(設楽博己2008『弥生再葬墓と社会』 塙書房)
●弥生時代の再葬は一部の人(支配していた人)がされるものか?
残された墓の形態や規模に差別化が少ないことなどから、再葬墓の文化圏では、一部の人ではなく、多くの人が再葬墓に埋葬されたと推測できます。